我慢できなかった。
あの、西門甲斐、ていうクラスメイトの肘から流れていた、血……
血を……血を吸いたかった。自分のではない、誰かの血を。
すぐに後悔した。
「目をつぶって」「見ないで」
私は彼にそう言った。でも……
私が彼の肘を舐めた瞬間、彼は目を開けた。開けていた。
無理ない、かもしれない。いきなり傷口を舐められたら誰だって驚くだろう。
見られた……かもしれない。私の歯を。牙を。
彼はどう思っただろう。私のことを、どう思っただろうか。吸血鬼だと思っただろうか……
あの後、私たちはショッピングセンターのフードコートへ行った。
「あ……じゃ、そうだ、そこにフードコートがあるから……」
私が彼の肘から口を離すと、彼は、何事もなかったかのように、そう言った。
私はうなずいた。うなずくしかなかった。
あのまま帰るわけには行かなかった。彼が、私の牙を見たのか……彼が私のことをどう思ったのか……
確かめておかないと……
でも……
フードコートでも、私は彼に何も訊けなかった。何も話せなかった。
だって……なんて訊けばよかった? 私の牙、見た? 私のことなんだと思った?
そんなこと……訊けない。訊けるはずない。
自分が人間でないみたいな……それを認めてるみたいな……
彼の方からは何も言わなかった。私が彼の肘を舐めたことには触れようとしなかった。
まるで……友達と話すみたいに私と話してくれた。私に話し掛けてくれた。そもそもクラスメイトではあるんだけど……
私は、彼の顔を直視することができなかった。
視線を落とすと、彼の前に置いてあったアイスコーヒーの入ったプラスティックのコップが目に入った。
中の氷のせいか、コーヒーは赤に近い褐色に見えた。
あれが、血だったら。彼の血だったら……飲みたい。彼の血を飲みたい。
いつの間にか私はそんなことを考えていた。
「そろそろ帰ろうか……」
彼が言ってくれた。よかった。限界だった。
もう少ししたら、もう少しあのアイスコーヒーを見ていたら、私は彼に飛び掛かって、彼の喉に噛みついて、彼の血を吸っていたかもしれない。
私は黙ってうなずいた。でも……
結局、彼が私の牙を見たのか、私のことをどう思っているのか、訊けなかった。
このまま彼と別れてしまっていいのだろうか? 確かめておかなくていいのか?
このままでは……
早く彼の前からいなくなりたいと思う一方で、そんな思いが心の中に渦巻いていた。
「また会ってくれるかな?」
「LINE交換してもらえないかな?」
彼が言った。言ってくれた。
バッグからスマホを取り出そうとした。自分の手が、身体が震えているのがわかった。彼に気付かれないように、身体に力を入れて、震えを抑えながら、LINEを開いて、テーブルの上にスマホを差し出した。
視線を落として彼がLINEを交換するのを待った。
早く終われ。そう思いながら。
フードコートを出て、駅まで歩いた。
まっすぐ前を見て、ただ歩くことに集中した。
駅に着いた。改札を入ると時、彼が何か言いかけていたけど、かまわずに、私はただホームを目指して歩いていた。
家に帰って冷たいシャワーを浴びた。
ベッドに横になった。
冷静になれ。
自分に言い聞かせた。
少し気持ちが落ち着いた、ような気がした。
また、考えた。
これからどうしよう。彼、甲斐のことを、どうしよう。
彼は……私の牙を見ただろうか。私のことを……どう思っただろうか。
あの後、彼は何もなかったみたいに私に接してくれたけど……
確かめなくては。また彼に会って、確かめなくては。
また会う約束をした。LINEの交換もした。
会って、訊いてみて……見てない、知らないということなら、そのまま……
でももし、見ていたら……
正直に話す? 私は、吸血鬼だ、て?
違う。まだ吸血鬼じゃない。でも……吸血鬼になろうとしている……なろうとしているかもしれない……
彼はなんて言うだろう? どう反応するだろうか?
もう会いたくない。私とかかわりたくない。そう言うだろうか。きっと……そう言う。
でも、口止めはしておかなかなくては……このことは誰にも言わないで、秘密にしておいて、て……
彼は……約束してくれるだろうか……
もし……もしもだけど……彼が、それでもいいよ、て……私が吸血鬼でもいいよ、て、言ってくれたら……彼は私に、血を、彼の血を飲ませてくれるだろうか……
また、自分の中にある思い、ある欲求、ある欲望が頭をもたげてくるのがわかった。
血を吸いたい。彼の血を吸いたい。
今、私に血を吸わせてくれる人がいるとすれば、それは、彼だけ……
母には頼めない。血を吸わせて……そんなこと、母には言えない。
頼めるとすれば、彼だけ……でも……
私の中にもう一つの不安があった。
吸血鬼に咬まれた者もまた、吸血鬼になる。
私が彼の血を吸ったら、彼もまた、吸血鬼になる。
それでもいい?
