君が(私が)吸血鬼でも

 繰り返し何度も見る夢があった。
 夢の中で私は5歳の幼女だった。
 私はお父さんに手を引かれて緩い坂道を登っていた。
 坂を登りきると、そこに高い塔があった。
 四角くて、白い壁に囲まれた塔。塔というより、それはビルだった。

 お父さんに手を引かれたまま、私はその塔の中に入った。
 塔の入り口は透明なガラスでできた自動ドアだった。塔というより、やっぱりビルだ。
 中には階段があった。階段も白かった。真っ白だった。
 お父さんが階段を登り始めた。
 お父さんを追って私も階段を登った。
 幼い私は一段ごとに両足を揃えながら登らなければならなかった。
 お父さんは少し上の段で私を待っていてくれた。
 お父さんと私は、少しずつ、その階段を登った。
 階段はどこまでも続いていた。
 どこまでも、どこまでも。

 私はお父さん聞いた。

「この上に、お母さんがいるの?」
「そうだよ」
 お父さんはそう答えた。
「どこまで登るの? 結花理、つかれちゃったよ」
「もう少しだよ。もう少しでお母さんに会えるからね。がんばるんだよ、結花理」

 そうやって私たちは、どこまでも、いつまでも、階段を登り続けていた……

 それだけの夢だった。
 そこがどこなのか、その塔、ビルが何なのか、わからなかった。

 4年前、中学に入学して間もない頃、私はその夢の塔がどこなのか、何なのか、知った。
 授業中、教室に教頭先生が来て、私を呼んだ。
 お父さんが仕事中に倒れ、緊急入院したとのことだった。
 タクシーを呼んでもらい、病院へ向かった。教頭先生が病院まで同乗してくれた。
 タクシーを降りて、その病院の建物を見上げた。
 私はつぶやいていた。

「ああ……ここだったんだ……」

 四角くて、白い壁に囲まれた塔。
 大学病院。とても大きな病院だった。

 思い出した。幼い頃の記憶。
 私のお母さんはその病院に入院していた。
 幼かった私はお父さんに連れられて、その病院に来ていた。お母さんに会いに来ていた。
 何度も。お父さんに手を引かれて。

 私が5歳の時、お母さんは亡くなった。その病院で。
 その頃の記憶が私の中に残っていて、それが夢となっていたのだ。

 私が11歳、小学校5年生の時、お父さんは再婚した。だから私の今の母は、本当の母ではない。
 それでも、その人は私を可愛がってくれた。優しくしてくれた。実の子のように私に接してくれた。

 そしてお父さんは……その病院で、そのまま亡くなった。
 私はお父さんが再婚した人と二人で暮らすことになった。
 お父さんがいなくなった後も、その人は優しかった。優しくしてくれた。でも……それでも。

 私は人に心を許すことができなくなった。
 心を許して、仲良くなって、その人を愛して、またその人がいなくなったら……その人を失ったら……
 怖かった。だから、高校に入学しても友だちは作らなかった。作らないようにした。
 2年生になって、クラスが変わっても、同じ。
 大丈夫。こうやって私は、一人で生きて行く。それでも、大丈夫だから。

 なのに。それなのに。

 種を残すための生物としての本能なのだろうか。それとも自分自身の安全を確保するために身に着けた叡知なのだろうか。
 人は人を好きになる。愛してしまう。
 私も……人を好きになった。愛してしまった。
 相手は……阪堂新也。
 クラスメイト。高2になって同じクラスになった。
 サッカー部で、背が高くて、溌剌としていて、クラスの人気者。
 そんな認識はあった。でも……私には関係ない。そう思っていた。

 6月の終り。
 朝、登校中に後ろから声を掛けられた。
「これ、落としたよ!」
 そう言いながら、歩いていた私の横からスカーフを差し出して来た。
 私は女子高生たちがよくしているみたいにスクールバッグに人形やぬいぐるみを付けたりしない。
 その代わりに水色のスカーフを縛り付けていた。
 そのスカーフが歩いているうちに解けてしまったのだ。

 新也が続けた。
「スカーフって、いいね! ごちゃごちゃ色んな物付けるより、俺、好きだよ!」
 そんなこと、言われたことなかった。
 嬉しい……そう感じた。
「そんな初対面みたいな顔しないでよ。同じクラスなんだから」
 そう言って、笑った。その笑顔が、眩しかった。
 新也はそのまま速足で歩いて行ってしまった。
 その一瞬で、私は自覚した。私は、恋に落ちてしまった。
 でも……

