二学期の初日。
九月一日。
俺は壁際の自分の席に座って、鞄から文庫本を出した。
ページを開く。文字が目に入ってこない。
それでも本を開いていれば、話しかけないでくださいという盾になる。
林間学校の前からずっとそうだ。文庫本は俺にとって、防弾チョッキみたいなものだった。
教室が少しずつ埋まっていく。
久しぶりの再会に騒ぐ声。日焼けした顔。土産話。夏の思い出の交換会。
その喧騒の中に、俺は透明人間みたいに座っている。
——林間学校の前と同じはずなのに、本のページをめくる指先が、微かに震えていた。
あの四日間を経た後の「同じ」は、もう同じじゃない。
腕の痣が疼いている。長袖のシャツの下に隠してある。残暑がまだ感じられる九月なのに長袖を着ている不自然さは、「冷房が効きすぎる教室が苦手」で押し通すつもりだった。
ガラッと教室のドアが開いた。
空気が変わった。
顔を上げなくても、わかった。
教室全体の空気の流れが変わるのだ。水面に石を投げ込んだ時の波紋みたいに、入口から同心円状に、ざわめきが広がっていく。
「おー、椎名! 焼けたな!」
「蓮くん久しぶりー!」
「みんな、久しぶり」
柔らかくて、よく通る声。教室の隅にいても、耳が勝手に拾ってしまう。
夏の間ずっと聞こえなかったその声が、こんなに近い。同じ教室の中に、椎名蓮がいる。
顔を上げた。
目が合った。
一秒。
椎名の目が俺を捉えて、何かを言いかけるように唇が動いた。
その瞳に、一瞬だけ——本当に一瞬だけ、何かの感情が走った。安堵のような、苦しみのような、名前のつけられない何かが。
俺は目を伏せた。本に視線を戻す。文字の羅列。何も読めない。
活字が全部、同じ形に見える。意味を持たない黒い点の集まり。
椎名は一瞬だけ立ち止まって、それからいつもの笑顔で一軍グループに合流した。
「蓮、夏どっか行った?」
「海行った。凪に付き合わされて」
「マジで? 写真見せろよ」
笑い声。冗談。軽口。
完璧な王子様モードが、シームレスに復帰している。
まるで林間学校の夜なんか存在しなかったみたいに。あの渡り廊下も、震える手も、俺の背中にしがみついた体温も、全部なかったみたいに。
でも——一瞬だけ見えた。
椎名の目の下に薄い隈があることに。
笑っている時の目の奥に、疲労の影があることに。
(……寝てないのか。もしかして、あいつも悪夢を見てる?)
考えるな。関係ない。
本のページを一枚めくった。
何が書いてあったか、一文字も覚えていない。
***
二学期が始まって、最初の一週間。
椎名は何度か俺に近づこうとした。
昼休み。廊下で。
「夜森、ちょっといいか」
振り向かない。振り向いたら、あの顔を見てしまう。あの目で見つめられたら、また期待してしまう。
「……ごめん、今はちょっと」
本を胸に抱えたまま、歩き出す。
「頼む、少しだけ——」
「ごめんね。……先生に呼ばれてるから」
背中に椎名の視線を感じながら、俺は廊下の角を曲がった。
角を曲がった瞬間、壁に背中をつけた。血流の音が耳の奥で鳴っている。息が荒い。短距離走の後みたいだ。
別の日。放課後。
教室を出ようとしたら、椎名が入口に立っていた。
待ち伏せだ。この一週間で学んだのか、俺の行動パターンを読んでいる。
「夜森」
「……ごめん。翔太と約束してるから」
「嘘だろ」
「嘘じゃないよ。……ごめんね」
椎名の横をすり抜ける。肩が触れそうになって、体を傾けて避けた。
触れたら、だめだ。あの体温を思い出してしまう。
椎名は追ってこなかった。
追ってこないことに安堵しながらも、失望している自分が、一番嫌いだ。
