林間学校から帰った翌日。
俺はスマホのメッセージアプリを開いて、椎名蓮のトーク画面を長押しした。
ブロック。
——の寸前で、指が止まった。
結局、ブロックはできなかった。
未読の山だけが、通知バッジの数字となって画面の隅に居座っている。
だから画面を伏せて、見ないことにした。
裏返したスマホの、黒い背面だけが俺を見ている。
ブブッ。
伏せたスマホが震えた。通知バーに椎名の名前が一瞬だけ光る。
『ごめん。ちゃんと話したい』
見ないようにしていたのに、目が勝手に読んでしまった。
画面を裏返す。枕の下に押し込む。
それでも、文字が網膜に残っている。
***
夏休みの残り二週間が、どろどろと溶けるように過ぎていく。
俺の日常は、林間学校の前に巻き戻った。
朝、起きる。飯を食う。本を読む。ネットを見る。飯を食う。寝る。
誰とも喋らない一日。これが俺の「普通」だったはずだ。
以前は、この静けさが心地よかった。一人の時間は、俺だけの城だった。
なのに今は、静けさがうるさい。
本を読んでいても、主人公の台詞が全部、椎名の声で再生される。テレビをつけても、バスケの中継が始まるとチャンネルを変える。
温度を知ってしまった体は、冷たさに敏感になる。隣に誰かがいる心地よさを知ってしまったら、一人の静けさは「平穏」ではなく「空虚」になる。
椎名のいない日々は、ただの空白だった。
椎名からのメッセージは毎日来た。
最初は謝罪ばかりだった。『ごめん』『本当にごめん』『話を聞いてほしい』。
俺は一通も開かない。通知バーに表示される冒頭の一行だけが、否応なく目に飛び込んでくる。それだけで十分すぎるほど痛かった。
***
林間学校から帰って三日目。
さすがに部屋に籠もりきりだと母さんが心配するので、買い物の口実で外に出た。
本屋に行った。
いつもの習慣で、オカルト雑誌のコーナーに足が向く。
新刊が出ていた。表紙に心霊スポットランキングの文字。四位に「渡り廊下」が載っていた。あの場所とは違うけど、似たような構造の心霊スポットだ。
学校の廊下と体育館を繋ぐ渡り廊下で、深夜に足音が聞こえるという話。俺が林間学校で語った伝承と、構造がそっくりだった。
——椎名に見せたい、と思った。
反射的にポケットのスマホに手が伸びた。
メッセージアプリを開いて、椎名とのトーク画面に指を滑らせて。
『これ、4位に渡り廊下載ってる』
そう打ちかけた文字を、一文字ずつ消した。
笑の括弧を消して、「る」を消して、「載ってる」を消して、「渡り廊下」を消して。最後に「これ」を消した。
空白の入力欄。カーソルが点滅している。
俺は何をやっているんだ。
利用されていたんだろ。あいつにとって俺は「オカルトに詳しい便利な奴」だったんだろ。
なのに、オカルト雑誌を見つけた瞬間に椎名のことを考えるなんて、まるで——まだ繋がっていたいみたいじゃないか。
(別にいいけど。見せたかっただけだし。深い意味なんかないし)
誰に言い訳しているんだ。自分にか。
雑誌を棚に戻した。何も買わなかった。
***
翔太から時々メッセージが来た。
『椎名と何かあった?』と聞かれて、『大丈夫。ちょっと夏バテ』とだけ返した。
翔太は『ならいいけどさ。無理すんなよ』と返してきた。嘘だとわかっていても踏み込まない優しさ。それに甘えている自分が嫌だった。
椎名からのメッセージは、内容が変わり始めていた。
謝罪から、日常の報告に。
『今日は部活で三対三やった。凪がファールしまくって退場した』