 私は彼氏なんか作らない。友達も作らない。

 声を掛けられた日、教室でも新也に話し掛けられた。
 答えなかった。返事もしなかった。それっきり、新也は私に話しかけてこない。
 そう。それでいい。
 なのに……それなのに。

 眠れない。私はベッドから起き上がった。
 自分の部屋を出てベランダへ向かった。母親を起こさないように、音を出さないように気を付けながら。
 私の家はマンションの5階だった。ベランダへ出ると街の夜景と夜空が見えた。
 手すりに肘を突いて空を見上げた。
 まだ梅雨明け前。雨こそ降っていなかったが、空の大部分は雲に隠れていた。
 それでも雲の間にいくつかの星がまばらに光っているのが見えた。
 7月。もうじき七夕だ。
 七夕の星は……確か、アルタイルとベガ。どこにあるのか……わからない。知らない。
 代わりに月を探した。やっぱり見つからない。
 
 私はため息を吐いた。
 新也のことが、気になる。気になって仕方ない。新也が……忘れられない。
 どうすれば、新也のことを忘れられるだろう。考えないでいられるだろう……

 思い切って、告白してみようか。
 そこで振られてしまえば、もう新也のことを考えないでいられるようになるかもしれない。
 だめだ。また大切な物を失うことになる。あの時の悲しみが蘇って来るに決まってる。それに……
 もしも、新也が受け入れてくれたら。新也と付き合うことになったら……
 私は幸せだろうか。
 だめだ。きっと、毎日新也を失うことを恐れながら生きて行くことになる。
 そして実際に、いつかは新也を失うことになる。その時の悲しみは、きっとまた大きくて……
 
 何かが動く気配がした。ベランダの、手すりの下の方……
 下に、何かいる? そんなはずはない。ここはマンションの5階だ。
 私は身を乗り出して下を覗いてみた。
 やっぱり、何もない。誰もいない。
 私はまた空を見上げた。さっきは見えなかった月が見えた。
 満月が少し欠けた形。赤く光っていた。なぜか……血の色を思い出した。

 その時。
 匂いがした。甘い……匂い。
 この匂いは……桜? でも……桜の季節はとっくに終わっている。 
 匂いが強くなった。ツンとする。
 その匂いに……変な匂いが混ざった。少し嫌な臭い。
 ……犬? 獣?
 急に……眠くなった。意識が遠のいた。
 いつの間にか私は……その場で眠り込んでいた。

 夢を見ていた。
 私はまたあの白い塔、病院の前にいた。私は5歳の幼女ではなく、今、16歳の私だった。
 そして私と手を繋いでくれているのは……お父さんではなく、新也だった。

「行こう」
 新也が言った。
 私たちは病院の入り口に向かって歩き始めた。

 なぜか……怖かった。行きたくなかった。
「いや! 行かない!」
 私は叫んだ。
 新也が私を振り向いた。そして笑った。あの眩しい笑顔で。
 新也の口元に、歯……牙のような、鋭い二本の歯が見えた。
 新也が私と繋いでいた手を持ち上げた。
 突然。新也が私の手の甲に咬みついた。
 キス、ではない。咬みついたのだ。
「やめて!」
 私は叫んでいた。
 新也はそのまま私の手から、血を……私の血を吸い始めた。
「やめて!」
 もう一度叫んだ。でも新也はやめなかった。
 新也は、私の血を吸い続けていた……

「結花理さん! 結花理さん!」
 大きな声で私を呼ぶ声が聞こえた。肩を揺さぶられた。
 私は目を開けた。
 母だった。母が、倒れている私の身体を揺すりながら呼んでいた。