俺の「ごめん」は盾だ。
柔らかくて、どこにも引っかかりがなくて、刃が滑る。
誰も傷つけない代わりに、誰も近づけない言葉。
全部、拒絶の柔らかい変換だ。「来ないで」を「ごめん」で包んでいるだけだ。
翔太だけが、その盾の裏側を見抜いていた。
ある日の帰り道。
「お前さ」
「ん?」
「さっき、廊下で椎名とすれ違った時。振り返ったろ」
図星を突かれて、喉が鳴った。
「振り返ってない」
「振り返ったっしょ。俺見てたもん」
「……見間違いだよ」
翔太はじっと俺の横顔を見て、それから前を向いた。
「まあ、いいけどさ。聞いてほしくなったら言えよ」
「……うん」
翔太は、それ以上聞かなかった。
ありがたかった。今の俺には、踏み込まれない優しさが一番ありがたい。
***
九月の半ば。
放課後、用事で体育館の横を通った。
体育館の入口の扉が開いていて、視界の端にコートが映って——足が止まった。
練習試合をしていた。
椎名がコートを駆けている。
味方にパスを出し、自分はゴール下に走り込み、リターンを受けてレイアップ。ボールが弧を描いてリングを通過する。
バッシュがキュッと床を鳴らす。汗で額に張り付いた髪。鋭い目。仲間に指示を出す声は低くて、通る。
コート上の椎名は、教室にいる時よりもっと生き生きしていた。王子様なんて生やさしい言葉じゃ足りない。王だ。あの空間の王。
動きに無駄がない。視野が広い。ボールを持っていない時も、常に最適なポジションに動いている。
体育館のギャラリーには女子が数人、黄色い声を上げている。そりゃそうだ。あんなの見せられたら、惚れない方がおかしい。
(あの背中が、俺にしがみついて震えてたなんて)
誰が信じる。
暗闇の中で怯えて、俺の服の裾を掴んで、「見えるんだよ、俺には」と震える声で打ち明けた——あの椎名蓮と、今コートを支配しているこの椎名蓮が、同一人物だなんて。
俺だけが知っている。あの弱さを。
俺だけが見た。あの顔を。
それは特権なのか、呪いなのか、もうわからない。
椎名がふいにこちらを向いた。
目が合いそうになって、俺は身を翻した。
体育館から離れる。早足で。ほとんど駆け足で。
網膜に焼きついた椎名の姿が消えてくれない。汗に濡れた横顔。鋭い視線。あの手がボールを弾く音。
全部、消えてくれない。
***
異変に気づいたのは、二学期が始まって二週間ほど経った頃だった。
あの夜、名前を呼ばれて、振り返ってしまったから。あの子は俺を「認識」し、合宿所から俺の影にしがみついて、ここまでついてきた。
頭ではわかっていた。でも、認めたくなかった。
五時間目の授業中、教室の窓に水滴がびっしりと浮かんだ。
九月とはいえまだ暑い日で、結露するような温度差はないはずだった。
ガラスそのものが、内部から白く濁ったように見えた。
指で触れてみた。冷たい。ガラスの表面が、明らかに周囲の空気より冷えている。
数秒で元に戻った。
周りの誰も気づいていない。隣の席の奴は退屈そうにシャーペンを回している。
(林間学校の前なら、こんなもの感じなかった。あの夜から、俺の「感度」が変わっている)
その夜、ベッドの中でスマホの写真フォルダを開いた。林間学校の写真を消そうと思ったのだ。椎名が映っている写真を見るのが辛かったから。
フォルダをスクロールしていて——指が止まった。
知らない写真がある。
暗い廊下。蛍光灯が消えた、夜の校舎。渡り廊下。
撮った覚えがない。こんな場所で、こんな時間に写真を撮ったことはない。
日付を確認する。最初の一枚は林間学校から帰った翌日。次の日。またその次の日。全部、午前三時十二分。
