問題。
3辺の長さを次の①~③とした場合、三角形が成立しない組み合わせはどれか。
①1,1,1
②1,2,3
③2,3,4
答え。
②1,2,3
三角形ができるためには2辺の長さの和が残る1辺の長さより長くならなければならない。
①が三角形になることはすぐにわかるだろう。言うまでもなく正三角形だ。
③はどうだろう。一番長い辺の長さは4だ。残りの2辺の長さの和は2+3=5。
2+3>4が成り立つ。よってこの場合は三角形が成立する。
②はというと、一番長い辺の長さは3。残りの2辺の長さの和は1+2=3。
3=3で、1+2>3とはならない。よってこの場合は三角形にならない。
この比で三角形を描こうとすると三つの頂点は一直線上に並んでしまう。
さて、僕がどうして三角形の成立条件について考えているかというと、僕と結花理さん、それにクラスメイトの新也との関係がいわゆる三角関係になるのではないかと思っているからだ。
公園で、結花理さんは僕の肘の傷を舐めてくれた。いや、口づけをしてくれた。
僕は戸惑った。
あの後、どうしていいかわからなかった。それでも。
結花理さんをこのまま返しちゃいけない。結花理さんと何か話さないといけない。そう思った。
傷口に口づけしてくれたことはともかくとして、その前の会話を思い返した。
「もしよかったら、少しお茶でも……せっかくですから……」
僕は結花理さんにそう言っていた。その続きだ。
「あ……じゃ、そうだ、そこのショッピングセンターにフードコートがあるから……」
言ってみた。
結花理さんは、黙ってうなづいてくれた。
公園の向かい側にあるショッピングセンターのフードコートのテーブルで結花理さんと向き合った。
僕はアイスコーヒーを飲んだけど、結花理さんは何も飲まなかった。
何か話さなければいけないと思った。
と言っても、何を話していいかわからなかった。
で、僕はまず、自分のこと、そう、自分の因数について話した。
結花理さんと同じクラスになって3ヶ月。今さらながら自己紹介だ。
僕、西門甲斐は……そうだった、僕にはたいした因数がない。
男子で、高2で……そんなことはもうわかっている。
「父親は医者で開業医をしていて……僕は一人息子だから父親の医院を継がなければならくて、だから医学部に行かなければならないんだけど、僕は勉強が嫌いで……」
そんなことを話した。
次は……続かない。
……そうだ。数学。
「この前の美術の時間、先生が、『画用紙には裏と表があるのにクラスの半分が裏面を使っている。半分の人が画用紙の裏と表をわかっていない』って言ってたよね。あれ、違うよね。裏表がわからなくて、アトランダムにどちらかを使っても確率的に半分は表を使うことになるよね。裏と表を使った人が半分ずつだったということは、全員がアトランダムの裏表を選択したということで、つまり僕たちのクラスには画用紙の裏表を知ってる人が一人もいなかったということで……」
結花理さんは向かいの席に座ったまま黙って僕の話を聞いていた。
結花理さんはマスクを外さなかった。だから結花理さんの表情はわからなかった。僕の話を楽しんでいるのか、退屈しているのか。
「もちろん僕も画用紙の裏表なんてわからなかったけど。結花理さんは知ってた?」
結花理さん、て言ってみた。言っただけで、僕の胸が高鳴った。
結花理さんは小さく首を横に振った。
「だよね……」
それから……話題が見つからなくなった。
数学の話ならできたけど、難しい例題の話をしても結花理さんは楽しくないだろうと思った。
改めて結花理さんの姿を見た。見つめた。
結花理さんは真っ直ぐに背筋を伸ばして座っていた。僕がいつも後ろから見ていたあの姿勢で。そう、あの凛とした姿勢で。
あの後姿を、僕は今正面から見ている。それも、こんな近くで。
でも……結花理さんの視線は僕の顔にはなかった。顔より少し下……結花理さんはどこを見ているのだろう……
急に……怖くなった。いや、怖いのとはちがう。なんて言うか……こうして、いつまでも結花理さんと二人でいてはいけない。そんな気がした。
