帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 志野の肩を掴む朔夜の指先に、無意識の力がこもる。
 その拍子に、彼女は短く、ひきつったような吐息を漏らした。
 右腕の袖に隠された場所から、火を押し当てられたような鋭い痛みが走ったのだ。

「……っ」

 不意に零れた小さな悲鳴に、朔夜の眉が鋭く跳ねた。
 彼はその微かな異変を、捉える。

「腕はどうした」

「え、いえ、何でも……ありません……」

 咄嗟に背後に隠そうとしたものの、男の速駕には抗うべくもない。
 朔夜は志野の細い手首を有無を言わさぬ力で掴み、その柔らかな着物の袖を乱暴に捲り上げた。

「――っ!?」

 露わになった磁器のごとき白い肌。
 そこには、目を背けたくなるほど生々しく、そして禍々しい赤黒い斑紋が浮かび上がっていた。
 あたかも、九本の尾を持つ凶獣に直接肌を焼かれたような、悍ましき呪いの爪痕。

「あの女は、これを刻んだのか」

 朔夜の声音から、一切の温度が消失した。
 同時に、重厚な母屋の建物が、まるで恐怖に震えるように鳴り始める。

 空気が焦げ付くように爆ぜ、彼の全身から青白い光がゆらりと立ち昇る。
 それは志野が先日見たの異能の暴走よりもさらに鋭く、冷酷で、他者の侵入を許さぬ絶対的な殺意を秘めていた。

「俺の所有物に、許可なく手をかけるとは……」

 朔夜の瞳が紫紺から燃え上がるような深紫色へと変色していく。
 その美しき瞳の奥で、理性を食い破らんとする異能が獰猛に牙を剥いた。
 己の獲物が他者の毒に冒されたことへの、耐え難い不快感。
 そして、その傷を自らの渇きで塗り潰してしまいたいという、所有欲が彼の芯を焼き焦がす。

「右近! 左近!」

 朔夜が咆哮するように名を呼ぶと、即座に扉を蹴破らんばかりの勢いで二人が飛び込んできた。

「は、はい! ……うわっ、朔夜様、落ち着いてください! 屋敷の土台が持ちません!」

「……腕を見ろ。アレの仕業だ」

 朔夜が指し示す志野の腕を視認した瞬間、双子の顔色が瞬時に蒼白へと変わる。

「九尾の刻印……! 雅様、なんて真似を……」

「……あの方は、志野様が『鳴神の庇護』を未だ受けていないと踏んで、直接その魂を蹂躙しにかかったのか」

 左近の言葉が薪となり、朔夜の周囲を舞う雷光がさらに熾烈さを増した。

「……誰の許可を得て俺の妻を傷つけた」

 母屋の直上で、耳を弄するほどの凄まじい落雷が轟いた。
 激昂のあまり我を忘れかけた朔夜は、己の腕の中で壊れそうなほど震える志野の身体を視界に収めた刹那、無理やりその荒ぶる異能を奥へと押し戻す。
 
 再び彼女の腕を引き寄せると、その呪わしき斑紋に、自らの大きな掌をそっと重ねる。

「痛むか」

「……少し、熱いだけで、す……」

 それが、自分を案じての儚い嘘であることを、朔夜は痛いほどに理解していた。
 斑紋の齎す痛みに耐える彼女の健気さは、むしろ彼の中に常に存在する『喰らいたい』という衝動を増幅させる。

「あの女の指を、二度と術が結べぬよう、根元から焼き切ってやる」

「 落ち着いてください! 今、鷹司と表立って揉めるのは得策じゃありません!」

 右近の必死の制止さえ、今の朔夜には遠い雑音に過ぎない。
 人を遠ざけてきた男が、一人の娘を傷つけられた事実に、理性を切り裂かれている。
 高潔な義務感ゆえか、あるいは無自覚に芽生えた執着ゆえか。

「志野」

 彼はその名を、初めて慈しむように、そして呪いをかけるように音に乗せた。
 斑紋を覆い隠すように、彼女の細い腕を強く、けれど壊れ物を扱うような危うい優しさで抱き寄せる。

「二度と、このような真似はさせない。……お前を損なうものは、すべて俺が灰にしよう」

 低く、震える声が志野の耳朶を打った。

「近づくな」と自ら命じた禁忌の檻を、彼は今、自らの手で粉々に打ち砕いたのだ。