試された。甲斐に、試された。
悔しかった。涙が出た。
そんなことをして、どうするのか。
あんなことをして、もし私が本当に甲斐の血を吸ったらどうするつもりだったのか。
わかってない。何もわかってない。
最低だ。
言ってやった。
「そんなことをしたら、あなたも吸血鬼なってしまうんだよ」
甲斐の顔色が変わった。
ようやくわかったみたいだ。自分が何をしようとしていたか。
私と同じ、吸血鬼になる……彼にはそんな覚悟はない。
そもそもそんなこと考えてもいなかっただろう。
甲斐の、あの唖然として顔を見ればわかる。
その証拠に、あの後すぐに店を出た私のことを、甲斐は追っても来なかった。
でももし……甲斐が本当に、私に自分の血を飲ませたいと思っていてくれてたら……
だめだ。そんなことをしたら甲斐も吸血鬼になってしまう。
甲斐を……私と同じ不幸に引きずり込むことはできない。
母……母のことを思った。
私も、母に言っていた。
「もしお母さんの血を飲ませてって言ったら、お母さんは私に血を飲ませてくれる?」
私も母を試した。試していた。
最低だ。彼が最低なら、私も最低だ。
母のことも……やっぱり、不幸にできない。私と同じ不幸には引きずり込むことはできない。
私は……孤独だ。独りぼっちだ。
ある考えが浮かんだ。
そもそも私はどうしてこうなってしまったのか。
あの夜、ベランダで誰かに咬まれたから。誰かに……他の吸血鬼に。
他の……吸血鬼?
ていうことは、私の他にも吸血鬼がいる、ていうことだ。
吸血鬼の、仲間が。
その人たちといれば、私は独りぼっちではない? 孤独を感じないですむ?
でも、どんな人? どんな人たち?
吸血鬼の……仲間。
いやだ。そんな仲間になりたくない。そんな人たちといたくない。
いやだ……絶対に、いやだ……
次の朝。
ダイニングへ入ると、母がテーブルに座っていた。
今日は……朝食を作っていない。
「結花理さん、そこに座って」
母が言った。私は黙って母の向かいの椅子に座った。
「ねえ……結花理さん、私とご飯食べるの、嫌なの?」
母が言った。前の日も、その前の日も、いや、ここのところずっと、あれからずっと、私は母と食事をしていない。
そう思われても仕方ない、かもしれない。でもそれは……
「私に顔も見せたくないの?」
母が続けた。
あれから私は、家にいる時はほとんどずっと、自分の部屋に籠ったままだ。
部屋を出る時は必ずマスクをしている。母に……顔を見せていない。
牙を……見られたくなかったから。
「私とは……いっしょにいたくないの?」
母は、そう言った。
そうじゃない。そんなことはない。でも……説明できない。
私はただうつむいていた。
ごめんなさい……そう言おうと思った。でも……声が出なかった。出せなかった。
母が立ち上がった。母はそのまま、ダイニングから出て行った。
私は……しばらくの間、ダイニングの椅子から立ち上がれなかった。
どうすればいいのか……わからなかった。
家を出て学校へ向かった。
学校のある駅で電車を降りて、学校へ向かって歩く。
学校の手前の公園の入り口。公園から犬を連れた女の人が出て来た。大きめの、柴犬。
突然。
その柴犬が吠え始めた。私に向かって。大きな声で。
今までそんなことはなかった。犬に吠えられるなんて。
犬は嫌いではなかった。飼ったことはなかったけど、散歩中の犬の頭を撫でてやったこともあった。
なのに……
犬は私に飛び掛かろうとしていた。
「こら! やめなさい!」
女の人が慌てて犬の首を押さえた。
「ごめんなさい……」
女の人が私を見ながら謝った。
「今までこんなことなかったのに……狂犬病の予防接種もしたばかりなのよ」
狂犬病……狂犬……狂暴化……
そんな言葉が頭をよぎった。
いつの間にか私はその犬を睨みつけていた。
犬の声が止んだ。
犬が、「キューン」と怯えるような声を出した。そして女の人の腕をすり抜けて走り出した。公園の中へ。私から逃げるように。
「待ちなさい!」
女の人も犬の後を追った。私はただその後姿を見ていた。
犬にも……嫌われた。
……それが、何?