彼は、それでも私に血をくれるだろうか。それを許してくれるだろうか。
彼にそう話したら……やっぱり、拒絶されるだろう。そんなことを許してくれる人なんて、いない。きっといない。
もし、もし彼がそれを許してくれたら……
私は、彼の血を吸える。彼も、私と同じ吸血鬼になる。私の秘密は、彼と二人の秘密になる。私の苦しみは、彼と二人の苦しみになる。
彼と……二人の?
吸血鬼は永遠に生きながらえる。彼と……西門甲斐という男子と、二人で?
彼とで……いいの?
どうすれば……どうすればいい?
私はどうすればいい?
わからない。決められない。
画用紙には表と裏があって、クラスの全員がそのことを知らない……
彼はそんな話をしていた。
そんなこと、私も知らなかった。
今の私の心も……どっちが表なの? どっちが裏なの? わからない。
どっちを使うの? どっちを使えばいいの? わからない。決められない。
そうやっていつまでも、ぐるぐると、悩み続けていた。
翌日。日曜日。
母の仕事は休みだ。母は家にいる。
私は家にいたくなかった。
「友達と図書館で勉強してくる。ご飯も外で食べるからいらない」
母にそう言った。母が朝食の準備をする前に。もちろん、マスクをしたままで。
「そう……」
母は小さな声で答えた。
「ねえ……」
「なに?」
母が私を振り返った。思い切って言ってみた。
「……もし、お母さんの血を吸わせてって言ったら……お母さんは、私に血を吸わせてくれる?」
母の顔色が変わった。
「……何を言ってるの?」
母が続けた。
「外で食べるならそれでもいいけど……食べたい物があったら言ってね。準備するから」
血を吸わせてくれるかどうかは……答えてくれなかった。
やっぱり……そんなことはできない。させてくれない。私はそう解釈した。
やっぱり……私は自分の子じゃないから……
家を出た。
図書館に行くと言ったのは嘘だ。人がいる所には行きたくなかった。人と会いたくなかった。
学校へ行ってみた。
日曜日だ。生徒はいないだろう。そう思った。
校門へ向かう道路沿いにグラウンドがあった。中から声がした。足を止めて、フェンス越しに中を覗いた。
サッカー部だった。サッカー部が試合をしていた。
新也を探した。
いた。大きな声を上げながら走る、新也。
あの日、公園に来てくれたのが新也だったら……新也が私に血を吸わせてくれていたら……そんな思いが頭をもたげてきた。
だめ。新也も吸血鬼なってしまう。でも、新也だったら。新也となら……
表と裏。私の思いはどっち? どっちが表? どっちが裏?
どっちが表の私なの? どっちが裏の私なの?
わからない……自分でも、わからない……
スマホが鳴った。LINEの着信音だ。
彼、甲斐からだった。
『明日の放課後、会ってもらえませんか?』
明日の放課後……
そうだ。まずは甲斐だ。甲斐が私の牙を見たのかどうかを確かめないと。
そしてそれから……
夕べ考えていたことを思い出す。
結局……どうすればいいか、結論は出ていない。でも……それでも……
『はい』
私はそう返した。
次の日。月曜日。
朝、教室へ入ると甲斐が何人かの男女に取り囲まれていた。
言い争いをしている、ようにも見える。彼を取り囲んでいるのはクラスメイトたちだ。
そう言えば、土曜日、公園で甲斐が話しかけて来た時、私は騙されている、誰かが新也からだと私に嘘の伝言をした、というようなことを言っていた、ような気がする。
甲斐はその誰かにそのことを咎めているのだろうか。そのことでもめているのだろうか。
……どうでもいい。
誰が私を騙そうとしたかなんて、そんなことどうでもいい。
いずれにしろ、新也は来なかった。来なくて、よかった。
私は黙って自分の席へ向かった。
すぐに新也が教室に入って来た。
新也の声が聞こえた。
「あそこはお前が中に入れよ。俺が裏に走るから……」
「いや、俺じゃ決めきれない。やっぱ新也が中に……」
サッカーの話なのだろう、私にはわからない。
でも……俺が裏へ走る……その言葉が気になった。
裏へ走る……裏へ……
また思い出した。
私はどうすればいい……裏の私……表の私……
苦しい、拷問のような授業時間。
美術の授業があった。
私は絵を描くのが好きだった。絵を描いていれば、絵を描くことに集中していれば、嫌なことを考えずに済む。そう思った。
授業内容は鉛筆画のデッサンだった。テーブルに並べられた壺と果物をデッサンする。
私はデッサン用の鉛筆を持って画用紙に向かった。甲斐がその表裏について語っていた、画用紙。
鉛筆を画用紙に当てて、少しだけ力を入れた。
その時。
鉛筆が、折れた。いや、砕けた。押しつぶしたように、砕けた。私が……鉛筆を握りつぶしたのだ。
私の、握力。運動能力テストで測った時は、確か、高2女子の平均を下回っていた。
その私が、鉛筆を、握りつぶした?
