甲斐……甲斐に会いたい……会いたいよう……
私は、ベンチに座って一人で泣いていた。
匂いがした。桜の……匂い。
一瞬、意識が遠のいた。
顔を上げると、目の前に虎倉が立っていた。
「どこへ行くんだ? 君はもう私たちの仲間だというのに」
虎倉が言った。
仲間……
いつに間にかまた、感情が消えていた。
雨の中、虎倉の声が音として私の耳に響いた。
「逃げようとした罰だ。今度は君が、仲間を作る番だ」
仲間……
「そう、仲間だ。そいつの血を吸え。そうすればそいつも我々の仲間になる」
仲間……独りぼっちはいや……仲間が……欲しい……
「そいつは誰だ? 考えろ」
仲間……誰……顔が浮かんだ。
甲斐?
声が聞こえた。
「結花理さんを試してるんじゃありません! これは、僕の気持ちです」
「……もっと吸ってもいいよ」
「4ヒット! 結花理さんの勝ち!」
別の声が聞こえた。
『だめ! 甲斐はだめ!』
心の中で誰かが叫んでいた。
それなら……お母さん?
また声が聞こえた。
「お刺し身しか食べられないなら、また買って来るよ」
「すぐ行くから! すぐ帰るから! 待ってて!」
「ごめんなさい……気付いてあげなくて……本当にごめんなさい……」
『だめ! お母さんもだめ! 仲間にしちゃだめ!』
別の声がそう言った。
それなら……新也は?
声は……聞こえない。
いつか、好きだった人。いつだったか、ずっと前に……
私はベンチから立ち上がっていた。
「決まったようだな。行こうか」
虎倉が、笑いながら言った。
*** *** ***
美羅と拓海が階段を降りて行くのを見送ってから、僕は立ち上がった。
これで、結花理さんが行きそうなところは……
数えた。
1、結花理さんの家。
2、僕の家。
3、学校。
4、美羅のところ。
確認した。
結花理さんの家にはお母さんがいる。
僕の家には父親がいる。
学校には新也がいる。
美羅のところには拓海がいる。
この中のどこかを結花理さんが選んでくれれば。どこかにヒットしてくれれば。でなければ、ブローでも。
いや、もう一つ。
僕。僕自身。
僕は……僕はどうすればいい?
やっぱり、あのファミレス。結花理さんと、何度も会った、結花理さんが、何度も僕の血を吸ってくれた、あのファミレス。
僕は反対側の階段へ向かった。
まだ開店前だ。それに、僕にはあの店で乱闘事件を起こした前科がある。店の人が僕のことを覚えていれば、店には入れてもらえないかもしれない。
でも……ファミレスは歩道に面していて、店の前に庇があった。そこで、結花理さんを待つ。
決めた。僕はファミレスへ向かって階段を駆け降りた。
*** *** ***
どこをどう歩いたのか、走ったのか、わからなかった。
いつの間にか、私は学校の校門の近くにいた。
新也のいるところ……
虎倉が教えてくれたのか、それとも自分で感じ取ったのか……
学校に行けば、新也に会える。新也を……仲間にできる。
傘を差して校門から出て来る数人の男子が見えた。
そろいのトレーニングウェアを着ている。
あの中に……新也がいる。
すぐにわかった。
私は歩み寄った。そして呼びかけた。
「……シン……ヤ……」
男子たち一斉に私を見た。
「ヒ!!」「ウワ!!」
声が上がった。
「化け物!!」
そう声を上げたのは……新也。新也だった。
私は新也に歩み寄った。
男子たちが傘を投げ出して逃げ出した。
新也はその場に尻もちをついていた。
「シンヤ……」
もう一度、新也を呼んだ。
「……血を……血を吸わせて」
そう言って、新也の前に立った。
「近寄るな!! 化け物!!」
新也がまた、叫んだ。
化け物……
それって……私のこと?