毎日、同じ時刻。
三枚とも、構図が微妙に違う。まるでカメラが——少しずつ、渡り廊下の奥へ進んでいるように。
最後の一枚をピンチアウトして拡大した。廊下の突き当たり、暗闇の中に——白くぼやけた何かが映っている。人の形をした、小さな——。
スマホを裏返しにして、枕の下に押し込んだ。
心臓が痛いくらいに鳴っている。手が震えて止まらない。
あの子は、俺のスマホにまで入り込んでいる。
次の日。
放課後、誰もいない廊下を歩いていたら、背後から足音が聞こえた。
コツ、コツ、コツ。
一定のリズム。俺の歩調とは違う。もっとゆっくりで、もっと軽い。体重のない足音だ。
振り返った。
誰もいなかった。
廊下の奥まで見通せる。夕陽がオレンジ色の帯を引いている。人影はない。
でも、振り返る直前まで、確かに聞こえていた。
視界の端に、何かが引っかかった。
廊下の壁に掛かった防火用の凸面鏡。丸く歪んだ鏡面に、廊下全体が魚眼レンズのように映っている。
俺の姿が映っていた。当然だ。
——俺の後ろに、もう一つ、影があった。
小さい。俺の腰くらいの高さ。ぼやけていて輪郭がはっきりしないが、確かに人の形をしている。
目を凝らした瞬間、影は溶けるように消えた。
鏡には俺だけが映っている。歪んだ顔が、ひどく怯えた表情をしていた。
三日目。
教室で自習をしていた時、急に寒くなった。
周りの生徒は普通にしている。半袖で、暑そうにうちわを使っている奴もいる。
なのに、俺の席の周りだけ、空気が冷えていた。
見えない壁で囲まれたみたいに、俺の半径一メートルだけが冬だった。
息を吐いた。白くなりかけた。九月の教室で。
腕の痣が疼いた。内側から何かに噛まれているような鈍い痛み。脈動に合わせて、ずきん、ずきんと。
(——学校に、来てる)
渡り廊下の怪異が、ここまでついてきている。
合宿所に置いてきたはずだった。あの場所に縛られた霊だと思っていた。
違った。あの子は、俺に繋がってしまったのだ。名前を呼ばれた時に。あの廊下で「はる」と呼ばれた瞬間に、見えない糸が結ばれた。
視線を感じて顔を上げた。
教室の反対側。通路側の席。
椎名が俺を見ていた。
顔色が悪かった。いつもの余裕のある表情が消えて、唇が薄く引き結ばれている。
椎名にも見えているのだ。
あいつの体質なら、俺以上にはっきりと感じているかもしれない。
目が合った。
椎名の瞳が、何かを訴えている。
——大丈夫か、と。
俺は目を逸らした。
***
その日の放課後。
教室に残って本を読んでいた。他の生徒はとっくに帰って、俺一人だ。
ページをめくろうとした時——窓が曇った。
一枚、二枚。教室の窓が端から順番に、内側から白く濁っていく。
温度が落ちた。さっきまで蒸し暑かったのに、空気がごっそり入れ替わったみたいに冷たい。
呼吸が目に見える。白く、短く、途切れる。
腕の痣が脈打つ。ずきん、ずきん。心臓と同じリズムで。
目の前の机の上で、何かが動いた。
読みかけの文庫本の表紙に、水滴がぽつりと落ちた。天井を見上げる。漏水じゃない。天井は乾いている。
二滴目。三滴目。本の表紙の上で水滴が滑るように動いて——文字を描いた。
震える線。力の入らない指で書いたような、不揃いなひらがな。
『い っ し ょ』
四文字が完成した瞬間、水滴は蒸発するように消えた。表紙は乾いている。跡形もない。
でも俺は見た。確かに見た。
(——来る)
パチン。
教室の一番奥の蛍光灯が消えた。
ただの電球切れだ。そう思おうとした。
パチン。隣の列が消えた。
パチン。パチン。パチン。
