帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 離れに戻ってもなお、右腕に刻まれた斑紋はドクドクと不気味に脈打ち、熱を帯び続けていた。
 忌まわしく刻まれた九尾の呪毒。
 それは志野の生気をじわじわと啜り、このままでは数日のうちに爛れが全身を蝕み、魂の成りさえも歪めてしまうという。

「……志野様。これより、朔夜様が『鳴神の庇護』を授ける儀式を行います」

 左近の重々しい宣告に、志野は首を傾げる。
 言葉の意味が、ひとつもわからない。
 庇護を授かるとは、正式に鳴神に属する人間として支配下に入るということだろうか。

「志野様。ご準備が整いましたらこちらへ」

 案内されたのは、母屋の最奥に鎮座する、古き清浄な水場であった。
 凍てつくような月明かりの下、白装束を纏い、水を被って身を清めた朔夜が佇んでいた。

 濡れた漆黒の髪から、透明な雫が滴り落ちる。
 普段の洋装とは異なる、薄い白衣一枚の彼は、水を浴びて透き通るような白さを増した肌から、冬の夜のような峻烈な冷気を放っていた。

「来い」

 闇の中で、紫紺の瞳が妖しく光を放つ。
 志野は逃げ場を失った小動物のように、ふらつく足取りで彼の前へと進み出た。
 
 無言で志野の右腕を奪った朔夜が、呪わしき斑紋を月光の下に晒す。
 赤黒く腫れ上がったその跡を視界に収めた瞬間、彼の長い指先が、怒りと後悔に微かに震えた。

「……俺が、すぐに対応しなかったからだな」

 低く、自責に満ちた呟き。
 彼は志野の腕を引き寄せると、その忌まわしい斑紋へと、ゆっくりと唇を寄せた。
 
 ――ちり、と。
 
 触れた唇から、繊細な電撃が志野の肌へと流れ込む。
 それは雅の呪毒を焼き殺すための、苛烈で清らかな浄化の雷。

「……っ」

「耐えろ。すぐに終わる」

 朔夜の温かな吐息が、痛む箇所を愛おしむようになぞっていく。
 異能による支配の上書き。
 雅の禍々しい斑紋が、朔夜が放つ白銀の電光によって、少しずつ、確実に白く塗り替えられていく。

 刺すような痛みが引いていくのと入れ替わりに、経験したことのない甘美な高揚感が志野の全身を駆け抜けた。
 朔夜が顔を上げ、じっと彼女の瞳を射抜く。
 その視線の奥には、理性を食い破らんとする飢えた獣が潜んでいた。

「九尾の呪いは根深い。肌への接触だけでは、まだ足りない」

「え……?」

「……鳴神の庇護を、お前に分ける。俺の血を、その身に受け入れろ」

 朔夜の大きな掌が、志野の頬を優しく撫でつけたかと思った刹那、強引に包み込まれた。
 水垢離を終えたばかりの指先は氷のように冷たい筈なのに、伝わってくるのは、焼けるような熱だった。

 獲物の退路を完全に断つように。
 志野は抗えぬまま、朔夜の髪が自分の額にかかり、体温が近づくのを、ただ見つめていた。

 唇に触れたのは、ほんのわずかな一瞬。
 けれど、この世の何よりも決定的な重みを持つ契約。

 ――バチッ。

 背中を貫くような衝撃が走る。
 大きな掌に顎を攫われ、どこまでも熱い熱が侵入してくる。
 口づけを通じて、朔夜の強大な異能が、志野の魂へと流れ込んでいた。
 それは単なる浄化ではなかった。
 彼という圧倒的な捕食者に、存在ごとまるごと飲み込まれていくような、狂おしいほどに甘い支配の感覚。

 朔夜の喉が、微かに鳴った。
 志野の内に流れる半分人間の甘い血を、今すぐこの口内へ啜り上げたいという、欲には最早抗えない。
 
 やがて、口の中に広がる錆びた味に、志野は己の舌に噛みつかれたという事実に気が付いた。

 ゆっくりと離れていく朔夜の瞳は、耐え難い熱を帯びて潤んでいた。
 その視線は、目の前の獲物をいつ、どこから喰らい尽くそうかと吟味する、成人した一人の雄のそれであった。

「……これは、まだ仮初めの庇護だ」

 掠れた声で告げられた言葉。
 と、ともに肩をぐいと押し返される。
 朔夜は濡れるのも厭わず、水の中へと一人その身を沈めた。
 熱を、冷たい水で殺すために。