新也が立ち上がった。そして私に背を向けて走り出した。振り向きもせずに。
化け物……新也に……化け物、て、言われた……
私は動かなかった。動けなかった。
「どうした。追いかけないのか」
声がした。虎倉だった。
私は動かなかった。
新也に……化け物、て……言われた……
悲しい……のか……虚しい……のか……悔しい……のか……
ただそんな、感情、らしい物が胸の中に渦巻いているのがわかった。
「そうか。それなら、次だ。次のターゲットだ」
虎倉が言った。
「仲間にするのでなければ……仕返しはどうだ。憎い相手に仕返しする。そいつを襲って、そいつの血を吸ってやれ」
仕返し……憎い……相手。
名前が、顔が浮かんだ。
虎倉が言った。
「次はそいつのところだ。さあ、行こう」
*** *** ***
ファミレスの前。
僕は立ったまま歩道に張り出した庇を叩く雨の音を聞いていた。
結花理さんは、雨に当たらない所にいるだろうか……雨に濡れていないだろうか……
そんなことを考えていた。
スマホが鳴った。電話だ。
交換したばかりの番号。新也からだ。
すぐに受信した。
「……甲斐か?」
「何かあった? もしかして、結花理さんが?」
「いや、それが……学校の前に、化け物がいたんだ」
新也の声は上ずっていた。興奮しているみたいだ。
「化け物?」
「ああ……」
「どんな?」
「女だ。髪が長くて、真っ黒な服を着ていて、びしょ濡れで……牙が生えてた」
牙!
「俺の名を呼んで……血を吸わせろって……」
血!
「今思い出すと、あの顔、蘇井に似てたかもしれない、て思って……でもそんなわけないよな」
結花理さんだ! 間違いない、結花理さんだ!
「で、その人は今まだそこにいるの?」
「……いや」
「どこに?」
「……わからない。見失っちまって……俺は今、裏門に回って学校に戻ってるんだけど……」
「わかった。ありがとう」
電話を切った。
結花理さん……そんな……結花理さんが、本当に吸血鬼みたいな姿に……
僕は首を振った。
早く……早く結花理さんを見つけないと……結花理さんを助けないと……
考えろ。結花理さんはどこへ行った?
ただ徘徊している? いや……
結花理さんは新也に会いに行ったんだ。僕ではなく、新也に……なぜ? なぜだ?
はっきり訊いたことはなかったけど、結花理さんは以前、新也に好意を持っていた。結花理さんは新也を仲間にしようとして……
新也が見た結花理さんはまさに吸血鬼だ。
こんなこと考えたくないけど、もし結花理さんが、その姿だけでなく、心まで吸血鬼になってしまっていたら……結花理さんが次に狙うのは……
僕はまたスマホを開いた。
これも交換したばかりの電話番号。
拓海。
何回かの呼び出し音の後、拓海が応答してくれた。
「拓海君?」
「……ああ」
「変わったことはない?」
「え? いや……別に」
良かった。
「今どこにいる?」
「ああ……ショッピングセンターのフードコートだけど」
「美羅さんもいっしょ?」
「もちろん……いっしょだけど」
「ショッピングセンターのフードコートだね。ありがとう」
電話を切った。
ショッピングセンターは駅の向こう側だ。
僕はまた走り出した。
*** *** ***
私は、駅前のショッピングセンターの前にいた。
「加志摩美羅はこの中にいる。さあ、あいつを襲って、その血を吸い尽くしてやるんだ」
虎倉の声がした。
私はショッピングセンターの入り口へ向かって歩いた。
中の様子はわかっていた。入るとすぐに衣料品売り場があり、その奥がフードコートだ。
入り口で傘を畳んでいた女の人が私を見て「ヒッ!」と声を上げた。その顔が引きつっていた。
そのまま中へ入った。
「近くにもう一人、仲間がいるな」
また虎倉の声がした。
「そいつも連れて来てやる。お前の……彼氏だ」
彼氏……それより……早く加志摩美羅の血を……血を吸いたい。
私はフードコートへ向かった。
*** *** ***
階段を駆け上って、改札前の通路を走って、反対側の階段を走り下りた。
息を切らしながら、走った。
駅前のロータリー。右に回れは、公園。左に回ればすぐにショッピングセンターだ。
左へ向かう。あと少しだ。
匂いがした。
雨の匂いに混じって……甘い……匂い。桜?
