鳴神の庇護がその細い右腕に刻まれてから、志野の日常は劇的に、そして残酷なほど鮮やかに塗り替えられた。
離れでの孤独な静寂は終わりを告げ、母屋の主室にほど近い、豪奢な一室が彼女の居場所となる。
朝夕の食事は常に朔夜と共に摂り、その紫紺の瞳に見守られながら、志野は鳴神の家の一部となっていった。
そんな甘やかな日常の裏側で、帝都を包む空気は確実に淀み始めていた。
廊下の角を曲がろうとした志野の耳に、密やかな囁き声が滑り込む。
「……また、出たそうよ。昨夜、紺屋町の近くで」
女中のタネが、周囲を伺いながら声を潜める。
隣に立つ若い娘が、震える吐息を漏らした。
「ええ、聞いたわ。今度は商家の娘さんだとか。見るも無惨に、首筋から……」
本能のままに人を喰らう、理性を失った異能者――凶喰。
近年、その跋扈は帝都の夜を影のように侵食していた。
「怖いわね。狂った彼らに映る私たちはとっては単なる餌でしかないんですもの」
「……ねぇ、旦那様だって……鵺の血は、異能の中でも特に飢えが激しいっていうし。最近の旦那様、志野様を見る目が、なんだか……」
その言葉が耳に届いた瞬間、志野の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
タネの次の言葉を聞く前に、彼女は逃げるようにその場を去った。
餌。
その不吉な響きが、耳の奥で何度も反転する。
右腕に刻まれた紋章が、急に重く、そして冷たく感じられた。
これは愛する者を守るための加護なのか。
それとも、他者に横取りされぬよう付けられた、捕食者の所有印なのか。
部屋に戻り、一人で座り込んだ途端、抑え込んでいた記憶の蓋が音を立てて外れた。
視界が、不自然なほど鮮烈な赤に染まっていく。
それは、これでもかと咲き乱れていた彼岸花の色だ。
(……逃げて。お母様、早く!)
幼い志野が、物入れの隙間から息を潜めて見つめていた光景。
そこには、いつも優しかった父の背中があった。
しかし、その背中から立ち上る異能の気配は、もはや彼女の知る父のそれではない。
床に広がる、鮮血の赤。
母の、弱々しく笑う声。
「……いいの、志野。これで……あの方は救われる……の……飢えを……癒やす……ため……に」
母の身体を、白蛇の牙が深く、深く抉っていく。
父は泣きながら、けれど恍惚とした表情で、愛していたはずの妻を喰らっていた。
母と志野は、はたして水無月の家族だったのだろうか。
特に異能の純度が低い半分人間の彼女たちは、彼らが理性を保つための、あるいは力を増幅させるための、単なる極上の非常食だったのではないだろうか。
あの日、父は母を喰らい尽くした後、物入れに隠れていた志野を見つけ出した。
血に濡れた口元を歪め、父は泣きながら、幼い娘へ手を伸ばした。
『志野。お前はまだ……実るのを待たなくてはいけないよ』
父が志野を鳴神家へ送ったのは、救済のためではない。
己が娘を喰べてしまわぬよう。
そして、水無月の家が生き残るために、志野という供物を、最も強大な力を持つ鵺に献上したに過ぎなかったとしたら。
「……朔夜様も、私を……?」
捧げられた甘い視線も、加護の口づけも。
すべては志野が、美味しく熟す。のを待つための、巧妙な罠だったのかもしれない。
志野を見つめる朔夜の瞳には、得体の知れぬ熱が宿っているように見えた。
彼は無意識に喉を鳴らし、志野の白い首筋に視線を這わせる。
その眼差しは、目の前にある極上の贄をいつ、どこから喰らい尽くそうかと吟味する、飢えた獣のそれなのでは、ないだろうか。
離れでの孤独な静寂は終わりを告げ、母屋の主室にほど近い、豪奢な一室が彼女の居場所となる。
朝夕の食事は常に朔夜と共に摂り、その紫紺の瞳に見守られながら、志野は鳴神の家の一部となっていった。
そんな甘やかな日常の裏側で、帝都を包む空気は確実に淀み始めていた。
廊下の角を曲がろうとした志野の耳に、密やかな囁き声が滑り込む。
「……また、出たそうよ。昨夜、紺屋町の近くで」
女中のタネが、周囲を伺いながら声を潜める。
隣に立つ若い娘が、震える吐息を漏らした。
「ええ、聞いたわ。今度は商家の娘さんだとか。見るも無惨に、首筋から……」
本能のままに人を喰らう、理性を失った異能者――凶喰。
近年、その跋扈は帝都の夜を影のように侵食していた。
「怖いわね。狂った彼らに映る私たちはとっては単なる餌でしかないんですもの」
「……ねぇ、旦那様だって……鵺の血は、異能の中でも特に飢えが激しいっていうし。最近の旦那様、志野様を見る目が、なんだか……」
その言葉が耳に届いた瞬間、志野の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
タネの次の言葉を聞く前に、彼女は逃げるようにその場を去った。
餌。
その不吉な響きが、耳の奥で何度も反転する。
右腕に刻まれた紋章が、急に重く、そして冷たく感じられた。
これは愛する者を守るための加護なのか。
それとも、他者に横取りされぬよう付けられた、捕食者の所有印なのか。
部屋に戻り、一人で座り込んだ途端、抑え込んでいた記憶の蓋が音を立てて外れた。
視界が、不自然なほど鮮烈な赤に染まっていく。
それは、これでもかと咲き乱れていた彼岸花の色だ。
(……逃げて。お母様、早く!)
幼い志野が、物入れの隙間から息を潜めて見つめていた光景。
そこには、いつも優しかった父の背中があった。
しかし、その背中から立ち上る異能の気配は、もはや彼女の知る父のそれではない。
床に広がる、鮮血の赤。
母の、弱々しく笑う声。
「……いいの、志野。これで……あの方は救われる……の……飢えを……癒やす……ため……に」
母の身体を、白蛇の牙が深く、深く抉っていく。
父は泣きながら、けれど恍惚とした表情で、愛していたはずの妻を喰らっていた。
母と志野は、はたして水無月の家族だったのだろうか。
特に異能の純度が低い半分人間の彼女たちは、彼らが理性を保つための、あるいは力を増幅させるための、単なる極上の非常食だったのではないだろうか。
あの日、父は母を喰らい尽くした後、物入れに隠れていた志野を見つけ出した。
血に濡れた口元を歪め、父は泣きながら、幼い娘へ手を伸ばした。
『志野。お前はまだ……実るのを待たなくてはいけないよ』
父が志野を鳴神家へ送ったのは、救済のためではない。
己が娘を喰べてしまわぬよう。
そして、水無月の家が生き残るために、志野という供物を、最も強大な力を持つ鵺に献上したに過ぎなかったとしたら。
「……朔夜様も、私を……?」
捧げられた甘い視線も、加護の口づけも。
すべては志野が、美味しく熟す。のを待つための、巧妙な罠だったのかもしれない。
志野を見つめる朔夜の瞳には、得体の知れぬ熱が宿っているように見えた。
彼は無意識に喉を鳴らし、志野の白い首筋に視線を這わせる。
その眼差しは、目の前にある極上の贄をいつ、どこから喰らい尽くそうかと吟味する、飢えた獣のそれなのでは、ないだろうか。