一列ずつ、奥から順番に。廊下側から窓側へ。まるで何かが歩いてくるみたいに、足音の代わりに光が死んでいく。
三列目が消えた。二列目が消えた。
残っているのは、俺の真上の一列だけ。
蛍光灯がジジ、と音を立てている。虫が張り付いた時みたいな、断続的な明滅。光と闇が交互に瞬く。明るくなるたびに教室が見えて、暗くなるたびに闇が一歩近づく。
最後の一列が——ブツン、と落ちた。
完全な暗闇。
窓から差し込む薄い外光だけが、机の輪郭をぼんやり浮かび上がらせている。
その暗闇の中で、教室の前方に——何かが立っている気配がした。
人影だ。同い年くらいの、痩せた男の輪郭。動かない。ただ、こっちを見ている。
椅子から立とうとした。足が重い。金縛りの前兆だ。
机を掴んで体を支える。指先が震えている。
バンッ。
教室のドアが開いた。
椎名だった。
息を切らして、肩で呼吸している。練習着のまま。走ってきたんだ。部活中だったのに。
「夜森——」
椎名の目が教室を見渡して、曇った窓を見て、俺を見た。
顔色が変わった。あいつにも「見えて」いる。
二歩で距離を詰められた。
椎名の手が俺の腕を掴んだ。引き寄せられる。練習直後の体温が、冷え切った空気の中で異常なほど熱い。
窓の曇りが、すっと引いていった。
温度が戻る。空気が緩む。痣の疼きが遠のいていく。
怪異の気配が、潮みたいに退いた。
「……もう大丈夫だから、離して」
声が震えていた。大丈夫じゃないのがバレバレだ。
「……もうちょっとだけ」
椎名が離さなかった。
それどころか、俺の背中に額を押し付けてきた。汗ばんだ額。髪が首筋に触れる。制服越しに、椎名の心臓がばくばく言っているのが伝わってくる。
怖かったのだ。俺より、たぶん。見える分だけ。
振り払えなかった。
怖いから。あの冷気が戻ってくるかもしれないから。
——本当に、それだけか?
数秒か、数十秒か。椎名がようやく離れた。
俺は振り返らなかった。振り返ったら、何か決定的なものが崩れる気がした。
「……ごめん」
「謝んないでよ」
声がかすれた。自分でもどういう意味で言ったのかわからなかった。
(顔色、悪いな)
気づいてしまった。心配している自分に。
椎名のことなんかどうでもいいはずなのに。
だから利用されるんだ。心配する俺が馬鹿なんだ。
——でも、椎名は怖いくせに来てくれた。それは事実だ。
***
桐生が声をかけてきたのは、十月に入った最初の週だった。
五限目の授業が終わったばかりで、持ち帰る教科書を整理していたら、目の前に影が落ちた。
顔を上げると、桐生が立っていた。
その桐生の顔が、今日は違っていた。
青白い。目の下に隈がある。唇が乾いている。
俺と同じ顔だ、と思った。眠れていない人間の顔。
「夜森。……少し、話せるか」
「……え、なに?」
本を閉じた。
桐生は俺の前の席に座って、しばらく黙っていた。
言葉を探しているのがわかった。普段は言うべきことを的確に、最短距離で伝える男だ。理路整然としていて、無駄がない。
それが今、言葉を選びあぐねている。両手を膝の上で組んだり解いたりしている。
「……実は、林間学校で肝試しに参加したメンバーが、次々と体調を崩しているんだ」
心臓が冷えた。
「原因不明の高熱。悪夢。食欲不振。一人二人なら偶然で済むけど、今週だけで五人だ」
「五人」
「ああ。しかも全員、あの肝試しで渡り廊下を通った生徒ばかりだ」
桐生の手が、膝の上で握りしめられていた。
震えている。桐生が震えているのを見るのは初めてだった。
「凪も昨日朝に倒れた」
「……鶴見が?」