『涼真が文化祭の企画書作ってた。気が早すぎる』
何気ない日常。俺がいない日常。
通知バーの冒頭だけを読んで、開かない。既読はつけない。でも、通知を切ることもできない。
椎名の一日が、一行ずつ俺のスマホに積もっていく。
***
異変が起きたのは、林間学校から五日目の夜だった。
歯を磨いていた。洗面台の鏡に、自分の顔が映っている。蛍光灯の白い光。水道の蛇口から水がぽたぽた落ちる音。何でもない、いつもの夜。
泡を吐き出して、顔を上げた。
鏡の中の俺の後ろに、誰かが立っていた。
小さい。俺の肩くらいの高さ。制服を着ている。顔は——暗くて見えない。
洗面所の蛍光灯はついている。なのに、そいつの顔だけが影に沈んでいる。
歯ブラシが手から落ちた。洗面台にカラン、と乾いた音を立てて転がる。
振り返った。
——誰もいない。
鏡をもう一度見る。俺だけが映っている。顔が真っ青だ。
洗面台の蛇口から、水がぽたぽた落ちている。さっきと同じ音。でも、水を止めたはずだ。
蛇口のハンドルに触れる。きつく閉まっている。なのに水が落ちている。
——ぽた。ぽた。ぽた。
水滴が落ちるたびに、洗面台のステンレスに小さな音が反響する。
左腕の痣がずきりと疼いた。
俺は洗面所の電気を消して、部屋に逃げ帰った。
布団に潜り込んで、スマホを握りしめる。
椎名のトーク画面が開いていた。
いつの間に開いたのか、自分でもわからない。
指が、入力欄に触れている。
相談したい。
今、洗面所で見たものを。鏡に映ったものを。
あいつなら——あいつの目なら、あれが何だったのか、わかるかもしれない。
『さっき鏡に』
四文字打って、止まった。
——これを送ったら、俺はまた「利用」しているのと同じだ。
怖いことがあった時だけ頼って、都合のいい時だけ連絡して。それは椎名が俺にしたことと何が違う。
四文字を消した。
スマホを枕の下に押し込んだ。
(一人で何とかする。あいつには頼らない)
***
林間学校から帰って最初の週末。
町内の夏祭りに、母さんに引きずり出された。
「あんた、最近食べないし顔色悪いし。少しは外の空気吸いなさい。浴衣出しといたから」
反論する気力もなかった。確かに鏡を見ると頬がこけていて、目の下に隈ができている。林間学校の前の俺は「幽霊みたい」だと自分で思っていたけど、今の俺は幽霊以下だ。
紺色の浴衣に袖を通した。母さんが「似合うじゃない」と言ったけど、鏡に映る自分はやっぱり幽霊みたいだった。色が白すぎて、浴衣の紺が余計に肌を透かせている。
神社の境内に屋台が並んでいる。焼きそばの匂い、りんご飴の赤、金魚すくいの水音。子供の頃は好きだった光景が、今はただ眩しいだけだった。
母さんが知り合いを見つけて話し込んだ隙に、人混みの端に逃げた。石灯籠の影に隠れて、イヤホンを片耳だけ押し込む。
「——夜森?」
心臓が止まった。
聞き間違いじゃない。この声を聞き間違えるわけがない。
顔を上げた。
提灯のオレンジ色の光の中に、椎名蓮が立っていた。
浴衣だった。
黒地に灰色の細い縞が入った、大人びた柄。帯の結び方が綺麗で、着慣れている感じがした。和装でもこいつは隙がない。むしろ制服やジャージの時より色気がある。襟元から覗く鎖骨のライン。下駄の歯が石畳を踏む、カラン、という音。
——でも、顔色が悪かった。日焼けした肌の下に、不自然な青白さが透けている。目の下に隈。頬がこけている。
(こいつも、眠れてないのか?)