「こんなところで寝ていたら風邪ひくわよ!」
 私は起き上がった。
 ベランダだった。夜空を見ていた、家のベランダだった。
 いつの間にか私はベランダで寝込んでいたのだ。
「……ごめんなさい」
 私は立ち上がった。
「どうしたの? こんな時間に……」
 母が言った。
「眠れなくて……」
 答えながらベランダから部屋の中に入った。
 右手の甲に軽い痛みがあることに気付いた。
 右手を見た。甲に二か所、小さな傷跡があった。
 何かを突き刺したような傷跡。そこからわずかに血が滲んでいた。
 先ほどの夢を思い出した。
 まさか……
 きっと虫に刺されたのだ。そう思った。
「どうしたの?」
 母が訊いてきた。
「何でもない。ちょっと、虫に刺されただけ」
 そう答えた。
 薬箱を取り出して、傷跡を消毒してバンソコウを貼った。
 母は心配そうな顔で見ていてくれた。
「起こしちゃってごめんなさい。もう大丈夫だから」
 そう言って自分の部屋に向かった。
「おやすみなさい」
 もう一度母の顔を見て、部屋のドアを締めた。
「……おやすみ」
 母の声が小さく聞こえた。

 異変が始まったのは、その次の日からだった。
 母が用意してくれた朝食を……食べられなかった。
 トースト、ハムとサラダ。
 食欲がない……わけではなかった。お腹は減っていた。
 いつもと同じように、まず、レタスを口に入れた。
 その瞬間、吐き気がした。レタスを吐き出していた。
 母はすでに朝食を済ませて自分の部屋で出勤の支度をしていた。
 だから私がレタスを吐き出したところは母には見られなかった。
 小さくちぎったトーストを口に入れてみた。
 吐き気こそしなかったが、少しも美味しくなかった。
 牛乳を飲んで胃に流し込んだ。
 また吐き気がした。我慢した。
 ハム。ハムだけは食べられるような気がした。
 口に入れてみた。美味しくはなかったけど、何とか食べられた。
 そこまでだった。それ以上、食べ進めることはできなかった。
「ごめんなさい……食べられない」
 ダイニングに入って来た母に謝った。
「大丈夫? 熱でもあるんじゃない?」
 母が言ってくれた。
 体温計で熱を測った。熱はなかった。
「学校、行ける? 無理しないでいいよ」
 母が言った。
「……大丈夫。行って来る」
 そう答えた。

 学校にいる間はいつもと変りなく過ごすことができた。
 いつものように、授業にも集中できた。教室の後ろの方にいる新也のことが気になりながら……
 ただ、昼食は食べられなかった。
 昼食はいつも購買でサンドイッチやおにぎりを買って食べていた。
 入学当初は母がお弁当を作ってくれていた。
 出勤前の忙しい時間に母の仕事を増やすのは申し訳ないと思い、自分で購買で買うことにした。
 自分で作ると言う選択肢もあったけど、元々小食だったのでそこまでする必要はないと思った。

 家に帰り、机に向かってひとしきり授業の復習をした後、キッチンに行って冷蔵庫を開けてみた。夕食の材料を確認するためだ。
 お弁当作りは無くなったけど、朝晩の食事は母が作ってくれていた。
 私も自分でできることはなるべくするようにしていた。
 でも……今朝は、野菜が食べられなかった。パンやハムも食べたくなかった。
 夕食は……食べられるだろうか。
 考えていると、母からLINEが入った。
『大丈夫? 夕飯は食べられる? 食べたい物があったら買って帰るよ』
 そうあった。ありがたかった。
 私のことを心配してくれている……その気持ちはうれしかった。
 でも……そう言われるとかえって悩んでしまう。
 何か……リクエストしないと……

 考えた。一つだけ、食べられそうな物を思い付いた。
『お刺し身なら。マグロのお刺し身なら食べられるかもしれない』
 そう打ってみた。またすぐに返事が来た。
『わかった。買って帰るから、待ってて』
 母は、そう返してくれた。

 外が暗くなってから、母が帰宅した。マグロのお刺し身を買って来てくれた。
 そのマグロは食べることができた。醤油もワサビもつけず、そのまま食べた。
 美味しい、と感じたわけではなかった。でも食べられた。
 私が炊いておいたお米のご飯は……食べることができなかった。
 マグロだけ、そのまま食べた。

「大丈夫? お医者さんに診てもらった方がいいんじゃないの?」
 白米に手を付けない私を見て母が言った。
「いや! 絶対いや! 病院へは行かない!」
 思わず大きな声が出ていた。
 しまった……
「……ごめんなさい」
 すぐに謝った。
 でも……病院へは行きたくなかった。絶対に、行きたくなかった。
 あの日のこと……あの夢のこと……お父さんのこと……お母さんのこと……
 思い出したくなかった。
 母もそのことはわかっていた。
「いいのよ……でも、あなたの身体が心配だから……」
「うん……ありがとう」
 それだけ言って、私は食卓から立ち上がった。