眩暈がした。全力で走ってきたからか?
その場に立ち止まった。身体が……動かなかった。
周囲の音が、消えた。
歩いていた人たちが止まって見えた。
「え?」
声を上げていた。
空から落ちて来る雨粒が止まって見えた。
どうした? 何が起きた?
「どこへ行くんだ? 西門」
声がした。
目の前に人が立っていた。真っ黒なベンチコート。
虎倉。体育教師の虎倉だった。
「蘇井のところか?」
虎倉が続けた。
なぜ? なぜ虎倉が?
そういえば、結花理さんを病院から連れ出したのは、真っ黒なベンチコートを着た……
「遅いぞ。西門。蘇井はもう俺たちの仲間だ」
俺たちの……仲間……
一瞬で、理解した。
そうか……虎倉、お前が……お前が結花理さんを……
「西門。お前もいっしょに来ないか? 吸血鬼はいいぞ」
そう言って虎倉が笑った。牙が見えた。
「俺たちは永遠に生きられる。お前も母親を失っているからわかるだろう。俺たちは死の恐怖におびえずに済むんだ。人並外れた強靭な身体を手に入れることもできる」
違う……そう思った。死ぬことなんか怖くない。ただ僕は……
声が出なかった。
「お前はすでに蘇井に血を吸われている。だからもう、お前も俺たちの仲間だ」
虎倉が歩み寄って来た。牙を剥いて、僕の喉元に……
「違う!!」
叫んだ。声が出た。
虎倉が後退りした。目を丸くしていた。
「僕はお前たちの仲間になんかならない!!」
僕は続けた。
止まっていた雨粒が落ちて、地面を叩く音が響いた。
「……なぜだ……なぜ声を出せる?」
虎倉の表情が歪んだ。
「結花理さんもだ!! 結花理さんもお前たちの仲間になんかならない!!」
雨音に負けないくらい、大きな声で叫んだ。
「……お前は蘇井に血を吸われているはずだ……なのになぜ……」
僕は叫び続けた。
「結花理さんを取りもどす!! 取り戻して見せる!!」
走った。虎倉の脇を通り抜けてショッピングセンターへ向かった。
右肩が虎倉にぶつかった。虎倉はその場に尻もちをついていた。
かまわずに走った。
「結花理さん!! 今行くよ!! 待ってて!!」
僕はまた叫んだ。
*** *** ***
いた。加志摩美羅だ。
例の仲間たち4人で、テーブルを囲んで何か飲んでいる。
私も……飲みたい。あなたの血を、飲みたい。
私は、美羅に向かって、走り出した。
*** *** ***
問題。
放物線y=x²、直線x=17、x軸で囲まれた部分の面積を求めよ。
答えは関数y=x²を0から17までで定積分することによって求められる。
でも今はそんな計算している場合じゃない。
虎倉。お前は間違ってる。
確かに人の命は有限だ。無限じゃない。
でも、その一定期間における変化率を最大限に高めることはできる。
その期間における、その面積の総量はいくらでも増やすことができる。
いや、有限だからこそ、一定期間内だからこそ、その関数を、最善の、最良の、最高の物にするために、人は生きるんだ。
僕の母さんも、結花理さんの両親も、きっとそうやって生きたはずだ。
xの数値が無限でも、y=0の人生では、悲しい。
人並外れた強靭な身体があっても、誰にも愛されない、誰も愛さない人生では、悲しい。
直線x=17は17歳の僕だ。例えそこで人生が終わっても、僕の人生のそこまでの総面積は……
ショッピングセンターに着いた。
真っ直ぐにフードコートへ向かった。
いた。
長い髪。細身の後ろ姿。
髪の毛は雨に濡れていた。見たことのない真っ黒な服を着ている。でも、僕にはわかる。結花理さんだ。
そして結花理さんの前方。フードコート。
テーブルを囲む美羅たちだ。
結花理さんが走り出した。
僕は走るスピードを上げた。
*** *** ***
走り出した途端、前のめりに押し倒された。
誰かが後ろから飛び掛かってきたのだ。
その誰かが背中に乗って私を押さえつけてきた。
後ろから私の口元に腕を押し付けてきた。
その腕に咬みついてやった。
血の味がした。
吸ってやる。
美羅の前に、こいつの血を、全部吸い尽くしてやる。
*** *** ***
走り続けていた分、走り始めた結花理さんより僕の方が速度あった。
結花理さんに追いついた。そのまま結花理さんに後ろから飛び掛かった。
結花理さんは僕といっしょに前のめりに倒れ込んだ。
僕は両腕で結花理さんの身体を押さえつけようとした。
結花理さんがもがいた。
結花理さんの顔の前に右腕を回した。口に右腕を押し付けた。
結花理さんが僕の腕に咬みついた。
そう。そうだ。それでいい。
血を吸って。
結花理さん。僕の血を吸って……
*** *** ***
口の中に、血が流れ込んできた。
懐かしい……味がした。
何? この味は……
いつか……味わったことのある……
私の口から私の身体の中に、その血が流れ込んでくるのがわかった。
そして……私の中の何かが、溶け始めた。
どんどん……溶けて行く……流れて行く……
懐かしい……感覚……
……この感覚は……
甲斐?