変わってきている……血が欲しくなって、牙が生えただけじゃない。
あれから、あの、何かに手を咬まれた日から食事らしい食事はしていない。なのに、お腹は減らない。でも体重も変わらなかった。痩せなかった。
私の身体が、人間でなくなってきている。私の身体が、吸血鬼の身体に……
その日の授業が終わった。
甲斐は私より先に教室を出て行った。
すぐに甲斐からLのINEが入った。
『結花理さんの家の近くで静かに話せる場所はないですか?』
私も甲斐と二人でいるところを人に見られたくはなかった。
私の家のある駅と駅前のカフェの店名を打って返した。
私も教室を出て駅へ向かった。
電車に乗って、私の家のある駅に着いた。甲斐と待ち合わせた店へ。
店へ入るとすぐ、甲斐が奥の席で手を上げているのが見えた。
甲斐の前に座った。もちろんマスクはしたままだ。
「無理言ってごめん」
甲斐が言った。笑顔で。何も無かったように。何も知らないかのように。
店員さんが注文を取りに来た。
何か注文しないと……でも、私は何も飲めない。
甲斐の前にはアイスコーヒーの入ったグラスが置かれていた。
あの日と同じ、アイスコーヒー。
「同じ物を」
取りあえずそう言った。
それから……何を話せばいいだろう。
この前会った時のことを覚えていますか? 私が何をしたか覚えていますか? 私が……どんな顔をしていたか、見ましたか?
それじゃまるで、怪談だ。
でも今の私は、吸血鬼。その怪談の主人公だ。
いっそ、甲斐の方から訊いてくれれば……
アイスコーヒーが運ばれてきた。もちろん、飲めない。手を付けられない。
どうしよう……何か、言わないと……
その時。
甲斐がカバンから、何かを取り出した。
安全ピン、だった。
甲斐は……自分の左腕をテーブルの上に突き出して……その針を……その腕に突き刺した。
そこから……血が溢れた。
真っ赤な、血。
いったい何をしようとしているのか。甲斐は……いったい何を……
目を閉じた。
その血を私に吸わせようというのか。私に、その腕に咬みつかせようとしているのか。
やっぱり、甲斐は見ていたのだ。あの時、甲斐の肘を舐めた時の私を。
それで……私に血を?
いや、甲斐は試しているだけなのかもしれない。私がどうするのか。
きっと、甲斐だって信じられなかったはずだ。この世にそんな者が、牙があって、人の血を吸う者がいるなんて……
だから、確かめようとしているのだ。私がどうするのか。私がそんな存在なのか……
それなら……吸ってやる。その腕を、その血を吸ってやる。
でも……わかっているのだろうか。そんなことをしたら、自分も吸血鬼になってしまうんだっていうことが……
涙が出て来た。苦しい……そして、悔しい。試されていることが。試されている自分が。
顔を上げて、目を開けた。
言葉が出ていた。
「私を……試してるの?」
甲斐は、「えっ」という顔をした。その声が聞こえたような気がした。
やっぱり……甲斐は、何も考えてない。何もわかってない。
「やめて……そんなことやめて……」
私は続けた。
「……私を試さないで」
甲斐の顔が強張った。テーブルの上に投げ出された腕から力が抜けるのがわかった。
ただその腕の中央からはまだ血が溢れていた。そこから、だらしなく開かれた甲斐の指先に視線を移した。
私は、言った。言ってやった。
「そんなことをしたら……あなたも吸血鬼なってしまうんだよ」
あの、西門甲斐、ていうクラスメイトの肘から流れていた、血……
血を……血を吸いたかった。自分のではない、誰かの血を。
すぐに後悔した。
「目をつぶって」「見ないで」
私は彼にそう言った。でも……
私が彼の肘を舐めた瞬間、彼は目を開けた。開けていた。
無理ない、かもしれない。いきなり傷口を舐められたら誰だって驚くだろう。
見られた……かもしれない。私の歯を。牙を。
彼はどう思っただろう。私のことを、どう思っただろうか。吸血鬼だと思っただろうか……
あの後、私たちはショッピングセンターのフードコートへ行った。
「あ……じゃ、そうだ、そこにフードコートがあるから……」
私が彼の肘から口を離すと、彼は、何事もなかったかのように、そう言った。
私はうなずいた。うなずくしかなかった。
あのまま帰るわけには行かなかった。彼が、私の牙を見たのか……彼が私のことをどう思ったのか……
確かめておかないと……
でも……
フードコートでも、私は彼に何も訊けなかった。何も話せなかった。
だって……なんて訊けばよかった? 私の牙、見た? 私のことなんだと思った?
