ビビリな一軍男子に憑かれ(好かれ)てしまった。


 放課後の教室は、いつも通り静かだった。
 クラスメイトたちが部活や帰宅で散っていく中、俺は窓際の席でオカルト雑誌を読んでいた。
 西日が机の上に四角い光を落としている。ページをめくるたびに埃が舞い上がるのが見えた。

 桐生から聞いた話が、頭の中でぐるぐる回っている。
 林間学校の肝試しに参加したメンバーが次々と体調を崩している。原因不明の高熱。繰り返す悪夢。鶴見までもが倒れた。
 俺の腕の痣は消えない。夢は毎晩続く。暗い廊下を這いずる男子生徒の夢。冷たい手が腕を掴む感触で目が覚めて、汗まみれの天井をぼんやり見つめる夜。
 一人でどうにかしなくちゃいけない。そう思っていた。
 俺が対話を試みたせいで接続ができてしまったのなら、俺が終わらせるしかない。
 図書館で借りた本には「霊的接続は、関わった人間が断ち切るのが最も確実」と書いてあった。つまり俺だ。俺の責任だ。

 左腕を擦った。痣の上を指でなぞると、ヒリヒリとした痛みが走る。誰かに掴まれたような五本の指の跡。日に日に濃くなっている気がする。

 ——教室のドアが開いた。

「夜森」

 背筋が伸びた。
 聞きたくないはずの声。でも聞くと胸の奥がざわつく声。耳の奥で反響して、消えない声。
 椎名蓮が、教室の入り口に立っていた。
 練習後なのか、髪が湿っている。制服のシャツの襟元が少し乱れていて、首筋にうっすら汗が光っていた。
 目が合った。
 俺はすぐに視線を落とした。雑誌の活字がぼやける。一文字も頭に入ってこない。

「……ごめん、今ちょっと——」
「逃げんな」

 静かだけど、強い声だった。
 椎名がまっすぐ歩いてきて、俺の前の席を引いて座った。背もたれに腕を乗せて、こっちを見ている。
 椅子の脚が床を擦る音が、空っぽの教室にやけに大きく響いた。
 近い。逃げ場がない。制汗剤と、微かに汗の匂い。練習直後の体温がすぐそこにある。

「お前が俺を避けてるのはわかってる」

 いつもの軽い口調じゃない。低くて、真剣で。
 目の下に隈がある。頬が少しこけている。この男も、眠れていない。
 あの渡り廊下の夜から、こいつもずっと。

「でも、これは別だ」

 俺は黙って雑誌のページに目を落としたままだった。文字の上を視線が滑っていく。何も読めない。

「凪が倒れた。涼真も限界だ。林間学校に行ったやつらがどんどんおかしくなってる」

 知ってる。全部知ってる。
 俺の方がずっと前から調べている。誰よりも早く気づいていた。

「みんなが苦しんでるのを放っておけない。お前だってそうだろ」

 ……ずるい。
 そういう言い方は、ずるい。
 だって、その言葉に嘘がないってわかるから。
 椎名は嘘が下手だ。器用に見えて、大事なところで全部顔に出る。今だって、眉間に力が入っていて、唇が一直線に結ばれていて——必死だ。
 計算でこんな顔ができるなら、俺は二度と人間を信じない。

 雑誌を閉じた。
 指先が少し震えているのを、膝の上で握り込んで隠した。

「……わかった」

 俺は小さく言った。

「協力する。でも、それだけだから」

 声が思ったより小さくて、自分で驚いた。もっと突き放すつもりだった。「勝手にしろ」とか「巻き込むな」とか、もっと冷たい言葉を用意していたはずなのに。

 椎名が一瞬、目を見開いた。
 こんなにあっさり承諾するとは思っていなかったのだろう。俺だって思ってなかった。
 でも——鶴見が倒れたと聞いた時から、一人じゃ無理だとどこかで分かっていた。認めたくなかっただけだ。

 それから、椎名は真剣な顔のまま頷いた。

「ああ。それだけでいい」

 それだけの関係。怪異を止めるための、一時的な共闘。
 ——そう自分に言い聞かせた。
 言い聞かせるということは、そうじゃない可能性を頭のどこかが認識しているということだ。
 その事実からは、目を逸らした。

