ビビリな一軍男子に憑かれ(好かれ)てしまった。


 部屋の照明が消された。
 スマホのライトだけが、下から顔を照らしている。

「なぁー、暇だし怪談しようぜ。怪談」

 林間学校の三日目、夜。
 消灯後の大部屋。布団を敷き詰めた畳の上に、男共が車座になっている。他の部屋の奴らまで集まっていた。
 中心にいるのは、やっぱり一軍の連中だ。鶴見がスマホのライトを顎の下にかざして、わざとらしく不気味な顔を作っている。

「俺がいっちばん怖い話持ってるから! これ聞いたらマジでトイレ行けなくなるぜ!」

 鶴見がハードルを上げまくって、トップバッターを買って出た。
 話し始めたのは、「タクシーに乗ったら運転手が消えた」という古典的なやつだった。しかも話し方がネット配信者のリアクション動画みたいで、怖さよりも突っ込みどころが満載だ。
 要所要所で「やばくね?」「ここがやばいんだけど」を挟むから、テンポが悪いことこの上ない。

「それネットで見たことあるー」
「オチ弱くね?」
「うるせー! 雰囲気だよ雰囲気! 怖がれよ!」

 鶴見が抗議する横で、桐生だけが本気で怯えていた。
「……もうやめないか、こういうの。明日も早いんだし」
「なんだよ涼真、ビビってんの?」
「ビ、ビビってない。明日の活動に響くと言ってるんだ!」
 それ怖くなって寝れなくなっちゃうって、自白してるようなものだと思ったが、何も言わなかった。

 二番手は翔太だった。「夜中のコンビニで、店員の顔が全員同じだった」という、都市伝説系のやつ。まあまあの出来だったけど、最後に自分で「嘘だけどな!」と白状して場をぶち壊していた。翔太らしい。

「もっとガチなやつないの?」
「このメンバーでガチ勢いんのかよ」

 そこで翔太が、ぱっと俺のほうを見た。

「陽、お前も来いよ」
 翔太が手招きした。
 俺の腕を引っぱって、無理やり輪の中にスペースを作ってくれる。
「いいじゃん。お前、詳しいだろ? 本物の怖いやつ教えてくれよ」

 翔太の無邪気なリクエストに、周りの視線が一斉に集まる。
 十人以上の目が、暗闇の中で俺に向けられている。

「話して話して! ガチなやつ!」
「夜森って怪談とか詳しいの?」
「そうそう、こいつオカルト本めっちゃ持ってんだよ」

(無理無理無理。こんな大人数の前で話すとか、無理)

 心臓が縮み上がる。視線が痛い。
 俺は、無意識に輪の向こう側を見た。

 椎名がいた。
 壁に背中を預けて、片膝を立てた姿勢。スマホのライトが、その横顔を淡く照らしている。

「いいじゃん、聞こうぜ。夜森の話、面白そうだし」

 一軍のトップである彼の一言で、場の空気は完全に「聞くモード」に切り替わった。
 椎名は頬杖をついて、面白そうにこっちを見ている。
 その目は、「やってみろよ」と言っていた。

(……ほんとに話すの?)
 目で問いかけると、椎名は小さく、微かに頷いた。

 俺は唾を飲み込んだ。
 手のひらが汗ばんでいる。でも、不思議と声は出そうだった。
 オカルトの話をする時だけは、俺の中の何かが切り替わる。人見知りが消えて、代わりに別の回路が繋がる。スイッチが入ると止まらない。悪い癖だ。

「……じゃあ、この合宿所の話をしようか」

 場の空気が一瞬で変わった。
「え、ここの?」
「今いる場所の?」
「マジかよ」

 畳の上に広がったざわめきを、俺は静かに遮った。

「『渡り廊下の子』って聞いたことあるか?」

 沈黙。
 スマホのライトが揺れて、天井に影が踊る。

 俺は、低く、静かな声で語り始めた。

「昔、ここで夏合宿をしていたある運動部の生徒がいたんだ。サッカー部。彼は心臓に持病があって、試合には出られなかった。でもサッカーが好きで、チームが好きで、せめてみんなと同じように練習したくて、夜中にこっそり自主練をしていた。——合宿中に大会のメンバーが発表された。彼の名前はなかった。背番号7のユニフォームは、別の誰かに渡された。その夜、彼は渡り廊下で一人で泣いていたらしい。着るはずだったユニフォームを抱えて」