そんなこと……訊けない。訊けるはずない。
自分が人間でないみたいな……それを認めてるみたいな……
彼の方からは何も言わなかった。私が彼の肘を舐めたことには触れようとしなかった。
まるで……友達と話すみたいに私と話してくれた。私に話し掛けてくれた。そもそもクラスメイトではあるんだけど……
私は、彼の顔を直視することができなかった。
視線を落とすと、彼の前に置いてあったアイスコーヒーの入ったプラスティックのコップが目に入った。
中の氷のせいか、コーヒーは赤に近い褐色に見えた。
あれが、血だったら。彼の血だったら……飲みたい。彼の血を飲みたい。
いつの間にか私はそんなことを考えていた。
「そろそろ帰ろうか……」
彼が言ってくれた。よかった。限界だった。
もう少ししたら、もう少しあのアイスコーヒーを見ていたら、私は彼に飛び掛かって、彼の喉に噛みついて、彼の血を吸っていたかもしれない。
私は黙ってうなずいた。でも……
結局、彼が私の牙を見たのか、私のことをどう思っているのか、訊けなかった。
このまま彼と別れてしまっていいのだろうか? 確かめておかなくていいのか?
このままでは……
早く彼の前からいなくなりたいと思う一方で、そんな思いが心の中に渦巻いていた。
「また会ってくれるかな?」
「LINE交換してもらえないかな?」
彼が言った。言ってくれた。
バッグからスマホを取り出そうとした。自分の手が、身体が震えているのがわかった。彼に気付かれないように、身体に力を入れて、震えを抑えながら、LINEを開いて、テーブルの上にスマホを差し出した。
視線を落として彼がLINEを交換するのを待った。
早く終われ。そう思いながら。
フードコートを出て、駅まで歩いた。
まっすぐ前を見て、ただ歩くことに集中した。
駅に着いた。改札を入ると時、彼が何か言いかけていたけど、かまわずに、私はただホームを目指して歩いていた。
家に帰って冷たいシャワーを浴びた。
ベッドに横になった。
冷静になれ。
自分に言い聞かせた。
少し気持ちが落ち着いた、ような気がした。
また、考えた。
これからどうしよう。彼、甲斐のことを、どうしよう。
彼は……私の牙を見ただろうか。私のことを……どう思っただろうか。
あの後、彼は何もなかったみたいに私に接してくれたけど……
確かめなくては。また彼に会って、確かめなくては。
また会う約束をした。LINEの交換もした。
会って、訊いてみて……見てない、知らないということなら、そのまま……
でももし、見ていたら……
正直に話す? 私は、吸血鬼だ、て?
違う。まだ吸血鬼じゃない。でも……吸血鬼になろうとしている……なろうとしているかもしれない……
彼はなんて言うだろう? どう反応するだろうか?
もう会いたくない。私とかかわりたくない。そう言うだろうか。きっと……そう言う。
でも、口止めはしておかなかなくては……このことは誰にも言わないで、秘密にしておいて、て……
彼は……約束してくれるだろうか……
もし……もしもだけど……彼が、それでもいいよ、て……私が吸血鬼でもいいよ、て、言ってくれたら……彼は私に、血を、彼の血を飲ませてくれるだろうか……
また、自分の中にある思い、ある欲求、ある欲望が頭をもたげてくるのがわかった。
血を吸いたい。彼の血を吸いたい。
今、私に血を吸わせてくれる人がいるとすれば、それは、彼だけ……
母には頼めない。血を吸わせて……そんなこと、母には言えない。
頼めるとすれば、彼だけ……でも……
私の中にもう一つの不安があった。
吸血鬼に咬まれた者もまた、吸血鬼になる。
私が彼の血を吸ったら、彼もまた、吸血鬼になる。
それでもいい?
