問題。
次の数式を因数分解せよ。
X²+5X+6
答え。
X²+5X+6=(X+2)(X+3)
因数分解とは足し算や引き算で繋がった数式をカッコで括った因数の掛算の形に書き変えることだ。
因数とはその掛算の一つ一つの要素。数式を因数分解することによって複雑な式がシンプルな掛算の形になり、見通しがよくなる、という。
では、僕。
僕は、西門甲斐という。姓が西門。サイモン。発音すると外国人みたいだけど、日本人だ。
名が甲斐。地名みたいだけど、名前だ。
さて、僕、西門甲斐という人間を一つの数式としよう。僕を構成する一つ一つの因数は何だろう。
僕は17歳。高校2年生だ。人間であること、日本人であることは共通項なのでここでは省略する。
まずは、17歳の高校2年生であること、それが僕の一つ目の因数。17歳であることと高2であることは≒なので(高校2年生)にまとめる。
忘れていた。その前に、僕は(男子)だ。ここは、(女子)とは明らかに別グループなので因数としよう。
(男子)が一つ目の因数。(高校2年生)が二つ目の因数。
父親は医者、開業医だ。曾祖父の代から続いている医院で働いている。
専門は循環器内科。肺や心臓の病気を診ている。
母親は、いない。3年前、僕が中学2年の時に病気で亡くなった。
僕には兄弟姉妹はいない。一人息子だ。
(医者の一人息子)
これがまた一つの因数。それから……他の因数は、見つからない。
西文甲斐=(男子) (高校2年生)(医者の一人息子)
こんなものだろうか。
これが僕のすべて……だろうか。はたして、僕という人間の見通しはよくなったのだろうか。
分解された因数はまだ括弧に括られている。
(男子)(高校2年生)という因数の中身、いわばその数値についてはもう少し説明できるかもしれない。
身長、体重はほぼ平均並み。運動能力は平均をやや下回る。
容姿は……これも平均並み、といったところか。その平均の出し方はよくわからないけど。
学業成績は、平均をやや上回る、といったところだ。
授業の科目の中では、数学が好き、だろうか。
いや僕は、数学が好きというわけではない。数学が得意なわけでもない。むしろ苦手だ。
中学の頃は、そもそも数学の概念、例えば、因数分解、関数などの概念をなかなか理解できなかった。
そして。
頭の中に数式を思い浮かべて、この式はいったい何を意味しているのだろう、この解はどうしてこうなるのだろう……
いつの間にか、数学の授業中以外の時間でもそんなことを考えるようになっていた。
そしてその結果、頭の中で勝手に数式を作ってそれを自分で解くようになっていた。
それだけでなく、自分のこと、見聞きしたことを数学の問題に例えて考える癖がついた。
目の細かい籠やザルが魔除けになる、という話を聞いたことがある。
魔物には、目の多い物を見るとその数を数える習性があるという。
魔物に出会ったら、籠やザルを魔物に与えてやる。すると魔物はその目の数を数え始める。その間に魔物から逃げられるというわけだ。
似たような話は世界各地にある。
例えばヨーロッパには、吸血鬼にはケシの種を数える習性があり、自分の家の前にたくさんのケシの種を撒いておくと、吸血鬼が朝までそれを数えているので家に入って来ないという言い伝えがある。
僕は、襲われそうになった人たちのことより魔物や吸血鬼たちのことを考えてしまう。
彼ら、彼女らは、ザルの目や種粒を数えることに集中する。その結果、人を襲うことを忘れてしまう。忘れていられる。
その方がきっと、彼ら、彼女たちにとっても幸せだと思う。自分の欲望とか、使命とか、そんなこと一切忘れて一心不乱に数えていられれば……もっとも彼らは、それによって生きるために必要な食料を確保し損ねることになるのかもしれないけれど。
僕にとっての数学も、魔物、あるいは吸血鬼にとってのザルや種粒なのかもしれない。
数学の問題を解くことに集中していれば、その間は周囲の雑音が聞こえなくなる。僕だけの世界に没頭できる。
例えその間に大事な何かが逃げてしまうことになるかもしれないとしても。
さて、「僕」とうい数式に戻ろう。
僕=西文甲斐=(男子) (高校2年生)(医者の一人息子)
(医者の一人息子)という因数についてももう少し説明できる。
(医者の一人息子)=(将来は父親の医院を継がなければならない)
=(医者にならなければならない)=(大学の医学部に入らなければならない)
=(勉強しなければならない)
こう変換できる。
医者の息子だからと言って、必ず医者にならなければならないというわけではない、今はそんな時代ではない、と、思う人もいるかもしれない。
違う。僕が医院を継ぐことは祖父の遺言であり、父の意思でもある。
父は厳格な人だ。逆らえない。
僕は数学が好きなわけではない、と書いたが、正直なところ数学以外の勉強も好きではない。
僕の中の新たな因数が見つかった。
僕は、(勉強嫌い)。
にもかかわらず、僕は勉強しなければならい。医学部に合格するために。医者になるために。
学業成績は平均を少し上回る程度、と書いた。その程度で医者になれるのか。医学部に合格できるのか。
いや。そもそも僕は……
(医者になんかなりたくない)。
次だ。(男子) (高校2年生)という因数はこういう変換の仕方もできる。
(男子) (高校2年生)=(思春期の若者)
そうだ。高校2年、17歳の男子はあたり前に恋をする。女子を好きになる。
蘇井結花理。これが僕の好きな女子の名前だ。
同じクラス。高2になってから同じクラスになった。今は7月。同じクラスにになって、3カ月。
教室では、僕の席の右隣の列の二つ前の席に座っている。
僕は授業中ずっと、右前方、30度の角度にいる、蘇井さん……いや、結花理さんと呼ばせてもらおう、結花理さんのことを見ている。
授業中は正面から結花理さんの顔を見ることはできない。僕から見えるのは、後姿。真っ直ぐに垂らした長い髪と、白い左頬。
時々、教科書を読んだりノートを取るためにうつむくと、黒い髪の間から覗く、左の耳。
休み時間になっても、結花理さんの顔を正面から見ることはまずない。見られない。
席から立ち上がる結花理さんを後ろから見ている。
結花理さんは細身で背が高く、スラリとしている。
僕は自分の席に座ったまま教科書や参考書を読んでいる。いや、読んでいるふりをしている。
休み時間が終わる頃、結花理さんが席に戻って来る。
その時にやっと、結花理さんの顔を正面から見ることができる。
美人だ。
可愛い、というより、美人。美しい。
でも、笑わない。笑った顔は、見たことがない。
でもその、なんていうか、凛とした? そう、凛とした雰囲気がいい。
クラスの他の女子と話している姿もあまり見ない。
無口なのだろうか。人見知りなのだろうか。2年生になって3カ月。友だち作りはこらから、ということなのだろうか。