「そろそろ……帰ろうか」
僕が言うと、結花理さんは小さくうなずいた。
「あの……また会ってくれるかな?」
そう言ってみた。結花理さんは、少し間を置いてから、また小さくうなずいた。うなずいてくれた。
「あの……LINE交換してもらえないかな……」
言ってみた。
結花理さんは少し考えてから、持っていたバッグからスマホを取り出した。
LINEの設定画面を開いてテーブルの中央に差し出してくれた。
僕は自分のスマホで結花理さんのアカウントを写し撮った。
駅の改札前で結花理さんと別れた。結花理さんがどこに住んでいるか知らなかったけど、電車も一緒だったらかえって気まずいと思った。
「あの、また……」
言いかけたけど、結花理さんは僕を見ないまま、ホームへ続く階段の方へ歩いて行ってしまった。
僕はその後姿を見送った。階段を登る結花理の姿が見えなくなるまで。いつものあの、凛とした後姿を。
あれからずっと、僕は結花理さんのことを考えていた。
嬉しかった。素直に嬉しかった。結花理さんが、また会ってくれると言ってくれたこと。
いや、言ってはくれなかった。でもその意志表示をしてくれた。そして僕とLINEを交換してくれた。
でも……
いくつかの疑問があった。
疑問その1。
なぜ結花理さんがあそこにいたのか、ということ。
加志摩美羅たちが話しているのを聞いた。新也が会いたがっているという嘘で結花理さんを騙そうとしていた。
僕は、結花理さんはそんな誘いには乗らないと思っていた。でも……
結花理さんは公園にいた。新也に会いに、公園まで来ていた。ということは……
結花理さんは新也のことが好きなのでは……
それなら、もしそうなら、結花理さんを好きな僕と、新也を好きな結花理さんは三角関係ということになる。
それで僕は、三角形の成立要件について考えていたのだ。
三角形が成り立つためには2辺の長さの和が残る1辺の長さより長くならなければならない。
僕と結花理さん、結花理さんと新也を2辺とすると、残る1辺は僕と新也、ということになる。
ところが僕と新也の間には、同じ高校の同じクラスという以外にまったく接点がない。僕は新也とは話したことがない。これでは三角形が作れない。三角関係が成り立たない。
それなら……そう、僕と結花理さんと新也を一直線上の点としよう。さっきの設問の②の形だ。
結花理さんの位置を0とする。新也の位置は……そう、例えば5としよう。
すると僕の位置は、結花理さんの位置、0を挟んで新也君とは反対方向にある。
え? ということは僕はマイナスの位置にいる?
まあいい。ここでは正負の方向は考えないことにしよう。大事なのは結花理さんとの距離、つまりその絶対値だ。
仮に僕の位置を−5とする。僕の位置の絶対値は|5|。新也の位置、+5の絶対値も|5|。同じだ。
でも今僕のいる位置は新也君のいる位置よりも結花理さんに近い。絶対に。自信を持って言える。
結花理さんは僕とまた会ってくれると意志表示してくれた。LINEも交換してくれた。例え結花理さんはが新也に好意を持っていたとしても、新也とはそんなことはしていない、はずだ。
そう、それなら僕の位置は、「−4」か、「−3」。そのあたりだ。
それに……それだけじゃない。
結花理さんは僕に……僕が駅の階段で転んだ時に作った僕の肘の傷に……口づけしてくれた。
好きでもない、ただのクラスメイトにそんなことするはずない。
それなら……僕の位置は、「−2」か、「−1」。
でも……
そう、疑問その2。
結花理さんは、なぜ僕の傷口に口づけをしてくれたのか、ということ。
傷口が痛々しかったからかもしれない。唾液に消毒の効果があるという話を聞いたこともある。
僕に好意を持っていたから……僕のことが嫌いじゃないから……
単純にそう思いたい。でも……
結花理さんはあの時、僕に「目をつぶって」と言った。でも僕は、結花理さんが傷口に口づけしてくれた瞬間、驚いて目を開けてしまった。
