問題。
放物線y=x²において、x座標が2の点の接線の傾きを求めよ。
答え。
関数y= x²をxで微分する。その導関数はy=2x。
xに2を代入すると2×2=4。よってx座標が2の時の接線の傾きは4。
答えは4だ。
では、関数y=x²のグラフ上でx座標が3の点における接線の傾きは?
答え。
2×3=6
x座標が4の点における接線の傾きは?
答え。
2×4=8
微分とは、グラフ上の1点におけるそのグラフの変化率を求めることだ。
変化率はその点における接線の傾きとして表される。
前に、放物線y=x²においてxの値が1から4まで変化した時の平均変化率を求めるという問題を解いた。
xが1から4まで変化するのに対してyがどう変化するのか、一定の区間を定めてその中での変化を求めたということだ。
しかしy=x²のグラフ上においては1、2、3、4、その各点においてもyは変化している。
例えば、自転車に乗って20キロを1時間で走ったとする。時速20キロ。でも1時間ずっと同じ速度で走っていたわけではない。そんなことはできない。時速20キロは1時間の平均速度だ。
時速0から始まって、ペダルを踏んで、徐々に加速する。疲れてくれば速度は落ちる。またがんばってペダルを踏めば速度は上がる。その一瞬一瞬で速度は違う。その一瞬一瞬の速度を求めることが、微分だ。
さて、前に平均半化率の問題を解いた時、僕は、それを僕の結花理さんに対する思いの変化に例えた。
xは僕が結花理さんと会う回数。そしてyは僕の結花理さんに対する思いだ。
結花理さんに会う度に僕の結花理さんに対する思いは大きくなった。そしてその変化率、2点を通る直線の傾きも大きくなった。
ということは、その1回1回における僕の結花理さんに対す思いの加速度も大きくなったということだ。
1回目より2回目、2回目より3回目。各点における接線の傾きは大きくなっていた。
でも……僕は今、結花理さんに会えない。会えなくなった。結花理さんが入院してしまったからだ。
それでも……僕の結花理さんに対する思いは変わらない。いや、結花理さんに対する思いの、変化率。その傾きは、大きくなる一方だ。
あの日から僕は予備校へ行っていない。父親に行くなと言われた。
予備校どころか、一切の外出を禁止された。
もし吸血鬼が感染症なら、僕も感染している可能性がある。外出すれば他の人に感染させる恐れがある。そういうことだ。
咬み付いて、血を吸わなければ他の人に感染させることはない……はずだ。僕が誰かに咬みつくなんてことありえないのに。
家で自習していろと言われた。
自習……なんてできなかった。結花理さんのことばかり考えていた。心配だった。早く……会いたかった。
結花理さんとは電話で話すこともできなかった。スマホの電話は通じなかった。LINEしても既読にはならなかった。
話もできないほど重病……ではないはずだ。きっとスマホを取り上げられているのだろう。
父親は、症状や検査内容を外部に漏らさないようにという病院の配慮だろうと言っていた。
検査といえば、僕も検査を受けた。
僕は、何も変わっていない。
……あの日、生まれて初めて人に、美羅たちに飛び掛かったこと以外は。
だから、検査の結果が出れば、僕は外出してもいい、はずだ。
そうなれば結花理さんに会いに行ける。
病院へ行っても結花理さんには会えないかもしれない。会わせてもらえないかもしれない。
でも……それでも。
結花理さんの近くに、少しでも近くにいたい。いてやりたい。そう思った。
2週間が過ぎた。
父親が大学病院から呼び出された。僕の検査結果が出たのだ。ようやくだ。
僕は家にいるように言われた。まだ感染の疑いが晴れていないということか……
大学病院から帰った父親が僕の部屋に入って来た。
椅子に座り、父親と向き合った。
「まず、蘇井さんだが……」
父親が話し始めた。
「細胞の中から特殊なウイルスが発見された。そのウイルスによって細胞内のミトコンドリアによるエネルギー代謝の仕方が変化したと考えられる。身体の活動や増強に必要なエネルギーを消化機関から取り入れた血液からのみ生成するようになっているそうだ」
そんなことは、どうでもいい……そんなことより、結花理さんは治るのか……
「ところで甲斐、お前だ」
父親が続けた。
「お前の身体からはそのウイルスは見つからなかった。お前は彼女に血を吸われた。しかしそのウイルスには感染しなかった」
そうだ。僕は何も変わってない。
「お前が彼女に血を吸われた回数を考えると、単なる偶然、幸運とは言えない」
結花理さんと同じにはならなかったことが、僕にとって、幸運だったのだろうか……
「そこでだ。大学病院で、お前から採取した血液の中に彼女から採取したウイルスを混ぜてみた」
……複雑な気持ちだ。
「驚くべき結果が出た」
息を飲んだ。
「お前の血は、そのウイルスを無力化する」
……すぐには理解できなかった。
「正確には、お前の中のある酵素がそのウイルスを無力化することがわかった」
……無力化……ていうことは……
「つまりお前の血は、『吸血鬼』を治療することができる」
……吸血鬼を、治療……ていうことは、僕の血が、僕が、結花理さんを治せる!