それとも、友だちなど必要ない、ということなのだろうか。
それでも僕は……そんな結花理さんに魅かれた。結花理さんのことが、好きになった。
(男子) (高校2年生)=(思春期の若者)=(女子に恋する)=(結花理さんに恋してる)
さて、結花理さんに恋する僕はどう振る舞うべきか。
結花理さんに話しかける。好きだと告白する。
そんなこと、できない。僕は医学部に合格しなければならない。そのために勉強しなければならない。女子と付き合ってなんかいられない……
なんて、嘘だ。そうやって自分に言い訳してる。本当は……自信がないだけだ。
告白しても振られるに決まってる。もう彼氏がいるかもしれない。
それに……無口、人見知り、ていうことでは、僕も結花理さんと同じだ。いや、僕の方が上かもしれない。
高2になって3か月も経つのに、まだ友達の一人も作れていない。
結花理さんが人と話さない理由はわからない。
でも、僕が人と話さない理由は……人と関わるのが面倒だからだ。
クラスメイトと話しても、話が続かない。続けられない。話題が合わないから。
だったら最初から関わらない方がいい。
男子にも話し掛けられないのに、まして、女子、それも、結花理さんに話しかけるなんて……無理だ。
そんなこと、できない。
僕の因数がまた見つかった。
(自信がない)(人見知り)
このへんでまとめてみよう。
西門甲斐=(男子) (高校2年生) (医者の一人息子)
=(勉強嫌い)(医者になりたくない)
(結花理さんに恋してる)(自信がない)(人見知り)
見通しはよくなっただろうか?
いや、そんなことはない。変換した括弧の中は人には見せない。人には話さない。僕は、無口だ。
問題。
次の数式を展開せよ。
(X+2)(X+3)
答え。
(X+2)(X+3)=X²+3X+2X+6
=X²+5X+6
展開とは、括弧で括られた因数を、足し算を並べた式に変換することだ。因数分解の逆。括弧を外す、ということだ。
(勉強嫌い)(医者になりたくない)(結花理さんに恋してる)(勇気がない)(人見知り)
という因数を掛け合わせて括弧を外してみよう。
答えは、西門甲斐。
こうしておけば、僕の因数は見えない。外からは見えない。これが僕だ。
さて、僕は運動神経は平均をやや下回る、と書いた。当然、運動部には入っていない。運動部どころか、部活はまったくしていない。
では、放課後、授業が終わった後はどうしているのかというと、予備校に通っている。
学業成績は平均を少し上回る程度、と書いた。変換すると、医学部に合格するには学力が足りない、ということだ。だから予備校に通っている。通わされている。部活どころではない。
父親は開業医だ。患者さんがいなくなった後も遅くまで医院で仕事をしている。母親はいない。家にいても僕は一人だ。
で、夕飯はどうしているのかというと、予備校の後、一人で外食をしている。
ファミレス、ハンバーガーショップ、ラーメン屋。予備校は駅の近くにあって、周辺には外食できるところがたくさんある。
そして今も、僕はこうしてハンバーガーショップのカウンター席にいる。
僕の通う高校は予備校やハンバーガーショップとは駅を挟んで反対側にある。駅から歩いて10分くらい。
学校側の駅前にはショッピングセンターがあって、中にフードコートもあるけれど、飲食店の数ではこちら側の方が圧倒的に多い。
だから学校帰りにこちら側の飲食店に立ち寄る生徒も多い。
僕は必ず壁に向かったカウンター席を使うようにしていた。なるべく目立たないように。誰かに見られないように。
同じ学校の生徒には会いたくなかった。見られたくなかった。別に恥ずかしいことをしてるわけじゃないけど。
食べている間でもなお、僕は入り口の方を気にしていた。うちの生徒が入って来たりしないかと……
と、思っていたまさにその時、トレーを持った4人組が入って来た。
男女二人ずつ。ライトブルーのスクールシャツにチェックのスラックスとスカート。胸に刺繍されたエンブレム。うちの制服だ。
僕はハンバーガーを両手で持ったまま身体をかがめた。
チラ、とだけ見えた顔に見覚えがあった。うちのクラスだ。名前は……思い出せない。
問題。
1から36までの数字をA、B、2つのグループに分ける分け方は何通りあるか。
答え。
2³⁶= 68,719,476,736
687億1947万6736通り。
1から36、それぞれの数字に2通りの選択肢があると考える。だから、2を36回掛け合わせればいい。
この問題は何を意味するか。
答えは僕のクラスだ。
僕のクラスは僕を含めて36人。男子、女子がともに18人、ちょうど半分ずつだ。
ではA、B、2つのグループとは。
男女、ていうことではない。いわゆる1軍と2軍。スクールカースト、ていうやつだ。
クラスのメンバー全員に等しく2つのグループに入る機会があるとすると、その分け方は687億1947万6736通りある、ていうことになる。まさに天文学的な数字だ。
しかし実際には、クラスのメンバー全員に両方のグループに入る機会があるわけではない。
Aグループ=1軍。
ここに入ることができる人は限られている。
問題。
クラスにおいて、1軍に入るための必要十分条件は何か。
①勉強ができる=成績がいい。
②スポーツができる=運動部で活躍している。
③容姿がいい=男子ならカッコいい、女子なら可愛い、あるいは美人。
こういった条件に当てはまる人が1軍に入れる。
しかし……これらは必要条件であって十分条件ではない。ではその十分条件は何か。
答え。
コミュ力。コミュニケーション能力だ。
どんなに成績が良くても、美人でも、友達とコミュニケーションがとれない人は1軍に入れない。入れてもそこにい続けることは難しい。逆にコミュ力が異様に高い人、クラスの中で常に目立ってる人は、①②③のような必要条件を持っていなくても1軍のメンバーだったりもする。
さて、ハンバーガーショップに入って来た4人組だ。
彼ら、彼女らは、まさにコミュ力によって1軍にいる人たちだ。
休み時間や昼休みにやたらと目立っている人たち。大きな声で笑ったりしゃべったりしている人たち。
名前は……やっぱり思い出せない。
「ここ空いてるよ」
4人はこともあろうに僕の真後ろのボックス席に入って来た。僕はますます身体を縮こませた。
この位置なら僕の顔を見られることはない。でも……彼らが帰るまで、僕も席を立てない。
「いや~まいったぜ。ぜんぜん相手にしてもらえなかった」
男子が大きな声を上げた。
「玉砕だね。ま、想定内か」
女子が答える。
「そう言うなよ。これでも結構落ち込んでんだから」
盗み聞きしたいわけじゃない。でも、そんなに大きな声でしゃべられたらどうしても……
「そもそもあの蘇井に告ろうってのが無茶だ、つうの」
別の男子の声。
蘇井……結花理さんのことだろうか?