「三十九度の熱が下がらないそうだ。医者は原因不明だと。血液検査も画像検査も異常なしで、ただ熱だけが続いてる。それだけじゃない——」
桐生が息を吸った。
「うわ言を言ってるんだ。ずっと。『誰かが呼んでる』って。目を閉じたまま、同じ言葉を繰り返して」
あの声だ。
『ひとりにしないで』。
俺が毎晩夢で聞いている、あの声と同じものが、鶴見にも届いている。
「夜森」
桐生がまっすぐに俺を見た。
いつもの冷静な光の代わりに、そこには切迫した真剣さがあった。
「お前、詳しいだろ。オカルトとか、怪談とか。あの渡り廊下のことも、誰より知ってたじゃないか」
「……」
「これって——あそこの祟りとか、そういうことなんじゃないか?」
その言葉を、桐生の口から聞くとは思わなかった。
林間学校の怪談大会で一番ビビっていた、あの桐生が。一番現実的で、一番合理的なはずの桐生が、「祟り」という言葉を使っている。
そう言わざるを得ないほど追い詰められている。
俺は黙って、自分の腕を見た。
長袖の下に隠した痣。日に日に色が濃くなる、指の形をした青紫の跡。
あの子だ。
渡り廊下の怪異が、寂しがっているんだ。
俺たちが来て、騒いで、怖がって、逃げ出した。
遊び相手がいなくなって、また一人ぼっちに戻された。
だから追いかけてきた。繋がりのある人間を辿って、一人ずつ引き寄せている。
俺は「渡り廊下の子」の伝承を語った張本人だ。あの子の存在を「認識」した。名前を呼ばれて、繋がりができた。
だから俺のところに来る。俺を経由して、他の参加者にも手を伸ばしている。
「……桐生は大丈夫?」
「俺は今のところ平気だ。渡り廊下を通ったのは短時間だったし……でも、夢は見る。時々」
「そうか」
桐生を見た。
それから、窓の外を見た。
校庭のイチョウの葉が黄色く色づき始めている。秋だ。
——椎名は、大丈夫なのか。
見える体質のあいつが、一番影響を受けているんじゃないのか。
さっきの授業中の、あの顔色の悪さ。日焼けの下に透ける、目の下の隈。
(……関係ない)
——でも。
椎名の顔がちらついて消えない。
「……わかった」
俺は桐生に向き直った。
「ちょっと調べてみる」
「本当か」
「俺が詳しいのは、本当だから。……何かわかったら連絡する」
桐生の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「頼む。……俺にできることがあれば言ってくれ」
「うん。ありがとう」
桐生が教室を出ていった。
一人になった。
西日が教室を橙色に染めている。
机の上に伸びた自分の影が、やけに長い。
その影の端が、微かに揺れた気がした。風もないのに。
——と。
教室のドアが、もう一度開いた。
「よっ、夜森ちゃん」
鶴見だった。
いつもの軽い声。だが顔色は悪い。制服姿で、額にはまだ熱の名残がうっすら残っている。数日前まで三十九度の熱で倒れていたはずだ。無理して来たのだろう。
桐生が出ていって間もないタイミング。偶然か、それとも桐生が来るのを見ていて、終わるのを待っていたのか。
「熱が下がらないんじゃ……」
「今、病院で注射打ってきた。つーかさ、涼真が来てたっしょ。何の話?」
「……別に。林間学校の感想とか」
嘘をつく声が上擦った。鶴見は一瞬だけ目を細めたが、追及しなかった。
代わりに、俺の前の席の椅子を引いて、後ろ向きに跨いだ。さっき桐生が座っていたのと同じ席。ただ、座り方は鶴見の方がずっと雑だ。
「まあいいけど。——ひとつ聞いていい?」
「……なに」
「お前さ、蓮のこと避けてるだろ」
心臓が跳ねた。