彼は、それでも私に血をくれるだろうか。それを許してくれるだろうか。
彼にそう話したら……やっぱり、拒絶されるだろう。そんなことを許してくれる人なんて、いない。きっといない。
もし、もし彼がそれを許してくれたら……
私は、彼の血を吸える。彼も、私と同じ吸血鬼になる。私の秘密は、彼と二人の秘密になる。私の苦しみは、彼と二人の苦しみになる。
彼と……二人の?
吸血鬼は永遠に生きながらえる。彼と……西門甲斐という男子と、二人で?
彼とで……いいの?
どうすれば……どうすればいい?
私はどうすればいい?
わからない。決められない。
画用紙には表と裏があって、クラスの全員がそのことを知らない……
彼はそんな話をしていた。
そんなこと、私も知らなかった。
今の私の心も……どっちが表なの? どっちが裏なの? わからない。
どっちを使うの? どっちを使えばいいの? わからない。決められない。
そうやっていつまでも、ぐるぐると、悩み続けていた。
翌日。日曜日。
母の仕事は休みだ。母は家にいる。
私は家にいたくなかった。
「友達と図書館で勉強してくる。ご飯も外で食べるからいらない」
母にそう言った。母が朝食の準備をする前に。もちろん、マスクをしたままで。
「そう……」
母は小さな声で答えた。
「ねえ……」
「なに?」
母が私を振り返った。思い切って言ってみた。
「……もし、お母さんの血を吸わせてって言ったら……お母さんは、私に血を吸わせてくれる?」
母の顔色が変わった。
「……何を言ってるの?」
母が続けた。
「外で食べるならそれでもいいけど……食べたい物があったら言ってね。準備するから」
血を吸わせてくれるかどうかは……答えてくれなかった。
やっぱり……そんなことはできない。させてくれない。私はそう解釈した。
やっぱり……私は自分の子じゃないから……
家を出た。
図書館に行くと言ったのは嘘だ。人がいる所には行きたくなかった。人と会いたくなかった。
学校へ行ってみた。
日曜日だ。生徒はいないだろう。そう思った。
校門へ向かう道路沿いにグラウンドがあった。中から声がした。足を止めて、フェンス越しに中を覗いた。
サッカー部だった。サッカー部が試合をしていた。
新也を探した。
いた。大きな声を上げながら走る、新也。
あの日、公園に来てくれたのが新也だったら……新也が私に血を吸わせてくれていたら……そんな思いが頭をもたげてきた。
だめ。新也も吸血鬼なってしまう。でも、新也だったら。新也となら……
表と裏。私の思いはどっち? どっちが表? どっちが裏?
どっちが表の私なの? どっちが裏の私なの?
わからない……自分でも、わからない……
スマホが鳴った。LINEの着信音だ。
彼、甲斐からだった。
『明日の放課後、会ってもらえませんか?』
明日の放課後……
そうだ。まずは甲斐だ。甲斐が私の牙を見たのかどうかを確かめないと。
そしてそれから……
夕べ考えていたことを思い出す。
結局……どうすればいいか、結論は出ていない。でも……それでも……
『はい』
私はそう返した。
次の日。月曜日。
朝、教室へ入ると甲斐が何人かの男女に取り囲まれていた。
言い争いをしている、ようにも見える。彼を取り囲んでいるのはクラスメイトたちだ。
そう言えば、土曜日、公園で甲斐が話しかけて来た時、私は騙されている、誰かが新也からだと私に嘘の伝言をした、というようなことを言っていた、ような気がする。
甲斐はその誰かにそのことを咎めているのだろうか。そのことでもめているのだろうか。
……どうでもいい。
誰が私を騙そうとしたかなんて、そんなことどうでもいい。
いずれにしろ、新也は来なかった。来なくて、よかった。
私は黙って自分の席へ向かった。
すぐに新也が教室に入って来た。
新也の声が聞こえた。
「あそこはお前が中に入れよ。俺が裏に走るから……」
「いや、俺じゃ決めきれない。やっぱ新也が中に……」
サッカーの話なのだろう、私にはわからない。
でも……俺が裏へ走る……その言葉が気になった。
裏へ走る……裏へ……
また思い出した。
私はどうすればいい……裏の私……表の私……
苦しい、拷問のような授業時間。
美術の授業があった。
私は絵を描くのが好きだった。絵を描いていれば、絵を描くことに集中していれば、嫌なことを考えずに済む。そう思った。
授業内容は鉛筆画のデッサンだった。テーブルに並べられた壺と果物をデッサンする。
私はデッサン用の鉛筆を持って画用紙に向かった。甲斐がその表裏について語っていた、画用紙。
鉛筆を画用紙に当てて、少しだけ力を入れた。
その時。
鉛筆が、折れた。いや、砕けた。押しつぶしたように、砕けた。私が……鉛筆を握りつぶしたのだ。
私の、握力。運動能力テストで測った時は、確か、高2女子の平均を下回っていた。
その私が、鉛筆を、握りつぶした?