「明日また大学病院へ行こう。お前の血が必要だ。彼女を治療するためにお前の血が必要だ。彼女だけじゃない。彼女の話だと、彼女も誰かに咬まれて吸血鬼になった。他にも吸血鬼になった人がいるということだ。その人たちのことも、お前の血で救うことができるかもしれない」
「わかりました!」
僕は答えた。
「ところで……」
少し間を置いてから父親がまた話し始めた。
「お前から吸血鬼についての質問を受けた時、言いかけたことがあったな」
そういえばそんなことが……
「実はあの時、私はお前の母親のことをを思い出していたんだ」
僕の母親……ていうことは、僕の父親である父さんの……
「お前の母親、麻衣の実家は神社だった。麻衣の父、つまりお前の祖父は、その神社の神主だった」
知っている。母さんは、僕のためにそこからお守りをもらって来てくれた……
「その神社にはこんな言い伝えがあったそうだ……」
父親はこんな話をした。
母さんの祖先は、その昔、海辺の村に住んでいた。
ある日その村の海岸に一艘の船が流れ着いた。船には一人の老人が乗っていた。
その老人は村人たちに食べ物を所望した。しかし村人たちは異国から来た老人を気味悪がって誰も食べ物を与えようとしなかった。
村に一人の男がいた。心優しい男は老人を家に招いて食事と酒を振る舞った。
老人は男に礼を言い、それからこう続けた。
「近いうちにこの村に大きな災いが訪れる。しかしあなただけはその災いから逃れることができる」
老人は刃物を取り出し、自分の指先を切って、自分の血のしずくを振る舞われた酒瓶の中に落とした。
そして言った。
「これを飲みなさい。この血があなたを災いから救う」
男は言われた通り、老人の血の混ざった酒を飲んだ。
次の日の朝、老人は船に乗って帰って行った。
しばらくしてまた別の船が海岸に流れ着いた。今度も船には老人が乗っていた。前とは別の老人だ。
老人は、村人たちに船に乗せてきた酒を振る舞った。
酒を飲んだ村人たちは皆、夢見心地となりやがて眠ってしまった。
するとその老人は村人たちに咬みつき、その血を吸い始めた。老人は吸血鬼だったのだ。
目を覚ました村人たちもまた吸血鬼になっていた。そしてまた他の人を襲いその血を吸った。
あの男もまた、吸血鬼になった村人に襲われ、血を吸われた。
ところが男は血を吸われても吸血鬼にならなかった。
それどころか、男の血を吸った村人は正気を取り戻し、元の人間に戻った。
男は自分の血を酒に混ぜ、吸血鬼になってしまった村人たちに飲ませた。
すると村人たちも皆、元の人間に戻った。
船に乗ってやってきた吸血鬼は男を恐れ、逃げ帰った。
男は自分が食事を振る舞った最初の老人は神様だったのだと思った。
男は社を立て、老人を神として祀った。
それが母の実家である神社であり、その男が母の先祖なのだという。
「前にドイツで見つかった症例についての記録を渡したな。その中に私見としてこんなことを書いた」
父親が続けた。
「吸血鬼が伝染病なら、どこかでその抑制力が働いていたはずだ。つまりウイルスに対抗できる体質を持っている者が一定数いたということだ、と」
抑止力……ウイルスに対抗できる体質……
「お前の母は、きっとそんな体質の家系に生まれたんじゃないかな……神社の起源の話を聞いた時は単なる伝説、作り話だと思ったが……デフォルメされているかもしれないが、実際にそんなことがあったんじゃないかと、今は思っている」
なんだろう。壮大な歴史、じゃないけど、何か、とても大きな物を感じた。
そして……ひょっとしたら、僕も、その中にいて……
「お前もその血を引き継いでいる」
父親が、僕の目を見て言った。
「私も大学病院で血液を検査してもらった。しかし私の血液からはその酵素は発見されなかった」
そうか……父親には……
僕も、父親の目を見つめ返した。
「お前のその力は、間違いなくお前の母親に由来するものだ」
なぜだろう。涙が出て来た。
母さん……ありがとう。
心の中でお礼を言った。