「だよね。でも……」
もう一人の女子が話し始めた。
「あの、蘇井結花理って女、ちょっとむかつくよね」
やっぱり……結花理さんのことだ。
「そうそう、お高くとまちゃってさ。何様だと思ってんだろ」
「何様、て……美人だし」
「美人なら何してもいいわけ? やっぱ、むかつく」
結花理さんのことを……褒めてるわけじゃない。いや間違いなく、悪口……
「私、同じクラスになってすぐ、あいつに話し掛けたんだ。LINE交換しよ、て。そしたらさ、あいつ、『ごめんなさい』だって。信じられる? 将斗みたいな男子ならまだしも、女子同士だよ、女子同士」
「うわ! 信じられない!」
結花理さんは、美人だ。容姿という点では抜群だ。
当然、クラス男子は結花理さんに好意を持つ。僕もそうだ。
結花理さんに交際を申し込む男子がいても不思議ではない。
でも……
結花理さんは応えない。応えなかった。
正直、ホッとした。
それは、結花理さんが誰かと付き合うことにならなくてよかった、ていことではなく、いや、それもあるけど、それよりも、僕が結花理さんに告白しなくてよかった、ていうことで……
もし告白していたら、僕もあの男子と同じ目に会っていたわけで……
それはそれとして。
コミュ力に頼って1軍にいる人達は、その立場がやや不安定だ。彼ら、彼女らにとってコミュ力は必要条件ではあるが十分条件ではないからだ。
そのため彼ら、彼女らは、クラスの中でも特に目立つ存在、揺らぐことのない1軍のメンバーであろう人との絆を強固にすることによって自分の地位を安定させようする。
圧倒的な美人である結花理さんは格好の対象だ。結花理さんと親しくなって、結花理さんを仲間に引き込めば1軍メンバーとしての自分の価値を高めることができる。
でも……結花理さんはそれに応えない。応えなかった。
問題。
次のうち正しい物を選べ。
①蘇井結花理∈1軍
②蘇井結花理∈2軍
グループの要素である時、∈という記号を使う。
a∈A、と書けば、aはグループAの要素、つまりグループの一員であるということだ。
答え。
設問はどちられも不正解。結花理さんはどのグループにも属さない。
結花理さんは、孤高の存在だ。
そして……そんな結花理さんが、僕は好きだ。
ちなみに僕、西門甲斐はどうだろう。
問題。
次のうち正しい物を選べ。
①西門甲斐∈1軍
②西門甲斐∈2軍
学業成績は平均をやや上回る程度。運動能力は平均を下回る。部活、運動部には入っていない。医学部を受験するのだから部活どころではない。容姿も平均程度。
そして……コミュ力。
僕は無口だ。コミュ力に関しては、僕は最低だ。
答え。
②西門甲斐∈2軍
問題にするまでもない。僕は、1軍のメンバーではない。
でも……僕は困っていない。そもそも僕にとって、何軍とか、そんなことどうでもいい。関係ない。
僕は……一人でいい。結花理さんの後ろ姿さえ見ていられれば……それでいい。
さて、4人組の話の続きだ。
「信じられない! そりゃないよね!」
「ちょっとさ……一度、懲らしめてやらないとじゃない」
「だよね」
何を言ってるんだ? 逆恨み?
「懲らしめるって、どうやって?」
「そうね……あいつにも人に振られた時の気持ち、わからせてやるとか」
「あいつ、男に振られたことなんてなさそうだもんね」
「でも、どうやって?」
僕は、立ち上がろうとした。立ち上がって、後ろを振り向いて、そんなことやめろ! って、大きな声で……
できない。そんなこと、僕にはできない……
「あいつ、好きな男子とかいないのかな?」
「そうだ! 新也! 新也は!」
「新也って、阪堂のことか?」
「そう、阪堂新也。クラス1のモテ男」
クラスに阪堂新也という男子がいる。
背が高くて、同じ男子の僕から見てもカッコイイ。
サッカー部のエースストライカーで、勉強もできる。しかも明るくて、誰にでも気軽に話しかてくる。さわやかな笑顔で。
彼なんかは1軍の典型だ。1軍にいるための必要十分条件をすべて兼ね備えている。
「蘇井も阪堂のこと好きなのか?」
「知らない。でも、新也みたいな男子に誘われて断る女子、いないでしょ。普通」
「……でも、どうやって阪堂に蘇井を誘わせるんだ? 阪堂の方が蘇井のことどう思ってるかわかんねえし」
「新也本人が誘う必要ない。例えば将斗が、新也が会いたがってる、話があるって言ってる、どこどこで待ってるって、誘い出して」
「俺はやだよ。振られたばっかだ」
「なら、拓海が」
「俺が?」
「そう。で、もちろん新也本人はそのことを知らない。新也には言わない。だから、待ち合わせ場所には行かない。いくら待っても新也は来ない、てわけ」
「……そんなことして、阪堂に迷惑かかんねえか?」
「大丈夫だよ。新也のあのさわやかな性格、知ってるでしょ。後で、冗談、ちょっとした遊びだったよ、って言えば、笑って許してくれるよ」
「そっか……でも……」
「将斗のかたき取ってやろうっていうんだよ。協力しなよ!」
僕は……僕は黙って聞いていた。
明日、学校に行ったら結花理さんに今聞いたことを話してやろうか。でも……僕は今まで結花理さんと話をしたことがない。初めて話すのが、こんなことなんて……結花理さんは信じてくれないかもしれない。