そうだ。甲斐だ。甲斐の血だ。
甲斐……甲斐……甲斐……会いたかったよ……甲斐……
私は、甲斐の血を吸い続けた。
*** *** ***
結花理さんの動きが止まった。
結花理さんは……ただひたすらに、僕の血を吸っている。
いいよ。
好きなだけ吸って……
意識が遠のいてきた。
父親の言葉を思い出した。
人は一定量以上の血を失うと死んでしまう。
一度に大量の血を失うとショック死することもある。
僕はこのまま死んでしまうのだろうか……
それなら……それでも……
*** *** ***
……甲斐……甲斐……甲斐……
……会いたかったよ……甲斐……
*** *** ***
意識が無くなって行く……
こんな時は何を考えれば……
そうだ……数学……積分……
……放物線y=x²とx軸、直線x=17で囲まれた部分の面積は……
……まず、指数2に1を足して……
*** *** ***
……甲斐……甲斐……言ってなかったことがあるんだ……
……甲斐……大好きだよ……
私は、ベンチに座って一人で泣いていた。
匂いがした。桜の……匂い。
一瞬、意識が遠のいた。
顔を上げると、目の前に虎倉が立っていた。
「どこへ行くんだ? 君はもう私たちの仲間だというのに」
虎倉が言った。
仲間……
いつに間にかまた、感情が消えていた。
雨の中、虎倉の声が音として私の耳に響いた。
「逃げようとした罰だ。今度は君が、仲間を作る番だ」
仲間……
「そう、仲間だ。そいつの血を吸え。そうすればそいつも我々の仲間になる」
仲間……独りぼっちはいや……仲間が……欲しい……
「そいつは誰だ? 考えろ」
仲間……誰……顔が浮かんだ。
甲斐?
声が聞こえた。
「結花理さんを試してるんじゃありません! これは、僕の気持ちです」
「……もっと吸ってもいいよ」
「4ヒット! 結花理さんの勝ち!」
別の声が聞こえた。
『だめ! 甲斐はだめ!』
心の中で誰かが叫んでいた。
それなら……お母さん?
また声が聞こえた。
「お刺し身しか食べられないなら、また買って来るよ」
「すぐ行くから! すぐ帰るから! 待ってて!」
「ごめんなさい……気付いてあげなくて……本当にごめんなさい……」
『だめ! お母さんもだめ! 仲間にしちゃだめ!』
別の声がそう言った。
それなら……新也は?
声は……聞こえない。
いつか、好きだった人。いつだったか、ずっと前に……
私はベンチから立ち上がっていた。
「決まったようだな。行こうか」
虎倉が、笑いながら言った。
*** *** ***
美羅と拓海が階段を降りて行くのを見送ってから、僕は立ち上がった。
これで、結花理さんが行きそうなところは……
数えた。
1、結花理さんの家。
2、僕の家。
3、学校。
4、美羅のところ。
確認した。
結花理さんの家にはお母さんがいる。
僕の家には父親がいる。
学校には新也がいる。
美羅のところには拓海がいる。
この中のどこかを結花理さんが選んでくれれば。どこかにヒットしてくれれば。でなければ、ブローでも。
いや、もう一つ。
僕。僕自身。
僕は……僕はどうすればいい?