「結婚する時、どんな気持ちだったのか……そんなことも聞かれたな」
父親の視線が、僕の顔から、その上、ずっと上の方に移った。
「大学の医学部を卒業した後、ここ、お前の祖父の病院を引き継ぐ前に、一時期、地方の病院に派遣されていた」
上の方、いや、もっと、遥か遠くの方を見ながら父が続けた。
「病院の近くに神社があった。母さんの神社だ。ある日、病院の仲間といっしょにその神社を詣でた。お前の母親、麻衣はそこで巫女をしていた。そしてそこで、私たちの前で、神楽を舞ってくれた」
父親が何を見ているのか、僕にもわかった。
「美しかった……この世の物とは思えないくらい、美しかった……」
父親が見ている光景が、僕にも見えた。
「それからしばらくして、麻衣が私の勤務していた病院へやって来た。発熱したとのことだったが……」
父親がまた僕を見た。
「奇跡かと思ったよ……私から、交際を申し込んだ」
父親が照れ臭そうに笑った。
「何度か会って話すうちに、思った。私たちのやっていることは同じなんだと」
「同じ?」
声に出していた。
「ああ……医学の力によって人の身体を救うのが私の仕事だ。そして、信仰の力によって人の心を救うのが、彼女の仕事……そういうことだ」
父親からこんな話が聞けるなんて、思ってなかった。
「この人となら同じ方向を見ながら生きて行ける。そう思った。間もなく、私から結婚を申し込んだ。それなのに……」
今度は、父親の視線が下を向いた。
「……私は、麻衣の病気に気付いてやることができなかった……」
初めて……聞いた。
「麻衣を救ってやることができなかった……目も前の仕事にかまけて、麻衣のことに気付いてやることができなかった……気付いた時には、もう手遅れだった……」
何て言っていいのか、わからなかった。
「今でも……悔いている……」
こんな父親、初めて見た。
僕は立ち上がった。
「じゃ、明日」
そう言うしか、そうするしか、なかった。
「ああ……頼む」
父親は顔を上げて、僕の顔を見て、うなずいた。
その夜。
眠れなかった。いろいろのことを考えていた。
父親のこと、母親のこと、そして自分のこと。
結花理さんに血を吸わせる決心をした時、僕は自分が吸血鬼になってもいいと思った。
それは、結花理さんに近づきたいという気持ちが半分、自分なんてどうなってもいいという自暴自棄が半分、だった。
結果として、僕が吸血鬼になることはなかった。なれなかった。
一瞬だけ、僕は自分が吸血鬼になったかもしれない、と思ったことがあった。
美羅が、結花理さんを侮辱した時だ。
僕は、美羅とその仲間に飛び掛かっていた。
でも僕は、吸血鬼にはなっていない。結花理さんに血を吸われても、僕は変わっていない。だから……
結花理さんのせいじゃない。結花理さんのせい……じゃなくて、結花理さんのため。
それまで、僕には守る物なんてなかった。守りたい物なんてなかった。でもあの時……僕は結花理さんを守ろうと思った。守りたいと思った。
そしてその気持ちが僕の中に生まれたのは、結花理さんに血を吸われたからじゃない。ウイルスのせいじゃない。
それはたぶん、もともと僕の中にあった、因数。
今まで、僕自身が知らなかった僕の因数。結花理さんが目覚めさせてくれた、僕の因数。
結花理さんを守る。結花理さんを助ける。そのためなら、僕は何でもできる。
僕は明日、大学病院へ行く。
いつの間にか、眠っていた。
階段を登る大きな音で目が覚めた。
ベッドから起き上がった。
いきなりドアが開き、父親が部屋に入って来た。
その顔が強張っている。
父親が、言った。
「彼女が、蘇井結花理が、失踪した。大学病院から……いなくなった」
放物線y=x²において、x座標が2の点の接線の傾きを求めよ。
答え。
関数y= x²をxで微分する。その導関数はy=2x。
xに2を代入すると2×2=4。よってx座標が2の時の接線の傾きは4。
答えは4だ。
では、関数y=x²のグラフ上でx座標が3の点における接線の傾きは?