それに……新也に誘われても、結花理は断るかもしれない。行かないかもしれない。そうだ、きっとそうだ……
そもそも、僕には関係ない。僕は……こんなことに巻き込まれたくない……
僕は食べかけのハンバーガーをトレーの上に置いたまま、4人が席を立つのをじっと、ただじっと、待っていた。
その週の土曜日。
学校は休み。午前中に予備校の授業があった。
予備校の授業の後、僕はファミレスにいた。昼食を食べるためだ。
例のハンバーガーショップへはあの日以来行っていない。あの、結花理さんへの悪口を聞いた日。あの4人に会いたくなくて、僕はあの店を避けていた。
でも……胸騒ぎがした。結花理さんは変な誘いには乗らない。きっと誘われても断る。だから、心配ない。僕が心配する必要はない。そもそも僕は……でも……それでも。
僕が注文したパスタを食べ終わった頃。
偶然だった。あいつらが店に入って来た。例の、結花理さんの悪口を言っていたやつらだ。
一瞬、心臓が止まりそうになった。僕はまた前かがみに体を縮こませた。
横目で彼らの動きを追う。4人の……いや、今日は3人だ。男子一人に女子二人。ニヤニヤと……なんか、嬉しそうだ。
この前は思い出せなかった彼らの名前は学校で確認していた。クラスの中で聞き耳を立てて。
主犯格……結花理さんを騙そうと言い出したのは、加志摩美羅という名の女子だった。
こともあろうに、3人はまた僕のすぐ後ろのボックス席に陣取った。
僕の横を通って行ったけど、僕には気が付かなかったみたいだ。私服姿だったからか。いや、そもそも僕のことなんて眼中にないのか。
盗み聞きをしようとしたわけではない。でも、彼ら、彼女らの声はいやでも耳に入って来る。
「拓海が動画送ってきた。見ろよこれ」
「わ、おめかししてる」
「受ける! やっぱ新也に気があったんじゃないの?」
僕には彼女達が言っていることの意味がわからない。状況が見えない。
「でもマスクしてて顔よく見えねえじゃん。ほんとに蘇井か」
「間違いないよ。髪とか、立ってる雰囲気とか。いかにも蘇井結花理だよ」
蘇井……蘇井結花理……結花理さんが……
「夏なのになんでマスクしてんだ?」
「さあね。花粉症なんじゃねえの」
「いつまで待ってるつもりかな?」
「まだ15分だからな。1時間は待つんじゃね?」
「夜までずっといたりしてね」
「キャハハ!!」
結花理さんが……どこかで誰かを待ってる、ていうことだ。
誰を?
新也。阪堂新也だ。結花理さんは、あいつらの言葉を信じて……
「新也に直接連絡したりしないかな? まだ来ないの? とか」
「あの子が新也と繋がってるわけないでしょ。心配ないって」
「それもそうだな」
「ところでこれ、どこから撮ってんの? 拓海、どこにいるの?」
「公園の向かいのショッピングセンターの屋上」
「マジ不審者じゃん。盗撮で逮捕されんじゃないの?」
「キャハハ!!」
公園の向かいのショッピングセンター……すぐにわかった。駅の向こう側、学校側だ。
向こう側の駅前にはショッピングセンターがあり、道路を挟んでその向かいに大きな公園がある。
結花理さんは、そこにいる。
「食べ終わったら私たちも行ってみようか?」
「そうだね。拓海ひとりじゃかわいそうだし」
結花理さんが一人で公園にいる。公園で新也を待ってる。でも新也は来ない。来るはずがない。
その様子をあいつらに見られている。あいつらの、笑い者になってる。
それがどうした? 僕には……僕には関係ない。関係ないことだ。自分にそう言い聞かせよとしていた。
でも……
僕は立ち上がった。
支払いをして店の外へ出た。あいつらが僕に気付いたかどうかわからない。どっちでもいい。
僕は走り出した。駅に向かって。
駅前の横断歩道の信号が点滅しているのが見えた。いつの間にか全速力になっていた。
横断歩道を走り抜け、駅に着くとそのまま改札のある2階へ向かって階段を駆け上った。
駅のこちら側と向こう側は2階にある改札前の通路で繋がっている。
階段につまずいた。前のめりに倒れそうになって、肘を突いた。
左肘に激痛が走った。
それでも。僕は立ち上がってまた走り出した。
改札前の人波をかい潜るようにして通路を走った。
通路を抜けると駅前のロータリー、その先の大通りと左側にあるショッピングセンターが目に飛び込んで来た。
大通りを挟んで向かいにあるのが、公園。結花理さんがいる公園だ。
また転ばないように気を付けながら階段を駆け降りた。
ロータリーを右に回り込んで駅前大通りへ。
その歩道を少し走ると……あった。
公園の入り口。緑の植え込みの間、石柱に挟まれた入り口。
そこに立っているのは……結花理さん。
いったん立ち止まって呼吸を整えた。
全力で走って来たから息が上がっていた。このままじゃまともにしゃべれない。
深呼吸をしながらもう一度結花理さんの姿を確認した。
初めて見るレモン色のワンピース。
美羅たちが言っていたように夏なのにマスクをしている。
だから顔半分は見えない。でも……いつもの、あのスマートな立ち姿。そして黒くて長い髪。
間違いない。結花理さんだ。
呼吸が整った。僕は結花理さんに向かって歩き出した。
何て話せばいい? 何て説明すれば……
結花理さんが振り向いた。そして僕を見た。一瞬、足が止まった。
どうする?