そう思い直した。私はまた、学校へ向かって歩き始めた。
その日は体育の授業があった。バレーボールだった。
私は体調不良を理由にして見学にさせてもらった。
あれ以来ずっと、体育は見学にさせてもらっている。
マスクをしたまま体育はできない。それに……
この前、私は美術の授業で鉛筆を折った。握りつぶした。
私の身体は、体力は、強くなっている。普通の人間以上に。
帰り道、駅から少しだけ走ってみた。信じられないくらいのスピードで走ることができた。それでも少しも息が切れることはなかった。
家で、ダイニングのテーブルを持ち上げてみた。軽々と持ち上げることができた。
もし今、私がバレーボールをしたら、きっとものすごい高さまでジャンプすることができるだろう。アニメみたいに。
ものすごく強烈なサーブやスパイクを打つことができるだろう。ひょっとしたらボールを破裂させてしまうかもしれない。
そんなところ……見せられない。
見学といっても、パイプ椅子に座って、女子同士の試合をただ眺めているだけだった。
コートの中では、半袖短パン姿の女子たちが声を上げながら跳んだり走ったりしていた。
私はあの中に入ることもできない。そう思うと悲しかった。
私の中に衝動が走った。
あの子たちに、咬みつきたい。あの子たちの、血を吸いたい。一人残らず、全員の。
あの子たちみんなに、襲いかかって。
そしたら、あの子たち全員が、吸血鬼。全員が、私と同じ吸血鬼。私の仲間。
だめ。そんなこと考えちゃ、だめ。
私は目を閉じた。
残忍……狂暴……
そんな言葉が頭の中を駆け巡った。
狂犬病……狂暴化……
今朝、犬に吠えられた時のことを思い出す。
私はますます……本当の吸血鬼に近づいている……
背筋に冷たい物を感じて、目を開けた。
隣のコートを見た。隣では男子が試合をしていた。
何かトラブルがあったのか、誰かがコートの外に運び出されるのが見えた。
試合が中断されて、男子生徒たちがその生徒の周りに集まっていた。
視線、を、感じた。
集まった生徒たちの横。体育教師の……虎倉、先生。
私を、見ている?
なぜ? どうして? 運び出された生徒や、集まった生徒たちではなく、私を見てるの?
虎倉先生は真っ黒なマスクをしていた。
そう言えば、虎倉先生は前から、私がマスクをし始めるずっと前から、マスクをしていた。
背筋にまた……寒気を感じた。
この感覚は、何? 恐怖? 嫌悪?
私はまた目を閉じた。
早く授業が終わりますように。ただ、それだけを思った。
次の日の朝。
私がダイニングへ入ると、母が椅子に座っていた。前の日と同じように。
私は黙って母の向かいに座った。前の日と同じように。
「……もうじき夏休みよね」
母が話し始めた。
「休みの間、私、この家を出て他の所で暮らすことにしようと思うの」
母が続けた。私は顔上げた。
「結花理さん……少しの間、あなたと距離を置きたいの」
母は真っ直ぐに私を見ていた。
「その方がいいと思うの……洗濯とか、家事は自分でできるわよね」
何も……答えられなかった。
「今日、あなたが学校へ行っている間に、私、家を出ますから……そのつもりで……」
そう言って、母は椅子から立ち上がった。
しばらくの間、私はダイニングの椅子から立ち上がれずにいた。
泣かなかった。涙が出ないのが不思議だった。
これで私は……完全に、独りぼっちになった。そう思った。
ボーッと、何も考えられないまま、いつの間にか学校へ向かう電車に乗っていた。
スマホを取り出してみた。ひょっとしたら、母から何かメッセージが……そんな思いがあった。
昨夜からスマホの電源は切ったままだった。
電源を入れた。LINEに1件、メッセージが入っていた。
甲斐からだった。
『昨日はごめんなさい。あんなことをしてすみませんでした。謝ります』
そうあった。続けて。
『明日の放課後、もう一度会ってもらえませんか?』
LINEが入っていたのは昨晩。明日、ていうのは今日のことだ。
今日、もう一度会って……どうするつもりだろう。
私に直接訊こうとでもいうのだろうか。
何て? あなたは吸血鬼ですか、とでも?