 声が、自分でも驚くほど落ち着いて響いた。
 こういう時だけだ。俺がまともに人前で喋れるのは。
 オカルトの話をしている時だけ、俺は俺を忘れられる。

「発作が起きたのは、あの渡り廊下だった」

 誰かが息を呑んだ。

「彼は助けを求めようとして、本館へ向かって這いずった。でも、喉が詰まって声が出ない。手が冷たくなって、指先の感覚がなくなって、それでも廊下の床を一メートル、また一メートルと進んだ。爪が剥がれかけても、止まらなかった。誰かに——誰でもいいから、気づいてほしくて」

 声に熱が入る。自分でも制御できないくらい、言葉が溢れてくる。

「廊下の途中に、窓があるだろ。月明かりが差し込む、あの窓。彼はそこで力尽きたんだ。窓の下で蹲って、膝を抱えて——誰にも気づかれないまま、冷たい床の上で息絶えた」

 ごくり、と誰かが唾を飲み込む音がした。
 俺の声はもう、自分のものじゃなかった。物語が俺を使って喋っている。

「それ以来、夜中にあそこを一人で渡ると、声が聞こえるらしい。『一緒にいて』って。……寂しがり屋の彼は、今でも一緒に遊んでくれる友達を探してるんだ」

 静寂。
 数秒間、誰も動かなかった。
 そして次の瞬間。

 ぷつ、ぷつん。
 部屋の電気が点滅した。

「ぎゃぁあああああ!!」
「ひっ……!」
 誰かが叫んで、みんなが一斉に身体を飛び跳ねさせた。
 桐生は小さく悲鳴を上げて、布団を頭から被っている。

「部屋の電気、誰かいじった!?」
「タイミング良すぎてビビったー」
「へ、部屋の電気つけるわ」

 話し手である俺も驚いて、少し身体が揺れてしまった。しかし誰にもバレてなさそうだ。よし。
 目の前の椎名は……。あれ?もしかして気絶してない?
 椎名は鶴見に肩を叩かれるまで、目を空けたまま微動だにしなかった。

「おい夜森、詳しすぎだろ! ディテールがリアルすぎて怖ぇよ!」
「爪が剥がれるとか言うなよ、想像しちゃっただろ〜」
「……もう寝よう。な、みんな寝よう。トイレ行けなくなる」

 桐生がしおしおとした表情で、寝る体勢を整え始める。

「すげぇな陽。話し方プロ並みじゃんか」
 翔太が、感心したような、ちょっと引いたような顔で言った。
「ううん、全部ネットの受け売りだよ……ごめん、長くなっちゃって」

 我に返って、急に恥ずかしくなる。
 やりすぎた。いつものパターンだ。スイッチが入ると暴走して、気がつけばドン引きされている。

(また、やっちゃった)

 俯いた視線の先で、自分の指先が小さく震えていた。
 でも本当は——あの話をしている間、指先が震えていた。
 誰にも気づかれないまま一人で死んでいった男子生徒の話に。

 ふと、視線を感じた。
 椎名だ。
 俺が「渡り廊下」の具体的な話に言及した瞬間から、その表情から笑みが消えていた。
 俺たちの視線が、暗闇の中で絡み合う。

 椎名は、ほんの数ミリだけ、首を横に振った。
(それ以上は言うな)
 無言の合図だった。

 俺は小さく頷いて、話を打ち切った。
「……まあ、ただの噂だよ。気にすることない」

 場が解散ムードになり、みんながそれぞれの部屋に戻っていく。

 その中で、俺だけが奇妙な高揚感を感じていた。
 あの一瞬の目配せ。誰にも気づかれない秘密の共有。
 言葉なんて交わしていないのに、何百回会話するよりも深く通じ合えた気がした。
 椎名と俺だけが、別の周波数で繋がっていた。

