君が(私が)吸血鬼でも

 問題。
 a<b、かつ、c<d、の時、a+c<b+dであることを証明せよ。

 答え。
 a<bならば、a+c<b+c
 c<dならば、c+b< d+b
 よって、a+c< c+b< b+d、つまり、a+c< b+d

 aは僕の悩み、bは結花理さんの悩みだ。
 僕なんかの悩みより結花理さんの悩みの方が大きいに決まってる。それも遥かに。
 cは僕の心の傷、dは結花理さんの心の傷だ。
 これも結花理さんの傷の方が大きいに決まってる。
 結花理さんが吸血鬼であるということが真実だとすると、結花理さんは当然そのことに悩み、苦しんでいたはずだ。
 その悩み、苦しみは第三者である僕なんかとか比べようもなかった、はずだ。
 その結花理さんを、僕は傷つけた。
 結花理さんを傷つけたことに気が付いた僕も傷ついた。
 でも僕の傷なんかよりも傷つけられた結花理さんの傷の方が遥かに大きいに決まってる。
 僕は、吸血鬼であることに悩んでいた結花理さんを更に傷つけた。
 僕は……なんていうことをしてしまったんだ。

 前に虚数の話を書いた。
 マイナスの数同志をかけ合わせればプラスになる。マイナスの数を二乗してもマイナスにになるというのはあくまで数学上の概念であって、現実の世界には存在しない。
 では、人の感情、心はどうだろう。
 落ち込んでいる時。悩んでいる時。苦しんでいる時。
 平常心を0とした場合、その時の感情は明らかにマイナスだ。
 そしてそのマイナス同志を掛け合わせても、心はプラスの方向に向かわない。
 マイナスの数値はより大きくなる。0からの距離は遠くなる一方だ。

 結花理さんから見た僕と新也の距離のことも書いた。
 あの時は、仮に、ということで僕をマイナスの位置に置いた。
 今の僕は……明らかにマイナスの位置にいる。つまり、結花理さんに嫌われている。
 好かれてもいなかった僕が、さらに嫌われるようなことをしたら。

(―2)×(―2)=(―4)、(―3)×(―3)=(―9)
 
 虚数は成り立っている。いや、これこそ現実、実数だ。
 僕は……どうすればいい? マイナスをプラスにするためには、どうすればいい?
 僕は頭を抱えた。

「甲斐、入るぞ」
 部屋のドアが開いて、父親が入ってきた。
 もうそんな時間か……
 僕の家は父親がやっている医院の裏に離接する形で建っていた。
 家と医院は別の建物だけどその間は短い通路で繋がってた。
 父親はいつも、診察が終わってからもしばらくは医院で仕事をしていた。
 自宅の方に戻って来るのは夜遅く、時には11時、12時になることもあった。
 だから僕は、平日はいつも予備校帰りに外で夕食を済ませ、家に帰ると自分の部屋に籠って勉強をしている、フリをしていた。

「勉強してたんじゃないのか」
 父親が言った。いつもは机の上に問題集やノートを広げているのだが、今日はそれがない。机の上はきれいなまま。
 勉強しているフリをする、どころではなかった。
「今、ちょうど終わったところで……」
 ごまかそうとした。
「お前、今日予備校を休んだそうだな」
「……はい」
 予備校から連絡が行ったのだ。そんなことをいちいち知らせるなんて……
「そんなんで、医学部に合格できるのか?」
「……」
 何も答えられなかった。
「医者になれると思ってるのか?」
 だから……医者になる、ていうのは僕の意志じゃなくて……
 口には出せなかった。これまでも、ずっと。
「しっかりしろ! お前は医者になってこの医院を継ぐんだからな。自覚しろ!」
「……はい」
 そう答えることしかできなかった。
「明日はちゃんと予備校に行けよ」
「……はい」
 やっぱり、そうとしか答えられない……
「それから、もうじき夏休みだが、休み中の夏期講習も申し込んでおいたからな。時間割を確認しておけ」
「……はい」
 それだけ言うと、父親は僕の部屋から出て行こうとした。
「父さん」
 思わず呼び止めていた。
「なんだ」
 父親が振り向いた。
「……いえ、なんでも」
 やっぱり……言えなかった。
 うつむいたままの僕を見て、父親はそのまま部屋を出て行った。