一瞬だった。だから、僕の見間違い、目の錯覚だったかもしれない。でも……
牙が見えた。口から生える、2本の牙が。
結花理さんには、牙があった。もしあれが僕の見間違いでないとしたら……
それに……公園の入り口に立っていた結花理さんに僕が話し掛けた時、結花理さんが言った言葉は……
「血が欲しい」「血が吸いたい」
あれも僕の聞き違いだったかもしれない。でも、もしそうでなかったら……
結花理さんは、傷口に口づけしたかったのではなく、血を、傷口から出ていた僕の血を舐めたかったのではないか……
そんな疑問が僕の頭から離れない。
疑問その3。
僕と一緒にいる間ずっと、結花理さんはマスクを外さなかった。僕の傷口に口づけをしてくれた、あの一瞬を除いて。
昨日だけじゃない。学校でも、ここのところずっと、結花理さんはマスクをしている。マスクを外さない。
結花理さんはなぜ、ずっとマスクをしているのか。
花粉症かもしれない。でも結花理さんがマスクをし始めたのは最近になってだ。最近になってから花粉症を発症したのか。
感染症予防かもしれない。夏でもコロナやインフルが流行することはあるし、予防のためにマスクをしている人も多い。
でも……
もしかしたら、口元を人に見られたくないからでは……口から生えている牙を、見られたくないからでは……
だとしたら……
牙があって、人の血を欲しがる存在……
吸血鬼。
結花理さんは、吸血鬼で……
そんなはずない。結花理さんが吸血鬼であるはずない。
でも……もし、そうだとしたら……
結花理さんの因数を考えた。
蘇井結花理=(女子)(高校2年生)そして……(美人)(凛としている)(無口)……あとは……わからない。僕は結花理さんのことを、知らない。
わからないということは……(ミステリアス)
そして今、新たな因数が加わろうとしている。結花理さんは、(吸血鬼)。
待て。そもそも吸血鬼なんていう存在が実際にいるのだろうか。
数学の世界では実在しない数を虚数と呼ぶ。
(―1)×(―1)=1。
マイナスをかけるということは反対方向を向かせるということだ。もともとマイナスだった数字にマイナスをかければプラスになる。しかし数学の世界ではマイナスにマイナスをかけてもマイナスになる数も存在する。それが虚数だ。
いや、実際に存在しているわけではない。あくまで数学上の概念だ。言ってみれば、想像上の数字であって、その数値が目に見える物ではない。
僕は、吸血鬼という存在も概念、つまり想像上の存在だと思っていた。でももしそれが存在するとしたら……それを確かめるには……
実数を当てはめてみる。実数を当てはめて、その数式が成り立つかどうか確かめてみる。
つまり……
もう一度、結花理さんに会って、確かめる。
そして……その疑問の解答を得ることができれば、それは僕の二つ目の疑問、僕の肘の傷に口づけをしてくれたのは、僕への好意に表れなのかどうかということの解答にもなる。
その解答は、一つ目の疑問、結花理さんが新也君をどう思っているのか、結花理さんと僕、結花理さんと新也君との距離についての解答にもなる。
結花理さんにLINEを打った。
『明日の放課後、会ってもらえませんか?』
すぐに回答が来た。
一言だけ、短いメッセージが表示されていた。
『はい』
翌日。月曜日。
朝、教室に入るとすぐに僕は4人の男女に取り囲まれた。加志摩美羅と、その取り巻き? あの、ファミレスにいた4人組だ。
「西門さあ、この前の土曜、蘇井と二人でいたよな?」
男子の一人がいきなり言ってきた。あいさつもせずに。
そうか……彼らはずっと結花理さんを見ていた。当然僕が結花理さんと会っていたことも知っている。
「あれ、そうだっけ?」
そう答えた。僕もあいさつはしなかった。
「おかげで俺たちの計画が台無しじゃねえか」
「計画? なんのこと?」
とぼけて聞き返してみた。
「……それはいいよ」
加志摩美羅……
美羅が、男子の肩に手を置いた。
美羅が前に進み出てきた。
「あんたさあ、結花理とどういう関係? 付き合ってるの?」