「お前、なんか椎名と仲良くなったな」
 顔見知りのクラスメイトが、布団を敷き直しながらポツリと言った。
「さっきも通じ合ってる感じだったし。肝試し以来、よくあいつお前のこと見てるぞ」
「……そうかな。別に、そういうのじゃないと思うけど」

 言葉で否定しながらも、わかっていた。
 椎名の視線を感じるたびに胸がざわつくのも、あの目配せ一つで世界が変わる気がするのも、「互いに意識している」のだと本当はわかっていた。

「ふーん? まあいいけどさ。あいつ一軍の王子様だからな、あんまり深入りすると火傷するんじゃね?」
 冗談めかして言われた言葉が、チクリと胸に刺さった。
 俺は返事を濁して、トイレに行くと嘘をついて部屋を出た。

***

 大部屋の扉を閉めると、世界の音が遮断された。
 しん、と静まり返った廊下。
 さっきまでの喧騒が嘘みたいに、建物全体が寝息を立てているような静けさだ。

 トイレは本館の一階、渡り廊下の入り口近くにある。
 自分で怪談を語っておいて、その場所に一人で向かうとか、正気の沙汰じゃない。
 クラスメイトの言葉が頭の中でぐるぐる回っていて、布団に入っても眠れそうになかった。

 俺は、自分の足音だけが響く廊下を、ゆっくりと進んだ。
 ミシッ……ミシッ……。
 一歩踏み出すたびに、床板が苦しげな音を立てる。古い木造の合宿所だ。建物自体が生き物みたいに軋む。

 窓の外は月が出ていた。
 青白い光が廊下に筋を引いて、俺の影を長く伸ばしている。

 ふと、視界の隅で何かが動いた気がした。
 壁に掛けられた古い鏡。
 合宿所の廊下には、なぜか所々に年季の入った鏡が掛けてある。木枠が黒ずんでいて、鏡面には細かい傷がついている。
 そこに、白いものが映ったような——。

 俺は足を止めて、鏡の方を見た。
 誰もいない。ただ、自分の青ざめた顔が、闇の中に浮かんでいるだけだ。
 でも、その鏡の奥に、もう一つの顔が重なって見えた気がした。
 同い年くらいの、男の——。

 目を凝らす。
 何もない。ただの古い鏡だ。

 俺は早足になった。
 心臓がうるさい。さっき自分で語った怪談が、脳内でリプレイされている。

(やめろ。自分で自分を怖がらせてどうする)

 トイレの入り口は、黒い口を開けて俺を待っていた。

 中に入ると、人感センサーが反応して、パッと蛍光灯がついた。
 白い光が目に痛い。タイルの床。古びた洗面台。個室が三つ並んでいる。
 普通のトイレだ。何も怖くない。

 用を足しながら、俺は鏡に映る自分に話しかけた。
「大丈夫だ。何もいない」

 そう声に出した時だった。

 ——ピチャ。

 個室の奥から、水音がした。
 一番奥の個室。扉は閉まっている。
 濡れた足が、タイルを踏むような音だ。

 ピチャ……ピチャ……。

 音が近づいてくる。
 個室の扉の下の隙間に、目が吸い寄せられる。
 何も見えない。でも音は確実に近づいている。タイルの上を、素足が一歩、また一歩と歩いてくる音。

 水が滴っている。
 天井からじゃない。壁からでもない。音の出どころがわからない。
 ただ、あの個室の中に「何か」がいて、それが動いている。

「っ……!」

 俺は慌てて手を洗い、飛び出すようにトイレを出た。
 手を拭く余裕なんてない。濡れた指先が冷たい。

 廊下に出ると、センサーライトが消え、再び暗闇が押し寄せてきた。
 窓の外で鳴いていた虫の声が、ぴたりと止んだ。森の中の肝試しでも同じだった。何かが近づくと、虫が黙る。
 背後に誰かがいる気配がする。
 振り返ってはいけない。
 オカルトの定石だ。追ってくるものに振り返ってはいけない。目を合わせたら、「認識」される。認識されたら、繋がりができる。

