リノリウムの廊下を早足で歩いた。
すれ違う看護師たちが会釈をしてくれる。私も会釈を返す。
思ったよりも時間がかかってしまった。
喘息の急患ということだったが、肺炎を起こしかけていた。
酸素吸入と点滴でなんとか落ち着いてくれた。
今日は入院してもらって、明日の朝また様子を診に来よう。
エレベーターに乗り、更衣室のある地階のボタンを押す。
エレベーターが途中の階で停まった。
男性の医師が乗り込んで来た。先輩だ。
「何階ですか?」
「4階で」
ドアの横の階数ボタンを押す。
「蘇井先生、今日は午前であがりでしたね。お疲れ様」
先輩医師が話しかけてきた。
「はい。お先に失礼させていただきます」
私はドアの方を向いたまま会釈した。
「昼食、いっしょにいかがですか?」
「すみません。急いでますので……」
顔を見ないまま答えた。
「そういえば、市中の医院の手伝いもされているんでしたよね。午後はそちらですか?」
「はい」
前を向いたまま答える。
「がんばりますね」
「……いえ」
エレベーターが停まった。4階だ。
「それじゃまた」
「失礼します」
ドアが閉まった。同時に息を吐いた。
先輩と話すのは緊張する。特に男性は苦手だ。でも……
ここで学ばなければならないことはまだまだたくさんある。
「がんばれ、結花理!」
自分で自分を励ます。
地階の更衣室で白衣から私服に着替えた。
職員専用の通路から外へ出て、駐車場へ。
車に乗り込む前に、一度振り返って、見上げてみる。
夏空を背にそびえる、高くて白い、塔。
今更ながら、思う。
まさか、ここで働くことになるなんて……
あれから、12年が経っていた。
私は今、普通の人間だ。吸血鬼ではない。
甲斐の……甲斐のお陰だ。
甲斐の血のお陰で、私は人間に戻れた。
甲斐が、命を懸けて、私を助けてくれた。
あの後、思った。
甲斐の思いに、誠意に、答えなくちゃいけない。
私は猛勉強した。そして大学の医学部に合格した。
私は……医者になった。
甲斐に助けられたのは私だけじゃない。
甲斐の血の、甲斐の血から作られた血液製剤のお陰でたくさんの吸血鬼たちが人間に戻れた。
あの虎倉も今では普通の人間だ。
あの後、虎倉は傷害と誘拐監禁の罪で逮捕された。
と言っても、虎倉は人間離れした身体能力の持ち主だった。
他の信者たちと教会に立てこもって、大事件になった、みたいだ。
テレビでも中継されたそうだけど、私は昏睡状態で入院中だったから見ていない。
あの毛むくじゃらの教祖がどうなったのかも……わからない。
逮捕された虎倉は他の信者とともに甲斐の血で治療され、人間に戻った。
車に乗り込んで自動運転をオンにした。行き先は登録してある。
時刻を確認した。午後の診療開始にはギリギリ間に合いそうだ。
車が走り出した。
車に搭載されたAIをスマホに同期させる。
『2件のメッセージが入っています』
車のスピーカーから声がした。
「再生して」
AIが話し始める。
『美羅です。忙しいと思うけど、またご飯しに行こうよ。時間できたら連絡して』
美羅。あの、加志摩美羅だ。
あの後、私の入院中に美羅がお見舞いに来てくれた。
美羅は私に謝ってくれた。私も美羅に謝った。
もともとそんなに悪い人じゃなかった。
あの頃はいろいろとストレスがあったみたいだ。
最初から壁を作っていたのは私の方だった。
私たちは打ち解け合い、仲良くなった。
卒業後も、時々会ってプライベートな話をする仲になっていた。
12年経った、今でも。
「また連絡するって、メッセージしておいて」
『了解しました』
ウオッチホンが答えた。
そう言えば、この前会った時は新也のことが話題に出た。
大学でもサッカー部で活躍して、卒業後は体育の教師になって今は高校のサッカー部の監督をしているそうだ。
あの後、退院してから新也にも謝った。
あの時は新也を驚かせてしまった。新也には嫌われてしまった……と思う。仕方ない。
卒業してから新也とは会ってない。
