先ほどまで室内を蹂躙していた雅の傲慢な熱気が、一瞬にして極寒の静寂へと凍りついた。
「……何をしている」
低く、地を這うような声が応接間に響き渡った。
志野が震える顔を上げると、そこには眉間に深い皺を刻んだ朔夜が立っていた。
紫紺の瞳は、これまでに見たことがないほど鋭く、峻烈な殺気を孕んでいる。
「あらまあ、朔夜様。お仕事はもうよろしいのですか?」
朔夜の声に誘われて、こちら側へと戻って来た雅は動じることもなく、優雅な仕草で微笑む。
表情には、志野の心を完膚なきまでに打ち砕いたという、勝利を確信した残酷な色が浮かんでいた。
「あまりに可愛らしいお嫁様でしたから、少しお話をしていたの。私たちがなぜ結ばれなかったのか、そして貴方がなぜ、あえてこの子を選んだのか。その『真実』を、優しく教えてあげたわ」
勝ち誇ったように志野を見下ろす雅の言葉。それが再び志野の胸を抉ろうとした刹那。
朔夜が放った反応は、雅の予想を無惨に裏切るものだった。
朔夜は雅の方を見ることさえしなかった。
ただ、床に崩れ落ちて震えている志野だけを、射抜くような強い眼差しで見つめ続けている。
「誰が俺の妻に、勝手に触れていいと言った」
「え……?」
雅の完璧な笑みが凍りついた。
朔夜の視線は、一向に彼女へ向けられることはない。
存在そのものを否定し、排除するかのような徹底した黙殺。
「俺は、貴様と無駄口を叩くためにここへ来たのではない。……立て、志野」
「あ……はい……」
志野は震える足に力を込め、家令に支えられるようにしてどうにか立ち上がった。
すかさず朔夜が二人の間に割って入り、その広い背中で志野を外界から遮断するように覆い隠す。
彼から放たれる圧倒的な異能の余波に、雅の端正な顔が青ざめていく。
「お待ちください、朔夜様。私は貴方のことを案じて――」
「二度と、その口で俺の名を呼ぶな。……この屋敷に汚い香りを持ち込むなと言ったはずだ。失せろ」
氷よりも冷たく、刃よりも鋭い一喝。
雅は屈辱に唇を噛み締め、朔夜の背後に隠れた志野を呪わしげに睨みつけると、激しい音を立てて足早に去っていった
◇
部屋から不快な沈香の気配が霧散した。
だが、背後から伝わってくる志野の小刻みな震えは、一向に収まる気配を見せない。
振り返れば、彼女は今にも消えてしまいそうなほど蒼白な顔で、深く項垂れていた。
あの傲慢な女が何を吹き込んだのか、想像に難くない。
ありもしない妄言を打ち込んだのだろう。
朔夜は己の胸の内で煮え立つ感情の正体が掴めずにいた。
あの女が勝手に踏み込んできたことへの憤りか。
あるいは、この小さな娘が、自分を信じきれずに他人の言葉に怯えていることへの焦燥か。
「……顔を上げろ」
精一杯、声を抑えて命じるものの、志野は俯いたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「……申し訳ありません。私のような者が、朔夜様の……雅様の、代用品だなんて……」
その言葉が耳に届いた瞬間、朔夜の胸の奥で、鵺が不快そうに、そして凶暴に咆哮した。
一歩踏み出し、彼女の細い肩を強引に掴み寄せる。
その指先に伝わる彼女の熱が、彼の内に眠る昏い欲を容赦なく刺激した。
「あんな女の戯言を、一言でも信じたのか。君は、自分の価値をこれほどまでに理解していないのか」
掴んだ肩に、無意識に力がこもる。
彼女の魂を、その喉元を、今すぐ食らい尽くして、他人の声など届かない場所へ閉じ込めてしまいたい。
そんな衝動を押し殺しながら、朔夜は震える志野を、逃がさぬように強く見据えた。
「……何をしている」
低く、地を這うような声が応接間に響き渡った。
志野が震える顔を上げると、そこには眉間に深い皺を刻んだ朔夜が立っていた。
紫紺の瞳は、これまでに見たことがないほど鋭く、峻烈な殺気を孕んでいる。
「あらまあ、朔夜様。お仕事はもうよろしいのですか?」
朔夜の声に誘われて、こちら側へと戻って来た雅は動じることもなく、優雅な仕草で微笑む。
表情には、志野の心を完膚なきまでに打ち砕いたという、勝利を確信した残酷な色が浮かんでいた。
「あまりに可愛らしいお嫁様でしたから、少しお話をしていたの。私たちがなぜ結ばれなかったのか、そして貴方がなぜ、あえてこの子を選んだのか。その『真実』を、優しく教えてあげたわ」
勝ち誇ったように志野を見下ろす雅の言葉。それが再び志野の胸を抉ろうとした刹那。
朔夜が放った反応は、雅の予想を無惨に裏切るものだった。
朔夜は雅の方を見ることさえしなかった。
ただ、床に崩れ落ちて震えている志野だけを、射抜くような強い眼差しで見つめ続けている。
「誰が俺の妻に、勝手に触れていいと言った」
「え……?」
雅の完璧な笑みが凍りついた。
朔夜の視線は、一向に彼女へ向けられることはない。
存在そのものを否定し、排除するかのような徹底した黙殺。
「俺は、貴様と無駄口を叩くためにここへ来たのではない。……立て、志野」
「あ……はい……」
志野は震える足に力を込め、家令に支えられるようにしてどうにか立ち上がった。
すかさず朔夜が二人の間に割って入り、その広い背中で志野を外界から遮断するように覆い隠す。
彼から放たれる圧倒的な異能の余波に、雅の端正な顔が青ざめていく。
「お待ちください、朔夜様。私は貴方のことを案じて――」
「二度と、その口で俺の名を呼ぶな。……この屋敷に汚い香りを持ち込むなと言ったはずだ。失せろ」
氷よりも冷たく、刃よりも鋭い一喝。
雅は屈辱に唇を噛み締め、朔夜の背後に隠れた志野を呪わしげに睨みつけると、激しい音を立てて足早に去っていった
◇
部屋から不快な沈香の気配が霧散した。
だが、背後から伝わってくる志野の小刻みな震えは、一向に収まる気配を見せない。
振り返れば、彼女は今にも消えてしまいそうなほど蒼白な顔で、深く項垂れていた。
あの傲慢な女が何を吹き込んだのか、想像に難くない。
ありもしない妄言を打ち込んだのだろう。
朔夜は己の胸の内で煮え立つ感情の正体が掴めずにいた。
あの女が勝手に踏み込んできたことへの憤りか。
あるいは、この小さな娘が、自分を信じきれずに他人の言葉に怯えていることへの焦燥か。
「……顔を上げろ」
精一杯、声を抑えて命じるものの、志野は俯いたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「……申し訳ありません。私のような者が、朔夜様の……雅様の、代用品だなんて……」
その言葉が耳に届いた瞬間、朔夜の胸の奥で、鵺が不快そうに、そして凶暴に咆哮した。
一歩踏み出し、彼女の細い肩を強引に掴み寄せる。
その指先に伝わる彼女の熱が、彼の内に眠る昏い欲を容赦なく刺激した。
「あんな女の戯言を、一言でも信じたのか。君は、自分の価値をこれほどまでに理解していないのか」
掴んだ肩に、無意識に力がこもる。
彼女の魂を、その喉元を、今すぐ食らい尽くして、他人の声など届かない場所へ閉じ込めてしまいたい。
そんな衝動を押し殺しながら、朔夜は震える志野を、逃がさぬように強く見据えた。



