君が(私が)吸血鬼でも

 我慢できなかった。
 あの、西門甲斐、ていうクラスメイトの肘から流れていた、血……
 血を……血を吸いたかった。自分のではない、誰かの血を。
 すぐに後悔した。
「目をつぶって」「見ないで」
 私は彼にそう言った。でも……
 私が彼の肘を舐めた瞬間、彼は目を開けた。開けていた。
 無理ない、かもしれない。いきなり傷口を舐められたら誰だって驚くだろう。
 見られた……かもしれない。私の歯を。牙を。
 彼はどう思っただろう。私のことを、どう思っただろうか。吸血鬼だと思っただろうか……

 あの後、私たちはショッピングセンターのフードコートへ行った。
「あ……じゃ、そうだ、そこにフードコートがあるから……」
 私が彼の肘から口を離すと、彼は、何事もなかったかのように、そう言った。
 私はうなずいた。うなずくしかなかった。
 あのまま帰るわけには行かなかった。彼が、私の牙を見たのか……彼が私のことをどう思ったのか……
 確かめておかないと……

 でも……
 フードコートでも、私は彼に何も訊けなかった。何も話せなかった。
 だって……なんて訊けばよかった? 私の牙、見た? 私のことなんだと思った?
 そんなこと……訊けない。訊けるはずない。
 自分が人間でないみたいな……それを認めてるみたいな……

 彼の方からは何も言わなかった。私が彼の肘を舐めたことには触れようとしなかった。
 まるで……友達と話すみたいに私と話してくれた。私に話し掛けてくれた。そもそもクラスメイトではあるんだけど……
 私は、彼の顔を直視することができなかった。
 視線を落とすと、彼の前に置いてあったアイスコーヒーの入ったプラスティックのコップが目に入った。
 中の氷のせいか、コーヒーは赤に近い褐色に見えた。
 あれが、血だったら。彼の血だったら……飲みたい。彼の血を飲みたい。
 いつの間にか私はそんなことを考えていた。

「そろそろ帰ろうか……」
 彼が言ってくれた。よかった。限界だった。
 もう少ししたら、もう少しあのアイスコーヒーを見ていたら、私は彼に飛び掛かって、彼の喉に噛みついて、彼の血を吸っていたかもしれない。
 私は黙ってうなずいた。でも……
 結局、彼が私の牙を見たのか、私のことをどう思っているのか、訊けなかった。
 このまま彼と別れてしまっていいのだろうか? 確かめておかなくていいのか?
 このままでは……
 早く彼の前からいなくなりたいと思う一方で、そんな思いが心の中に渦巻いていた。

「また会ってくれるかな?」
「LINE交換してもらえないかな?」
 彼が言った。言ってくれた。
 バッグからスマホを取り出そうとした。自分の手が、身体が震えているのがわかった。彼に気付かれないように、身体に力を入れて、震えを抑えながら、LINEを開いて、テーブルの上にスマホを差し出した。
 視線を落として彼がLINEを交換するのを待った。
 早く終われ。そう思いながら。

 フードコートを出て、駅まで歩いた。
 まっすぐ前を見て、ただ歩くことに集中した。
 駅に着いた。改札を入ると時、彼が何か言いかけていたけど、かまわずに、私はただホームを目指して歩いていた。
 家に帰って冷たいシャワーを浴びた。
 ベッドに横になった。
 冷静になれ。
 自分に言い聞かせた。
 少し気持ちが落ち着いた、ような気がした。
 また、考えた。

 これからどうしよう。彼、甲斐のことを、どうしよう。
 彼は……私の牙を見ただろうか。私のことを……どう思っただろうか。
 あの後、彼は何もなかったみたいに私に接してくれたけど……
 確かめなくては。また彼に会って、確かめなくては。
 また会う約束をした。LINEの交換もした。
 会って、訊いてみて……見てない、知らないということなら、そのまま……
 でももし、見ていたら……
 正直に話す? 私は、吸血鬼だ、て? 
 違う。まだ吸血鬼じゃない。でも……吸血鬼になろうとしている……なろうとしているかもしれない……
 彼はなんて言うだろう? どう反応するだろうか?
 もう会いたくない。私とかかわりたくない。そう言うだろうか。きっと……そう言う。
 でも、口止めはしておかなかなくては……このことは誰にも言わないで、秘密にしておいて、て……
 彼は……約束してくれるだろうか……
 もし……もしもだけど……彼が、それでもいいよ、て……私が吸血鬼でもいいよ、て、言ってくれたら……彼は私に、血を、彼の血を飲ませてくれるだろうか……