 次の日。
 僕は結花理さんが学校へ来てくれるかどうか心配だった。
 でも結花理さんは……いつも通り、学校へ来た。来てくれた。
 そして、いつも通りに一日を過ごしていた。
 いつも通り、誰とも話さず。いつも通り、僕のことは見向きもしないで……まるで僕がここにいないみたいに……

 その日、体育の授業があった。
 バレーボールだった。体育館で、男女別々に分かれて試合が行われた。
 結花理さんは……見学だった。体育館の隅で、一人でパイプ椅子に座って女子の試合を見ていた。
 体育の授業だから部活の試合とは違う。交代で全員が試合に出る。出される。
 前に、僕の運動能力は、平均をやや下回る、と書いた。特に球技は苦手だった。バレーボールがメインだった1学期の体育の成績はきっと酷い物だろう。

「西門、出るぞ」
 試合が始まって少しすると、体育教師の虎倉が僕に声を掛けてきた。
 虎倉は、細身で背の高い男性教師。
 年齢は、きっと三十代くらいなのだろうけど、よくわからない。若く見えるけど、貫禄と言うか、高齢の人の落ち着きみたいな物を感じさせる。
 その上いつも黒いマスクをしている。ますますわからない。僕の好きなタイプ、ではない。

 僕はコートに入り、右側の後衛の位置に立った。
 相手のサーブ。幸いにして僕の方には来ない。中央の人が受けて、前衛の人がトスを上げると、それをその隣にいた人が押し込むようにして相手のコートに返した。
 相手の人がレシーブ、真ん中にいた人が高くトスを上げた。そして……
 相手チームには、新也がいた。あの、サッカー部のエースストライカーの、新也。
 サッカーで活躍できるくらいだから、運動神経はいい。それも抜群に。
 少し後ろから走って来た新也がジャンプした。そして、スパイク。
 新也の強烈なスパイクは、真っ直ぐに僕を目掛けて飛んで来た。
 何も出来なかった。
 僕は顔面でそのボールを受けていた。
 目の前が真っ暗になった。真っ暗な中に赤や青の星が瞬いているのが見えた。
 僕はそのまま、仰向けに倒れた。
 
 一瞬、気を失ったのだろう。
 気が付くと僕はクラスメイトに両側から肩を担がれていた。そのままコート脇のパイプ椅子に座らされた。
 目の間に新也がいた。
「すまない! 大丈夫か⁉」
 新也が言った。
「う……うん、大丈夫」
 答えることはできた。新也が悪いわけじゃない。悪いのは僕、僕の運動神経だ。
「さ、試合再開だ!」
 虎倉が声を上げた。
 僕の前に集まっていたクラスメートがまたコートに散った。
 試合が再開された。僕の横に立っていた虎倉が、独り言のように、言った。
「そんなんで、あいつに応えてやることができるのか?」
 応えてやる? 何のことだ? わからなかった。
 虎倉の視線の先が気になった。
 男子の試合、ではなかった。そのずっと先。
 隣のコートで行われている女子の試合、の、そのもっと向こう。
 体育館の、僕とは反対側の隅で、パイプ椅子に座っている、結花理さん。
 虎倉は、結花理さんを見ている……ような気がした。

 その日の授業が終わった。
 結花理さんは黙って教室を出て、そのまま駅へ向かって歩き始めた。
 僕は、結花理さんの少し後ろから、結花理さんの後ろ姿を見ながら歩いた。
 結花理さんが駅の改札の向こうに消えるのを見送ってから、僕は予備校へ行った。
 予備校の授業中もずっと、考えていた。

「そんなんで、あいつに応えてやることができるのか?」
 僕の聞き違いだったかもしれない。
 虎倉が、結花理さんのことを、結花理さんと僕とのことを知っているはずがない。
 だとすれば……あれはどういう意味だ?
 いや、虎倉が僕たちのことを知っているかどうか、ていうことよりも、僕が考えていたのは……
 僕は、結花理さんに応えてやることができるのか、ていうことだ。
 結花理さんに応える、ていうことは、結花理さんの望み、願いに応える、ていうことだ。
 結花理さんの望み、願いは……

