林間学校、最終日の朝。
窓の外はどんよりとした曇り空だったが、俺の胸の中だけは、不思議と穏やかだった。
帰りのバスを待つ間の自由時間。
俺は大部屋の隅で荷物をまとめていた。
鞄の底に押し込んでいた粗塩の袋に触れた。
塩も、数珠も、オカルト本も——出発前はただの陰キャの自己防衛グッズだった。
でも今は、椎名と俺の「共犯」の証だ。
畳んだジャージをボストンバッグに入れながら、この四日間を反芻する。
肝試しの夜。暗い道を並んで歩いた。椎名の震える手。俺にだけ見せた弱さ。
渡り廊下の怪異。二人だけが知っている秘密。
昨夜の怪談大会。目配せ一つで通じ合えた、あの感覚。
暗い廊下で迎えに来てくれた椎名。「俺が守る」と言ってくれた声。
(……終わっちゃうな)
来る前は「帰りたい」しか考えていなかったのに。
四日前、このバッグにオカルトグッズを詰め込んだ時は、「うまくやり過ごす」ことだけが目標だった。
今は、もう少しだけこの時間が続けばいいのに、と思っている自分がいる。
学校に戻ったら、椎名は一軍のトップで、俺はカースト最下層の陰キャだ。
この非日常が終われば、あの距離感も消える。そんなことはわかっている。
でも——もしかしたら。
椎名は、学校でも俺に話しかけてくれるんじゃないか。
廊下ですれ違った時、あの目配せをしてくれるんじゃないか。
(……期待するな。俺みたいなのが)
自分で自分を諫めているのに、口元が緩みそうになる。
それくらい、この四日間は特別だった。
俺の十七年間で一番——。
「陽」
名前を呼ばれて顔を上げる。翔太が立っていた。
いつもと違って、少し言いにくそうな、深刻な顔をしている。
「……ちょっと、いいか?」
「どうした? 忘れ物?」
「いや、そういうんじゃなくて」
翔太はちらりと周りを気にしてから、声を潜めた。
「お前と椎名、急に仲良くなったよな?」
「仲良いっていうか……まあ、ペアだったし、いろいろあって」
「だよな」
翔太は何かを言い淀んでいたが、意を決したように口を開いた。
「これ言うか迷ったんだけどさ、お前のために言っとく。——あの肝試しのペア決め。あれ、くじ引きじゃなかったらしいぞ」
「え?」
「ずっと引っかかっててさ。くじ引きの時、凪が涼真に何か耳打ちしてたの、俺見てたんだよ。それで今日、凪に直接聞いた。——『蓮に頼まれて仕込んだ』って白状したよ」
時が止まった。
周りの音が遠くなる。誰かが笑っている声、鞄のファスナーを閉める音、窓の外で鳴いている鳥の声。全部が水の底に沈んでいく。
「は? どういうこと……」
「だから、椎名のやつ、最初からお前と組むつもりだったんだよ」
「なんで俺と……」
「お前、オカルト詳しいだろ? 詳しい奴をそばに置いて、目立ちたかったとか?」
翔太は俺の肩に手を置いた。
「理由はわかんないけど。俺が言いたいのはさ。あいつ、お前のこと利用してるかもしれないってこと。俺たち平民とは違う、一軍の奴だし。注意したほうがいいかもな」
翔太の声には、純粋な懸念が滲んでいた。
悪意はない。翔太は友達として、俺を心配してくれている。
だからこそ、その言葉は逃げ場がないくらい正確に、急所を抉った。
「……ありがとう。教えてくれて」
俺は、できるだけ普通の声で言った。
うまくいったと思う。声は震えなかった。
翔太が少し安心したような顔で頷いて、離れていく。
一人になった。
世界から、色が抜けていく。
さっきまで温かかった荷物の中身が、急にただの「モノ」に戻った。粗塩は粗塩。数珠は数珠。オカルト本はオカルト本。「共犯の証」なんて、俺が勝手に意味を乗せていただけだ。
(……そうだよな)
(俺が勝手に特別だと思い込んでただけだ)
椎名の笑顔が脳裏に浮かぶ。
『お前は、信じてくれると思ったからだ』
——今の、一軍で王子様の椎名の言うことなら、信じてくれる奴は多いんじゃないか。
『一人で行くなよ。危ないだろ』
——俺を利用するために、手元に置いておきたかっただけだ。
『俺が守るって約束しただろ』
——甘い言葉で、俺を惑わすための言葉だった……。
全部、辻褄が合ってしまう。