 また、自分の中にある思い、ある欲求、ある欲望が頭をもたげてくるのがわかった。
 血を吸いたい。彼の血を吸いたい。
 今、私に血を吸わせてくれる人がいるとすれば、それは、彼だけ……
 母には頼めない。血を吸わせて……そんなこと、母には言えない。
 頼めるとすれば、彼だけ……でも……

 私の中にもう一つの不安があった。
 吸血鬼に咬まれた者もまた、吸血鬼になる。
 私が彼の血を吸ったら、彼もまた、吸血鬼になる。
 それでもいい? 
 彼は、それでも私に血をくれるだろうか。それを許してくれるだろうか。
 彼にそう話したら……やっぱり、拒絶されるだろう。そんなことを許してくれる人なんて、いない。きっといない。
 もし、もし彼がそれを許してくれたら……
 私は、彼の血を吸える。彼も、私と同じ吸血鬼になる。私の秘密は、彼と二人の秘密になる。私の苦しみは、彼と二人の苦しみになる。
 彼と……二人の?
 吸血鬼は永遠に生きながらえる。彼と……西門甲斐という男子と、二人で?
 彼とで……いいの?
 どうすれば……どうすればいい?
 私はどうすればいい?
 わからない。決められない。

 画用紙には表と裏があって、クラスの全員がそのことを知らない……
 彼はそんな話をしていた。
 そんなこと、私も知らなかった。
 今の私の心も……どっちが表なの? どっちが裏なの? わからない。
 どっちを使うの? どっちを使えばいいの? わからない。決められない。
 そうやっていつまでも、ぐるぐると、悩み続けていた。

 翌日。日曜日。
 母の仕事は休みだ。母は家にいる。
 私は家にいたくなかった。
「友達と図書館で勉強してくる。ご飯も外で食べるからいらない」
 母にそう言った。母が朝食の準備をする前に。もちろん、マスクをしたままで。
「そう……」
 母は小さな声で答えた。
「ねえ……」
「なに?」
 母が私を振り返った。思い切って言ってみた。
「……もし、お母さんの血を吸わせてって言ったら……お母さんは、私に血を吸わせてくれる?」
 母の顔色が変わった。
「……何を言ってるの?」
 母が続けた。
「外で食べるならそれでもいいけど……食べたい物があったら言ってね。準備するから」
 血を吸わせてくれるかどうかは……答えてくれなかった。
 やっぱり……そんなことはできない。させてくれない。私はそう解釈した。
 やっぱり……私は自分の子じゃないから……

 家を出た。
 図書館に行くと言ったのは嘘だ。人がいる所には行きたくなかった。人と会いたくなかった。
 学校へ行ってみた。
 日曜日だ。生徒はいないだろう。そう思った。
 校門へ向かう道路沿いにグラウンドがあった。中から声がした。足を止めて、フェンス越しに中を覗いた。
 サッカー部だった。サッカー部が試合をしていた。
 新也を探した。
 いた。大きな声を上げながら走る、新也。
 あの日、公園に来てくれたのが新也だったら……新也が私に血を吸わせてくれていたら……そんな思いが頭をもたげてきた。
 だめ。新也も吸血鬼なってしまう。でも、新也だったら。新也となら……
 表と裏。私の思いはどっち? どっちが表? どっちが裏? 
 どっちが表の私なの? どっちが裏の私なの? 
 わからない……自分でも、わからない……

 スマホが鳴った。LINEの着信音だ。
 彼、甲斐からだった。
『明日の放課後、会ってもらえませんか?』
 明日の放課後……
 そうだ。まずは甲斐だ。甲斐が私の牙を見たのかどうかを確かめないと。
 そしてそれから……
 夕べ考えていたことを思い出す。
 結局……どうすればいいか、結論は出ていない。でも……それでも……
『はい』
 私はそう返した。

 次の日。月曜日。
 朝、教室へ入ると甲斐が何人かの男女に取り囲まれていた。
 言い争いをしている、ようにも見える。彼を取り囲んでいるのはクラスメイトたちだ。
 そう言えば、土曜日、公園で甲斐が話しかけて来た時、私は騙されている、誰かが新也からだと私に嘘の伝言をした、というようなことを言っていた、ような気がする。
 甲斐はその誰かにそのことを咎めているのだろうか。そのことでもめているのだろうか。
 ……どうでもいい。
 誰が私を騙そうとしたかなんて、そんなことどうでもいい。
 いずれにしろ、新也は来なかった。来なくて、よかった。