***

 その日の帰り道。
 翔太が隣を歩いていた。

「お前、また痩せた?」
「……そう?」
「そうだよ。林間学校の前より確実に五キロは落ちてるっしょ」
「そこまでじゃないけど」

 翔太は冗談めかして言ったが、目は笑っていなかった。
 俺の左腕をちらりと見た。長袖の下に隠している痣に気づいたのかは、わからない。

「最近、椎名とまた話してるだろ」
「……まあ、ちょっと」
「いいことなのか悪いことなのか、俺にはわかんねーけどさ」

 翔太は缶ジュースを一口飲んで、空を見上げた。

「林間学校の時、余計なこと言って悪かったなって、思ってたんだよ。俺が言わなきゃ、お前あんな顔しなくて済んだんじゃないかって」
「……翔太のせいじゃないよ。本当のことだったし」
「本当のことだって、言い方とかタイミングとかあるだろ。——お前が傷ついたのは事実なんだから」
 翔太は申し訳なさそうに俯く。
「まあ、何があっても俺はお前の味方だからさ。困ったら言えよ」

 そう言って、翔太の拳が胸にコツンと触れた。不器用な優しさだ。でも、今の俺にはそれがありがたかった。
 ありがとう、と言おうとしたのに、喉が詰まってうまく声にならなかった。
 翔太は俺の肩をポンと叩いて、「じゃーな」と手を振って駅の方へ歩いていった。

***

 翌日から、放課後の空き部屋が俺たちの拠点になった。
 三階の端、使われていない生物準備室。西日が埃っぽい空気を金色に染める。古い顕微鏡やホルマリン漬けの標本が棚に並んでいて、独特の薬品臭が微かに漂っている。
 生徒も教師もまず来ない。秘密の拠点としては完璧だった。
 窓枠に蜘蛛の巣が張っていて、西日の中で金色に光っている。どこか異世界めいた空間。ここだけが日常から切り離されている感じが、嫌いじゃなかった。

 俺は持ち込んだ資料を机いっぱいに広げていた。付箋だらけのオカルト本、スマホでスクリーンショットした論文、合宿所の間取り図。
 過去の事故記録を漁る中で、あの少年の名前もわかっていた。藤原翼——背番号7のサッカー部員。心臓の持病を抱えた、十六歳の高校生。十五年前の事故だった。
「地縛霊が場所を離れるケースは極めて稀だ。通常、霊は死んだ場所に縛られる。でも——」

 ページをめくる。

「強い未練が特定の人間に紐づくと、地縛霊でも『追尾』が起きる。対処法は三つ。物理的な結界、精神的アプローチ、そして——」

 気づいたら、早口になっていた。指がページを忙しなくめくる。身振り手振りが大きくなる。

「——第三の方法が面白いんだ。『場所の意味の書き換え』。霊が死んだ場所の記憶を新しい体験で上書きする理論で——これが一番可能性あると思うんだけど、実例が少なくて検証が——」

 ハッ、とした。
 自分の声が、急に耳に入ってきた。
 早口で。目を輝かせて。身を乗り出して。
 ——こいつと話すのが、楽しいと思っていた。

 椎名は正面のパイプ椅子に座って、ちゃんと聞いていた。ノートまで取っている。あの椎名蓮が、俺の話にノートを取っている。ペン先が紙を走る音。真剣な横顔。時折、こっちを見て頷く仕草。
 それが嬉しいと感じている自分に気づいて——血が引いた。

「……もういい。あとは自分で調べて」

 本を閉じた。視線を逸らす。

「え、なんで。続き聞きたいんだけど」

 椎名が本気で困惑している。ノートを持ったまま、ペンを止めて。

 沈黙が数秒。
 机の上に広がった資料の隅が、エアコンの風でぱたぱたと揺れている。

「……別にいいけど」

 口から出た言葉に、自分で驚いた。
 いつからだ。「いらない」と言い切る代わりに、こんな言い方をするようになったのは。
 いつからだ。いつから俺は、こんな——。

「聞きたいなら、教える」

 椎名は何も言わなかった。
 何か言いたそうな顔。でも何も言わなかった。
 代わりに、ノートの新しいページを開いた。

「じゃ、続き。第三の方法」

「……場所の意味の書き換え」

 もう一度本を開いた。
 さっきみたいに夢中にならないように。距離を保って。淡々と。

「霊が縛られてる場所には、『死んだ記憶』が刻まれてる。その記憶が場所の意味になってる。……渡り廊下なら、『一人で死んだ場所』。その意味を変えないと、あの子はずっとあそこに留まり続ける」
「意味を変えるって、具体的には?」
「本によると、三つの要素がいる」