僕を睨みつけていた。
「いや別に……たまたま見かけたから話し掛けただけだけど」
まさか……結花理さんが僕の肘に口づけしてくれたところは見られてないだろう……公園の中の木の陰だったし。
「本当か?」
また男子が言ってきた。
その時。
結花理さんが教室に入ってきた。
結花理さんは……何も言わずに自分の席に着いた。
僕のことは……まったく見なかった。美羅たちのことも。見向きもしなかった。
すぐ後から新也が教室に入ってきた。同じサッカー部員のクラスメイトと話しながら。
「あそこはお前が中に入れよ。俺が裏に走るから……」
「いや、俺じゃ決めきれない。やっぱ新也が中に……」
サッカーの戦術の話に夢中だ。大きな声が僕の耳にも聞こえてきた。
それを見た美羅たちも僕から離れて自分の席へ向かった。
結花理さんは新也のことも見なかった。見ようとしなかった。
学校にいる間も、結花理さんはいつもと変わらなかった。ずっとマスクを着けたまま、誰とも話さない。
授業が終わった。
僕はさっさと教室を出た。また美羅たちに絡まれる前にと思って。
すぐに結花理さんにLINEした。
『結花理さんの家の近くで静かに話せる場所はないですか?』
学校のある駅の周辺、公園やショッピングセンター、反対側のファミレスやハンバーガーショップではまた美羅たちに見られてしまうと思った。
すぐに結花理さんから返信が来た。駅名とその駅前にあるカフェの店名だけが書いてあった。
僕は真っ直ぐにそこへ向かった。
カフェに着いた。アンティークな椅子やテーブルが並んだクラッシックな感じの店だ。二人連れだと言うと店員さんが一番奥のテーブル席に案内してくれた。僕はアイスコーヒーを注文した。
入り口の扉に付いた鈴の音がした。結花理さんが店に入ってきた。僕は手を上げて結花理さんに合図した。
結花理さんが僕の前に座った。マスクはしたままだ。
「無理言って、ごめん」
僕が言うと結花理さんは小さくうなずいた。
店員さんが注文を聞きに来た。
僕の前に置かれたアイスコーヒーを見て、結花理さんは「同じ物を」と小さな声で言った。
さて……ここからだ。
僕は……何を話せばいい? 結花理さんに、何を訊けばいい?
結花理さんは、吸血鬼ですか?
そんなこと訊けない。訊けるわけない。訊いたとしても、きっと答えてくれない。
結花理さんは僕のことをどう思ってますか?
いきなり?
結花理さんは新也のことをどう思ってますか?
これも同じだ。
それなら……
結花理さんは昨日、どうして公園にいたのですか?
これなら……
僕はその通りのことを結花理さんに言ってみた。
結花理さんは……答えなかった。答えてくれなかった。黙ったまま、うつむいてしまった。
結花理さんの分のアイスコーヒーが運ばれてきた。
結花理さんは……コーヒーを飲むのだろうか。もし、結花理さんが吸血鬼なら……
店内にはクラッシックの音楽が流れていた。
結花理さんはアイスコーヒーに手を付けようとしなかった。
それなら……
結花理さんが何も話してくれないのは想定内だ。
僕は、最後の手段としてある行動を考えていた。
僕はそれを実行に移すことにした。
カバンから、安全ピンを取り出した。家から持ってきた物だ。
針のカバーを外した。
左腕を前に突き出して、手の甲を上に向けた。
結花理さんが肘に口づけしてくれたのと、同じ腕。
その、肘と手首の真ん中あたり。そこに、安全ピンの針を刺した。
そこから血が溢れてきた。真っ赤な血が、粒のようになって。
僕はその腕を結花理さんに向かって差し出した。
少しの沈黙があった。
じっと僕の腕を見つめていた結花理さんが目を閉じた。
結花理さんがうつむいた。ガクリと首を落とすように、うつむいた。
再び顔を上げた結花理さんが、目を開いた。
その目には涙が溢れていた。
結花理さんが言った。
「私を……試してるの?」
その言葉が、僕の胸に突き刺さった。杭のように。
僕は……僕はいったい、何をしてるんだ? 何をしようとしてるんだ?