どうするって、ありのままを話すだけだ。
僕はまた走り出した。結花理さんに走り寄った。
結花理さんは僕を見ていた。僕を見ながら、不思議そうに顔を傾げた。
僕も私服姿だ。僕だとわかっただろうか。
そもそも結花理さんは、僕のことを、同じクラスの西文甲斐のことを知っているだろうか。認識しているだろうか。
僕は結花理さんと一度も話をしたことがない……
結花理さんの前まで来た。僕は結花理さんに向き直った。
結花理さんが僕を見上げた。
意を決して、大きな声で、言った。
「新也は来ません! 結花理さんは騙されているんです!」
結花理さんがうつむいた。
落胆したのだろうか。そう、落胆するに決まってる。
その時……
結花理さんがつぶやいた。小さな声でつぶやいた。
「血が……血が欲しい」
よく聞き取れなかった。マスクをしているせいか。
いや、あまりに予想外の言葉に僕の脳が付いて行けなかったからかもしれない。
「え? 今なんて……」
声が出ていた。
うつむいたまま、結花理さんはもう一度、こう言った。
「血が……血が吸いたい」
次の数式を因数分解せよ。
X²+5X+6
答え。
X²+5X+6=(X+2)(X+3)
因数分解とは足し算や引き算で繋がった数式をカッコで括った因数の掛算の形に書き変えることだ。
因数とはその掛算の一つ一つの要素。数式を因数分解することによって複雑な式がシンプルな掛算の形になり、見通しがよくなる、という。
では、僕。
僕は、西門甲斐という。姓が西門。サイモン。発音すると外国人みたいだけど、日本人だ。
名が甲斐。地名みたいだけど、名前だ。
さて、僕、西門甲斐という人間を一つの数式としよう。僕を構成する一つ一つの因数は何だろう。
僕は17歳。高校2年生だ。人間であること、日本人であることは共通項なのでここでは省略する。
まずは、17歳の高校2年生であること、それが僕の一つ目の因数。17歳であることと高2であることは≒なので(高校2年生)にまとめる。
忘れていた。その前に、僕は(男子)だ。ここは、(女子)とは明らかに別グループなので因数としよう。
(男子)が一つ目の因数。(高校2年生)が二つ目の因数。
父親は医者、開業医だ。曾祖父の代から続いている医院で働いている。
専門は循環器内科。肺や心臓の病気を診ている。
母親は、いない。3年前、僕が中学2年の時に病気で亡くなった。
僕には兄弟姉妹はいない。一人息子だ。
(医者の一人息子)
これがまた一つの因数。それから……他の因数は、見つからない。
西文甲斐=(男子) (高校2年生)(医者の一人息子)
こんなものだろうか。
これが僕のすべて……だろうか。はたして、僕という人間の見通しはよくなったのだろうか。
分解された因数はまだ括弧に括られている。
(男子)(高校2年生)という因数の中身、いわばその数値についてはもう少し説明できるかもしれない。
身長、体重はほぼ平均並み。運動能力は平均をやや下回る。
容姿は……これも平均並み、といったところか。その平均の出し方はよくわからないけど。
学業成績は、平均をやや上回る、といったところだ。
授業の科目の中では、数学が好き、だろうか。
いや僕は、数学が好きというわけではない。数学が得意なわけでもない。むしろ苦手だ。
中学の頃は、そもそも数学の概念、例えば、因数分解、関数などの概念をなかなか理解できなかった。
そして。
頭の中に数式を思い浮かべて、この式はいったい何を意味しているのだろう、この解はどうしてこうなるのだろう……
いつの間にか、数学の授業中以外の時間でもそんなことを考えるようになっていた。
そしてその結果、頭の中で勝手に数式を作ってそれを自分で解くようになっていた。
それだけでなく、自分のこと、見聞きしたことを数学の問題に例えて考える癖がついた。
目の細かい籠やザルが魔除けになる、という話を聞いたことがある。
魔物には、目の多い物を見るとその数を数える習性があるという。
魔物に出会ったら、籠やザルを魔物に与えてやる。すると魔物はその目の数を数え始める。その間に魔物から逃げられるというわけだ。
似たような話は世界各地にある。
例えばヨーロッパには、吸血鬼にはケシの種を数える習性があり、自分の家の前にたくさんのケシの種を撒いておくと、吸血鬼が朝までそれを数えているので家に入って来ないという言い伝えがある。
僕は、襲われそうになった人たちのことより魔物や吸血鬼たちのことを考えてしまう。
彼ら、彼女らは、ザルの目や種粒を数えることに集中する。その結果、人を襲うことを忘れてしまう。忘れていられる。
その方がきっと、彼ら、彼女たちにとっても幸せだと思う。自分の欲望とか、使命とか、そんなこと一切忘れて一心不乱に数えていられれば……もっとも彼らは、それによって生きるために必要な食料を確保し損ねることになるのかもしれないけれど。
僕にとっての数学も、魔物、あるいは吸血鬼にとってのザルや種粒なのかもしれない。
数学の問題を解くことに集中していれば、その間は周囲の雑音が聞こえなくなる。僕だけの世界に没頭できる。
例えその間に大事な何かが逃げてしまうことになるかもしれないとしても。
さて、「僕」とうい数式に戻ろう。
僕=西文甲斐=(男子) (高校2年生)(医者の一人息子)
(医者の一人息子)という因数についてももう少し説明できる。
(医者の一人息子)=(将来は父親の医院を継がなければならない)
=(医者にならなければならない)=(大学の医学部に入らなければならない)
=(勉強しなければならない)
こう変換できる。
医者の息子だからと言って、必ず医者にならなければならないというわけではない、今はそんな時代ではない、と、思う人もいるかもしれない。
違う。僕が医院を継ぐことは祖父の遺言であり、父の意思でもある。
父は厳格な人だ。逆らえない。
僕は数学が好きなわけではない、と書いたが、正直なところ数学以外の勉強も好きではない。
僕の中の新たな因数が見つかった。
僕は、(勉強嫌い)。
にもかかわらず、僕は勉強しなければならい。医学部に合格するために。医者になるために。
学業成績は平均を少し上回る程度、と書いた。その程度で医者になれるのか。医学部に合格できるのか。
いや。そもそも僕は……
(医者になんかなりたくない)。
次だ。(男子) (高校2年生)という因数はこういう変換の仕方もできる。
(男子) (高校2年生)=(思春期の若者)
そうだ。高校2年、17歳の男子はあたり前に恋をする。女子を好きになる。
蘇井結花理。これが僕の好きな女子の名前だ。
同じクラス。高2になってから同じクラスになった。今は7月。同じクラスにになって、3カ月。
教室では、僕の席の右隣の列の二つ前の席に座っている。
僕は授業中ずっと、右前方、30度の角度にいる、蘇井さん……いや、結花理さんと呼ばせてもらおう、結花理さんのことを見ている。
授業中は正面から結花理さんの顔を見ることはできない。僕から見えるのは、後姿。真っ直ぐに垂らした長い髪と、白い左頬。
時々、教科書を読んだりノートを取るためにうつむくと、黒い髪の間から覗く、左の耳。
休み時間になっても、結花理さんの顔を正面から見ることはまずない。見られない。
席から立ち上がる結花理さんを後ろから見ている。
結花理さんは細身で背が高く、スラリとしている。
僕は自分の席に座ったまま教科書や参考書を読んでいる。いや、読んでいるふりをしている。