やっぱり、あのファミレス。結花理さんと、何度も会った、結花理さんが、何度も僕の血を吸ってくれた、あのファミレス。
僕は反対側の階段へ向かった。
まだ開店前だ。それに、僕にはあの店で乱闘事件を起こした前科がある。店の人が僕のことを覚えていれば、店には入れてもらえないかもしれない。
でも……ファミレスは歩道に面していて、店の前に庇があった。そこで、結花理さんを待つ。
決めた。僕はファミレスへ向かって階段を駆け降りた。
*** *** ***
どこをどう歩いたのか、走ったのか、わからなかった。
いつの間にか、私は学校の校門の近くにいた。
新也のいるところ……
虎倉が教えてくれたのか、それとも自分で感じ取ったのか……
学校に行けば、新也に会える。新也を……仲間にできる。
傘を差して校門から出て来る数人の男子が見えた。
そろいのトレーニングウェアを着ている。
あの中に……新也がいる。
すぐにわかった。
私は歩み寄った。そして呼びかけた。
「……シン……ヤ……」
男子たち一斉に私を見た。
「ヒ!!」「ウワ!!」
声が上がった。
「化け物!!」
そう声を上げたのは……新也。新也だった。
私は新也に歩み寄った。
男子たちが傘を投げ出して逃げ出した。
新也はその場に尻もちをついていた。
「シンヤ……」
もう一度、新也を呼んだ。
「……血を……血を吸わせて」
そう言って、新也の前に立った。
「近寄るな!! 化け物!!」
新也がまた、叫んだ。
化け物……
それって……私のこと?
新也が立ち上がった。そして私に背を向けて走り出した。振り向きもせずに。
化け物……新也に……化け物、て、言われた……
私は動かなかった。動けなかった。
「どうした。追いかけないのか」
声がした。虎倉だった。
私は動かなかった。
新也に……化け物、て……言われた……
悲しい……のか……虚しい……のか……悔しい……のか……
ただそんな、感情、らしい物が胸の中に渦巻いているのがわかった。
「そうか。それなら、次だ。次のターゲットだ」
虎倉が言った。
「仲間にするのでなければ……仕返しはどうだ。憎い相手に仕返しする。そいつを襲って、そいつの血を吸ってやれ」
仕返し……憎い……相手。
名前が、顔が浮かんだ。
虎倉が言った。
「次はそいつのところだ。さあ、行こう」
*** *** ***
ファミレスの前。
僕は立ったまま歩道に張り出した庇を叩く雨の音を聞いていた。
結花理さんは、雨に当たらない所にいるだろうか……雨に濡れていないだろうか……
そんなことを考えていた。
スマホが鳴った。電話だ。
交換したばかりの番号。新也からだ。
すぐに受信した。
「……甲斐か?」
「何かあった? もしかして、結花理さんが?」
「いや、それが……学校の前に、化け物がいたんだ」
新也の声は上ずっていた。興奮しているみたいだ。
「化け物?」
「ああ……」
「どんな?」
「女だ。髪が長くて、真っ黒な服を着ていて、びしょ濡れで……牙が生えてた」
牙!
「俺の名を呼んで……血を吸わせろって……」
血!
「今思い出すと、あの顔、蘇井に似てたかもしれない、て思って……でもそんなわけないよな」
結花理さんだ! 間違いない、結花理さんだ!
「で、その人は今まだそこにいるの?」
「……いや」
「どこに?」
「……わからない。見失っちまって……俺は今、裏門に回って学校に戻ってるんだけど……」
「わかった。ありがとう」
電話を切った。
結花理さん……そんな……結花理さんが、本当に吸血鬼みたいな姿に……
僕は首を振った。
早く……早く結花理さんを見つけないと……結花理さんを助けないと……
考えろ。結花理さんはどこへ行った?
ただ徘徊している? いや……
結花理さんは新也に会いに行ったんだ。僕ではなく、新也に……なぜ? なぜだ?