結花理さんがまた目を閉じた。
結花理さんが言った。絞り出すような声で、言った。
「やめて……そんなこと……やめて……」
僕は、何も返せなかった。左腕をテーブルに投げ出したまま、ただ固まっていた。
結花理さんが続けた。
「……私を、試さないで」
3辺の長さを次の①~③とした場合、三角形が成立しない組み合わせはどれか。
①1,1,1
②1,2,3
③2,3,4
答え。
②1,2,3
三角形ができるためには2辺の長さの和が残る1辺の長さより長くならなければならない。
①が三角形になることはすぐにわかるだろう。言うまでもなく正三角形だ。
③はどうだろう。一番長い辺の長さは4だ。残りの2辺の長さの和は2+3=5。
2+3>4が成り立つ。よってこの場合は三角形が成立する。
②はというと、一番長い辺の長さは3。残りの2辺の長さの和は1+2=3。
3=3で、1+2>3とはならない。よってこの場合は三角形にならない。
この比で三角形を描こうとすると三つの頂点は一直線上に並んでしまう。
さて、僕がどうして三角形の成立条件について考えているかというと、僕と結花理さん、それにクラスメイトの新也との関係がいわゆる三角関係になるのではないかと思っているからだ。
公園で、結花理さんは僕の肘の傷を舐めてくれた。いや、口づけをしてくれた。
僕は戸惑った。
あの後、どうしていいかわからなかった。それでも。
結花理さんをこのまま返しちゃいけない。結花理さんと何か話さないといけない。そう思った。
傷口に口づけしてくれたことはともかくとして、その前の会話を思い返した。
「もしよかったら、少しお茶でも……せっかくですから……」
僕は結花理さんにそう言っていた。その続きだ。
「あ……じゃ、そうだ、そこのショッピングセンターにフードコートがあるから……」
言ってみた。
結花理さんは、黙ってうなづいてくれた。
公園の向かい側にあるショッピングセンターのフードコートのテーブルで結花理さんと向き合った。
僕はアイスコーヒーを飲んだけど、結花理さんは何も飲まなかった。
何か話さなければいけないと思った。
と言っても、何を話していいかわからなかった。
で、僕はまず、自分のこと、そう、自分の因数について話した。
結花理さんと同じクラスになって3ヶ月。今さらながら自己紹介だ。
僕、西門甲斐は……そうだった、僕にはたいした因数がない。
男子で、高2で……そんなことはもうわかっている。
「父親は医者で開業医をしていて……僕は一人息子だから父親の医院を継がなければならくて、だから医学部に行かなければならないんだけど、僕は勉強が嫌いで……」
そんなことを話した。
次は……続かない。
……そうだ。数学。
「この前の美術の時間、先生が、『画用紙には裏と表があるのにクラスの半分が裏面を使っている。半分の人が画用紙の裏と表をわかっていない』って言ってたよね。あれ、違うよね。裏表がわからなくて、アトランダムにどちらかを使っても確率的に半分は表を使うことになるよね。裏と表を使った人が半分ずつだったということは、全員がアトランダムの裏表を選択したということで、つまり僕たちのクラスには画用紙の裏表を知ってる人が一人もいなかったということで……」
結花理さんは向かいの席に座ったまま黙って僕の話を聞いていた。
結花理さんはマスクを外さなかった。だから結花理さんの表情はわからなかった。僕の話を楽しんでいるのか、退屈しているのか。
「もちろん僕も画用紙の裏表なんてわからなかったけど。結花理さんは知ってた?」
結花理さん、て言ってみた。言っただけで、僕の胸が高鳴った。
結花理さんは小さく首を横に振った。
「だよね……」
それから……話題が見つからなくなった。
数学の話ならできたけど、難しい例題の話をしても結花理さんは楽しくないだろうと思った。
改めて結花理さんの姿を見た。見つめた。
結花理さんは真っ直ぐに背筋を伸ばして座っていた。僕がいつも後ろから見ていたあの姿勢で。そう、あの凛とした姿勢で。
あの後姿を、僕は今正面から見ている。それも、こんな近くで。
でも……結花理さんの視線は僕の顔にはなかった。顔より少し下……結花理さんはどこを見ているのだろう……