休み時間が終わる頃、結花理さんが席に戻って来る。
その時にやっと、結花理さんの顔を正面から見ることができる。
美人だ。
可愛い、というより、美人。美しい。
でも、笑わない。笑った顔は、見たことがない。
でもその、なんていうか、凛とした? そう、凛とした雰囲気がいい。
クラスの他の女子と話している姿もあまり見ない。
無口なのだろうか。人見知りなのだろうか。2年生になって3カ月。友だち作りはこらから、ということなのだろうか。
それとも、友だちなど必要ない、ということなのだろうか。
それでも僕は……そんな結花理さんに魅かれた。結花理さんのことが、好きになった。
(男子) (高校2年生)=(思春期の若者)=(女子に恋する)=(結花理さんに恋してる)
さて、結花理さんに恋する僕はどう振る舞うべきか。
結花理さんに話しかける。好きだと告白する。
そんなこと、できない。僕は医学部に合格しなければならない。そのために勉強しなければならない。女子と付き合ってなんかいられない……
なんて、嘘だ。そうやって自分に言い訳してる。本当は……自信がないだけだ。
告白しても振られるに決まってる。もう彼氏がいるかもしれない。
それに……無口、人見知り、ていうことでは、僕も結花理さんと同じだ。いや、僕の方が上かもしれない。
高2になって3か月も経つのに、まだ友達の一人も作れていない。
結花理さんが人と話さない理由はわからない。
でも、僕が人と話さない理由は……人と関わるのが面倒だからだ。
クラスメイトと話しても、話が続かない。続けられない。話題が合わないから。
だったら最初から関わらない方がいい。
男子にも話し掛けられないのに、まして、女子、それも、結花理さんに話しかけるなんて……無理だ。
そんなこと、できない。
僕の因数がまた見つかった。
(自信がない)(人見知り)
このへんでまとめてみよう。
西門甲斐=(男子) (高校2年生) (医者の一人息子)
=(勉強嫌い)(医者になりたくない)
(結花理さんに恋してる)(自信がない)(人見知り)
見通しはよくなっただろうか?
いや、そんなことはない。変換した括弧の中は人には見せない。人には話さない。僕は、無口だ。
問題。
次の数式を展開せよ。
(X+2)(X+3)
答え。
(X+2)(X+3)=X²+3X+2X+6
=X²+5X+6
展開とは、括弧で括られた因数を、足し算を並べた式に変換することだ。因数分解の逆。括弧を外す、ということだ。
(勉強嫌い)(医者になりたくない)(結花理さんに恋してる)(勇気がない)(人見知り)
という因数を掛け合わせて括弧を外してみよう。
答えは、西門甲斐。
こうしておけば、僕の因数は見えない。外からは見えない。これが僕だ。
さて、僕は運動神経は平均をやや下回る、と書いた。当然、運動部には入っていない。運動部どころか、部活はまったくしていない。
では、放課後、授業が終わった後はどうしているのかというと、予備校に通っている。
学業成績は平均を少し上回る程度、と書いた。変換すると、医学部に合格するには学力が足りない、ということだ。だから予備校に通っている。通わされている。部活どころではない。
父親は開業医だ。患者さんがいなくなった後も遅くまで医院で仕事をしている。母親はいない。家にいても僕は一人だ。
で、夕飯はどうしているのかというと、予備校の後、一人で外食をしている。
ファミレス、ハンバーガーショップ、ラーメン屋。予備校は駅の近くにあって、周辺には外食できるところがたくさんある。
そして今も、僕はこうしてハンバーガーショップのカウンター席にいる。
僕の通う高校は予備校やハンバーガーショップとは駅を挟んで反対側にある。駅から歩いて10分くらい。
学校側の駅前にはショッピングセンターがあって、中にフードコートもあるけれど、飲食店の数ではこちら側の方が圧倒的に多い。
だから学校帰りにこちら側の飲食店に立ち寄る生徒も多い。
僕は必ず壁に向かったカウンター席を使うようにしていた。なるべく目立たないように。誰かに見られないように。
同じ学校の生徒には会いたくなかった。見られたくなかった。別に恥ずかしいことをしてるわけじゃないけど。
食べている間でもなお、僕は入り口の方を気にしていた。うちの生徒が入って来たりしないかと……
と、思っていたまさにその時、トレーを持った4人組が入って来た。
男女二人ずつ。ライトブルーのスクールシャツにチェックのスラックスとスカート。胸に刺繍されたエンブレム。うちの制服だ。
僕はハンバーガーを両手で持ったまま身体をかがめた。
チラ、とだけ見えた顔に見覚えがあった。うちのクラスだ。名前は……思い出せない。
問題。
1から36までの数字をA、B、2つのグループに分ける分け方は何通りあるか。
答え。
2³⁶= 68,719,476,736
687億1947万6736通り。
1から36、それぞれの数字に2通りの選択肢があると考える。だから、2を36回掛け合わせればいい。
この問題は何を意味するか。
答えは僕のクラスだ。
僕のクラスは僕を含めて36人。男子、女子がともに18人、ちょうど半分ずつだ。
ではA、B、2つのグループとは。
男女、ていうことではない。いわゆる1軍と2軍。スクールカースト、ていうやつだ。
クラスのメンバー全員に等しく2つのグループに入る機会があるとすると、その分け方は687億1947万6736通りある、ていうことになる。まさに天文学的な数字だ。
しかし実際には、クラスのメンバー全員に両方のグループに入る機会があるわけではない。
Aグループ=1軍。
ここに入ることができる人は限られている。
問題。
クラスにおいて、1軍に入るための必要十分条件は何か。
①勉強ができる=成績がいい。
②スポーツができる=運動部で活躍している。
③容姿がいい=男子ならカッコいい、女子なら可愛い、あるいは美人。
こういった条件に当てはまる人が1軍に入れる。
しかし……これらは必要条件であって十分条件ではない。ではその十分条件は何か。
答え。
コミュ力。コミュニケーション能力だ。
どんなに成績が良くても、美人でも、友達とコミュニケーションがとれない人は1軍に入れない。入れてもそこにい続けることは難しい。逆にコミュ力が異様に高い人、クラスの中で常に目立ってる人は、①②③のような必要条件を持っていなくても1軍のメンバーだったりもする。
さて、ハンバーガーショップに入って来た4人組だ。
彼ら、彼女らは、まさにコミュ力によって1軍にいる人たちだ。
休み時間や昼休みにやたらと目立っている人たち。大きな声で笑ったりしゃべったりしている人たち。
名前は……やっぱり思い出せない。
「ここ空いてるよ」
4人はこともあろうに僕の真後ろのボックス席に入って来た。僕はますます身体を縮こませた。
この位置なら僕の顔を見られることはない。でも……彼らが帰るまで、僕も席を立てない。
「いや~まいったぜ。ぜんぜん相手にしてもらえなかった」
男子が大きな声を上げた。
「玉砕だね。ま、想定内か」
女子が答える。
「そう言うなよ。これでも結構落ち込んでんだから」
盗み聞きしたいわけじゃない。でも、そんなに大きな声でしゃべられたらどうしても……
「そもそもあの蘇井に告ろうってのが無茶だ、つうの」
別の男子の声。
蘇井……結花理さんのことだろうか?