鶴見の目は笑っていた。でも、その奥にある温度が、いつもと違う。
「まあ、あいつが悪いんだけどな。くじ引きの件、俺もグルだったし。……ごめんな」
あっさりと謝られて、かえって言葉が出なかった。
「でもさ」
鶴見はタオルで首筋を拭きながら、少しだけ声のトーンを落とした。
「最近、蓮マジで調子悪いんだよ。練習中にぼーっとしてミスるし、メシ全然食わないし。……寝てないんだと思う」
(寝てない——やっぱり、あいつも夢を)
「あいつ昔からああなんだ」
何気ない口調だった。タオルの端をいじりながら、窓の外を見ている。
でも、「昔から」という三文字が引っかかった。
「一人で抱えて、誰にも言わないで、笑ってるフリする。中学の時からずっとそう。誰かが気づいても、あいつの方から壁作って入れさせない」
鶴見の声には、長い時間をかけて積もった諦めみたいなものがあった。
何度も手を伸ばして、何度も弾かれた人間の声だ。
(こいつは——椎名のことを、どこまで知ってるんだ)
問いかけようとした。でも、鶴見はこっちを見る前に立ち上がった。
「余計なお世話だけどな。——じゃ」
椅子を元に戻して、ひらひらと片手を振る。
ドアに手をかけた鶴見が、一瞬だけ振り返った。
いつもの軽い顔。でも、目だけが笑っていなかった。林間学校の夜、怪談の後に見たのと同じ目。
「……頼むぜ、夜森」
それだけ言って、鶴見は廊下に消えた。
残された俺は、しばらく動けなかった。
「頼むぜ」。何を頼まれたのか、鶴見は言わなかった。言わなかったけど、わかった気がした。
——俺がどうにかしないと。
椎名を巻き込む必要はない。知識があるのは俺だ。本と資料と理論で、一人で対処できるはずだ。
オカルトマニアとしての十七年分の蓄積が、今こそ役に立つ時だ。
***
十月の第二週。金曜日の夜。
俺は粗塩と料理酒(清めの酒の変わり)と方位磁針と数珠をリュックに詰めて、スマホのライトを頼りに夜の学校に忍び込んだ。
体育館裏の非常口。鍵は甘い。林間学校の肝試しで使った裏技と同じだ。少し力を入れて押せば開く。
蛍光灯が消えた廊下。自分の足音だけがやけに大きく響く。
昼間は何でもない場所が、夜になるとまったく別の顔を見せる。廊下の角が、どこか遠い場所に繋がっているような錯覚。
例の渡り廊下——ではない。学校の渡り廊下だ。合宿所のあの場所とは違う。
でも、怪異は俺についてきている。俺がいる場所が、あの子にとっての「渡り廊下」になっている。
廊下の突き当たり。窓際の一角。
ここが一番冷える場所だ。昼間、何度も確認した。俺の席の近く。あの子がいる場所。
手順通りにやった。四隅に盛り塩。料理酒。方位磁針を中央に置く。
針が揺れている。北を指すはずの針が、ふらふらと定まらない。
暗闇に向かって、声を出した。
「聞いてくれ。……俺は追い出しに来たんじゃない」
声が震えている。
一人だ。隣に誰もいない。林間学校の夜は、椎名がいた。暗い廊下を二人で歩いた。椎名の体温があった。
今は、俺だけだ。
「お前がさみしいのはわかってる。でも、みんなを苦しめるのはやめてくれ。俺が——」
方位磁針の針がくるくると回転し始めた。
高速で。コマみたいに。ぶれることなく。
盛り塩が崩壊した。外側からじゃない。内側から、何かに弾けるようにして崩れた。四つの山が、同時に。
本に書いてあった手順通りにやったのに、何の抵抗にもなっていない。
冷気が膨れ上がった。
口から白い靄が零れる。ガラス窓が一斉に曇る。廊下の窓という窓が、内側から白く染まっていく。
酒の匂いが一瞬で変わった。料理酒が——腐った。甘い腐臭。虫歯の匂いに似ている。