最初から最後まで、椎名にとって俺は「オカルトに詳しい便利な奴」でしかなかった。
不思議と、怒りは湧かなかった。
怒りが湧くのは、対等な関係を前提にしている時だ。裏切られた、と感じるのは、信じていた相手が自分と同じ目線にいると思っていた場合だけだ。
俺と椎名は、最初から対等じゃなかった。
一軍の頂点にいる椎名蓮が、カースト最下層の俺なんかに、本気で構うわけがない。
当たり前だろう。冷静に考えれば、最初からわかっていたはずだ。
代わりに、じわじわと広がっていくのは、底なしの恥ずかしさだった。
俺は——期待していた。ほんの数分前まで、「学校でも話しかけてくれるんじゃないか」なんて夢みたいなことを考えていた。
その自分が、死ぬほど恥ずかしい。
(ごめん。迷惑だったよね、椎名)
鞄のファスナーを閉めた。
指先が白くなるほど強く握りしめていることに、自分では気づかなかった。
***
ふと、廊下の向こうから椎名が歩いてくるのが見えた。
俺を見つけて、パッと顔を輝かせる。
「夜森!」
その笑顔。
三日前までの俺なら、息を止めていただろう。
今は、ただ胸の奥が冷たく軋むだけだった。
あの笑顔が本物なのか作り物なのか、もうわからない。わからないことが、一番辛い。
「……椎名」
「ん?」
「くじ引き。お前が仕込んだんだって……本当?」
椎名の動きが止まった。
笑顔が凍りつく。
「え……」
「翔太から聞いた。凪に頼んだんだろ? 俺とペアになるように」
否定してくれ。
「何言ってんだ、そんなわけないだろ」って笑い飛ばしてくれ。
そう祈っているのに、椎名は視線を逸らした。
「……ああ。そうだよ」
わかっていたのに。翔太から聞いた時点で覚悟していたのに。
それでも、本人の口から出たその言葉は、胸の真ん中を正確に貫いた。
「最初は、そうだった。お前も『見える』んだと思って——同じ側の人間だと思って、近づいたんだ。オカルトに詳しいお前なら、俺のことをわかってくれるって」
椎名は必死に言葉を紡いだ。
「でも! 今は違う! 今はそんなつもりじゃ——」
最初『は』。
その三文字が、全部物語っている。
やはり、最初から目的があって——利用するつもりで近づいたのだ。
俺の中にあった小さな温もりが、音もなく消えた。
「……ごめん」
俺は言った。
自分でも驚くほど、穏やかな声だった。
「俺が勝手に勘違いしてた。……迷惑だったよね」
椎名が、目を見開いた。
「は——? なんで、お前が謝って——」
「いいよ。気にしないで。俺が一人で勝手に盛り上がってただけだから」
声が震えないように、ゆっくり、丁寧に言葉を選ぶ。
この四日間で俺が感じた「特別」は、全部、俺の一人芝居だった。椎名は何も悪くない。利用するつもりだったのは事実かもしれないけど、俺が勝手に意味を読み替えて、勝手に期待して、勝手に傷ついているだけだ。
「待てよ——夜森、違う、聞いてくれ!」
椎名が手を伸ばしてきた。
俺の腕に触れる。
その手が、昨夜の暗い廊下で隣を歩いてくれた手だと気づいて——息が詰まった。
あの手の温度を、俺は知っている。震えながらも俺の半歩前を歩いてくれた、あの手だ。
「……触らないで」
振り払ったんじゃない。
そっと、指を一本ずつ外すように、その手を退けた。
椎名の指が離れていく感触が、やけに鮮明だった。
「ごめん。……ちょっと、一人にさせて」
椎名の顔を見ることができなかった。
見たら、きっと駄目になる。
目の縁が熱い。唇が震えそうになる。
でも、泣くのだけは——こいつの前で泣いたら、最後の自尊心まで全部なくなる。
利用されていたと知って泣くなんて、「特別だと思ってました」と白状するのと同じだ。
それだけは、絶対に、だめだ。
俺は背を向けた。
ポツリ、と頬に冷たいものが落ちた。
雨だ。
いつの間にか、空が泣き始めていた。
背後で、椎名が何かを叫んでいる気がした。
でも、雨音が全部消してくれた。
***
帰りのバス。
俺は一番後ろの席で、窓の外を流れる景色を眺めていた。
雨粒がガラスを叩き、緑の山並みを滲ませている。
隣の席は空いている。誰も座ろうとしない。