 俺はほとんど走っていた。
 スリッパが廊下で滑る。転びそうになって、壁に手をつく。
 早く部屋に戻ろう。みんなのいる、明るい場所に——。

 ——『はる』

 反射的に、振り返った。

 体が勝手に動いていた。「振り返るな」と自分に言い聞かせていたのに、名前を呼ばれた瞬間、首が勝手に——。

 暗い廊下の奥に、誰かが立っていた。
 小さな影。制服姿。距離があって顔は見えない。
 でも、こちらを見ている。じっと、動かずに。

 一秒。二秒。

 影が、消えた。まるで最初からいなかったみたいに。

 ——振り返ってしまった。
 繋がりが、できてしまった。

(霊感ゼロの俺に、声が聞こえた。名前を呼ばれて、振り返ってしまった。——その瞬間から、何かが変わった)

 足が震えている。呼吸が止まる。心臓だけが、狂ったように暴れている。

 頭の中に直接、流し込まれたような声だった。
 知らない声。同い年くらいの、判別のつかない声。
 でも、ひどく寂しげで、すがるような響き。

 空気の温度が変わった。
 吐いた息が、白い。
 ——夏なのに?

 八月の夜。気温は二十五度を下回らないはずだ。
 なのに、俺の周りだけ、空気が凍りついている。

 『……いっしょに……』

 声が、すぐ耳元で囁いた。
 右耳のすぐそば。鼓膜に直接触れるくらいの距離。冷たい風が耳たぶを撫でた。
 
 全身の毛穴が開くのがわかった。
 足が動かない。頭では「逃げろ」と叫んでいるのに、膝から下がコンクリートに埋められたみたいに動かない。

 これまで本で読んだ、膨大なオカルト知識が脳裏を駆け巡る。
 金縛りの解き方。悪霊の退け方。結界の張り方。護身の真言。
 全部、無駄だった。本物の恐怖の前では、知識なんて紙切れだ。

(動け。動け動け動け——)

 必死に念じた。
 爪が掌に食い込む。その痛みだけが、現実と俺を繋ぎ止めている。

 足音が近づいてきた。
 廊下を曲がった先から、人影が近づいてくる。
 背が高い。ゆらり、ゆらりと。
 俺は後ずさると、何かにぶつかって背中に温かいものを感じた。

「うわっ!」

 俺は声を上げた。かすれた、情けない声だった。
 俺が飛び退くと、月明かりが何者かの顔を照らし出した。

「……なんだ、夜森か」
「椎名……っ!?」

 安堵で膝から力が抜ける。
 生きた人間だ。幽霊じゃない。影がある。
 椎名の顔を認識した瞬間、世界に色が戻った。

 椎名は軽く笑おうとして——でも、すぐにその表情を変えた。

「顔色やばいぞ。何かあったのか?」
「……ん、ちょっと変な音が聞こえた気がして。たぶん気のせいだけど」

 嘘だ。音じゃなかった。声だった。
 でも、「声が聞こえた」なんて言ったら、本格的にヤバい奴だと思われる。

「……もしかして、あの『声』?」

 血の気が引いた。

「名前、呼ばれなかったか」

 背中が粟立った。
 なんで知っている。
 俺は「声」とは言っていない。「音」と言った。
 なのに椎名は、「声」と言った。「名前を呼ばれた」と。

「……聞こえたの? 椎名にも?」

 椎名は答えなかった。
 ただ、ジャージのポケットに突っ込んだ手が、微かに震えていた。
 月明かりの下で、その指先が白くなっているのが見えた。

「あいつ、ずっと夜森を呼んでたからな」
 椎名に言われて、ゾッとした。
「だから、一人でどこでも行くなよ」

 その声は硬かった。
 俺を叱る体裁を取りながら、その声の芯には、紛れもない恐怖があった。
 怪異が本物だと、椎名も知っている。見える体質の椎名には、俺以上にはっきりと「何か」が見えているのかもしれない。
 でも、椎名はそれを顔に出さない。
 震える手をポケットに隠して、俺の前に立っている。