 次の日も、朝食も昼食も食べられなかった。
 夕食には母がまたマグロのお刺し身を買って来てくれた。それだけ食べた。
 その次の日も同じだった。朝昼は食べられなかった。
 母は何も言わなかった。何を言えばいいのか、私になんて話しかければいいのかわからないのだろう。
 ただその表情から、私を心配してくれていることは伝わってきた。十分すぎるくらいに。
 母に迷惑をかけている……その思いがますます私を落ち込ませた。

 学校生活は普段と変わらなかった。
 元々私には友達がいない。クラスでは誰とも話さない。
 だから、休み時間も、昼休みも、私が自分の席に座ってうつむいていても、誰も話しかけて来ない。誰も、私のことを気にしない。

 学校帰り。校門を出たところで後ろから声を掛けられた。
 男子。新也……ではない。確か同じクラスの男子だ。名前は……思い出せない。
「俺と付き合ってもらえませんか……」
 そんなようなことを言われた、ような気がした。
 その後も何か言っていたようだったけど……私の耳には入ってこなかった。
 男子と付き合う。そんなことを考える余裕はなかったし、そもそもそういうことはしないと決めていた。
 新也……
 一瞬だけ、新也のことが頭をかすめた。すぐに振り払った。
 目の前の男子に何か言わないと。言ってあげないと。そう思った。
「ごめんなさい」
 そう答えた。この言葉を何回言っているだろう……そう思いながら。
 いつの間にか、その男子は私の目の前からいなくなっていた。
 私はそのまま駅に向かった。

 電車の中。
 私は空いていた席に座り、目を閉じた。
 今日も……何も食べたくない。今日も母にマグロを買って来てもらうことになるのだろうか。
 私は……私はいったいどうなってしまったのだろう。

 前に人が立つ気配がして、目を開けた。
 目の前に女の人が立っていた。
 母……であるはずはない。でも……
 上目遣いにその顔を見た。
 真っ赤な唇が見えた。血のような、赤。もちろん口紅の色だ。
 その瞬間。私の中にある思いが走った。

 吸いたい……あの唇を、吸いたい……
 キスがしたい、のではない。
 赤を、あの赤い唇を吸いたいのだ。
 私はその女の人の顔から目を逸らそうとした。
 吊り革を掴む右手が目に入った。その手の指先。
 そこにも、赤があった。真っ赤な血の赤。マニュキュアだ。真っ赤なマニュキュア。
 吸いたい……あの指を吸いたい。あの指に、噛みつきたい。
 私は目を閉じた。
 この気持ちは何だろう。私は何を考えているのだろう。
 ぎゅっと目をつぶって、開けないようにした。
 その女の人を、その唇を、指先を、その赤を、見ないようにした。

 私が降りる駅に着いたことを知らせるアナウンスが聞こえた。
 私は立ち上がり、ドアに向かって走った。女の人を見ないようにして。
 そのまま改札を抜け、走った。家まで、私の部屋があるマンションまで走った。
 家に着くとそのままベッドに倒れ込んだ。
 息が上がっていた。
 横になったまま、息が整うのを待った。
 その間も、赤が、あの赤が忘れられなかった。赤い唇を、指先を思い出していた。
 あの赤を……血を、赤い血を、吸いたい。そう思っていた。

 私は起き上がった。
 クローゼットを開けて奥から裁縫箱を取り出した。
 机の上に置いた。
 中に針山があった。細い針を一本、針山から抜き取った。
 一度深呼吸した。それから……その針を、左手の人差し指の先の方、指の腹側に突き刺した。
 チクリ。
 痛みが走った。そこから……丸い粒になって、血が溢れて来た。赤い、真っ赤な血が。
 その指を、口に入れた。しょっぱい、鉄臭い味がした。
 美味しかった。
 そのまま指を、そこから出ている血を吸った。血が出なくなるまで、血の味がしなくなるまで、私は自分の指を吸い続けた。