急に……怖くなった。いや、怖いのとはちがう。なんて言うか……こうして、いつまでも結花理さんと二人でいてはいけない。そんな気がした。
「そろそろ……帰ろうか」
僕が言うと、結花理さんは小さくうなずいた。
「あの……また会ってくれるかな?」
そう言ってみた。結花理さんは、少し間を置いてから、また小さくうなずいた。うなずいてくれた。
「あの……LINE交換してもらえないかな……」
言ってみた。
結花理さんは少し考えてから、持っていたバッグからスマホを取り出した。
LINEの設定画面を開いてテーブルの中央に差し出してくれた。
僕は自分のスマホで結花理さんのアカウントを写し撮った。
駅の改札前で結花理さんと別れた。結花理さんがどこに住んでいるか知らなかったけど、電車も一緒だったらかえって気まずいと思った。
「あの、また……」
言いかけたけど、結花理さんは僕を見ないまま、ホームへ続く階段の方へ歩いて行ってしまった。
僕はその後姿を見送った。階段を登る結花理の姿が見えなくなるまで。いつものあの、凛とした後姿を。
あれからずっと、僕は結花理さんのことを考えていた。
嬉しかった。素直に嬉しかった。結花理さんが、また会ってくれると言ってくれたこと。
いや、言ってはくれなかった。でもその意志表示をしてくれた。そして僕とLINEを交換してくれた。
でも……
いくつかの疑問があった。
疑問その1。
なぜ結花理さんがあそこにいたのか、ということ。
加志摩美羅たちが話しているのを聞いた。新也が会いたがっているという嘘で結花理さんを騙そうとしていた。
僕は、結花理さんはそんな誘いには乗らないと思っていた。でも……
結花理さんは公園にいた。新也に会いに、公園まで来ていた。ということは……
結花理さんは新也のことが好きなのでは……
それなら、もしそうなら、結花理さんを好きな僕と、新也を好きな結花理さんは三角関係ということになる。
それで僕は、三角形の成立要件について考えていたのだ。
三角形が成り立つためには2辺の長さの和が残る1辺の長さより長くならなければならない。
僕と結花理さん、結花理さんと新也を2辺とすると、残る1辺は僕と新也、ということになる。
ところが僕と新也の間には、同じ高校の同じクラスという以外にまったく接点がない。僕は新也とは話したことがない。これでは三角形が作れない。三角関係が成り立たない。
それなら……そう、僕と結花理さんと新也を一直線上の点としよう。さっきの設問の②の形だ。
結花理さんの位置を0とする。新也の位置は……そう、例えば5としよう。
すると僕の位置は、結花理さんの位置、0を挟んで新也君とは反対方向にある。
え? ということは僕はマイナスの位置にいる?
まあいい。ここでは正負の方向は考えないことにしよう。大事なのは結花理さんとの距離、つまりその絶対値だ。
仮に僕の位置を−5とする。僕の位置の絶対値は|5|。新也の位置、+5の絶対値も|5|。同じだ。
でも今僕のいる位置は新也君のいる位置よりも結花理さんに近い。絶対に。自信を持って言える。
結花理さんは僕とまた会ってくれると意志表示してくれた。LINEも交換してくれた。例え結花理さんはが新也に好意を持っていたとしても、新也とはそんなことはしていない、はずだ。
そう、それなら僕の位置は、「−4」か、「−3」。そのあたりだ。
それに……それだけじゃない。
結花理さんは僕に……僕が駅の階段で転んだ時に作った僕の肘の傷に……口づけしてくれた。
好きでもない、ただのクラスメイトにそんなことするはずない。
それなら……僕の位置は、「−2」か、「−1」。
でも……
そう、疑問その2。
結花理さんは、なぜ僕の傷口に口づけをしてくれたのか、ということ。
傷口が痛々しかったからかもしれない。唾液に消毒の効果があるという話を聞いたこともある。
僕に好意を持っていたから……僕のことが嫌いじゃないから……
単純にそう思いたい。でも……
結花理さんはあの時、僕に「目をつぶって」と言った。でも僕は、結花理さんが傷口に口づけしてくれた瞬間、驚いて目を開けてしまった。