変わってきている……血が欲しくなって、牙が生えただけじゃない。
あれから、あの、何かに手を咬まれた日から食事らしい食事はしていない。なのに、お腹は減らない。でも体重も変わらなかった。痩せなかった。
私の身体が、人間でなくなってきている。私の身体が、吸血鬼の身体に……
その日の授業が終わった。
甲斐は私より先に教室を出て行った。
すぐに甲斐からLのINEが入った。
『結花理さんの家の近くで静かに話せる場所はないですか?』
私も甲斐と二人でいるところを人に見られたくはなかった。
私の家のある駅と駅前のカフェの店名を打って返した。
私も教室を出て駅へ向かった。
電車に乗って、私の家のある駅に着いた。甲斐と待ち合わせた店へ。
店へ入るとすぐ、甲斐が奥の席で手を上げているのが見えた。
甲斐の前に座った。もちろんマスクはしたままだ。
「無理言ってごめん」
甲斐が言った。笑顔で。何も無かったように。何も知らないかのように。
店員さんが注文を取りに来た。
何か注文しないと……でも、私は何も飲めない。
甲斐の前にはアイスコーヒーの入ったグラスが置かれていた。
あの日と同じ、アイスコーヒー。
「同じ物を」
取りあえずそう言った。
それから……何を話せばいいだろう。
この前会った時のことを覚えていますか? 私が何をしたか覚えていますか? 私が……どんな顔をしていたか、見ましたか?
それじゃまるで、怪談だ。
でも今の私は、吸血鬼。その怪談の主人公だ。
いっそ、甲斐の方から訊いてくれれば……
アイスコーヒーが運ばれてきた。もちろん、飲めない。手を付けられない。
どうしよう……何か、言わないと……
その時。
甲斐がカバンから、何かを取り出した。
安全ピン、だった。
甲斐は……自分の左腕をテーブルの上に突き出して……その針を……その腕に突き刺した。
そこから……血が溢れた。
真っ赤な、血。
いったい何をしようとしているのか。甲斐は……いったい何を……
目を閉じた。
その血を私に吸わせようというのか。私に、その腕に咬みつかせようとしているのか。
やっぱり、甲斐は見ていたのだ。あの時、甲斐の肘を舐めた時の私を。
それで……私に血を?
いや、甲斐は試しているだけなのかもしれない。私がどうするのか。
きっと、甲斐だって信じられなかったはずだ。この世にそんな者が、牙があって、人の血を吸う者がいるなんて……
だから、確かめようとしているのだ。私がどうするのか。私がそんな存在なのか……
それなら……吸ってやる。その腕を、その血を吸ってやる。
でも……わかっているのだろうか。そんなことをしたら、自分も吸血鬼になってしまうんだっていうことが……
涙が出て来た。苦しい……そして、悔しい。試されていることが。試されている自分が。
顔を上げて、目を開けた。
言葉が出ていた。
「私を……試してるの?」
甲斐は、「えっ」という顔をした。その声が聞こえたような気がした。
やっぱり……甲斐は、何も考えてない。何もわかってない。
「やめて……そんなことやめて……」
私は続けた。
「……私を試さないで」
甲斐の顔が強張った。テーブルの上に投げ出された腕から力が抜けるのがわかった。
ただその腕の中央からはまだ血が溢れていた。そこから、だらしなく開かれた甲斐の指先に視線を移した。
私は、言った。言ってやった。
「そんなことをしたら……あなたも吸血鬼なってしまうんだよ」