返信……しなかった。する気になれなかった。もちろん会いたいとも思わなかった。
スマホをそのままバッグに仕舞い込んだ。
長い授業が終わった。
一日中、甲斐とは目を合わさないようにしていた。
話かけられても無視するつもりでいた。これまでも学校で甲斐から話し掛けれたことはなかったけど。
教室を出て、真っ直ぐに駅に向かった。
甲斐はきっと、私の後を追いかけてきているだろう。そんな気がした。
だから敢えて後ろを振り向かないようにした。
もし後ろから話し掛けられたら……やっぱり無視しよう。そう思っていた。
ショッピングセンターが見えてきた。もうじき駅だ。
このまま電車に乗って、家に向かう。家に帰って、それから……
今日は、母は帰って来ない。今夜は私一人で過ごさなければならない。独りぼっちで……
私は母に甘えていたのかもしれない。そう思った。
父が死んだ後、私は誰とも親しくしない、親しくならない、そう決めた。
自分で孤独を選んだ。実際学校では友達を作らないようにした。そう振る舞った。極力人としゃべらないようにした。
淋しくない……ことはなかった。でも、親しい人を失う悲しみに比べたら……そう思った。でも……
今、思う。
私がそうできたのは、母がいたから。母がいてくれたから。
夜は、母といっしょにご飯を食べることができた。母が話しかけてくれた。
朝も、私のためにご飯を作ってくれた。だから私は、安心していられた。
その母が……いない。帰って来ない。
淋しい……やっぱり、淋しい……
公園の前に差し掛かった。
犬に吠えられた、公園。新也のことを待った公園。彼、西門甲斐が話し掛けてきた公園。そして私が、彼の腕から流れていた血を舐めた公園。
突然、目の前にその西門甲斐が現れた。やっぱり私の後に付いて来ていたのだ。
「結花理さん!」
甲斐が呼び掛けてきた。真剣な目をしていた。でも……
私は彼の横を通り抜けてそのまま駅に向かおうとした。
甲斐はまた私を回り込んで私の前に立った。
甲斐がそのまま頭を下げた。
「昨日はごめんなさい!」
甲斐が叫ぶように言った。
私はまた甲斐の脇を通り抜けようとした。
甲斐が私の腕を掴んだ。頭を下げたまま。
仕方なく足を止めた。甲斐の手を振り払うのは簡単だ。今の私の力なら。でもそんなことをしたら……
「結花理さんを試してるんじゃありません! これは、僕の気持ちです」
そう言った。
そして……私の手を放すと、その腕を、私の目の前に突き出した。
僕の気持ち……いったい何を言っているのか。
試しているのではなく、本当に、私に血を飲ませようというのか。
男子生徒が一人、私たちの脇を通り抜けた。怪訝な顔をして、私たちを横目で見ながら。
「来て」
そう言って、私は公園の入り口へ向かった。甲斐は黙って付いてきた。
入り口の門柱の反対側。私が甲斐の血を舐めた、銀杏の木の下。
私は甲斐に向き直った。
「言ったよね。あなたも吸血鬼になるかもしれないんだよ。私があなたの血を吸ってしまったら……もし私が本当に吸血鬼だったら……」
そう言ってやった。一昨日と同じように。
「それでも……いいです。そう決めて来ました」
甲斐は、そう言った。
甲斐がポケットから安全ピンを取り出した。
再び左腕を上げ、肘と手首の真ん中に安全ピンの針を突き刺した。一昨日と同じように。
血が溢れてきた。
試してるんじゃない……僕の気持ち……それでもいい……
ていうことは……吸血鬼になっても……
だめ。そんなことできない。そんなことしたら……
自分の意志とは関係なく、身体が勝手に動いていた。
甲斐の腕に、咬みついていた。
血の味が口の中に広がった。
おいしい……
そう思った。
血が……甲斐の血が、おいしかった。
涙が溢れてきた。
なぜだろう。私、何で泣いてるんだろう。
そう思った。
おいしい……だけじゃない。
私の中で、何かが溶けている。
甲斐の血が、私の中の何かを溶かしている。
嬉しい……嬉しいんだ……
何が? 何が嬉しいの?
血を吸うことができたことが?
欲しかった血をようやく吸うことができたから?