「だよね。でも……」
もう一人の女子が話し始めた。
「あの、蘇井結花理って女、ちょっとむかつくよね」
やっぱり……結花理さんのことだ。
「そうそう、お高くとまちゃってさ。何様だと思ってんだろ」
「何様、て……美人だし」
「美人なら何してもいいわけ? やっぱ、むかつく」
結花理さんのことを……褒めてるわけじゃない。いや間違いなく、悪口……
「私、同じクラスになってすぐ、あいつに話し掛けたんだ。LINE交換しよ、て。そしたらさ、あいつ、『ごめんなさい』だって。信じられる? 将斗みたいな男子ならまだしも、女子同士だよ、女子同士」
「うわ! 信じられない!」
結花理さんは、美人だ。容姿という点では抜群だ。
当然、クラス男子は結花理さんに好意を持つ。僕もそうだ。
結花理さんに交際を申し込む男子がいても不思議ではない。
でも……
結花理さんは応えない。応えなかった。
正直、ホッとした。
それは、結花理さんが誰かと付き合うことにならなくてよかった、ていことではなく、いや、それもあるけど、それよりも、僕が結花理さんに告白しなくてよかった、ていうことで……
もし告白していたら、僕もあの男子と同じ目に会っていたわけで……
それはそれとして。
コミュ力に頼って1軍にいる人達は、その立場がやや不安定だ。彼ら、彼女らにとってコミュ力は必要条件ではあるが十分条件ではないからだ。
そのため彼ら、彼女らは、クラスの中でも特に目立つ存在、揺らぐことのない1軍のメンバーであろう人との絆を強固にすることによって自分の地位を安定させようする。
圧倒的な美人である結花理さんは格好の対象だ。結花理さんと親しくなって、結花理さんを仲間に引き込めば1軍メンバーとしての自分の価値を高めることができる。
でも……結花理さんはそれに応えない。応えなかった。
問題。
次のうち正しい物を選べ。
①蘇井結花理∈1軍
②蘇井結花理∈2軍
グループの要素である時、∈という記号を使う。
a∈A、と書けば、aはグループAの要素、つまりグループの一員であるということだ。
答え。
設問はどちられも不正解。結花理さんはどのグループにも属さない。
結花理さんは、孤高の存在だ。
そして……そんな結花理さんが、僕は好きだ。
ちなみに僕、西門甲斐はどうだろう。
問題。
次のうち正しい物を選べ。
①西門甲斐∈1軍
②西門甲斐∈2軍
学業成績は平均をやや上回る程度。運動能力は平均を下回る。部活、運動部には入っていない。医学部を受験するのだから部活どころではない。容姿も平均程度。
そして……コミュ力。
僕は無口だ。コミュ力に関しては、僕は最低だ。
答え。
②西門甲斐∈2軍
問題にするまでもない。僕は、1軍のメンバーではない。
でも……僕は困っていない。そもそも僕にとって、何軍とか、そんなことどうでもいい。関係ない。
僕は……一人でいい。結花理さんの後ろ姿さえ見ていられれば……それでいい。
さて、4人組の話の続きだ。
「信じられない! そりゃないよね!」
「ちょっとさ……一度、懲らしめてやらないとじゃない」
「だよね」
何を言ってるんだ? 逆恨み?
「懲らしめるって、どうやって?」
「そうね……あいつにも人に振られた時の気持ち、わからせてやるとか」
「あいつ、男に振られたことなんてなさそうだもんね」
「でも、どうやって?」
僕は、立ち上がろうとした。立ち上がって、後ろを振り向いて、そんなことやめろ! って、大きな声で……
できない。そんなこと、僕にはできない……
「あいつ、好きな男子とかいないのかな?」
「そうだ! 新也! 新也は!」
「新也って、阪堂のことか?」
「そう、阪堂新也。クラス1のモテ男」
クラスに阪堂新也という男子がいる。
背が高くて、同じ男子の僕から見てもカッコイイ。
サッカー部のエースストライカーで、勉強もできる。しかも明るくて、誰にでも気軽に話しかてくる。さわやかな笑顔で。
彼なんかは1軍の典型だ。1軍にいるための必要十分条件をすべて兼ね備えている。
「蘇井も阪堂のこと好きなのか?」
「知らない。でも、新也みたいな男子に誘われて断る女子、いないでしょ。普通」
「……でも、どうやって阪堂に蘇井を誘わせるんだ? 阪堂の方が蘇井のことどう思ってるかわかんねえし」
「新也本人が誘う必要ない。例えば将斗が、新也が会いたがってる、話があるって言ってる、どこどこで待ってるって、誘い出して」
「俺はやだよ。振られたばっかだ」
「なら、拓海が」
「俺が?」
「そう。で、もちろん新也本人はそのことを知らない。新也には言わない。だから、待ち合わせ場所には行かない。いくら待っても新也は来ない、てわけ」
「……そんなことして、阪堂に迷惑かかんねえか?」
「大丈夫だよ。新也のあのさわやかな性格、知ってるでしょ。後で、冗談、ちょっとした遊びだったよ、って言えば、笑って許してくれるよ」
「そっか……でも……」
「将斗のかたき取ってやろうっていうんだよ。協力しなよ!」
僕は……僕は黙って聞いていた。
明日、学校に行ったら結花理さんに今聞いたことを話してやろうか。でも……僕は今まで結花理さんと話をしたことがない。初めて話すのが、こんなことなんて……結花理さんは信じてくれないかもしれない。
それに……新也に誘われても、結花理は断るかもしれない。行かないかもしれない。そうだ、きっとそうだ……
そもそも、僕には関係ない。僕は……こんなことに巻き込まれたくない……
僕は食べかけのハンバーガーをトレーの上に置いたまま、4人が席を立つのをじっと、ただじっと、待っていた。
その週の土曜日。
学校は休み。午前中に予備校の授業があった。
予備校の授業の後、僕はファミレスにいた。昼食を食べるためだ。
例のハンバーガーショップへはあの日以来行っていない。あの、結花理さんへの悪口を聞いた日。あの4人に会いたくなくて、僕はあの店を避けていた。