「……なんで、ここに」
「凪と来た。……あいつ今、射的で店の景品全部取ろうとして揉めてる」
椎名は苦笑したけど、笑顔が弱かった。いつもの王子様スマイルの出力が、六割くらいしか出ていない。
気まずい沈黙が落ちた。
祭り囃子の音。子供の笑い声。りんご飴を持った女の子が横を通り過ぎる。
二人の間だけ、音が遠い。
「……浴衣」
椎名が、ぽつりと言った。
「似合ってる」
「え」
「紺、いい。肌が白いから映えるっていうか……」
語尾が小さくなって、椎名は視線を逸らした。耳が赤い。
(こいつ、こんな時でもそういうこと言うのか)
「……椎名も……。浴衣、似合ってると思う」
口が勝手に動いた。嘘じゃない。似合ってるのは事実だ。事実を言っただけだ。
椎名が目を丸くした。それから、困ったように頭を掻いた。
「……ありがと」
声が小さかった。王子様じゃない声。素の、ただの男の子の声。
また沈黙。
言いたいことはたくさんあるはずなのに、何一つ言葉にならない。
椎名のメッセージが毎日来ていること。謝罪が日常報告に変わったこと。通知バーの一行を、毎日読んでいること。
——鏡に映ったあれのこと。
「なんか」
椎名が俺の顔を覗き込んだ。目が合う。提灯の明かりに照らされた焦げ茶色の瞳が、心配そうに揺れている。
「……痩せた?」
胸が詰まった。
俺もそう思っていた。こいつのことを。林間学校の時より明らかに頬がこけていて、目の下の隈が濃くて。同じことを思っていたのに、先に言われた。
「……椎名こそ」
「え?」
「痩せたでしょ。顔色も悪いし。……ちゃんと食べてる?」
聞いてから、しまったと思った。心配しているのがバレる。距離を置くと決めたのに。「触らないで」と言ったのは俺なのに。
椎名が一瞬、目を見開いた。
それから——ふっと、力の抜けた笑みを浮かべた。寂しいのに嬉しい、みたいな、矛盾した顔。
「……お前に心配されるとは思わなかった」
「心配してない。見ればわかるから言っただけ」
「それを心配って言うんだよ」
返す言葉が見つからなくて、俺はりんご飴の屋台を睨んだ。りんご飴は何も悪くない。
「夜森」
「……なに」
「俺、お前に——」
椎名が何かを言いかけた。
目が真剣だった。メッセージで何十通も送ってきた言葉を、今度は直接伝えようとしている。
その瞬間。
——ぞわり。
首筋の産毛が逆立った。
左腕の痣が、ずきん、と脈打つ。
祭りの喧騒が、ぐにゃりと歪んだ。提灯の明かりが一瞬だけ揺らいで、影が濃くなった。
椎名の肩越しに——石灯籠の陰に——小さな影が見えた。
制服姿。こっちを見ている。祭りの人混みの中で、そいつだけが動いていない。
(いる)
体が勝手に動いた。
気づいた時には、椎名の胸に顔を埋めていた。
浴衣の布地が頬に触れる。体温が高い。心臓の音が聞こえる。ドクン、ドクン。速い。俺がしがみついたから速くなったのか、もともと速かったのか。
椎名の体が強張って、それからゆっくりと腕が俺の背中に回りかけた。
——だめだ。
我に返った。
怪異に怯えて、反射的にこいつに縋った。これじゃ林間学校の夜と同じだ。怖い時だけ頼って。都合のいい時だけ触れて。
「ごめっ——」
弾かれたように体を離した。
「ごめん、なんでもない。間違えた」
間違えた? 何を? 意味がわからない。自分でも意味がわからないことを口走っている。
「夜森、待って——」
椎名の声を背中に聞きながら、俺は人混みに紛れた。
走った。下駄が石畳に引っかかって、何度もつまずきそうになりながら。
振り返らなかった。振り返ったら、二つの意味で終わる。
——でも、一瞬だけ見えた。
人波の隙間から、提灯の光の中に立つ椎名の姿。
伸ばしかけた手。下ろされた腕。
浴衣の袖が、夜風に揺れている。
その顔が——ひどく、悲しげだった。
俺を見つけて嬉しかったのに、また目の前からいなくなった。そういう顔。
石灯籠の影は、もう見えなかった。
怪異の気配も消えていた。
残ったのは、椎名の体温の記憶と、浴衣越しに聞こえた心臓の音だけだった。
左腕がずきりと疼いた。
浴衣の袖をめくると、痣が前より濃くなっている。風呂に浸けても、そこだけがじんと冷たい。あの渡り廊下の冷気を閉じ込めたみたいに。
(——間違いない。これは霊障だ)