そう。それもある。でも……それだけじゃない。
甲斐が……甲斐が、私に血をくれた……
私を嫌わずに、私を避けずに……
私は、一人じゃない。私は、独りぼっちじゃない……
「うううう……」
声が漏れていた。
私は泣いていた。
いつの間にか、思いっきり泣いていた。
「ううう……うううう……」
私は泣きながら、涙を流しながら、甲斐の腕を、甲斐の血を、吸っていた。
悔しかった。涙が出た。
そんなことをして、どうするのか。
あんなことをして、もし私が本当に甲斐の血を吸ったらどうするつもりだったのか。
わかってない。何もわかってない。
最低だ。
言ってやった。
「そんなことをしたら、あなたも吸血鬼なってしまうんだよ」
甲斐の顔色が変わった。
ようやくわかったみたいだ。自分が何をしようとしていたか。
私と同じ、吸血鬼になる……彼にはそんな覚悟はない。
そもそもそんなこと考えてもいなかっただろう。
甲斐の、あの唖然として顔を見ればわかる。
その証拠に、あの後すぐに店を出た私のことを、甲斐は追っても来なかった。
でももし……甲斐が本当に、私に自分の血を飲ませたいと思っていてくれてたら……
だめだ。そんなことをしたら甲斐も吸血鬼になってしまう。
甲斐を……私と同じ不幸に引きずり込むことはできない。
母……母のことを思った。
私も、母に言っていた。
「もしお母さんの血を飲ませてって言ったら、お母さんは私に血を飲ませてくれる?」
私も母を試した。試していた。
最低だ。彼が最低なら、私も最低だ。
母のことも……やっぱり、不幸にできない。私と同じ不幸には引きずり込むことはできない。
私は……孤独だ。独りぼっちだ。
ある考えが浮かんだ。
そもそも私はどうしてこうなってしまったのか。
あの夜、ベランダで誰かに咬まれたから。誰かに……他の吸血鬼に。
他の……吸血鬼?
ていうことは、私の他にも吸血鬼がいる、ていうことだ。
吸血鬼の、仲間が。
その人たちといれば、私は独りぼっちではない? 孤独を感じないですむ?
でも、どんな人? どんな人たち?
吸血鬼の……仲間。
いやだ。そんな仲間になりたくない。そんな人たちといたくない。
いやだ……絶対に、いやだ……
次の朝。
ダイニングへ入ると、母がテーブルに座っていた。
今日は……朝食を作っていない。
「結花理さん、そこに座って」
母が言った。私は黙って母の向かいの椅子に座った。
「ねえ……結花理さん、私とご飯食べるの、嫌なの?」
母が言った。前の日も、その前の日も、いや、ここのところずっと、あれからずっと、私は母と食事をしていない。
そう思われても仕方ない、かもしれない。でもそれは……
「私に顔も見せたくないの?」
母が続けた。
あれから私は、家にいる時はほとんどずっと、自分の部屋に籠ったままだ。
部屋を出る時は必ずマスクをしている。母に……顔を見せていない。
牙を……見られたくなかったから。
「私とは……いっしょにいたくないの?」
母は、そう言った。
そうじゃない。そんなことはない。でも……説明できない。
私はただうつむいていた。
ごめんなさい……そう言おうと思った。でも……声が出なかった。出せなかった。
母が立ち上がった。母はそのまま、ダイニングから出て行った。
私は……しばらくの間、ダイニングの椅子から立ち上がれなかった。
どうすればいいのか……わからなかった。
家を出て学校へ向かった。
学校のある駅で電車を降りて、学校へ向かって歩く。
学校の手前の公園の入り口。公園から犬を連れた女の人が出て来た。大きめの、柴犬。
突然。
その柴犬が吠え始めた。私に向かって。大きな声で。
今までそんなことはなかった。犬に吠えられるなんて。
犬は嫌いではなかった。飼ったことはなかったけど、散歩中の犬の頭を撫でてやったこともあった。
なのに……
犬は私に飛び掛かろうとしていた。
「こら! やめなさい!」
女の人が慌てて犬の首を押さえた。
「ごめんなさい……」
女の人が私を見ながら謝った。
「今までこんなことなかったのに……狂犬病の予防接種もしたばかりなのよ」
狂犬病……狂犬……狂暴化……
そんな言葉が頭をよぎった。
いつの間にか私はその犬を睨みつけていた。
犬の声が止んだ。
犬が、「キューン」と怯えるような声を出した。そして女の人の腕をすり抜けて走り出した。公園の中へ。私から逃げるように。
「待ちなさい!」
女の人も犬の後を追った。私はただその後姿を見ていた。
犬にも……嫌われた。
……それが、何?
