帝都を覆う分厚い雨雲が、屋敷の静寂をより重く圧し殺していた。
廊下を刻む気怠い足音が、志野の部屋の前でぴたりと断ち切られる。
「……志野。起きているか」
扉越しに響いた朔夜の声は、ひどく掠れ、人ならざる者の響きを孕んでいた。
志野は反射的に身体を強張らせ、闇の向こうへと後退る。
「……はい」
消え入りそうな返事とともに扉が開き、朔夜が部屋へと足を踏み入れた。
窓から差し込む青白い月光に照らされたその顔は、息を呑むほどに美しく、絶望的なまでに恐ろしい。
紫紺の瞳は深紫へと濁り、その身からは微かな電光が火花を散らしている。
「……最近、帝都に凶喰の気配が満ちている」
朔夜は志野との距離を詰める。
一歩、また一歩。
彼が纏う雷の芳香には、焦げ付くような、血の匂いに近い生々しさが混じり合っていた。
「……こっちへ来い」
震える志野の頬へと、しなやかな手が伸ばされる。
彼がどれほど凄惨な戦いを生き抜き、ただ救いを求めてこの手を伸ばしているのか、今の志野には知る由もない。
指先は、今の志野の目には母を喰らった父の手と無惨に重なって見えた。
「……っ!」
志野は反射的に、その手を激しく振り払った。
「…………」
静寂が、部屋を支配する。
差し出された朔夜の手が、空中で凍りついた。
見開かれた彼の瞳の奥には、拒絶されたことへの驚きと、深く抉られたような痛みの色が浮かんでいる。
「……そうか。成程」
ただ震える志野を見下ろした朔夜の表情が、劇的に歪んだ。
自嘲するように薄く口角を上げ――けれど、次の瞬間、彼を繋ぎ止めていた理性の糸が、音を立てて千切れた。
「……ああ、そうだ。お前も俺を、人を喰らう化け物だと思っているのだろう。ならば、骨の髄まで、一滴の血も残さず、お前を俺の中に閉じ込めてしまいたい」
逃げ場を塞ぐように強引に抱き寄せ、朔夜は志野の首筋に顔を埋めた。
剥き出しの歯が、柔らかな肌を愛おしむように、けれど確かに獲物を捉える凶器として触れる。
「お前がそんな、甘い匂いをさせるのが悪い。……俺がどれほど、自分を殺して耐えていると思っている」
低い、喉を鳴らすような咆哮。
腕の中に閉じ込めた志野の体温が、香りが、彼の内側に潜む鵺の飢えを際限なく煽り立てる。
愛おしさと、すべてを噛み砕き飲み干したいという矛盾した渇望。
窓の外では、降り出した雨が激しく窓を打ち鳴らしていた。
それは、理性を失い、愛を捕食へと変えようとする男の、悲痛な叫びそのもの……に聞こえる。
庇護を分け与えた日から、彼の中の飢えは急激に加速していた。
志野の血が、魂が、あまりにも自分と馴染みすぎてしまったから。
朔夜は娘の白い首筋に深く、吸い付くように唇を押し当てた。
痛みと、抗えないほどの甘美な痺れが朔夜の全身を貫く。
「……怖いか、志野。……だが、もう遅い」
抱きしめる腕に力を込め、壊さんばかりに圧しつけると、娘の体が更に強張る。
「俺から逃げるなら、いっそ今ここで、俺の血肉になれ。……そうすれば、二度とお前が何かに怯えることもないだろう」
狂気に満ちた、けれど悲しいほどに自嘲するような声だ。
水無月が差し出してきた極上の贄。
反対に罠にかかったのは自分の方か。
志野が、せめてもの抵抗で押し返してきた手首を攫い、歯を立てる。
「――や、嫌」
怯えた瞳で見上げる志野に纏わりつく香りが、一段と高く、甘く立ち上る。
欲しい。
喰らいつくしたい。
理性の深淵へ、道連れにしてしまいたい。
その夜、帝都は未曾有の雷雨に見舞われた。
それは、理性を失いかけた鵺の、悲痛な鳴咽のように響き渡っていた。