答え。
2×3=6
x座標が4の点における接線の傾きは?
答え。
2×4=8
微分とは、グラフ上の1点におけるそのグラフの変化率を求めることだ。
変化率はその点における接線の傾きとして表される。
前に、放物線y=x²においてxの値が1から4まで変化した時の平均変化率を求めるという問題を解いた。
xが1から4まで変化するのに対してyがどう変化するのか、一定の区間を定めてその中での変化を求めたということだ。
しかしy=x²のグラフ上においては1、2、3、4、その各点においてもyは変化している。
例えば、自転車に乗って20キロを1時間で走ったとする。時速20キロ。でも1時間ずっと同じ速度で走っていたわけではない。そんなことはできない。時速20キロは1時間の平均速度だ。
時速0から始まって、ペダルを踏んで、徐々に加速する。疲れてくれば速度は落ちる。またがんばってペダルを踏めば速度は上がる。その一瞬一瞬で速度は違う。その一瞬一瞬の速度を求めることが、微分だ。
さて、前に平均半化率の問題を解いた時、僕は、それを僕の結花理さんに対する思いの変化に例えた。
xは僕が結花理さんと会う回数。そしてyは僕の結花理さんに対する思いだ。
結花理さんに会う度に僕の結花理さんに対する思いは大きくなった。そしてその変化率、2点を通る直線の傾きも大きくなった。
ということは、その1回1回における僕の結花理さんに対す思いの加速度も大きくなったということだ。
1回目より2回目、2回目より3回目。各点における接線の傾きは大きくなっていた。
でも……僕は今、結花理さんに会えない。会えなくなった。結花理さんが入院してしまったからだ。
それでも……僕の結花理さんに対する思いは変わらない。いや、結花理さんに対する思いの、変化率。その傾きは、大きくなる一方だ。
あの日から僕は予備校へ行っていない。父親に行くなと言われた。
予備校どころか、一切の外出を禁止された。
もし吸血鬼が感染症なら、僕も感染している可能性がある。外出すれば他の人に感染させる恐れがある。そういうことだ。
咬み付いて、血を吸わなければ他の人に感染させることはない……はずだ。僕が誰かに咬みつくなんてことありえないのに。
家で自習していろと言われた。
自習……なんてできなかった。結花理さんのことばかり考えていた。心配だった。早く……会いたかった。
結花理さんとは電話で話すこともできなかった。スマホの電話は通じなかった。LINEしても既読にはならなかった。
話もできないほど重病……ではないはずだ。きっとスマホを取り上げられているのだろう。
父親は、症状や検査内容を外部に漏らさないようにという病院の配慮だろうと言っていた。
検査といえば、僕も検査を受けた。
僕は、何も変わっていない。
……あの日、生まれて初めて人に、美羅たちに飛び掛かったこと以外は。
だから、検査の結果が出れば、僕は外出してもいい、はずだ。
そうなれば結花理さんに会いに行ける。
病院へ行っても結花理さんには会えないかもしれない。会わせてもらえないかもしれない。
でも……それでも。
結花理さんの近くに、少しでも近くにいたい。いてやりたい。そう思った。
2週間が過ぎた。
父親が大学病院から呼び出された。僕の検査結果が出たのだ。ようやくだ。
僕は家にいるように言われた。まだ感染の疑いが晴れていないということか……
大学病院から帰った父親が僕の部屋に入って来た。
椅子に座り、父親と向き合った。
「まず、蘇井さんだが……」
父親が話し始めた。
「細胞の中から特殊なウイルスが発見された。そのウイルスによって細胞内のミトコンドリアによるエネルギー代謝の仕方が変化したと考えられる。身体の活動や増強に必要なエネルギーを消化機関から取り入れた血液からのみ生成するようになっているそうだ」
そんなことは、どうでもいい……そんなことより、結花理さんは治るのか……
「ところで甲斐、お前だ」
父親が続けた。
「お前の身体からはそのウイルスは見つからなかった。お前は彼女に血を吸われた。しかしそのウイルスには感染しなかった」
そうだ。僕は何も変わってない。
「お前が彼女に血を吸われた回数を考えると、単なる偶然、幸運とは言えない」
結花理さんと同じにはならなかったことが、僕にとって、幸運だったのだろうか……
「そこでだ。大学病院で、お前から採取した血液の中に彼女から採取したウイルスを混ぜてみた」
……複雑な気持ちだ。
「驚くべき結果が出た」
息を飲んだ。
「お前の血は、そのウイルスを無力化する」
……すぐには理解できなかった。
「正確には、お前の中のある酵素がそのウイルスを無力化することがわかった」
……無力化……ていうことは……
「つまりお前の血は、『吸血鬼』を治療することができる」
……吸血鬼を、治療……ていうことは、僕の血が、僕が、結花理さんを治せる!