でも、今も元気なら、よかった。
『次のメッセージを再生します』
AIが続けた。
「お願い」
『母です。今日はリモートだったんだけど、早く終わりそうだから夕飯作って持ってこうかと思って』
お母さんだ。
「お母さんに電話繋げてくれる?」
リモートなら家にいるはずだ。
呼び出し音の後、すぐに出てくれた。
『結花理?』
「うん。メッセージ聞いた。ご飯、助かる! ありがとう!」
心からありがとうだ。
『大先生の分と合わせて3人分でいいかしら』
「大先生は今日は学会で、そのままホテルに泊まるって言ってたから、大丈夫」
『それじゃ2人分ね』
「お母さんもいっしょに食べようよ。お母さんの分と合わせて3人分」
『でも、二人水入らずのところにお邪魔しちゃ……』
「何言ってるの! いっしょに食べようよ」
『それじゃ、お言葉に甘えて……」
「よろしくね」
通話を切った。
12年前、私は人を愛することを、愛されることを怖がっていた。
今の私は、違う。
今の私には、大切な人が、大事にしなけらばならない人がたくさんいる。
甲斐が、教えてくれた。
悲しい別れがあっても、みんなそれを乗り越えて生きている。
いつかお別れする日が来るとしても、それまでの日々を、精一杯生きている。愛し合いながら。
甲斐が教えてくれた。自分の命を懸けて。
間もなく医院に着いた。
駐車場から、医院の裏の自宅へ。
白衣に着替える。
自宅と医院を繋ぐ通路から、医院の事務室へ。
「お待たせ!! 午後の診療、代わるよ!!」
声を上げた。
彼は事務室の机に座り、ノートに書き物をしていた。
「何してるの? カルテの確認?」
「いや……数学の問題を解いてるんだ……」
彼が答えた。
「またそんなことやってるの⁉ もう!!」
「こればっかりは……やめられなくてね」
彼が顔を上げた。
「問題。放物線y=2x²と、x軸、直線x=17、x=29で囲まれた領域の面積は?」
そう言って、彼、甲斐が、笑った。
(完)
すれ違う看護師たちが会釈をしてくれる。私も会釈を返す。
思ったよりも時間がかかってしまった。
喘息の急患ということだったが、肺炎を起こしかけていた。
酸素吸入と点滴でなんとか落ち着いてくれた。
今日は入院してもらって、明日の朝また様子を診に来よう。
エレベーターに乗り、更衣室のある地階のボタンを押す。
エレベーターが途中の階で停まった。
男性の医師が乗り込んで来た。先輩だ。
「何階ですか?」
「4階で」
ドアの横の階数ボタンを押す。
「蘇井先生、今日は午前であがりでしたね。お疲れ様」
先輩医師が話しかけてきた。
「はい。お先に失礼させていただきます」
私はドアの方を向いたまま会釈した。
「昼食、いっしょにいかがですか?」
「すみません。急いでますので……」
顔を見ないまま答えた。
「そういえば、市中の医院の手伝いもされているんでしたよね。午後はそちらですか?」
「はい」
前を向いたまま答える。
「がんばりますね」
「……いえ」
エレベーターが停まった。4階だ。
「それじゃまた」
「失礼します」
ドアが閉まった。同時に息を吐いた。
先輩と話すのは緊張する。特に男性は苦手だ。でも……
ここで学ばなければならないことはまだまだたくさんある。
「がんばれ、結花理!」
自分で自分を励ます。
地階の更衣室で白衣から私服に着替えた。
職員専用の通路から外へ出て、駐車場へ。
車に乗り込む前に、一度振り返って、見上げてみる。
夏空を背にそびえる、高くて白い、塔。
今更ながら、思う。
まさか、ここで働くことになるなんて……
あれから、12年が経っていた。
私は今、普通の人間だ。吸血鬼ではない。
甲斐の……甲斐のお陰だ。
甲斐の血のお陰で、私は人間に戻れた。
甲斐が、命を懸けて、私を助けてくれた。
あの後、思った。
甲斐の思いに、誠意に、答えなくちゃいけない。
私は猛勉強した。そして大学の医学部に合格した。
私は……医者になった。
