ビビリな一軍男子に憑かれ(好かれ)てしまった。


「……暑い。無理、溶ける」

 俺は日陰を探して、ゾンビのように彷徨っていた。
 林間学校の三日目。午後の自由時間。
 太陽が真上から容赦なく照りつけ、アスファルトの上に陽炎が揺れている。蝉が命を絞るように鳴いている。

 多くの生徒は川へ遊びに出かけたり、広場でバレーボールをしたりしている。歓声と水しぶきの音が遠くから聞こえる。眩しい。物理的にも精神的にも眩しい。
 俺にとっては最も居場所のない地獄の時間だ。

 目指すは本館の図書室。あそこなら誰も来ない。俺だけの避難所だ。
「あ、いたいた」
 前から椎名がこちらを見て駆け寄ってきた。え、もしかして俺に声かけてる?
「ちょっと付き合ってくれない?」
 椎名は俺の目の前で止まって、まっすぐ俺を見ながら言った。
「ど、どこに?」
「裏。人がいないとこ」
 椎名は意味深に片目を瞑り、親指で合宿所の裏手を指した。
 不穏すぎる。カツアゲか。それとも昨夜の醜態を見られたから口封じか。
 俺が後ずさりしようとすると、椎名は俺の腕を強引に引いた。
「いいから来いって。取って食ったりしないから」
「ちょ、ちょっと……!」
 昨日もこうやって引っ張られた。こいつの手は相変わらず大きくて熱い。強い力で引かれているのに、掴まれた手が痛くないのが腹立たしい。

 連れて行かれたのは、ボイラー室の裏手にある空き地だった。
 重油の残り香と、焼けたコンクリートの匂い。頭上では油蝉が大合唱を繰り広げている。人目は全くない。合宿所の裏手は雑草が茂っていて、生徒が近づく理由がない場所だ。
 椎名はコンクリートの縁石に腰を下ろし、隣をポンポンと叩いた。
「座れよ」
「……ここでいいよ」
「いいから座れって。話、長くなるから」
 俺は渋々、一メートルほど距離をあけて座った。コンクリートが太陽に焼かれて熱い。尻が焦げる。でも椎名は平気な顔をしている。体感温度の耐性が違うのか、それとも気にしていないのか。
「……で、なに。俺、本読みに行こうと思ってたんだけど」
「忙しいよな、ごめん。すぐ終わるから」
 椎名はスポーツドリンクを一口飲み、ふぅー、と長く息を吐いた。ペットボトルを両手で持っている。その手が、微かに震えているのが見えた。暑さのせいじゃない。

 ふと、雰囲気が変わった。
 さっきまでの陽気な空気が消え、重く沈んだものが漂い始めた。蝉の声が遠のく。椎名の纏う空気の温度が、真夏の日差しの下で数度下がったように感じた。

「昨日のことなんだけどさ」
 胃の底がひやりとした。
「お前、気づいてたろ。俺がビビってたの」
 単刀直入だった。椎名の目は真剣だ。茶化して逃げられる雰囲気じゃない。
「……まあ、手が震えてたから」
「だよなー。かっこわりぃ」
 自嘲気味に笑って、膝の上で手を組んだ。その手が、また少し震えているように見えた。
 笑い方が痛々しい。無理をしている笑い方だ。こいつの笑顔にはいくつか種類があって、今のは一番見ていてつらいやつだった。

 椎名は一度口を閉じ、スポーツドリンクのキャップを回し、また戻した。何かを切り出す前の、助走のような動作。
 そして、ゆっくりと俺の目を見据えた。

「……なぁ、お前『見える』んだろ?」

 は?

「え、何が?」
「昨日の渡り廊下。お前、あそこで『気配』感じたろ。霊道がどうとか、渡り廊下の怪異がどうとか——お前、見える側の人間なんじゃないのか」

 椎名の瞳が真剣そのものだった。冗談で言っている目じゃない。
 こいつ、本気で俺に霊感があると思っている。

 違う。全然違う。
 俺はただのオカルトオタクだ。本で読んだ知識を溜め込んでいるだけの、怖がりの陰キャ。霊感なんてゼロ。昨日の「気配」だって、場の雰囲気に飲まれただけかもしれない。

「いや、椎名。俺は別にそういうんじゃ——」
「実は、俺も見えるんだ」

 蝉の声が一瞬、遠のいた。世界の音が遮断され、椎名の声だけがクリアに響く。

「幽霊。お化け。怪異。呼び方はなんでもいいけど。……ずっと昔から、俺にはそういうのが見えちゃうんだよ」

 椎名の瞳は、いつもの明るい光を失って、深く、暗く沈んでいた。真夏の日差しの中にいるのに、その目だけが冬の夕暮れのように翳っている。
 嘘をついている目ではない。もっと切実な、誰かに助けを求めるような目だ。
 長い間、一人で抱えてきた人間の目。重すぎる荷物を下ろしていいのかどうか、まだ迷っている目。

 ——こいつは、俺を「同じ側の人間」だと思ったから、話してくれたんだ。

「昨日の渡り廊下、マジで"いた"。……男の子の声で、お前の名前呼ぶのも、俺には聞こえた」

 俺は息を呑んだ。俺には聞こえなかった。でも椎名には聞こえていた。
 あの時、あんなに強い力で俺の手を握っていたのは、その声に耐えていたからだったのか。俺の名前を呼ぶ声を聞きながら、俺の手を握りしめていたのか。それはどれほど——。
 想像しただけで背筋が凍った。暗闇の中で、隣にいる人間の名前を呼ぶ「何か」の声が聞こえる。それを聞きながら、平静を装って歩き続けなければならない。しかも、それを誰にも言えない。

「……いつから?」
 気づいたら聞いていた。
「物心ついた時から。最初は、みんなにも見えてるもんだと思ってた」
 椎名は苦笑した。乾いた、砂を噛むような笑い方だった。
「でも違った。俺だけだった」

 ——訂正しなきゃいけない。俺には見えない、と。
 でも、今それを言ったら、こいつはどうなる。「やっぱり俺だけか」と、また一人に戻ってしまう。
 この顔を見て——こんな顔をしている奴に、「俺は違うよ」と突き放せるか?