「明日また大学病院へ行こう。お前の血が必要だ。彼女を治療するためにお前の血が必要だ。彼女だけじゃない。彼女の話だと、彼女も誰かに咬まれて吸血鬼になった。他にも吸血鬼になった人がいるということだ。その人たちのことも、お前の血で救うことができるかもしれない」
「わかりました!」
僕は答えた。
「ところで……」
少し間を置いてから父親がまた話し始めた。
「お前から吸血鬼についての質問を受けた時、言いかけたことがあったな」
そういえばそんなことが……
「実はあの時、私はお前の母親のことをを思い出していたんだ」
僕の母親……ていうことは、僕の父親である父さんの……
「お前の母親、麻衣の実家は神社だった。麻衣の父、つまりお前の祖父は、その神社の神主だった」
知っている。母さんは、僕のためにそこからお守りをもらって来てくれた……
「その神社にはこんな言い伝えがあったそうだ……」
父親はこんな話をした。
母さんの祖先は、その昔、海辺の村に住んでいた。
ある日その村の海岸に一艘の船が流れ着いた。船には一人の老人が乗っていた。
その老人は村人たちに食べ物を所望した。しかし村人たちは異国から来た老人を気味悪がって誰も食べ物を与えようとしなかった。
村に一人の男がいた。心優しい男は老人を家に招いて食事と酒を振る舞った。
老人は男に礼を言い、それからこう続けた。
「近いうちにこの村に大きな災いが訪れる。しかしあなただけはその災いから逃れることができる」
老人は刃物を取り出し、自分の指先を切って、自分の血のしずくを振る舞われた酒瓶の中に落とした。
そして言った。
「これを飲みなさい。この血があなたを災いから救う」
男は言われた通り、老人の血の混ざった酒を飲んだ。
次の日の朝、老人は船に乗って帰って行った。
しばらくしてまた別の船が海岸に流れ着いた。今度も船には老人が乗っていた。前とは別の老人だ。
老人は、村人たちに船に乗せてきた酒を振る舞った。
酒を飲んだ村人たちは皆、夢見心地となりやがて眠ってしまった。
するとその老人は村人たちに咬みつき、その血を吸い始めた。老人は吸血鬼だったのだ。
目を覚ました村人たちもまた吸血鬼になっていた。そしてまた他の人を襲いその血を吸った。
あの男もまた、吸血鬼になった村人に襲われ、血を吸われた。
ところが男は血を吸われても吸血鬼にならなかった。
それどころか、男の血を吸った村人は正気を取り戻し、元の人間に戻った。
男は自分の血を酒に混ぜ、吸血鬼になってしまった村人たちに飲ませた。
すると村人たちも皆、元の人間に戻った。
船に乗ってやってきた吸血鬼は男を恐れ、逃げ帰った。
男は自分が食事を振る舞った最初の老人は神様だったのだと思った。
男は社を立て、老人を神として祀った。
それが母の実家である神社であり、その男が母の先祖なのだという。
「前にドイツで見つかった症例についての記録を渡したな。その中に私見としてこんなことを書いた」
父親が続けた。
「吸血鬼が伝染病なら、どこかでその抑制力が働いていたはずだ。つまりウイルスに対抗できる体質を持っている者が一定数いたということだ、と」
抑止力……ウイルスに対抗できる体質……
「お前の母は、きっとそんな体質の家系に生まれたんじゃないかな……神社の起源の話を聞いた時は単なる伝説、作り話だと思ったが……デフォルメされているかもしれないが、実際にそんなことがあったんじゃないかと、今は思っている」
なんだろう。壮大な歴史、じゃないけど、何か、とても大きな物を感じた。
そして……ひょっとしたら、僕も、その中にいて……
「お前もその血を引き継いでいる」
父親が、僕の目を見て言った。
「私も大学病院で血液を検査してもらった。しかし私の血液からはその酵素は発見されなかった」
そうか……父親には……
僕も、父親の目を見つめ返した。