はっきり訊いたことはなかったけど、結花理さんは以前、新也に好意を持っていた。結花理さんは新也を仲間にしようとして……
新也が見た結花理さんはまさに吸血鬼だ。
こんなこと考えたくないけど、もし結花理さんが、その姿だけでなく、心まで吸血鬼になってしまっていたら……結花理さんが次に狙うのは……
僕はまたスマホを開いた。
これも交換したばかりの電話番号。
拓海。
何回かの呼び出し音の後、拓海が応答してくれた。
「拓海君?」
「……ああ」
「変わったことはない?」
「え? いや……別に」
良かった。
「今どこにいる?」
「ああ……ショッピングセンターのフードコートだけど」
「美羅さんもいっしょ?」
「もちろん……いっしょだけど」
「ショッピングセンターのフードコートだね。ありがとう」
電話を切った。
ショッピングセンターは駅の向こう側だ。
僕はまた走り出した。
*** *** ***
私は、駅前のショッピングセンターの前にいた。
「加志摩美羅はこの中にいる。さあ、あいつを襲って、その血を吸い尽くしてやるんだ」
虎倉の声がした。
私はショッピングセンターの入り口へ向かって歩いた。
中の様子はわかっていた。入るとすぐに衣料品売り場があり、その奥がフードコートだ。
入り口で傘を畳んでいた女の人が私を見て「ヒッ!」と声を上げた。その顔が引きつっていた。
そのまま中へ入った。
「近くにもう一人、仲間がいるな」
また虎倉の声がした。
「そいつも連れて来てやる。お前の……彼氏だ」
彼氏……それより……早く加志摩美羅の血を……血を吸いたい。
私はフードコートへ向かった。
*** *** ***
階段を駆け上って、改札前の通路を走って、反対側の階段を走り下りた。
息を切らしながら、走った。
駅前のロータリー。右に回れは、公園。左に回ればすぐにショッピングセンターだ。
左へ向かう。あと少しだ。
匂いがした。
雨の匂いに混じって……甘い……匂い。桜?
眩暈がした。全力で走ってきたからか?
その場に立ち止まった。身体が……動かなかった。
周囲の音が、消えた。
歩いていた人たちが止まって見えた。
「え?」
声を上げていた。
空から落ちて来る雨粒が止まって見えた。
どうした? 何が起きた?
「どこへ行くんだ? 西門」
声がした。
目の前に人が立っていた。真っ黒なベンチコート。
虎倉。体育教師の虎倉だった。
「蘇井のところか?」
虎倉が続けた。
なぜ? なぜ虎倉が?
そういえば、結花理さんを病院から連れ出したのは、真っ黒なベンチコートを着た……
「遅いぞ。西門。蘇井はもう俺たちの仲間だ」
俺たちの……仲間……
一瞬で、理解した。
そうか……虎倉、お前が……お前が結花理さんを……
「西門。お前もいっしょに来ないか? 吸血鬼はいいぞ」
そう言って虎倉が笑った。牙が見えた。
「俺たちは永遠に生きられる。お前も母親を失っているからわかるだろう。俺たちは死の恐怖におびえずに済むんだ。人並外れた強靭な身体を手に入れることもできる」
違う……そう思った。死ぬことなんか怖くない。ただ僕は……
声が出なかった。
「お前はすでに蘇井に血を吸われている。だからもう、お前も俺たちの仲間だ」
虎倉が歩み寄って来た。牙を剥いて、僕の喉元に……
「違う!!」
叫んだ。声が出た。
虎倉が後退りした。目を丸くしていた。
「僕はお前たちの仲間になんかならない!!」
僕は続けた。
止まっていた雨粒が落ちて、地面を叩く音が響いた。
「……なぜだ……なぜ声を出せる?」
虎倉の表情が歪んだ。
「結花理さんもだ!! 結花理さんもお前たちの仲間になんかならない!!」
雨音に負けないくらい、大きな声で叫んだ。
「……お前は蘇井に血を吸われているはずだ……なのになぜ……」
僕は叫び続けた。
「結花理さんを取りもどす!! 取り戻して見せる!!」
走った。虎倉の脇を通り抜けてショッピングセンターへ向かった。
右肩が虎倉にぶつかった。虎倉はその場に尻もちをついていた。