 指を一本ずつ立てた。

「一つ目は、『場所を定義する道具』。塩とか酒とか、物理的に『ここ』を区切るもの。結界じゃなくて、場所に印をつける意味で」
「盛り塩みたいなやつか?」
「似てるけど目的が違う。追い出すための結界じゃなくて、場所に印をつける。『ここで向き合う』っていう意思表示みたいなもんだ」

 二本目の指を立てた。

「二つ目は、『存在を認める目』。霊は"見られる"ことで初めて"いる"ことになる。誰にも気づかれないまま死んだ子に、『お前はここにいる』と証明する目が必要なんだ」

 椎名の顔を見た。
 椎名は一瞬だけ息を止めて、それから静かに頷いた。
 自分の目が何のためにあるのか、わかったのだろう。

「三つ目は——『言葉』。場所の意味そのものを塗り替える言葉。『一人で死んだ場所』を、別の意味に書き換える。何に書き換えるかは……正直、まだわからない。現場で見つけるしかない」

 椎名がノートにペンを走らせた。几帳面な字で、三つの要素を書き取っている。
「道具、目、言葉。……俺の目と、お前の知識ってことだな」
「……まあ、そういうこと」

 声が少しだけ柔らかくなっていることには、気づかないふりをした。

***

 対策セッションは三日目に入っていた。
 この日、俺は合宿所の間取り図をスマホで探していた。渡り廊下の構造を正確に把握したかった。

 棚のホルマリン瓶が、かたん、と鳴った。
 エアコンの風じゃない。空気が冷えた。ほんの一瞬だけ——あの気配が、教室の隅をかすめた。

 椎名がビクッと肩を跳ねさせた。
 ペンが机の上を転がる。「見えた」のだ。俺には感じただけのものが、あいつの目にははっきり映っている。

 次の瞬間、机の下で手を握られた。
 椎名の手。大きくて、熱くて、指先だけが微かに震えている。

 顔を上げた。
 椎名は平然とした顔でノートを見ていた。左手でペンを持ち直して、何か書き込んでいる。右手は机の下で俺の手を握ったまま。

「……何してんの」
「何が?」

 白々しい。こっちを見もしない。
 でも指先が震えてる。怖いくせに。怖がりのくせに。

 振り払わなかった。

「……別にいいけど」

 猫みたいな声が出た。自分で自分に引いた。

 コトン。

 小さな音がして、視線を上げた。
 俺の肘の横に、ペットボトルのお茶が置いてある。ラベルの水滴がまだ新しい。自販機から買ったばかりだ。
 椎名が何事もなかったかのように自分の席に戻っている。ノートに何か書き込みながら、こっちを見もしない。

「……ありがと」

 自分でも聞こえるかどうかくらいの声だった。

「ん」

 椎名は顔も上げなかった。
 林間学校の時と同じだ。川辺でスポドリをくれた時と同じ「ありがと」と「ん」。
 なのに、今の方が胸が痛い。
 あの時は「利用」だったかもしれない。近づくための手段だったのかもしれない。でも今の椎名は、ただ自然にやっている。
 計算じゃない。それが椎名の素の部分なのだと、もう知ってしまった。
 だから余計にたちが悪い。

 ペットボトルのキャップを開けて、一口飲んだ。緑茶。冷たくて、少し苦い。
 喉の奥まで冷えていくのが分かる。
 ——お茶の銘柄が、前と同じだった。覚えてたのか。覚えてるわけないか。偶然だ。偶然に決まってる。

 俺は間取り図に顔を近づけて、渡り廊下の構造を確認していた。髪が邪魔で、耳にかける。そうすると普段隠れている左耳が露出する。
 ——空気が、動いた。
 椎名の手が、俺の近くまで来ていた。あと数センチ。指先が止まっている。
 気配で気づいた。顔を上げると、椎名が手を引っ込めるところだった。何食わぬ顔でペンを持ち直している。

「な、なに?」
「え?」
「……今、触ろうとした?」
「してない」
「嘘。手、伸びてた」
「伸びてない。ペン落としかけただけ」

 嘘だ。ペンは最初から右手に持っていた。伸びていたのは左手だ。
 椎名はノートに視線を落としたまま、耳の先だけ赤くしていた。

 ——あの川の日から、こいつは時々こうなる。俺を見て、手が伸びかけて、寸前で止める。そのたびに耳だけが赤くなる。
 気づいていないとでも思っているのか。全部見えているのに。