行きのバスでもこうだった。一番後ろの席、隣は空席。あの時は「いつものこと」だと思っていた。今は、空席の意味が違う。
イヤホンを耳に押し込んで、大音量で音楽を流す。
四日前、この音は俺を肯定してくれていた。世界と俺の間に防壁を作ってくれる、俺だけの城壁だった。
今は、何も聞こえない。
音は鳴っているのに、俺の耳を素通りしていく。音楽が防いでくれるのは外からの侵入だけで、内側で崩れていくものには無力だった。
無意識に、指先が窓ガラスに触れていた。
冷たいガラスに、指の跡がくっきりと浮かぶ。結露の膜を拭った跡。指先の熱が、ガラスの向こう側に逃げていく。
その指の跡を見つめていたら、ふと——バスの前方で、同じように窓に手を当てている影が見えた。
椎名だった。
こっちを見ていない。反対側の窓に額を押し付けて、雨の景色を見ている。その手が、ガラスに触れている。
同じ姿勢。同じ仕草。何十席も離れた場所で、俺たちは同じことをしている。
視線を逸らした。
窓ガラスに、自分の顔が映った。
行きのバスでも、こうやって自分の顔を見た。あの時は「幽霊みたいだ」と思った。
今、映っているのは——泣き出しそうな、みっともないガキだった。
幽霊のほうがまだましだ。幽霊には感情がない。感情がなければ、こんなに痛くなかったのに。
ブブッ。
ポケットのスマホが震えた。
『椎名蓮』からのメッセージ通知。
通知バーに表示された冒頭だけが、否応なく目に飛び込んでくる。
『ごめん。本当にごめん』
『友達になりたいと思ったのは本当なんだ』
『話を聞いてほしい』
画面をそっと伏せた。
通知は閉じた。
でも、ブロックはしなかった。
なぜブロックしないのか、自分でもわからない。
ブロックすれば楽になる。二度と通知は来ない。椎名の名前を見なくて済む。
なのに、その最後の一線だけが越えられない。
わからないまま、スマホを鞄の奥底に放り込んだ。
雨脚が強くなっていく。
ガラスを伝う雨粒が、いくつも合流して、太い筋になって流れ落ちる。
バスがトンネルに入った。
一瞬で外の景色が消え、車内の灯りだけになる。窓ガラスが鏡になった。
そこに映った自分の顔の向こうに——ほんの一瞬だけ、別の顔が重なった。
バス前方の席に座る椎名の横顔が、窓の反射で俺の顔の隣に映っていた。
並んでいるように見えた。ガラスの中だけ。
トンネルを抜けた。光が戻って、反射が消えた。椎名の顔も消えた。
その軌跡を目で追いながら、俺はぼんやりと思った。
林間学校で、肝試しなんて参加しなければよかった。
ペアにならなければよかった。
椎名蓮の弱さを知らなければよかった。
あの渡り廊下を、二人で渡らなければよかった。
——嘘だ。
本当は、一つも後悔していない。
後悔していないから、こんなに痛い。
目を閉じた。
まぶたの裏に、椎名の笑顔がちらついて、慌てて目を開ける。
雨に滲んだ山の緑が、ぼやけて見えた。
雨のせいだ。目が滲んでいるのは、雨のせいだ。
***
一方、バスの前方の座席。
椎名蓮は、窓ガラスに額を押し付けて後悔に沈んでいた。
(……最悪だ)
夜森にそっと外された手が、まだ痺れている。
振り払われたんじゃなかった。
ただ静かに、丁寧に、指を一本ずつ外すように退けられた。
あの柔らかな拒絶が、殴られるよりもずっと深く効いている。
あの目が、忘れられない。
怒っていなかった。責めてもいなかった。
赤くなった目の縁を必死に隠して、「ごめん」と言った。
——お前が謝るなよ。悪いのは俺だろ。怒れよ。殴れよ。
怒鳴られたほうがましだった。
殴られたほうがましだった。
なのに夜森は——自分を責めた。
「俺が勝手に勘違いしてた」と。「迷惑だったよね」と。
あいつは、最後まで俺を責めなかった。
(……それなのに俺は、夜森を深く傷つけた)
メッセージアプリの画面を見る。
三通送った。既読がつかない。
でもブロックされてはいない。
いつから変わったのか——正確に覚えている。
肝試しの夜だ。
暗い道を並んで歩いた。