でも……胸騒ぎがした。結花理さんは変な誘いには乗らない。きっと誘われても断る。だから、心配ない。僕が心配する必要はない。そもそも僕は……でも……それでも。
僕が注文したパスタを食べ終わった頃。
偶然だった。あいつらが店に入って来た。例の、結花理さんの悪口を言っていたやつらだ。
一瞬、心臓が止まりそうになった。僕はまた前かがみに体を縮こませた。
横目で彼らの動きを追う。4人の……いや、今日は3人だ。男子一人に女子二人。ニヤニヤと……なんか、嬉しそうだ。
この前は思い出せなかった彼らの名前は学校で確認していた。クラスの中で聞き耳を立てて。
主犯格……結花理さんを騙そうと言い出したのは、加志摩美羅という名の女子だった。
こともあろうに、3人はまた僕のすぐ後ろのボックス席に陣取った。
僕の横を通って行ったけど、僕には気が付かなかったみたいだ。私服姿だったからか。いや、そもそも僕のことなんて眼中にないのか。
盗み聞きをしようとしたわけではない。でも、彼ら、彼女らの声はいやでも耳に入って来る。
「拓海が動画送ってきた。見ろよこれ」
「わ、おめかししてる」
「受ける! やっぱ新也に気があったんじゃないの?」
僕には彼女達が言っていることの意味がわからない。状況が見えない。
「でもマスクしてて顔よく見えねえじゃん。ほんとに蘇井か」
「間違いないよ。髪とか、立ってる雰囲気とか。いかにも蘇井結花理だよ」
蘇井……蘇井結花理……結花理さんが……
「夏なのになんでマスクしてんだ?」
「さあね。花粉症なんじゃねえの」
「いつまで待ってるつもりかな?」
「まだ15分だからな。1時間は待つんじゃね?」
「夜までずっといたりしてね」
「キャハハ!!」
結花理さんが……どこかで誰かを待ってる、ていうことだ。
誰を?
新也。阪堂新也だ。結花理さんは、あいつらの言葉を信じて……
「新也に直接連絡したりしないかな? まだ来ないの? とか」
「あの子が新也と繋がってるわけないでしょ。心配ないって」
「それもそうだな」
「ところでこれ、どこから撮ってんの? 拓海、どこにいるの?」
「公園の向かいのショッピングセンターの屋上」
「マジ不審者じゃん。盗撮で逮捕されんじゃないの?」
「キャハハ!!」
公園の向かいのショッピングセンター……すぐにわかった。駅の向こう側、学校側だ。
向こう側の駅前にはショッピングセンターがあり、道路を挟んでその向かいに大きな公園がある。
結花理さんは、そこにいる。
「食べ終わったら私たちも行ってみようか?」
「そうだね。拓海ひとりじゃかわいそうだし」
結花理さんが一人で公園にいる。公園で新也を待ってる。でも新也は来ない。来るはずがない。
その様子をあいつらに見られている。あいつらの、笑い者になってる。
それがどうした? 僕には……僕には関係ない。関係ないことだ。自分にそう言い聞かせよとしていた。
でも……
僕は立ち上がった。
支払いをして店の外へ出た。あいつらが僕に気付いたかどうかわからない。どっちでもいい。
僕は走り出した。駅に向かって。
駅前の横断歩道の信号が点滅しているのが見えた。いつの間にか全速力になっていた。
横断歩道を走り抜け、駅に着くとそのまま改札のある2階へ向かって階段を駆け上った。
駅のこちら側と向こう側は2階にある改札前の通路で繋がっている。
階段につまずいた。前のめりに倒れそうになって、肘を突いた。
左肘に激痛が走った。
それでも。僕は立ち上がってまた走り出した。
改札前の人波をかい潜るようにして通路を走った。
通路を抜けると駅前のロータリー、その先の大通りと左側にあるショッピングセンターが目に飛び込んで来た。
大通りを挟んで向かいにあるのが、公園。結花理さんがいる公園だ。
また転ばないように気を付けながら階段を駆け降りた。
ロータリーを右に回り込んで駅前大通りへ。
その歩道を少し走ると……あった。
公園の入り口。緑の植え込みの間、石柱に挟まれた入り口。
そこに立っているのは……結花理さん。
いったん立ち止まって呼吸を整えた。
全力で走って来たから息が上がっていた。このままじゃまともにしゃべれない。
深呼吸をしながらもう一度結花理さんの姿を確認した。
初めて見るレモン色のワンピース。
美羅たちが言っていたように夏なのにマスクをしている。
だから顔半分は見えない。でも……いつもの、あのスマートな立ち姿。そして黒くて長い髪。
間違いない。結花理さんだ。
呼吸が整った。僕は結花理さんに向かって歩き出した。
何て話せばいい? 何て説明すれば……
結花理さんが振り向いた。そして僕を見た。一瞬、足が止まった。
どうする?
どうするって、ありのままを話すだけだ。
僕はまた走り出した。結花理さんに走り寄った。
結花理さんは僕を見ていた。僕を見ながら、不思議そうに顔を傾げた。
僕も私服姿だ。僕だとわかっただろうか。
そもそも結花理さんは、僕のことを、同じクラスの西文甲斐のことを知っているだろうか。認識しているだろうか。
僕は結花理さんと一度も話をしたことがない……
結花理さんの前まで来た。僕は結花理さんに向き直った。
結花理さんが僕を見上げた。
意を決して、大きな声で、言った。
「新也は来ません! 結花理さんは騙されているんです!」
結花理さんがうつむいた。
落胆したのだろうか。そう、落胆するに決まってる。
その時……
結花理さんがつぶやいた。小さな声でつぶやいた。
「血が……血が欲しい」
よく聞き取れなかった。マスクをしているせいか。
いや、あまりに予想外の言葉に僕の脳が付いて行けなかったからかもしれない。
「え? 今なんて……」
声が出ていた。
うつむいたまま、結花理さんはもう一度、こう言った。
「血が……血が吸いたい」