 母には『今日はお刺し身はいらない』とメッセージを送った。
 母が帰宅しても部屋から出なかった。
「大丈夫?」
 母が部屋のドアの向こうから声を掛けてくれた。
「大丈夫」
 部屋の中から返事だけした。
 何も食べないまま、ベッドに入った。
 満足は……できなかった。
 マグロを食べた時も満腹したわけではなかったし、美味しいと感じたわけではなかった。 
 マグロに比べれば多少の満足感はあった、ような気がした。
 でも、足りない。もっと欲しい。もっと、血が吸いたい。
 ベッドから起き上がり、左手の人差し指、針を刺した跡に張っておいたバンソコウを剥がした。
 血の跡はきれいになくなっていた。ベッドから出て、机に座り直した。
 左手の人差し指。そこにもう一度、針を刺した。
 もう一度、自分の血を吸った。
 新しいバンソコウを貼り直してからベッドに入り、目を閉じた。
 ようやく、眠気が私を包み込んでくれた。

 次の日の朝。
 自分の部屋から出て洗面所へ向かった。母はキッチンで朝食の用意をしている。
 ここのところ私は朝食を食べていない。にもかかわらず、母は毎日私の分の朝食も準備してくれていた。
 今日もきっと……

 洗面所で顔を洗い、歯を磨こうとした。昨夜吸った自分の血の味を思い出した。
 歯ブラシを口に入れた。
 歯ブラシが何かに当たった。
 鏡を見た。鏡に映る自分の顔。唇を上げてみた。
 八重歯……があった。
 歯並びは良かった、はずだ。八重歯なんてなかった、はずだ。でも、八重歯、つまり犬歯が、長くなっている。
 まさか……そんな……一晩で歯が伸びるなんて……
 鏡に口元を近づけた。指で犬歯を触ってみた。
 確かに……長くなっている。しかも、その先端が、鋭く、尖っている……
 反対側の犬歯も確かめた。同じように、長く、鋭くなっている。
 鏡から少し離れて自分の顔を見直した。
 歯を剥いてみた。
 牙。それは、牙だった。
 まるで……鬼。こんな顔、母に見せられない。
 部屋に戻って買い置いてあったマスクをした。
 マスクをすれば口元を隠すことができる。

 ダイニングに入ると母がテーブルに皿を並べていた。
 マスクをした私をみて訊いてきた。
「風邪? 大丈夫? 熱は?」
「大丈夫」
 いつもと同じようにそう答えた。マスクをしたまま。
「ごめんなさい……今日も食べられない」
 そう言って、そのまま家を出た。

 学校にいる間もマスクは外さなかった。ずっと。
 外せない。顔を見られたくない。
 やっぱり、新也のことは気になった。
 マスクをしている私をどう思うだろう。どう見えるだろう。
 でも……新也が私に話かけてくることはなかった。私を見向きもしなかった。
 それがかえってありがたかった。こんな顔してたら告白どころじゃない。

 家の帰るとすぐ、部屋でまた、自分の血を吸った。今度は左手の中指の先に針を刺した。
 母には、『夕飯は友だちと食べて来た』とメッセージを打った。嘘をついた。
 二日も続けて夕食を食べないとなると、今度こそ無理やりにでも病院へ連れて行かれるのではないかと思った。

 ベッドに寝転びながら、思った。
 牙があって、血を吸う存在。それは……吸血鬼。
 私は、吸血鬼。
「イヤ!」
 声に出していた。
 寝返りを打ってうつ伏せになった。
 でもなぜ……どうして私が吸血鬼に……
 吸血鬼の小説や漫画、映画はたくさんある。知っている吸血鬼の話を思い返す。
 その中では……吸血鬼に咬まれた者が、吸血鬼になる……
 私は、吸血鬼に咬まれた? でもいつ? どこで?
 ……そうだ、あの時。あの晩。ベランダで、気を失った時……
 母に起こされた時、私の右手の甲に小さな傷があった。二か所、虫に刺されたような傷が。
 あれは……吸血鬼に咬まれた跡? 気を失っている間に私は吸血鬼に咬まれた?
 あの時私は……夢を見ていた。夢の中で私は、新也と一緒にいた。新也は私に……キスをした。
 違う。キスではない。新也は私の手に咬みついたのだ。咬みついて、私の手から血を吸ったのだ。
 新也が吸血鬼? 違う。そんなはずない。あの新也が吸血鬼であるはずがない。