「お前のその力は、間違いなくお前の母親に由来するものだ」
なぜだろう。涙が出て来た。
母さん……ありがとう。
心の中でお礼を言った。
「結婚する時、どんな気持ちだったのか……そんなことも聞かれたな」
父親の視線が、僕の顔から、その上、ずっと上の方に移った。
「大学の医学部を卒業した後、ここ、お前の祖父の病院を引き継ぐ前に、一時期、地方の病院に派遣されていた」
上の方、いや、もっと、遥か遠くの方を見ながら父が続けた。
「病院の近くに神社があった。母さんの神社だ。ある日、病院の仲間といっしょにその神社を詣でた。お前の母親、麻衣はそこで巫女をしていた。そしてそこで、私たちの前で、神楽を舞ってくれた」
父親が何を見ているのか、僕にもわかった。
「美しかった……この世の物とは思えないくらい、美しかった……」
父親が見ている光景が、僕にも見えた。
「それからしばらくして、麻衣が私の勤務していた病院へやって来た。発熱したとのことだったが……」
父親がまた僕を見た。
「奇跡かと思ったよ……私から、交際を申し込んだ」
父親が照れ臭そうに笑った。
「何度か会って話すうちに、思った。私たちのやっていることは同じなんだと」
「同じ?」
声に出していた。
「ああ……医学の力によって人の身体を救うのが私の仕事だ。そして、信仰の力によって人の心を救うのが、彼女の仕事……そういうことだ」
父親からこんな話が聞けるなんて、思ってなかった。
「この人となら同じ方向を見ながら生きて行ける。そう思った。間もなく、私から結婚を申し込んだ。それなのに……」
今度は、父親の視線が下を向いた。
「……私は、麻衣の病気に気付いてやることができなかった……」
初めて……聞いた。
「麻衣を救ってやることができなかった……目も前の仕事にかまけて、麻衣のことに気付いてやることができなかった……気付いた時には、もう手遅れだった……」
何て言っていいのか、わからなかった。
「今でも……悔いている……」
こんな父親、初めて見た。
僕は立ち上がった。
「じゃ、明日」
そう言うしか、そうするしか、なかった。
「ああ……頼む」
父親は顔を上げて、僕の顔を見て、うなずいた。
その夜。
眠れなかった。いろいろのことを考えていた。
父親のこと、母親のこと、そして自分のこと。
結花理さんに血を吸わせる決心をした時、僕は自分が吸血鬼になってもいいと思った。
それは、結花理さんに近づきたいという気持ちが半分、自分なんてどうなってもいいという自暴自棄が半分、だった。
結果として、僕が吸血鬼になることはなかった。なれなかった。
一瞬だけ、僕は自分が吸血鬼になったかもしれない、と思ったことがあった。
美羅が、結花理さんを侮辱した時だ。
僕は、美羅とその仲間に飛び掛かっていた。
でも僕は、吸血鬼にはなっていない。結花理さんに血を吸われても、僕は変わっていない。だから……
結花理さんのせいじゃない。結花理さんのせい……じゃなくて、結花理さんのため。
それまで、僕には守る物なんてなかった。守りたい物なんてなかった。でもあの時……僕は結花理さんを守ろうと思った。守りたいと思った。
そしてその気持ちが僕の中に生まれたのは、結花理さんに血を吸われたからじゃない。ウイルスのせいじゃない。
それはたぶん、もともと僕の中にあった、因数。
今まで、僕自身が知らなかった僕の因数。結花理さんが目覚めさせてくれた、僕の因数。
結花理さんを守る。結花理さんを助ける。そのためなら、僕は何でもできる。
僕は明日、大学病院へ行く。
いつの間にか、眠っていた。
階段を登る大きな音で目が覚めた。
ベッドから起き上がった。
いきなりドアが開き、父親が部屋に入って来た。
その顔が強張っている。
父親が、言った。
「彼女が、蘇井結花理が、失踪した。大学病院から……いなくなった」