 最初に公園で会った時、結花理さんは僕に、「血が欲しい、血が吸いたい」って言った。そして僕の肘に口づけをして……いや、僕の、血を舐めた。
 この前は、僕は結花理さんの目の前で僕の血を見せた。
 結花理さんは僕に、「そんなことをしたらあなたも吸血鬼なってしまうんだよ」て、言った。
 それは……それでもいいのか、ていう、僕への問いかけ……だったのかもしれない。
 結花理さんは、「私を試してるの?」て訊いてきた。
 そうだ。僕は結花理さんを試そうとした。でも、結花理さんも僕を試したのかもしれない。
 僕は結花理さんの問いかけに……答えることができなかった。

 予備校の授業が終わった。そのまま真っ直ぐに家に帰った。
 父親はまだ医院にいた。いつものように。
 僕は自宅と医院を繋ぐ通路から、父親のいる医院の事務室へ入った。
 父親はパソコンに向かってキーボードを叩いていた。患者さんたちの情報を整理しているのだろう。

「父さん……」
 後ろから声を掛けた。
「何だ」
 父親は作業を続けながら答えた。僕の方を振り向きもしなかった。
「今日は、予備校に行きました」
 僕は続けた。
「当たり前だ。わざわざそんなことを言いに来たのか」
 父親が言った。パソコンの画面からは目を離さない。
「いえ……」
 一度深呼吸してから、言ってみた。
「……吸血鬼って、本当にいると思いますか?」
 父親がキーボードを打つ手を止めた。
「吸血鬼?……なんでそんなことを訊く?」
「……ただ、気になって」
 少し間を置いてから、父親が答えた。
「そんな物、いるわけないだろ。空想上の怪物だ」
 空想上の……怪物……
「……そうですか」
 そう言うしかなかった。
「そんなことより、きちんと授業の復習をしておけよ。そうでないと……」
 父親が僕の方を向いて話し始めた。やっぱり、父親との話はそっちへ向かってしまう……
「……はい」
 そう答えて、僕は事務室を出た。

 自分の部屋に戻った僕は、ベッドに座り込んだ。
 結局……父親からは何も訊けなかった。
 もし吸血鬼がある種の病気なら……医者である父親なら知っているかもしれないと思った。
 もしその治療法があるなら……でも、だめだった。一蹴された。

 医者になれ……
 父親から何度もそう言われた。小さい頃から。何度も。
 じゃ、医者、て何だ?
 結花理さんのことがあってから、僕の中で、少しだけ、変わった……ていうか、わかったことがあった。
 医者。父親の仕事。祖父の仕事。
 そんなことじゃない。
 医者は……人を助ける人。人の命を救う人。

「父さん……」
 声に出していた。
「僕はね、『医者になれ』、じゃなくて、『人を助けることのできる人間になれ』、て、そう言って欲しかったんだよ……」

 目を閉じた。そしてまた考えた。
 今の僕は、ただの高校生。17歳の高校2年生。医者でも何でもない。
 僕は無力だ。人のために、僕ができることなんて何もない。
 父親や祖父みたいに大勢の人を助けることは、今の僕にはできない。
 でも……
 結花理さん。
 結花理さんのためにできることは、僕にもある。今の僕にもある。
 結花理さんに血を吸わせる。僕の血を吸ってもらう。試すんじゃなくて。
 でも……
「そんなことをしたらあなたも吸血鬼なってしまうんだよ」
 結花理さんはそう言った。そうかもしれない。

 怖い? 僕は、自分が吸血鬼になってしまうことが怖いのか?
 吸血鬼になってしまったら、僕はどうなるのか?
 わからない。想像できない。……怖い、かもしれない。
 でも……吸血鬼にならず、今の自分のままでいたら。
 僕はたぶん医学部には合格できない。医者にはなれない。
 父親の期待を裏切る。そして父親にさげすまれ……それでも生きて行く。
 何をして? どんな職業に就いて?
 それに……僕が怖いなら、結花理さんも、怖い、はずだ。僕なんかよりずっと。
 僕の恐怖<結花理さんの恐怖、だ。
 せめて、僕の恐怖=結花理さんの恐怖、になれば。
 そうすれば……