 スマホを開いて『吸血鬼』を検索してみた。
『人間の生血を栄養源とすることにより永遠に不老不死の身体を保つ』
 不老不死……死なないでいい、ていうこと?
『吸血鬼に血を吸われた人間も吸血鬼になる』
 やっぱり……そうだ。
『日光、十字架に弱い。日光に当たると灰になってしまう』
 それは……大丈夫だ。朝日に当たりながらでも学校へ行けてる。
『コウモリなどの動物に変身できる。高い身体能力を持つ』
 変身なんてできない。運動神経は……もともといい方じゃない。今も変わらない。
『催眠術を使い、人を惑わせる』
 そうだ。私はあの時きっと、術をかけられ、眠らされ、その間に血を吸われたのだ。
 それで私は……吸血鬼に……
『性格は残忍で冷酷。狂暴化することもある』
 残忍……狂暴……
「イヤ!」
 もう一度、声に出した。
 それ以上、読んでいられなかった。
 怖い……
 私は、吸血鬼になって行く……人間ではなくなって行く……
 怖かった。たまらなく、怖かった。

 次の日の朝も、私はマスクをしたまま母のいるダイニングへ入った。
 この日も母はテーブルに朝食を用意してくれていた。私が食べないとわかっていても。
「ごめんなさい……今日も食べられない」
 私の顔を見て母が言った。
「それなら無理にとは言わないけど……夕食は本当にちゃんと食べてるの? お刺し身しか食べられないなら、また買って来るよ」
 ……もし、お母さんの血を飲ませてって言ったら……お母さんは、私に血を飲ませてくれるだろうか……
 そんな考えが頭をよぎった。でも……言えなかった。口には出せなかった。
 母は友達とは違う。毎日顔を合わさなければならないし、言葉も交わされなければならない。
 だから母とは、失っても、いなくなっても、悲しまなくてすむ、あれほどまでには悲しまなくてすむ、そんな距離感でいたかった。 だから……
「大丈夫、食べてる。今日も食べてくる。ごめんなさい」
 そう言って、私は家を出た。

 学校ではまた、ずっとマスクを外さなかった。新也は……今日も私を見なかった。
 学校からの帰り道、また男子から声を掛けられた。この前とは違う男子だ。
 その人も同じクラス。でもやっぱり、名前はわからない。
 その人が言った。

「阪堂新也からの伝言なんだけど」
 新也? あの、新也?
「話したいことがあるんだって。で、二人で会いたって」
 新也が……私に話?
「次の土曜、午後1時に駅の東口の公園に来てくれって」
 次の……土曜。
「新也、あんたに気があるんじゃねえの?」
 私に……気がある……
「じゃ、伝えたからな。よろしく」
 それだけ言って、その男子は走って行ってしまった。
 新也が……私に話を……私に、気が……
 心の中で反復した。
 そんな……そんなこと……

 家に帰って、マスクを外して鏡を見た。
 牙。私の口には、今も確かに二本の牙があった。
 こんな顔、新也には見せられない………見られたくない……
 でも……
 こうなる前の私だったらどうするだろう?
 私は、誰とも親しくならない。彼氏なんか作らない。だけど……
 新也は……新也だったら……新也だけは……

 新也が私に気がある? もしも、新也が私のことを思ってくれているなら……
 新也になら今の私を見せられるかもしれない。私の悩みを、話せるかもしれない。
 もし新也が、血を吸わせてくれたら……私に、血を飲ませてくれたら……

 だめ。そんなことをしたら新也も吸血鬼になってしまうかもしれない。
 吸血鬼に血を吸われた者も吸血鬼になる。
 事実私も吸血鬼に咬まれて……
 でももし、同じ吸血鬼として、新也と過ごせたら……

 行って……みようか……
 まずは新也に……話してみようか……
 私の心は、新也に吸い寄せられていた。

 次の日。
 学校では、新也はそれまでと変わらなかった。
 私に話し掛けない。私を見ようともしない。
 私からは……話し掛けられない。
 土曜のことを……確かめられない。

 そしてその土曜日。
 私は前に母に買ってもらったレモン色のワンピースを着て家を出た。
 マスクは外せない。でも少しでも可愛く見られたい。そういう思いはあった。
 12時45分。駅の東口の公園に着いた。
 日差しがまぶしい。
 日焼けを気にしている余裕はない。
 吸血鬼は太陽の光に弱い。灰になって死んでしまう。
 私は日光に当たったからといって灰になることはなかった。でも眩しいものは眩しい。

 公園の入り口の両側には人の背の高さくらいの門柱があった。
 門柱のすぐ後ろに大きな銀杏の木があった。去年の秋にはきれいに紅葉していた。今は緑の葉を生い茂らせている。
 その銀杏の樹が、門柱の周りに日陰を作っていた。
 私はその日陰の中、門柱の前に立った。
 立ったまま、新也を待った。