一瞬だった。だから、僕の見間違い、目の錯覚だったかもしれない。でも……
牙が見えた。口から生える、2本の牙が。
結花理さんには、牙があった。もしあれが僕の見間違いでないとしたら……
それに……公園の入り口に立っていた結花理さんに僕が話し掛けた時、結花理さんが言った言葉は……
「血が欲しい」「血が吸いたい」
あれも僕の聞き違いだったかもしれない。でも、もしそうでなかったら……
結花理さんは、傷口に口づけしたかったのではなく、血を、傷口から出ていた僕の血を舐めたかったのではないか……
そんな疑問が僕の頭から離れない。
疑問その3。
僕と一緒にいる間ずっと、結花理さんはマスクを外さなかった。僕の傷口に口づけをしてくれた、あの一瞬を除いて。
昨日だけじゃない。学校でも、ここのところずっと、結花理さんはマスクをしている。マスクを外さない。
結花理さんはなぜ、ずっとマスクをしているのか。
花粉症かもしれない。でも結花理さんがマスクをし始めたのは最近になってだ。最近になってから花粉症を発症したのか。
感染症予防かもしれない。夏でもコロナやインフルが流行することはあるし、予防のためにマスクをしている人も多い。
でも……
もしかしたら、口元を人に見られたくないからでは……口から生えている牙を、見られたくないからでは……
だとしたら……
牙があって、人の血を欲しがる存在……
吸血鬼。
結花理さんは、吸血鬼で……
そんなはずない。結花理さんが吸血鬼であるはずない。
でも……もし、そうだとしたら……
結花理さんの因数を考えた。
蘇井結花理=(女子)(高校2年生)そして……(美人)(凛としている)(無口)……あとは……わからない。僕は結花理さんのことを、知らない。
わからないということは……(ミステリアス)
そして今、新たな因数が加わろうとしている。結花理さんは、(吸血鬼)。
待て。そもそも吸血鬼なんていう存在が実際にいるのだろうか。
数学の世界では実在しない数を虚数と呼ぶ。
(―1)×(―1)=1。
マイナスをかけるということは反対方向を向かせるということだ。もともとマイナスだった数字にマイナスをかければプラスになる。しかし数学の世界ではマイナスにマイナスをかけてもマイナスになる数も存在する。それが虚数だ。
いや、実際に存在しているわけではない。あくまで数学上の概念だ。言ってみれば、想像上の数字であって、その数値が目に見える物ではない。
僕は、吸血鬼という存在も概念、つまり想像上の存在だと思っていた。でももしそれが存在するとしたら……それを確かめるには……
実数を当てはめてみる。実数を当てはめて、その数式が成り立つかどうか確かめてみる。
つまり……
もう一度、結花理さんに会って、確かめる。
そして……その疑問の解答を得ることができれば、それは僕の二つ目の疑問、僕の肘の傷に口づけをしてくれたのは、僕への好意に表れなのかどうかということの解答にもなる。
その解答は、一つ目の疑問、結花理さんが新也君をどう思っているのか、結花理さんと僕、結花理さんと新也君との距離についての解答にもなる。
結花理さんにLINEを打った。
『明日の放課後、会ってもらえませんか?』
すぐに回答が来た。
一言だけ、短いメッセージが表示されていた。
『はい』
翌日。月曜日。
朝、教室に入るとすぐに僕は4人の男女に取り囲まれた。加志摩美羅と、その取り巻き? あの、ファミレスにいた4人組だ。
「西門さあ、この前の土曜、蘇井と二人でいたよな?」
男子の一人がいきなり言ってきた。あいさつもせずに。
そうか……彼らはずっと結花理さんを見ていた。当然僕が結花理さんと会っていたことも知っている。
「あれ、そうだっけ?」
そう答えた。僕もあいさつはしなかった。
「おかげで俺たちの計画が台無しじゃねえか」
「計画? なんのこと?」
とぼけて聞き返してみた。
「……それはいいよ」
加志摩美羅……
美羅が、男子の肩に手を置いた。
美羅が前に進み出てきた。
「あんたさあ、結花理とどういう関係? 付き合ってるの?」
僕を睨みつけていた。
「いや別に……たまたま見かけたから話し掛けただけだけど」
