帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 カーテンの隙間から零れ落ちる陽光が、志野の瞼を優しく叩いた。
 意識の浮上とともに、右腕へ意識を向ければ、そこには昨夜まで彼女を苦しめた毒の面影など微塵もなかった。

 白磁の肌に刻まれているのは、透き通るような白金の細い線。
 鳴神の異能が凝縮された、雷の紋章。
 指先でなぞれば、生き物の体温のように仄かな熱が指先を押し返してくる。

 昨夜、あの冷たくて熱い口づけとともに流れ込んできた、圧倒的な支配の感覚。
 己の魂の深淵までを朔夜の異能に塗り潰されたあの感触を思い出しただけで、志野の心臓は乱暴に跳ね、頬に熱い朱が差した。

 鳴神の庇護を受けた証。
 それは『まごうことなく当主の所有物である』と冷酷に宣言しているに等しい。

「……いつまで臥せっている。日はとうに高いぞ」

 不意に扉の向こうから響いた低い声に、志野は弾かれたように跳ね起きた。
 入り口には、すでに端正な正装に身を包んだ朔夜が、腕を組んで佇んでいた。

「さ、朔夜様! すみません、今すぐ支度を……!」

「構わん。腕を見せろ」

 迷いのない足取りでベッドの脇へと歩み寄り、朔夜は志野の右腕を無造作に持ち上げた。
 至近距離で射抜く紫紺の瞳。
 その奥に、昨夜の昂ぶりの残滓が渦巻いているのを見て、志野は息を呑んだ。
 
「呪毒は完全に霧散したようだな。だが、まだ肌に熱が残っている。左近、薬を」

背後に控える左近に命じる声は、相変わらず氷のように冷淡だ。
しかし、志野の腕を支えるその指先は、羽毛が触れるような慎重さで、壊れ物を慈しむような脆さを孕んでいた。

「あの……朔夜様。昨夜は、その、ありがとうございました」

「…………勘違いするな。鳴神の妻が九尾の呪いに侵されているなど、外聞が悪い」

 ふい、と視線を逸らす。
 しかし、その耳の付け根が、隠しきれぬ熱を帯びて微かに赤らんでいるのを志野は見逃さなかった。

 朔夜は、志野の乱れた寝乱れ髪から漂う己の加護の匂いに、眩むような眩暈を覚えていた。
 そう、今すぐこの細い首を組み伏せ、貪りたいという本能を、彼は鉄の理性でねじ伏せている。



 その日からの朝食は、これまでのように離れで一人、という穏やかな時間は許されなかった。

「今日から、食事は母屋の食堂で摂れ。お前の荷もすべてこちらへ運ばせてある」

「えっ……? ですが、私は離れで過ごすと……」

「……卑劣な女狐が、いつ再び邸内に紛れ込むか分からん。俺の目の届く範囲、この手の届く距離にいろ」

 慈悲という名の絶対的な拘束。
 
 母屋の食堂へ向かう志野を待っていたのは、使用人たちの劇的な変貌だった。
 昨日まで、透明な塵のように扱われていた志野に対し、皆が深々と頭を下げ、恭しく道を開ける。
 彼女の右腕に輝く白金の紋――鳴神の庇護が持つ絶対的な権威を、彼らは骨の髄まで理解していた。

 席に着けば、志野の前には朝食というにはあまりに贅を尽くした膳が並べられていく。
 
「……口に合うか」

 朔夜は己の食事にはほとんど手を付けず、志野が箸を動かす様を見つめていた。
 その視線は重い。

「はい、とっても美味しいです」

「そうか。ならば残さず食え。お前は細すぎる。少し風が吹けば、そのまま折れてしまいそうだ」

 無愛想な言葉とともに、彼は己の皿にあった焼き魚を、当然のように志野の皿へと移した。

「えっ、朔夜様!?」

「俺はもういい。……いいから食え。これは命令だ」

 強引な献身の裏に透けて見えるのは、己の獲物を、より芳醇なものへと仕立てたいという、捕食者特有の歪な愛情だろうか。
 無論、朔夜が心の内の欲と格闘していることを、志野は知る由も無い。


 食後の余韻に浸る間もなく、屋敷には帝都随一の呉服商とその職人たちが詰めかけた。
 
「鳴神の庇護をその身受けたからには、それに相応しい装いが必要だ。水無月から持ってきたような、その見窄らしい布切れはすべて捨てろ」

 呉服商が広げる、眩いばかりの反物の数々。
 金糸銀糸が重厚に織り込まれた、見たこともないほど美しい絹が部屋を彩る。

「志野様、こちらなどいかがでしょう? 春らしい淡い桃色が、お肌の白さを引き立てますわ」

 職人の言葉に、志野が困惑したように眉を下げた、その刹那。

「――待て」

 朔夜の鋭い一喝が、場を氷結させた。
 彼は山と積まれた反物の中から、迷いのない手つきで一本の布を掴み出した。
 
 それは、深い夜の帳を切り取ったような色。
 彼の瞳と同じ、すべてを飲み込む深淵の紫紺。

「志野には、この色だ」

「朔夜様……。そちらの色は、鳴神家の『当主の色』ではございませんか。奥方様が召されるには、少々格が……」

「構わん。……俺の妻を、俺の色で染める。文句はあるか?」

 呉服商も、そして志野も、言葉を失った。
 
 俺の色で、染める。
 
 あまりに剥き出しな独占欲の宣言。
 朔夜は己が吐いた言葉の熱に気づかぬふりをして、無愛想に志野を振り返った。

「……お前も、異論はないな」

「は、はい……」

 逆らう術など、あろうはずがない。
 
 志野の運命は少しずつ狂い始めていく。
 その予感に、志野は甘い目眩を覚えた。