「俺が守るって約束しただろ」
 椎名は俺の顔を覗き込んで、爽やかに笑った。

(——ずるい)

 怖がっているくせに。手が震えているくせに。
 なんでそんな顔ができるんだ。

「……わかったってば」

 俺は顔が熱くなるのを感じて、早足で歩き出した。
 暗闇の恐怖と、椎名に見つめられる恥ずかしさが混ざって、わけがわからない。

 椎名がすぐに隣に並んだ。
 肩が触れ合う距離。
 同じ暗闇のはずなのに、隣に体温があるだけで、こんなにも違う。
 さっきまで凍りついていた空気が、椎名の体温で少しだけ溶けていく気がした。

「ほら」
「え?」
「暗いから。手出して」
「……うん」

 おずおずと差し出した俺の手をぎゅっと握ると、そのまま椎名は大部屋へ戻る通路を歩き出す。
 椎名の手から、緊張が伝わってきた。
 さりげなく廊下の角を確認している。俺の半歩前を歩いて、何かあったら俺を庇える位置に立っている。
 そういうところだ。こういう時、椎名は無意識に俺を守る側に回る。本人は気づいていないかもしれないけど、常に俺と危険の間に自分の体を入れている。

「……椎名も怖いんでしょ」
「は? 怖くないし」
 即答。でも、声が少し上ずっていた。
「嘘」
「嘘じゃねーし」

 廊下の窓から月明かりが差し込んでいる。
 その光の中を、二人で並んで歩く。
 俺たちの影が、床の上で重なったり離れたりする。

「……でも、ありがと。来てくれて」

 とても小さな声だった。自分でも聞こえるか怪しいくらいの。
 椎名は何も言わなかった。聞こえなかったのかもしれない。
 でも、その歩調がほんの少しだけ軽くなった気がした。

 俺は思った。
 本当は怖がっているのに、それでも隣にいてくれている。
 手が震えているのに、俺の半歩前を歩いてくれている。

 『俺が守るって約束しただろ』

 その言葉が嘘かどうか、今の俺にはわからない。
 でも、この瞬間、隣にいてくれていることは本当だ。
 震えながらでも、ここにいることは——本当だ。

 俺の胸の奥で、何かが静かに、でも確実に変わり始めていた。
 それは、名前のない感情だったけれど。
 認めたくなかった。認めたら、きっと後には戻れない。
 陰キャのオカルトマニアが、一軍の王子様に恋をするなんて、冗談にもほどがある。
 やめてくれ。これ以上、期待させないでくれ。

 渡り廊下の窓ガラスに、二人の影が並んで映っていた。
 その距離は、肝試しのときよりも、ほんの少しだけ近づいている。

 大部屋の前に着いた。
 扉を空けて部屋にそっと入ると、襖の向こうから誰かの寝息が聞こえる。

「……じゃ、おやすみ」
「おう。おやすみ」

 椎名が小さく手を振った。
 俺は襖を開けて、自分の布団に潜り込んだ。

 目を閉じる。
 まだ鼓動が治まらない。怪異のせいなのか、椎名のせいなのか、もう区別がつかない。

 隣の布団で同室の誰かが「んー」と寝返りを打った。
 その気配に安心して、俺はようやく力を抜いた。

 暗闇の中、ふと、自身の腕を見る。
 さっき声が聞こえた時、掴まれたような気がした場所だ。
 何もない——はずだった。
 でも目を凝らすと、薄い痣のような影が見える気がした。
 指の形をした、青紫色の——。

(……気のせいだ)

 俺はそう自分に言い聞かせて、布団を頭まで引き上げた。
 瞼の裏に、椎名の笑顔が浮かんでは消える。
 怖い夢を見ませんように、と子供みたいなことを祈りながら、俺は眠りに落ちた。