そう思い直した。私はまた、学校へ向かって歩き始めた。
その日は体育の授業があった。バレーボールだった。
私は体調不良を理由にして見学にさせてもらった。
あれ以来ずっと、体育は見学にさせてもらっている。
マスクをしたまま体育はできない。それに……
この前、私は美術の授業で鉛筆を折った。握りつぶした。
私の身体は、体力は、強くなっている。普通の人間以上に。
帰り道、駅から少しだけ走ってみた。信じられないくらいのスピードで走ることができた。それでも少しも息が切れることはなかった。
家で、ダイニングのテーブルを持ち上げてみた。軽々と持ち上げることができた。
もし今、私がバレーボールをしたら、きっとものすごい高さまでジャンプすることができるだろう。アニメみたいに。
ものすごく強烈なサーブやスパイクを打つことができるだろう。ひょっとしたらボールを破裂させてしまうかもしれない。
そんなところ……見せられない。
見学といっても、パイプ椅子に座って、女子同士の試合をただ眺めているだけだった。
コートの中では、半袖短パン姿の女子たちが声を上げながら跳んだり走ったりしていた。
私はあの中に入ることもできない。そう思うと悲しかった。
私の中に衝動が走った。
あの子たちに、咬みつきたい。あの子たちの、血を吸いたい。一人残らず、全員の。
あの子たちみんなに、襲いかかって。
そしたら、あの子たち全員が、吸血鬼。全員が、私と同じ吸血鬼。私の仲間。
だめ。そんなこと考えちゃ、だめ。
私は目を閉じた。
残忍……狂暴……
そんな言葉が頭の中を駆け巡った。
狂犬病……狂暴化……
今朝、犬に吠えられた時のことを思い出す。
私はますます……本当の吸血鬼に近づいている……
背筋に冷たい物を感じて、目を開けた。
隣のコートを見た。隣では男子が試合をしていた。
何かトラブルがあったのか、誰かがコートの外に運び出されるのが見えた。
試合が中断されて、男子生徒たちがその生徒の周りに集まっていた。
視線、を、感じた。
集まった生徒たちの横。体育教師の……虎倉、先生。
私を、見ている?
なぜ? どうして? 運び出された生徒や、集まった生徒たちではなく、私を見てるの?
虎倉先生は真っ黒なマスクをしていた。
そう言えば、虎倉先生は前から、私がマスクをし始めるずっと前から、マスクをしていた。
背筋にまた……寒気を感じた。
この感覚は、何? 恐怖? 嫌悪?
私はまた目を閉じた。
早く授業が終わりますように。ただ、それだけを思った。
次の日の朝。
私がダイニングへ入ると、母が椅子に座っていた。前の日と同じように。
私は黙って母の向かいに座った。前の日と同じように。
「……もうじき夏休みよね」
母が話し始めた。
「休みの間、私、この家を出て他の所で暮らすことにしようと思うの」
母が続けた。私は顔上げた。
「結花理さん……少しの間、あなたと距離を置きたいの」
母は真っ直ぐに私を見ていた。
「その方がいいと思うの……洗濯とか、家事は自分でできるわよね」
何も……答えられなかった。
「今日、あなたが学校へ行っている間に、私、家を出ますから……そのつもりで……」
そう言って、母は椅子から立ち上がった。
しばらくの間、私はダイニングの椅子から立ち上がれずにいた。
泣かなかった。涙が出ないのが不思議だった。
これで私は……完全に、独りぼっちになった。そう思った。
ボーッと、何も考えられないまま、いつの間にか学校へ向かう電車に乗っていた。
スマホを取り出してみた。ひょっとしたら、母から何かメッセージが……そんな思いがあった。
昨夜からスマホの電源は切ったままだった。
電源を入れた。LINEに1件、メッセージが入っていた。
甲斐からだった。
『昨日はごめんなさい。あんなことをしてすみませんでした。謝ります』
そうあった。続けて。
『明日の放課後、もう一度会ってもらえませんか?』
LINEが入っていたのは昨晩。明日、ていうのは今日のことだ。
今日、もう一度会って……どうするつもりだろう。
私に直接訊こうとでもいうのだろうか。
何て? あなたは吸血鬼ですか、とでも?