 椎名はもうノートに戻っている。ペンを走らせる横顔。睫毛の影。真剣な時だけ少し開く唇。
 ——その横顔を、俺はじっと見ていた。自分でも気づかないうちに。

(あ——俺、こいつのことが好きかも)

 静かに、はっきりと、自覚した。雷みたいな衝撃じゃない。ずっと前からそこにあったものに、やっと名前がついただけだ。
 でも今じゃない。今は言う時じゃない。怪異が片付くまで、この気持ちはしまっておく。
 俺は視線を引き剥がすように、スマホの画面に戻した。間取り図の渡り廊下の部分を拡大する。
 でも指先がさっきから、ペットボトルの結露を無意味になぞっている。
 水滴が指の腹を伝って、机に小さな点を作る。その点をぼんやり見つめながら、さっきのやりとりを反芻している自分に気づいて、慌てて画面をスクロールした。

 その日の帰り際。生物準備室のドアを開けて廊下に出た時、向こうから他のクラスの生徒が二人、歩いてきた。
 椎名がパッと手を離した。
 ——握られてたことに、慣れてしまっていた。いつの間にか。自然と手を繋ぐようになっていたことに、離されて初めて気づいた。

 手が冷たい。
 さっきまで椎名の体温があった右手が、急に冷える。

(あ)

 寂しい、と思った。
 ——いや違う。違う違う。冷気のせいだ。怪異の残り香で手が冷えてるだけだ。
 椎名の手がなくなったから寂しいとか、そういうのじゃない。絶対違う。

 椎名は何食わぬ顔で、すれ違う生徒に軽く会釈した。完璧な王子様スマイル。
 俺は右手をポケットに突っ込んだ。指を握り込む。椎名の手の形が、まだ残っている気がした。

***

 五日目の放課後。
 椎名が部活のミーティングで遅れるとメッセージが来て、俺は一人で生物準備室にいた。
 西日がもう沈みかけていて、教室は薄暗い。スマホのライトで本を読んでいた。

 最初に気づいたのは、息だった。
 白い。
 呼吸のたびに、白い煙が口元から立ち昇る。
 十月の放課後だ。まだそこまで冷え込む時期じゃない。

 次に、腕。
 左腕の痣が、ズキン、ズキン、と脈打つように疼き始めた。林間学校から帰ってからずっとある鈍痛が、急に鋭さを増す。

(来てる)

 空気が変わった。
 教室の温度が急激に下がっていく。棚のホルマリン瓶がカタカタと震え始めた。窓ガラスが曇る。俺の呼気が白い霧になって消える。薬品臭の中に、湿った土のような別の匂いが混じり始めた。

 逃げなきゃ。
 立ち上がろうとした瞬間——

 ガシッ。

 左腕を掴まれた。
 強い力。氷みたいに冷たい指。五本の指が、肉に食い込むように締めつけてくる。
 誰もいない。なのに腕には確かに感触がある。

『……いかないで』

 声。耳元で。すぐ隣で。底のない寂しさを湛えた声。

『ひとりに……しないで……』

 胃袋に氷の塊を飲み込んだみたいだ。冷気が全身に広がっていく。視界の端から暗くなる。
 体が動かない。指も動かない。意識だけが残っている。
 引きずり込まれる。あの渡り廊下の闇に——。

「夜森……ッ!」
「椎、名……?」

 教室のドアが開いた。部活後にここで待ち合わせをしていた椎名だった。
 まだ部活が終わるには早い時間帯だし、息を切らしている。何か異変を感じて、全力で走ってきてくれたのだろう。額に汗が浮いている。ジャージのジッパーが半開きで、中のTシャツが汗で張り付いている。
 教室に飛び込んできた椎名が、俺の左腕の痣を見て顔色を変えた。
 痣の上に、新しい赤い指の跡が浮かび上がっている。

「……これ、あの霊の仕業か?」

 椎名が俺の傍に膝をついた。
 大きな両手が、俺の左腕を包み込む。
 ——温かい。
 火傷しそうなくらい温かい手のひらが、冷え切った肌の上に重なった。練習後の、運動で温まった掌。その熱が、氷みたいな冷気をじりじりと押し返していく。
 塩でも酒でもなく、この手の温度が、冷気を退けている。