俺は必死で平気な顔を作っていた。見えるのだ、俺には。暗闇の中に蠢く「何か」が。子供の頃からそうだった。見えるのに見えないフリをして、平気な顔をして、笑って——そうやって生きてきた。
誰も気づかなかった。鶴見も、桐生も、他の誰も。
だから夜森が「見える」側かもしれないとわかった時——鶴見から聞いたオカルト知識のこと、渡り廊下での本気の反応、全部が符号したあの瞬間——初めて、一人じゃないと思えたんだ。
クラスメイトも、バスケ部の奴らも、学校内で俺を知る人は「蓮は何も怖くない」と思っている。弱さを見せちゃいけない。見せたら、この位置が崩れる。
——夜森だけが、気づいた。
『……大丈夫?』
小さな声だった。
「ビビってんの?」とも「大丈夫だろ」とも言わない。
ただ「大丈夫?」と——聞いてくれた。
俺が怖がっていることを、受け入れた上で、心配してくれた。
それだけのことだ。たった一言だ。
でも、その一言を言ってくれた人間は、十七年間で夜森が初めてだった。
あの瞬間、目の前の景色が晴れ渡るように感じた。
秘密の取引を結んだ翌日。
夜森が俺の笑顔を見た時のことを覚えている。
あいつが——あの無表情の夜森が、鼻から息を漏らした。「ふっ」と。
笑ったのだ。ほんの微かに、口の端だけで。
あれは——笑顔だった。
あの表情のない奴が、初めて見せた人間らしい顔。
——かわいい。
飲み込んだ。男が男に「かわいい」なんて、おかしいだろ。
でも、あの顔をもう一度見たいと思ってしまった。
次はどうしたら笑うのか。何を言えば、あの硬い表情が崩れるのか。
気がつけば、俺は夜森の反応ばかり追いかけていた。
昨夜の怪談大会。オカルトの話になった途端、夜森の目が輝いた。
あの目だ。普段は伏し目がちで、人の顔をまっすぐ見ないくせに、オカルトの話をしている時だけ別人になる。早口になって、手振りが大きくなって、瞳の奥に灯りが点る。
目配せするたびに、夜森が小さく頷き返してくれた。俺たちだけの周波数で。
ただ——こいつの隣にいたかった。それだけだった。
なのに。
俺は、あいつを傷つけた。
「最初はそうだった」なんて。正直に言ったつもりだった。嘘をつくのは嫌だった。
でも——言葉が足りていなかった。
「最初から、お前が特別だった」
恥ずかしくて言えなかった、俺の本当の気持ちだ。
俺にできたのは、もっと早く自分の気持ちに気づいて、秘密の関係が壊れる前に——いや、壊れた後でもすぐに、本当のことを伝えられたはずだ。
メッセージアプリの画面を見る。
既読がつかない。
でもブロックされてはいない。
その中途半端さが、夜森らしくて——胸が締まる。
完全に拒絶できないところ。切り捨てきれないところ。
あいつの優しさなのか、弱さなのか。たぶん両方だ。
「……蓮、大丈夫か? 酔った?」
隣の席の鶴見が、心配そうに声をかけてくる。
「……いや、なんでもない」
俺は力なく笑って誤魔化した。
鶴見は何も知らない。自分が白状したことが、俺と夜森の間の何を壊したか、わかっていない。
鶴見のせいじゃない。頼んだのは俺だ。全部、俺のせいだ。
ふと、後ろを振り返る。
最後部座席で、イヤホンをして窓の外を見ている夜森の後ろ姿が見えた。
小さくて、孤独で、でも背筋だけはまっすぐな背中。
あの背中に触れたい。
隣に座って、全部説明したい。
今の俺にあるのは、ただお前の隣にいたいという、みっともない本音だけだ。
でも、今の俺にはその資格がない。
「触らないで」と言われた。あの静かな声で。
あの言葉を無視して近づくのは、夜森の気持ちを考えていなかった最初のときと同じだ。
バスは容赦なく進んでいく。
俺たちを分断したまま、日常へと戻っていく。
雨が強くなる。フロントガラスをワイパーが忙しく往復している。
もし——もし、もう一度チャンスがあるなら。
今度はもっとちゃんとした、俺の本当の気持ちを伝えたい。
あの笑顔をもう一度見たい。
「ふっ」と鼻から息を漏らす、あの微かな微笑み——。
でも、チャンスなんてあるのだろうか。
俺が壊したものは、簡単には戻らない。
(……ごめん、夜森……)
心の中で呟いた名前は、雨音にかき消されて誰にも届かなかった。