まさか……結花理さんが僕の肘に口づけしてくれたところは見られてないだろう……公園の中の木の陰だったし。
「本当か?」
また男子が言ってきた。
その時。
結花理さんが教室に入ってきた。
結花理さんは……何も言わずに自分の席に着いた。
僕のことは……まったく見なかった。美羅たちのことも。見向きもしなかった。
すぐ後から新也が教室に入ってきた。同じサッカー部員のクラスメイトと話しながら。
「あそこはお前が中に入れよ。俺が裏に走るから……」
「いや、俺じゃ決めきれない。やっぱ新也が中に……」
サッカーの戦術の話に夢中だ。大きな声が僕の耳にも聞こえてきた。
それを見た美羅たちも僕から離れて自分の席へ向かった。
結花理さんは新也のことも見なかった。見ようとしなかった。
学校にいる間も、結花理さんはいつもと変わらなかった。ずっとマスクを着けたまま、誰とも話さない。
授業が終わった。
僕はさっさと教室を出た。また美羅たちに絡まれる前にと思って。
すぐに結花理さんにLINEした。
『結花理さんの家の近くで静かに話せる場所はないですか?』
学校のある駅の周辺、公園やショッピングセンター、反対側のファミレスやハンバーガーショップではまた美羅たちに見られてしまうと思った。
すぐに結花理さんから返信が来た。駅名とその駅前にあるカフェの店名だけが書いてあった。
僕は真っ直ぐにそこへ向かった。
カフェに着いた。アンティークな椅子やテーブルが並んだクラッシックな感じの店だ。二人連れだと言うと店員さんが一番奥のテーブル席に案内してくれた。僕はアイスコーヒーを注文した。
入り口の扉に付いた鈴の音がした。結花理さんが店に入ってきた。僕は手を上げて結花理さんに合図した。
結花理さんが僕の前に座った。マスクはしたままだ。
「無理言って、ごめん」
僕が言うと結花理さんは小さくうなずいた。
店員さんが注文を聞きに来た。
僕の前に置かれたアイスコーヒーを見て、結花理さんは「同じ物を」と小さな声で言った。
さて……ここからだ。
僕は……何を話せばいい? 結花理さんに、何を訊けばいい?
結花理さんは、吸血鬼ですか?
そんなこと訊けない。訊けるわけない。訊いたとしても、きっと答えてくれない。
結花理さんは僕のことをどう思ってますか?
いきなり?
結花理さんは新也のことをどう思ってますか?
これも同じだ。
それなら……
結花理さんは昨日、どうして公園にいたのですか?
これなら……
僕はその通りのことを結花理さんに言ってみた。
結花理さんは……答えなかった。答えてくれなかった。黙ったまま、うつむいてしまった。
結花理さんの分のアイスコーヒーが運ばれてきた。
結花理さんは……コーヒーを飲むのだろうか。もし、結花理さんが吸血鬼なら……
店内にはクラッシックの音楽が流れていた。
結花理さんはアイスコーヒーに手を付けようとしなかった。
それなら……
結花理さんが何も話してくれないのは想定内だ。
僕は、最後の手段としてある行動を考えていた。
僕はそれを実行に移すことにした。
カバンから、安全ピンを取り出した。家から持ってきた物だ。
針のカバーを外した。
左腕を前に突き出して、手の甲を上に向けた。
結花理さんが肘に口づけしてくれたのと、同じ腕。
その、肘と手首の真ん中あたり。そこに、安全ピンの針を刺した。
そこから血が溢れてきた。真っ赤な血が、粒のようになって。
僕はその腕を結花理さんに向かって差し出した。
少しの沈黙があった。
じっと僕の腕を見つめていた結花理さんが目を閉じた。
結花理さんがうつむいた。ガクリと首を落とすように、うつむいた。
再び顔を上げた結花理さんが、目を開いた。
その目には涙が溢れていた。
結花理さんが言った。
「私を……試してるの?」
その言葉が、僕の胸に突き刺さった。杭のように。
僕は……僕はいったい、何をしてるんだ? 何をしようとしてるんだ?
結花理さんがまた目を閉じた。
結花理さんが言った。絞り出すような声で、言った。
「やめて……そんなこと……やめて……」
僕は、何も返せなかった。左腕をテーブルに投げ出したまま、ただ固まっていた。
結花理さんが続けた。
「……私を、試さないで」