 僕はもう一度、父親のいる医院の事務室へ向かった。
 父親はまだパソコンに向かって作業をしていた。

「父さん……」
 僕はまた父親に話し掛けた。
「何だ。まだ何か用か」
 少しイラついた声だった。
「父さんは……母さんと結婚する時、その、母さんに対して、どんな気持ちだったんですか」
 パソコンを打っていた父親の手が止まった。
「その……決意、ていうか、覚悟、ていうか……」
 僕は続けた。
「……覚えてない!」
 父親はそう答えた。父親の声は少し大きくなっていた。
 僕は黙って事務室を出た。
 今度も父親は答えてくれなかった。でも、父親にもきっと、母さんに対する思いはあったはずだ。だから今僕がここにいる。

 部屋に戻って、机の引出しを開けた。
 中にお守りがあった。母さんからもらった物だ。
 母さんの実家は神社だった。母さんのお父さん、僕の祖父は、そこで神主をしていた。
 僕は私立の中学を受験した。医学部の合格者が多数いる高校と一貫の進学校だ。
 母さんはわざわざ実家の神社まで行って、このお守りをもらって来てくれた。
 でも僕は……合格できなかった。母さんの思いに答えられなかった。

 もうじき1学期が終わる。夏休みになる。
 夏休みになったら、結花理さんと会えなくなる。学校で、結花理さんに会うことはできなくる。
 それなら……今だ。今しかない。
 結花理さんの苦しみ=僕の苦しみ、になれば。
 僕の恐怖<僕の結花理さんへの思い、ならば。
 今。そう、今。
 僕の、西門甲斐の決意を見せろ。覚悟を見せろ。
 結花理さんの望みに、願いに応えろ。応えてみせろ。
 僕は自分にそう言い聞かせた。
 結花理さんにLINEを打った。

『昨日はごめんなさい。あんなことをしてすみませんでした。謝ります』
 既読には、ならない。
 続けて打った。
『明日の放課後、もう一度会ってもらえませんか?』
 明日。そう、明日は……必ず。

 次の日。
 学校では、結花理さんは僕の方を見てくれなかった。いつものことだ。
 LINEは、既読にはなっていた。でも、返信はなかった。
 学校の中で話しかけることはできない。放課後を待った。

 結花理さんは授業が終わるとすぐに教室を出て行ってしまった。
 僕もすぐに結花理さんを追いかけた。
 駅に向かう道には他の生徒もいる。他の生徒が見ているところで話はできない。
 僕は結花理さんの後ろ、10メートルの距離を保ちながら歩いた。
 ショッピングセンターが見えてきた。もうすぐ駅だ。早くしないと……
 横断歩道があった。結花理さんと僕の間を歩いていた女子の三人組がそこで道路の反対側へ渡った。ショッピングセンターへ立ち寄るつもりなのだろう。
 結花理さんと僕の間には誰もいなくなった。結花理さんの前方にも生徒の姿は見えない。
 後ろを振り返ってみた。僕の後ろにも生徒はいない。今がチャンスだ。
 公園。あの公園の前だった。結花理さんが僕の血を舐めてくれた、あの公園。
 走った。結花理さんに追いついた。そのまま追い越して、結花理さんの目の前に立った。
「結花理さん!」
 呼び掛けた。結花理さんは僕を無視してそのまま僕の横を通り抜けようとした。
 僕はまた結花理さんを回り込んで、目の前に立った。そして頭を下げた。
「昨日はごめんなさい!」
 結花理さんはまた僕の脇を通り抜けようとした。
 僕は結花理さんの腕を掴んだ。
「結花理さんを試してるんじゃありません! これは、僕の気持ちです」
 そう言った。
 結花理さんが足を止めた。
 今だ。
 僕は、結花理さんを掴んでいた手を放した。
 そしてその腕を……僕の腕を、結花理さんの前に突き出した。