 腕時計を時刻を見た。1時になった。
 新也は……来ない。
 太陽が動くのに合わせて銀杏の木の陰も動いた。それに合わせて私も少しずつ立つ位置を変えた。

 ……怖い。
 急に、怖くなった。
 新也が来ないことが怖かったんじゃなかった。
 新也に会うのが……怖くなった。
 会っても、ちゃんと話せるだろうか。この顔を見せられるだろうか。新也は、どう思うだろうか……

 1時15分。新也は、来ない。
 来ないかもしれない。来ない方が、いいかもしれない。
 帰ろうか……でも……
 喉が渇いた。熱さのせいだろうか。違う。そうじゃない。
 血が……血が吸いたい。血が欲しい。
 新也が会いたいと言っていると聞いた日から、自分の血は吸っていない。
 心の底で期待していたのかもしれない。
 今日になれば、新也の血が吸える。新也から、血をもらえる。
 そして新也は……私の仲間になってくれる……

 うつむいた。うつむいて自分の左手を見た。
 溶けていないか、灰になっていないか、確認した。
 だいじょうぶ。左手は、ちゃんとそこにある。
 指先を見ながら思った。
 こんなことなら、夕べも自分の血を吸っておけばよかった……

 突然、私の前に人が立った。私は顔を上げた。
 新也……ではなかった。
 新也の伝言を言いにきた男子でも、その前に私に付き合って欲しいと言ってきた男子でもなかった。
 でも見覚えはあった。この人も、私と同じクラスの男子。名前は……わからない。

 その男子が言った。
「新也は来ません! 結花理さんは騙されているんです!」
 ……新也は、来ない……やっぱり……
 私はまたうつむいた。
 落胆したのか、安心したのか自分でもわからなかった。

 その時。その男子の左腕が目に入った。
 左腕の、肘のあたりから血が流れていた。
 声に出ていた。思わず声に出していた。
「血が……血が欲しい」
「え? 今なんて……」
 男子が聞き返して来た。
 私はもう一度、声に出して言った。
「血が……血が吸いたい」

 眩しい光が目に入ってきた。太陽が移動して、銀杏の木が作っていた陰の位置を変えたのだろう。
 私は我に返った。

「ごめんなさい」
 慌ててそう言った。
「え……あ、いや、は、はい」
 なぜかその男子も慌てていた。
「あ、あの、僕のことわかりますか?」
 男子が続けた。
「……ごめんなさい」
 また謝った。
「同じクラスの、西門甲斐です」
 サイモン……カイ。そういえば、そんな名前をした男子がいたような……

「……あいつら、結花理さん、いえ、蘇井さんに振られた腹いせにって、嘘を言って蘇井さんを呼び出して、それを遠くから見ながら笑っていて……酷いですよね」
 その男子、西門甲斐という男子は続けていた。
 私には何のことだかわからなかった。ただ、その左腕だけを見ていた。そこから目が離せなかった。

 だめ……この人は、新也じゃない。
「……私、帰ります」
 そう言って私は駅の方へ歩き始めた。
「……待ってください!」
 呼び止められた。
「あの……もしよかったら、少しお茶でも……せっかくですから……」
 またあの左腕が目に入った。肘から流れていた血は乾いて固まりかけていた。
 彼の左手を手に取った。彼が目を見開いた。驚いた顔だ。
「……こっちへ」
 私は彼の手を引いたまま公園の入り口から門柱の反対側に回り込んだ。彼は驚いた表情のまま私に付いてきた。
 銀杏の木の真下。
 公園の中に人の姿は見当たらない。真夏の真昼、熱い日差しの元だ。
 ここなら……誰にも見られない。
 私は小さな声で言った。
「目をつぶって」
 見られたくは、なかった。彼は黙って目を閉じた。
 マスクを外した。
 彼の左腕を両腕で持ち上げて、左肘を目の前に持ってきた。
 固まりかけた血の跡があった。
 私はそこに……唇を付けた。
「え!」
 彼が声を上げて目を開けた。
「見ないで!」
 口を離して声を上げた。彼がまた目を閉じた。
 肘の傷跡にまた唇を付けた。
 そして私は、舌を出して、その傷跡を、舐めた。