帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 石炭の煤煙と、舶来の香水の匂いが入り混じる帝都の午後。
 志野は、朔夜から与えられた紫紺の着物の袖を、落ち着かない心持ちで弄んでいた。

 水無月の家では決して許されなかった、高貴な色彩。
 歩くたびに、上質な絹が擦れ合う微かな音が、まるで朔夜の低い囁きのように耳朶をくすぐる。
 右腕に刻まれた白金の紋章は、薄い布越しにも確かな熱を持って脈打っていた。

「志野様、そんなに俯いて歩いては、せっかくの帝都の景色が台無しですよ」

 隣を歩く右近が、屈託のない笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。
 軍服を多少着崩している彼は、志野を安心させるように軽やかな足取りで歩く。

「……すみません。少し、慣れなくて」

「無理もありません。ですが、貴女はもう鳴神の当主夫人なのです。堂々としていてください。俺たちが、その背中をしっかり支えていますから」

 右近の言葉に、わずかに重なる硬質な響きがあった。
 左隣を歩く左近が、周囲の喧騒を射抜くような鋭い視線を走らせ、志野の歩調に合わせて一歩、また一歩と着実に踏み出す。

「右近の言う通りです、志野様。……貴女はただ、美しいものだけを見ていればよろしい」

 左近の指先が、腰の軍刀の柄にそっと触れる。
 二人にとって、志野は朔夜という孤独な獣を繋ぎ止める、唯一の清らかな光なのだ。

 蔵前の大通りには、モダンな喫茶店から漂う珈琲の香りと、機械化の進む帝都を支える歯車の油の匂いが混じり合っている。

 赤煉瓦の立ち並ぶ大通りの真ん中を、白煙を吹き上げながら乗合馬車や蒸気仕掛けの路面車が鈍い音を立てて行き交う。
 洋装に山高帽を被った紳士、袴に編み上げブーツを履いた女学生。
 彼らの間を縫うように、微かな異能を動力源としたからくり細工の玩具を売る行商人が、甲高い声を張り上げている。
 日本或国の伝統的な木造建築と、舶来から持ち込まれた重厚な石造りの洋館が、モザイク画のように入り混じる帝都の中心部。
 華やかさが街を彩る一方で、路地裏からは蒸気機関の排気管が天に向かって黒い煤を吐き出し、洋灯の硝子には特有の退廃的で息苦しい熱気がこびりついていた。
 光と影、人と異能が混沌と混ざり合うこの巨大な街の喧騒は、水無月の檻で息を潜めて生きてきた志野にとって、あまりにも鮮烈で、眩しすぎる。

 ふと視線を上げれば、煉瓦造りの建物が重厚に並ぶ先に、あの尖塔がそびえ立っている。

 帝都懲罰省。
 秩序を絶対とする、朔夜の戦場。

 志野はその冷徹な威容を見上げ、胸の奥が熱くなるのを感じた。
 今、あの冷たい石壁の向こうで、彼は独り帝都の秩序を守るために戦っている。
 誰にも理解されぬ孤独な咆哮を、内に秘めたまま、罪人を、あるいは凶喰へと堕ちた哀れな同胞を裁いている。

「……朔夜様は、お忙しいのでしょうか」

「ええ。異能者の不法行為を取り締まる長官ですからね。今はちょうど、凶喰の件で審問が続いているはずです。あの方の『鵺』は、罪人の嘘を許しませんから」

 右近が少しだけ声を落とし、寂しげに目を伏せた。
 朔夜が法を執行するたび、その魂がどれほど削られているかを、二人は痛いほど知っていた。

「志野様、少し寄り道をしましょうか、俺のおすすめのカフェーに行きましょう。それに、この道を抜けて寿町迄行くと美しい落雁を出す菓子屋があるんですよ! 朔夜様へのお土産にいかがでしょう?」

 右近の提案に、志野の瞳がぱっと輝いた。
 
「……はい! ぜひ」

 志野が微笑んだ瞬間、張り詰めていた左近の表情も、わずかに和らぐ。
 一人歩きという訳にはいかないけれど、こうして自分の足を進めている帝都の街角。
 それは束の間の、けれど志野が初めて掴んだ「誰かのために生きる」という自由の時間だった。

「右近さんと、左近さんは、禁衛府に勤めていると聞きましたが、お仕事は大丈夫なのですか?」

 不意に沸いた疑問を口にすると、右近は空へ目をやり、左近は考え込むような仕草をする。

「そうですね……我々禁衛府の人間は、時に貴人の護衛も務めるんです」

「志野様は、我らの大将の大切なお方ですからね! 本来なら屋敷の奥深くに居ていただきたいところですが、閉じこもり過ぎも良くないと朔夜様がお考えて事です」