「大丈夫か。聞こえるか、夜森」

 椎名の声が近い。顔が近い。顔の輪郭しか見えないくらいの近さで、真剣な目が俺を見ている。
 瞳の奥に、恐怖と、それを上回る何かが渦巻いていた。

 体の自由が戻った。息が戻る。白かった呼気が、普通の透明に戻っていく。
 俺は椎名の手を振り払えなかった。
 振り払う理由が、見つからなかった。
 いや、違う。理由ならいくらでもある。俺と椎名は、ただの条件付きの一時的な関係だ。
 「触るな」「近づくな」「一人にしてくれ」——いくらでも拒否する言葉はあった。
 でも、どの言葉も喉の途中で消えた。この温度を手放したくなかった。

「……うん。もう、大丈夫」

 嘘だ。全然大丈夫じゃない。
 でも、この手の温度が、嘘を本当に変えてくれそうだった。

***

 廊下に出た。
 足がふらついて、壁に手をつく。椎名が黙って隣を歩いている。肩が触れそうな距離。触れない距離。
 巡回の先生が向こうから歩いてきた。

 瞬間、椎名が変わった。

「あ、先生。夜森が気分悪いみたいで。保健室連れていきます」

 完璧な笑顔。爽やかな声。心配する優等生の顔。スイッチが切り替わるみたいに、一瞬で「椎名蓮」を装着する。
 先生は「お、椎名か。頼むな」と言って通り過ぎた。

 足音が遠ざかって、廊下に二人だけになった瞬間。
 椎名の顔が崩れた。

「……やばい」

 声が震えている。

「さっきの教室のあれ、見えてた。腕掴んでるやつ、見えてた。足がガクガクする」

 百八十四センチの体が、壁にもたれて、ずるずると座り込んだ。長い足が廊下に投げ出される。膝が笑っている。
 さっきまで完璧な王子様だった男が、三十秒で崩れ落ちた。
 目を閉じている。まつ毛が長い。顔色が悪い。自嘲するみたいに口元が歪んでいる。
 この人は、怖くてたまらないのに、俺のところに走ってきたのだ。ミーティングの途中で「嫌な予感がした」とかそんな理由で、階段を三段飛ばしで駆け上がってきたのだ。

「……はは、かっこ悪ぃ。お前の方が掴まれてたのに、俺の方がビビってどうすんだよ」

 頭を壁に預けて、力なく笑っている。

 俺は何も言わなかった。
 何も言わずに、椎名の隣に座った。
 並ぶと、頭の位置が全然違う。俺の頭が、椎名の肩にちょうど届くくらい。寄りかかったらぴったりハマりそうな高さだ。——寄りかからないけど。
 腕が当たるくらいの近さ。廊下の冷たい床。リノリウムの硬さが、制服越しに伝わってくる。

 俺の指が動いた。
 自分でも気づかないうちに。
 椎名の制服の袖に触れていた。
 掴むんじゃない。引っ張るんじゃない。
 ただ、布地に指先を添えているだけ。

 猫が、飼い主の足元にそっと前足を置くみたいに。

 椎名が気づいた。
 視線が下に落ちて、俺の指を見た。
 息を呑む音がした。小さく。でも確かに。
 何も言わなかった。

 俺たちはしばらく、そのまま動かなかった。
 秋の夕日が廊下を赤く染めて、やがて薄紫に変わっていく。
 どこかで部活の声がする。ボールが弾む音。笛の音。誰かの笑い声。
 日常の音だ。普通の、退屈な、安全な日常の音。
 さっきまで冷たい手に掴まれていたことが幻だったかのように、世界は普通に回っている。

 椎名の袖から伝わる体温が、じんわりと指先を温めていた。
 制服の生地の向こうにある、この人の腕。脈拍。体温。全部が生きている証拠だった。

 言葉はいらなかった。
 ただ、ここにいる。それだけで十分だった。

 ——十分なはずだった。
 なのに、もう少しだけこのままでいたいと思ってしまう自分が、少しだけ怖かった。

 椎名の小指が動いた。
 俺の指先に、そっと重なった。一瞬だけ。触れるか触れないかの、曖昧な接触。

 何も言わなかった。
 どちらも、何も。

 廊下の向こうで、校内放送のチャイムが鳴った。
 下校時刻を告げる、無機質なメロディ。
 俺たちはゆっくりと立ち上がった。

「……帰るか」

 椎名が掠れた声で言った。

「うん」

 並んで歩く。半歩分の隙間。埋まらない隙間。
 さっきまでの指先の温度だけが、まだ残っていた。
 明日もまた、生物準備室で会う。怪異の対策を練るために。
 それだけのはずなのに、足取りが少しだけ軽くなっている自分に、気づかないふりをした。