『——はる……』
声が、すぐ隣で鳴った。
歯の根が合わない。カチカチと鳴っている。自分の歯なのに止められない。指先の感覚が消えていく。
林間学校の夜と同じだ。体が言うことを聞かない。
左腕を掴まれた。
骨の芯まで凍るような、あの指。華奢な手。高校生の、痩せた手。でも、信じられないほど強い。万力みたいに締め付けてくる。
『ひとりに……しないで……』
暗闇が濃くなる。視界の端から黒い霧が侵食してくる。意識が薄れていく。
本で読んだ。金縛りの解き方。離脱法。足の指に意識を集中して、一本ずつ動かす。小指から。薬指。中指。
動いた。
足が動いた瞬間、腕を振り払って、走った。
廊下を駆け抜ける。内履きの底がリノリウムの床を叩く。
非常口を蹴り開けて、外に出た。
十月の夜気が頬を打った。
膝が折れて、地面に手をついた。校庭の土が冷たい。
荒い息。心臓が胸の中で暴れている。
左腕を見た。
痣の上に、新しい赤い指の跡が重なっている。古い青紫と、新しい赤が、二重に刻まれている。
盛り塩は崩壊した。酒は腐った。方位磁針は狂った。
知識だけじゃ、足りない。
——俺には、「見える」力がない。
何がいるか感じ取れない人間が、闇雲に塩を撒いても、空振りするだけだ。
あの子がどこにいるのか、何を求めているのか、「感じる」ことができないから、対話にならない。一方通行の呼びかけを、闇に向かって叫んでいるだけだ。
「見える」人間が必要だ。
俺の知識と、あいつの目。
林間学校の時、二人でなら渡り廊下を踏破できた。俺が知識で道筋を示し、椎名が「見える」目で危険を察知した。あの組み合わせが要る。
——椎名が、必要だ。
その認識が、怪異の冷気より恐ろしかった。
もう関わらないと決めたのに。あいつの温度を忘れようとしていたのに。
俺の力だけじゃどうにもならないという事実が、逃げ場を全部塞いでいく。
鶴見が倒れている。五人が原因不明の熱に苦しんでいる。
そして椎名も——あの顔色の悪さ。あいつだって無事じゃないはずだ。
校舎の影に座り込んだまま、動けなかった。
左腕がじくじくと脈打っている。
ポケットの中のスマホが、体温で温まっている。ブロックしなかった通知の画面が、まだそこにある。
スマホを取り出した。
メッセージアプリのトーク一覧。椎名蓮の名前。未読の山。
最後のメッセージは三日前だった。
『読んでくれた? ごめん。でも嬉しい』
あの一言が、画面の中で光っている。
痣がずきりと痛んだ。鶴見がうわ言を言っている。五人が倒れている。
一人で止められなかった。それは、もう証明された。
俺の知識だけじゃ足りない。
あいつの目が必要だ。
それは——利用じゃないのか?
俺も結局、椎名と同じことをしようとしているんじゃないのか?
(……違う)
違う、と思いたかった。
俺は椎名を「利用」したいんじゃない。一緒に戦いたいんだ。
でもその区別は、椎名が俺に言った「最初はそうだった。でも今は違う」と、どう違うんだろう。
カーソルが点滅している。本屋で消した文字と同じように、何も打てないまま。
ただ今度は、画面を伏せることができなかった。
風が吹いた。
校庭の木の葉がかさかさと鳴る。
その音に混じって——微かに、あの声が聞こえた。
『ひとり……にしないで……』
俺は、スマホを握りしめたまま、夜空を見上げた。
星が見えた。合宿所で見た満天の星空とは違う、都会の薄い星だ。
あの時は、隣に椎名がいた。
今は一人だ。
一人じゃ、無理だった。
それだけが、残酷なほど明確な事実として、夜の底に横たわっていた。