返信……しなかった。する気になれなかった。もちろん会いたいとも思わなかった。
スマホをそのままバッグに仕舞い込んだ。
長い授業が終わった。
一日中、甲斐とは目を合わさないようにしていた。
話かけられても無視するつもりでいた。これまでも学校で甲斐から話し掛けれたことはなかったけど。
教室を出て、真っ直ぐに駅に向かった。
甲斐はきっと、私の後を追いかけてきているだろう。そんな気がした。
だから敢えて後ろを振り向かないようにした。
もし後ろから話し掛けられたら……やっぱり無視しよう。そう思っていた。
ショッピングセンターが見えてきた。もうじき駅だ。
このまま電車に乗って、家に向かう。家に帰って、それから……
今日は、母は帰って来ない。今夜は私一人で過ごさなければならない。独りぼっちで……
私は母に甘えていたのかもしれない。そう思った。
父が死んだ後、私は誰とも親しくしない、親しくならない、そう決めた。
自分で孤独を選んだ。実際学校では友達を作らないようにした。そう振る舞った。極力人としゃべらないようにした。
淋しくない……ことはなかった。でも、親しい人を失う悲しみに比べたら……そう思った。でも……
今、思う。
私がそうできたのは、母がいたから。母がいてくれたから。
夜は、母といっしょにご飯を食べることができた。母が話しかけてくれた。
朝も、私のためにご飯を作ってくれた。だから私は、安心していられた。
その母が……いない。帰って来ない。
淋しい……やっぱり、淋しい……
公園の前に差し掛かった。
犬に吠えられた、公園。新也のことを待った公園。彼、西門甲斐が話し掛けてきた公園。そして私が、彼の腕から流れていた血を舐めた公園。
突然、目の前にその西門甲斐が現れた。やっぱり私の後に付いて来ていたのだ。
「結花理さん!」
甲斐が呼び掛けてきた。真剣な目をしていた。でも……
私は彼の横を通り抜けてそのまま駅に向かおうとした。
甲斐はまた私を回り込んで私の前に立った。
甲斐がそのまま頭を下げた。
「昨日はごめんなさい!」
甲斐が叫ぶように言った。
私はまた甲斐の脇を通り抜けようとした。
甲斐が私の腕を掴んだ。頭を下げたまま。
仕方なく足を止めた。甲斐の手を振り払うのは簡単だ。今の私の力なら。でもそんなことをしたら……
「結花理さんを試してるんじゃありません! これは、僕の気持ちです」
そう言った。
そして……私の手を放すと、その腕を、私の目の前に突き出した。
僕の気持ち……いったい何を言っているのか。
試しているのではなく、本当に、私に血を飲ませようというのか。
男子生徒が一人、私たちの脇を通り抜けた。怪訝な顔をして、私たちを横目で見ながら。
「来て」
そう言って、私は公園の入り口へ向かった。甲斐は黙って付いてきた。
入り口の門柱の反対側。私が甲斐の血を舐めた、銀杏の木の下。
私は甲斐に向き直った。
「言ったよね。あなたも吸血鬼になるかもしれないんだよ。私があなたの血を吸ってしまったら……もし私が本当に吸血鬼だったら……」
そう言ってやった。一昨日と同じように。
「それでも……いいです。そう決めて来ました」
甲斐は、そう言った。
甲斐がポケットから安全ピンを取り出した。
再び左腕を上げ、肘と手首の真ん中に安全ピンの針を突き刺した。一昨日と同じように。
血が溢れてきた。
試してるんじゃない……僕の気持ち……それでもいい……
ていうことは……吸血鬼になっても……
だめ。そんなことできない。そんなことしたら……
自分の意志とは関係なく、身体が勝手に動いていた。
甲斐の腕に、咬みついていた。
血の味が口の中に広がった。
おいしい……
そう思った。
血が……甲斐の血が、おいしかった。
涙が溢れてきた。
なぜだろう。私、何で泣いてるんだろう。
そう思った。
おいしい……だけじゃない。
私の中で、何かが溶けている。
甲斐の血が、私の中の何かを溶かしている。
嬉しい……嬉しいんだ……
何が? 何が嬉しいの?
血を吸うことができたことが?
欲しかった血をようやく吸うことができたから?
そう。それもある。でも……それだけじゃない。
甲斐が……甲斐が、私に血をくれた……
私を嫌わずに、私を避けずに……
私は、一人じゃない。私は、独りぼっちじゃない……
「うううう……」
声が漏れていた。
私は泣いていた。
いつの間にか、思いっきり泣いていた。
「ううう……うううう……」
私は泣きながら、涙を流しながら、甲斐の腕を、甲斐の血を、吸っていた。