かまわずに走った。
「結花理さん!! 今行くよ!! 待ってて!!」
僕はまた叫んだ。
*** *** ***
いた。加志摩美羅だ。
例の仲間たち4人で、テーブルを囲んで何か飲んでいる。
私も……飲みたい。あなたの血を、飲みたい。
私は、美羅に向かって、走り出した。
*** *** ***
問題。
放物線y=x²、直線x=17、x軸で囲まれた部分の面積を求めよ。
答えは関数y=x²を0から17までで定積分することによって求められる。
でも今はそんな計算している場合じゃない。
虎倉。お前は間違ってる。
確かに人の命は有限だ。無限じゃない。
でも、その一定期間における変化率を最大限に高めることはできる。
その期間における、その面積の総量はいくらでも増やすことができる。
いや、有限だからこそ、一定期間内だからこそ、その関数を、最善の、最良の、最高の物にするために、人は生きるんだ。
僕の母さんも、結花理さんの両親も、きっとそうやって生きたはずだ。
xの数値が無限でも、y=0の人生では、悲しい。
人並外れた強靭な身体があっても、誰にも愛されない、誰も愛さない人生では、悲しい。
直線x=17は17歳の僕だ。例えそこで人生が終わっても、僕の人生のそこまでの総面積は……
ショッピングセンターに着いた。
真っ直ぐにフードコートへ向かった。
いた。
長い髪。細身の後ろ姿。
髪の毛は雨に濡れていた。見たことのない真っ黒な服を着ている。でも、僕にはわかる。結花理さんだ。
そして結花理さんの前方。フードコート。
テーブルを囲む美羅たちだ。
結花理さんが走り出した。
僕は走るスピードを上げた。
*** *** ***
走り出した途端、前のめりに押し倒された。
誰かが後ろから飛び掛かってきたのだ。
その誰かが背中に乗って私を押さえつけてきた。
後ろから私の口元に腕を押し付けてきた。
その腕に咬みついてやった。
血の味がした。
吸ってやる。
美羅の前に、こいつの血を、全部吸い尽くしてやる。
*** *** ***
走り続けていた分、走り始めた結花理さんより僕の方が速度あった。
結花理さんに追いついた。そのまま結花理さんに後ろから飛び掛かった。
結花理さんは僕といっしょに前のめりに倒れ込んだ。
僕は両腕で結花理さんの身体を押さえつけようとした。
結花理さんがもがいた。
結花理さんの顔の前に右腕を回した。口に右腕を押し付けた。
結花理さんが僕の腕に咬みついた。
そう。そうだ。それでいい。
血を吸って。
結花理さん。僕の血を吸って……
*** *** ***
口の中に、血が流れ込んできた。
懐かしい……味がした。
何? この味は……
いつか……味わったことのある……
私の口から私の身体の中に、その血が流れ込んでくるのがわかった。
そして……私の中の何かが、溶け始めた。
どんどん……溶けて行く……流れて行く……
懐かしい……感覚……
……この感覚は……
甲斐?
そうだ。甲斐だ。甲斐の血だ。
甲斐……甲斐……甲斐……会いたかったよ……甲斐……
私は、甲斐の血を吸い続けた。
*** *** ***
結花理さんの動きが止まった。
結花理さんは……ただひたすらに、僕の血を吸っている。
いいよ。
好きなだけ吸って……
意識が遠のいてきた。
父親の言葉を思い出した。
人は一定量以上の血を失うと死んでしまう。
一度に大量の血を失うとショック死することもある。
僕はこのまま死んでしまうのだろうか……
それなら……それでも……
*** *** ***
……甲斐……甲斐……甲斐……
……会いたかったよ……甲斐……
*** *** ***
意識が無くなって行く……
こんな時は何を考えれば……
そうだ……数学……積分……
……放物線y=x²とx軸、直線x=17で囲まれた部分の面積は……
……まず、指数2に1を足して……
*** *** ***
……甲斐……甲斐……言ってなかったことがあるんだ……
……甲斐……大好きだよ……