廊下を刻む気怠い足音が、志野の部屋の前でぴたりと断ち切られる。
「……志野。起きているか」
扉越しに響いた朔夜の声は、ひどく掠れ、人ならざる者の響きを孕んでいた。
志野は反射的に身体を強張らせ、闇の向こうへと後退る。
「……はい」
消え入りそうな返事とともに扉が開き、朔夜が部屋へと足を踏み入れた。
窓から差し込む青白い月光に照らされたその顔は、息を呑むほどに美しく、絶望的なまでに恐ろしい。
紫紺の瞳は深紫へと濁り、その身からは微かな電光が火花を散らしている。
「……最近、帝都に凶喰の気配が満ちている」
朔夜は志野との距離を詰める。
一歩、また一歩。
彼が纏う雷の芳香には、焦げ付くような、血の匂いに近い生々しさが混じり合っていた。
「……こっちへ来い」
震える志野の頬へと、しなやかな手が伸ばされる。
彼がどれほど凄惨な戦いを生き抜き、ただ救いを求めてこの手を伸ばしているのか、今の志野には知る由もない。
指先は、今の志野の目には母を喰らった父の手と無惨に重なって見えた。
「……っ!」
志野は反射的に、その手を激しく振り払った。
「…………」
静寂が、部屋を支配する。
差し出された朔夜の手が、空中で凍りついた。
見開かれた彼の瞳の奥には、拒絶されたことへの驚きと、深く抉られたような痛みの色が浮かんでいる。
「……そうか。成程」
ただ震える志野を見下ろした朔夜の表情が、劇的に歪んだ。
自嘲するように薄く口角を上げ――けれど、次の瞬間、彼を繋ぎ止めていた理性の糸が、音を立てて千切れた。
「……ああ、そうだ。お前も俺を、人を喰らう化け物だと思っているのだろう。ならば、骨の髄まで、一滴の血も残さず、お前を俺の中に閉じ込めてしまいたい」
逃げ場を塞ぐように強引に抱き寄せ、朔夜は志野の首筋に顔を埋めた。
剥き出しの歯が、柔らかな肌を愛おしむように、けれど確かに獲物を捉える凶器として触れる。
「お前がそんな、甘い匂いをさせるのが悪い。……俺がどれほど、自分を殺して耐えていると思っている」
低い、喉を鳴らすような咆哮。
腕の中に閉じ込めた志野の体温が、香りが、彼の内側に潜む鵺の飢えを際限なく煽り立てる。
愛おしさと、すべてを噛み砕き飲み干したいという矛盾した渇望。
窓の外では、降り出した雨が激しく窓を打ち鳴らしていた。
それは、理性を失い、愛を捕食へと変えようとする男の、悲痛な叫びそのもの……に聞こえる。
庇護を分け与えた日から、彼の中の飢えは急激に加速していた。
志野の血が、魂が、あまりにも自分と馴染みすぎてしまったから。
朔夜は娘の白い首筋に深く、吸い付くように唇を押し当てた。
痛みと、抗えないほどの甘美な痺れが朔夜の全身を貫く。
「……怖いか、志野。……だが、もう遅い」
抱きしめる腕に力を込め、壊さんばかりに圧しつけると、娘の体が更に強張る。
「俺から逃げるなら、いっそ今ここで、俺の血肉になれ。……そうすれば、二度とお前が何かに怯えることもないだろう」
狂気に満ちた、けれど悲しいほどに自嘲するような声だ。
水無月が差し出してきた極上の贄。
反対に罠にかかったのは自分の方か。
志野が、せめてもの抵抗で押し返してきた手首を攫い、歯を立てる。
「――や、嫌」
怯えた瞳で見上げる志野に纏わりつく香りが、一段と高く、甘く立ち上る。
欲しい。
喰らいつくしたい。
理性の深淵へ、道連れにしてしまいたい。
その夜、帝都は未曾有の雷雨に見舞われた。
それは、理性を失いかけた鵺の、悲痛な鳴咽のように響き渡っていた。