 私は黙って自分の席へ向かった。
 すぐに新也が教室に入って来た。
 新也の声が聞こえた。
「あそこはお前が中に入れよ。俺が裏に走るから……」
「いや、俺じゃ決めきれない。やっぱ新也が中に……」
 サッカーの話なのだろう、私にはわからない。
 でも……俺が裏へ走る……その言葉が気になった。
 裏へ走る……裏へ……
 また思い出した。
 私はどうすればいい……裏の私……表の私……

 苦しい、拷問のような授業時間。
 美術の授業があった。
 私は絵を描くのが好きだった。絵を描いていれば、絵を描くことに集中していれば、嫌なことを考えずに済む。そう思った。
 授業内容は鉛筆画のデッサンだった。テーブルに並べられた壺と果物をデッサンする。
 私はデッサン用の鉛筆を持って画用紙に向かった。甲斐がその表裏について語っていた、画用紙。
 鉛筆を画用紙に当てて、少しだけ力を入れた。
 その時。
 鉛筆が、折れた。いや、砕けた。押しつぶしたように、砕けた。私が……鉛筆を握りつぶしたのだ。
 私の、握力。運動能力テストで測った時は、確か、高2女子の平均を下回っていた。
 その私が、鉛筆を、握りつぶした?
 変わってきている……血が欲しくなって、牙が生えただけじゃない。
 あれから、あの、何かに手を咬まれた日から食事らしい食事はしていない。なのに、お腹は減らない。でも体重も変わらなかった。痩せなかった。
 私の身体が、人間でなくなってきている。私の身体が、吸血鬼の身体に……

 その日の授業が終わった。
 甲斐は私より先に教室を出て行った。
 すぐに甲斐からLのINEが入った。
『結花理さんの家の近くで静かに話せる場所はないですか?』
 私も甲斐と二人でいるところを人に見られたくはなかった。
 私の家のある駅と駅前のカフェの店名を打って返した。
 私も教室を出て駅へ向かった。
 電車に乗って、私の家のある駅に着いた。甲斐と待ち合わせた店へ。
 店へ入るとすぐ、甲斐が奥の席で手を上げているのが見えた。
 甲斐の前に座った。もちろんマスクはしたままだ。
「無理言ってごめん」
 甲斐が言った。笑顔で。何も無かったように。何も知らないかのように。
 店員さんが注文を取りに来た。
 何か注文しないと……でも、私は何も飲めない。
 甲斐の前にはアイスコーヒーの入ったグラスが置かれていた。
 あの日と同じ、アイスコーヒー。
「同じ物を」
 取りあえずそう言った。
 それから……何を話せばいいだろう。
 この前会った時のことを覚えていますか? 私が何をしたか覚えていますか? 私が……どんな顔をしていたか、見ましたか?
 それじゃまるで、怪談だ。
 でも今の私は、吸血鬼。その怪談の主人公だ。
 いっそ、甲斐の方から訊いてくれれば……
 
 アイスコーヒーが運ばれてきた。もちろん、飲めない。手を付けられない。
 どうしよう……何か、言わないと……
 その時。
 甲斐がカバンから、何かを取り出した。
 安全ピン、だった。
 甲斐は……自分の左腕をテーブルの上に突き出して……その針を……その腕に突き刺した。
 そこから……血が溢れた。
 真っ赤な、血。
 いったい何をしようとしているのか。甲斐は……いったい何を……
 目を閉じた。
 その血を私に吸わせようというのか。私に、その腕に咬みつかせようとしているのか。
 やっぱり、甲斐は見ていたのだ。あの時、甲斐の肘を舐めた時の私を。
 それで……私に血を?
 いや、甲斐は試しているだけなのかもしれない。私がどうするのか。
 きっと、甲斐だって信じられなかったはずだ。この世にそんな者が、牙があって、人の血を吸う者がいるなんて……
 だから、確かめようとしているのだ。私がどうするのか。私がそんな存在なのか……
 それなら……吸ってやる。その腕を、その血を吸ってやる。
 でも……わかっているのだろうか。そんなことをしたら、自分も吸血鬼になってしまうんだっていうことが……

 涙が出て来た。苦しい……そして、悔しい。試されていることが。試されている自分が。
 顔を上げて、目を開けた。
 言葉が出ていた。
「私を……試してるの?」
 甲斐は、「えっ」という顔をした。その声が聞こえたような気がした。
 やっぱり……甲斐は、何も考えてない。何もわかってない。
「やめて……そんなことやめて……」
 私は続けた。
「……私を試さないで」
 甲斐の顔が強張った。テーブルの上に投げ出された腕から力が抜けるのがわかった。
 ただその腕の中央からはまだ血が溢れていた。そこから、だらしなく開かれた甲斐の指先に視線を移した。
 私は、言った。言ってやった。

「そんなことをしたら……あなたも吸血鬼なってしまうんだよ」