オカルトマニアとして、何十冊も読んできた。霊的な接触の後に現れる原因不明の痣。日に日に濃くなり、患部だけが不自然に冷たい。全部、本に書いてあった症例と一致する。
あの夜、名前を呼ばれて振り返った。あの瞬間に繋がりができた。そして痣は——その繋がりの、物理的な証拠だ。
(——帰ろう)
母さんを探して、「体調が悪い」と言って帰った。
嘘じゃなかった。本当に気持ち悪かった。怪異のせいか、人混みのせいか、もう区別がつかない。
***
夜、夢を見るようになった。
あの渡り廊下の夢だ。
暗闇の中に、男の子が立っている。制服姿。顔は見えない。
冷たい手で俺の手を引く。小さいのに、振りほどけないくらい強く。
『……ひとり、ぼっち……』
最初の夜は、ただの悪夢だと思った。
二日目、男の子の顔が見えた。眼球がない。深い穴が二つ。黒い涙が頬を伝っている。悲鳴を上げようとした。声が出なかった。
三日目、男の子の隣に、もう一つの影が現れた。長身の影。背が高くて、肩幅が広くて。
——嫌だ。
四つの暗い穴が、俺を見つめている。男の子が笑った。目のない顔で。口だけが裂けるように開いて。
『いっしょ……だね……』
毎晩だ。夢を見ない夜がなくなった。
起きている時にも微かに聞こえる気がする。冷蔵庫の音に紛れて。エアコンの風に混じって。
『ひとり……にしないで……』
耳を塞いでも聞こえる。音じゃないのだ。脳に直接流れ込んでくる。
渡り廊下の子は、俺を覚えている。名前を呼ばれた夜に結ばれた糸を辿って、追いかけてきている。
***
夏休みも残り数日になった八月の終わり。
椎名からのメッセージの未読は、二十三件になっていた。
謝罪から日常報告に変わり、最近は二日に一通に減っている。減っていく頻度が、椎名の諦めを数値化しているみたいで、それを眺めている自分が一番気持ち悪かった。
ある夜、布団の中でスマホをいじっていた。
ニュースアプリを見ていたはずが、指が勝手にメッセージアプリを開いていた。
気づいた時には、椎名のトーク画面が表示されていて。
目が、最新のメッセージを読んでしまった。
『今日、部活で怪我した奴がいて。大したことなかったんだけど、保健室行く途中で渡り廊下のこと思い出した。お前なら「それ、怪異に引き寄せられたんじゃない?」って言いそうだなって。……ごめん。こういうの、送っても迷惑だよな』
既読がついた。
慌ててスマホを閉じた。
遅い。もう遅い。既読の青いマークがついてしまった。
——数秒後、通知音。
『読んでくれた? ごめん。でも嬉しい』
俺はスマホを枕の下に押し込んだ。
暗闇の中で、心臓の音だけが聞こえる。
返したい。
あの文章に、「俺も、怪異に取り憑かれたかも」って返したい。渡り廊下の話をしたい。鏡に映ったあれのことを聞いてほしい。椎名と、二人だけの周波数で繋がりたい。
返したら終わる。
何が終わるのかもわからないのに、終わることだけが怖かった。
「嬉しい」。
椎名は「嬉しい」と言った。
俺が既読をつけただけで。それが嬉しいだなんて。
——でも、もし本当だったら。
(やめろ。期待するな)
俺は枕に顔を埋めた。
体の芯だけが熱くて、手足だけが冷たい。
***
夢の中の長身の影。あれが椎名だったら。
あいつは俺より「見える」体質だ。もっと酷いことになっているんじゃないか。
夏祭りで見た、あの顔色の悪さ。日焼けの下に透けていた青白さ。
同じ夢を見ているんじゃないか。同じ声を聞いているんじゃないか。
もしかしたら、あの「嬉しい」のメッセージを送った夜も、同じ暗闇の中で——。
(……関係ない。もう関係ないんだ)
椎名のことなんかどうでもいい。利用されていたんだ。
——嘘だ。
どうでもいいなら、なぜブロックできない。なぜ夢の中の長身の影を見て息ができなくなる。なぜ夏祭りで背中を見ただけで足が震える。
俺は——椎名蓮のことが、どうでもよくなんかない。
認めたくない。認めたら、また傷つく。
でも今日はまだ、見ないフリができる。
俺は布団を頭から被って、目を閉じた。
暗闇の中で、冷たい手が待っている。
俺を離してくれない何かが、あの場所から、ずっとついてきている。
夏が終わる。
九月になれば、学校が始まる。椎名と同じ教室で、同じ空気を吸うことになる。
その事実が、怪異よりも恐ろしかった。