甲斐に助けられたのは私だけじゃない。
甲斐の血の、甲斐の血から作られた血液製剤のお陰でたくさんの吸血鬼たちが人間に戻れた。
あの虎倉も今では普通の人間だ。
あの後、虎倉は傷害と誘拐監禁の罪で逮捕された。
と言っても、虎倉は人間離れした身体能力の持ち主だった。
他の信者たちと教会に立てこもって、大事件になった、みたいだ。
テレビでも中継されたそうだけど、私は昏睡状態で入院中だったから見ていない。
あの毛むくじゃらの教祖がどうなったのかも……わからない。
逮捕された虎倉は他の信者とともに甲斐の血で治療され、人間に戻った。
車に乗り込んで自動運転をオンにした。行き先は登録してある。
時刻を確認した。午後の診療開始にはギリギリ間に合いそうだ。
車が走り出した。
車に搭載されたAIをスマホに同期させる。
『2件のメッセージが入っています』
車のスピーカーから声がした。
「再生して」
AIが話し始める。
『美羅です。忙しいと思うけど、またご飯しに行こうよ。時間できたら連絡して』
美羅。あの、加志摩美羅だ。
あの後、私の入院中に美羅がお見舞いに来てくれた。
美羅は私に謝ってくれた。私も美羅に謝った。
もともとそんなに悪い人じゃなかった。
あの頃はいろいろとストレスがあったみたいだ。
最初から壁を作っていたのは私の方だった。
私たちは打ち解け合い、仲良くなった。
卒業後も、時々会ってプライベートな話をする仲になっていた。
12年経った、今でも。
「また連絡するって、メッセージしておいて」
『了解しました』
ウオッチホンが答えた。
そう言えば、この前会った時は新也のことが話題に出た。
大学でもサッカー部で活躍して、卒業後は体育の教師になって今は高校のサッカー部の監督をしているそうだ。
あの後、退院してから新也にも謝った。
あの時は新也を驚かせてしまった。新也には嫌われてしまった……と思う。仕方ない。
卒業してから新也とは会ってない。
でも、今も元気なら、よかった。
『次のメッセージを再生します』
AIが続けた。
「お願い」
『母です。今日はリモートだったんだけど、早く終わりそうだから夕飯作って持ってこうかと思って』
お母さんだ。
「お母さんに電話繋げてくれる?」
リモートなら家にいるはずだ。
呼び出し音の後、すぐに出てくれた。
『結花理?』
「うん。メッセージ聞いた。ご飯、助かる! ありがとう!」
心からありがとうだ。
『大先生の分と合わせて3人分でいいかしら』
「大先生は今日は学会で、そのままホテルに泊まるって言ってたから、大丈夫」
『それじゃ2人分ね』
「お母さんもいっしょに食べようよ。お母さんの分と合わせて3人分」
『でも、二人水入らずのところにお邪魔しちゃ……』
「何言ってるの! いっしょに食べようよ」
『それじゃ、お言葉に甘えて……」
「よろしくね」
通話を切った。
12年前、私は人を愛することを、愛されることを怖がっていた。
今の私は、違う。
今の私には、大切な人が、大事にしなけらばならない人がたくさんいる。
甲斐が、教えてくれた。
悲しい別れがあっても、みんなそれを乗り越えて生きている。
いつかお別れする日が来るとしても、それまでの日々を、精一杯生きている。愛し合いながら。
甲斐が教えてくれた。自分の命を懸けて。
間もなく医院に着いた。
駐車場から、医院の裏の自宅へ。
白衣に着替える。
自宅と医院を繋ぐ通路から、医院の事務室へ。
「お待たせ!! 午後の診療、代わるよ!!」
声を上げた。
彼は事務室の机に座り、ノートに書き物をしていた。
「何してるの? カルテの確認?」
「いや……数学の問題を解いてるんだ……」
彼が答えた。
「またそんなことやってるの⁉ もう!!」
「こればっかりは……やめられなくてね」
彼が顔を上げた。
「問題。放物線y=2x²と、x軸、直線x=17、x=29で囲まれた領域の面積は?」
そう言って、彼、甲斐が、笑った。
(完)