「凪に聞いたら、お前、図書室で変な本ばっかり読んでるって」
 鶴見……余計なことを。
「俺に協力してくれないか。見えないフリするの、もう限界なんだ」
 必死な形相だった。切れ長の瞳が射抜くように俺を捉えている。目を逸らせない。弱さを見せている今の方が、普段の王子様モードよりずっと迫力があった。こいつの本気は、圧が違う。
「……なんで俺に? 凪とかの方がずっと頼りになると思うけど」
 椎名の顔が歪んだ。
「言えるわけないだろ」
 声が微かに震えていた。
「小学生の時、一番仲良かった奴に話したんだ。『あそこのブランコに、知らない男の子がいる』って。放課後、二人で公園にいた時だった。嘘はつきたくなかったし、信じてもらえなければそれでいいと思ってた。でも、あいつは――ただ顔をゆがめて、俺のことを見るだけだった」
 椎名の声が、少しずつ低くなっていく。
「次の日から、俺はクラスメイトに無視されるようになった。『あいつは嘘つきだ』って陰口を言われてた。……登校すると、俺の机だけ離されてた日もあった」
 椎名は自分の膝を強く握りしめた。関節が白くなるくらい。爪が皮膚に食い込んでいる。
「本音を話せる友達がほしかっただけなんだ。ただそれだけだったのに——」
 声が途切れた。椎名は一度唇を噛み、呼吸を整えた。
「それ以来、決めたんだ。もう二度と誰にも言わないって。普通でいようって。必死で明るく振る舞って、バスケ頑張って、友達たくさん作って。——そうすれば、二度と『変な奴』だなんて思われないから」

 椎名は空を見上げた。真っ青な夏空。眩しそうに目を細めている。その横顔が、少年のように幼く見えた。小学生の頃の傷が、まだ生々しく残っている横顔。

 俺が見ていた「椎名蓮」という完璧な像が、音を立てて崩れていく。
 誰よりも怯えて、誰よりも孤独だった。

(俺と同じだ)
 俺も弱さを隠すために、本という殻に閉じこもっている。ベクトルは真逆だけど、根っこは同じだ。
 椎名は人に囲まれることで孤独を隠し、俺は人を遠ざけることで孤独を隠す。やり方が違うだけで、怖がっているものは同じだ。——「理解されないこと」。

「だから……お前なら、俺のこと笑わないんじゃないかって。そう思ったんだ」
 まっすぐな目だった。
 その瞳に映る俺は、相変わらず地味で冴えない顔をしている。でも椎名は、その俺を真剣に見ている。

「……俺で、いいの?」
 ぽつりと、口からこぼれた。自分でも情けないと思った。こいつがこんなに必死に打ち明けてくれているのに、最初に出てくる言葉がそれか。
 でも、聞かずにはいられなかった。俺なんかでいいのか。もっとふさわしい人間がいるんじゃないのか。俺は本で読んだ知識があるだけの、ただのオタクだ。

 椎名は「違う」と強く首を振った。
「お前は信じてくれると思ったから。お前自身がオカルト好きなんだろ? そういう世界を否定しない人間だろ? お前だけは、『幽霊がいる』といっても信じてくれる。昨日は、それを確信したんだ」

 俺だけ。その言葉が、胸の奥に刺さる。
 誰かに「お前じゃなきゃダメだ」と言われたのは、確実に初めてだった。教室の背景として生きてきた俺にとって、その言葉は劇薬だった。脳の奥で何かが弾けるような感覚。嬉しいのか苦しいのかわからない。ただ、目の奥が熱くなった。

 俺は深くため息をついた。降参だ。

「……わかった。協力する」
「マジで?」
 椎名の声が跳ねた。さっきまでの重い空気が一瞬で霧散した。
「条件がある。俺の指示には絶対従ってくれ。オカルトは論理だ。ルールさえ守れば何も恐れることはない」
 あえて自信満々に言い放つ。人差し指を立てて、努めて冷静に。本当は死ぬほど怖い。幽霊なんてできれば関わりたくない。でも、こいつの前でビビったら絶望させてしまう。こいつにとって俺は最後の頼みの綱なんだ。その綱が震えていたら、しがみつけない。

「俺が知識でサポートする。だからお前は、物理的な脅威から俺を守れ」
「おう! 任せろ! 心霊現象は無理だけど、物理攻撃なら任せとけ!」

 椎名が、ぱあっと明るい顔になった。
 まるで花が咲いたような、無防備な笑顔。年相応の少年のようにあどけない。さっきまで過去の傷を抉り出していたのが信じられない。

「とにかく、交渉成立だな! ありがとう、夜森」
 嬉しそうに俺の背中を叩く。痛い。加減を知れ。バスケ部のパワーを一般人に向けるな。
「マジで助かる。お前、ほんといい奴だな」
「……いい奴っていうか、ただの物好きだよ」
「物好きで十分だって」

 その笑顔を見た瞬間——鼻から息が漏れた。
「……ふっ」
「え、今笑った?」
「笑ってない」
「笑っただろ! お前——」
 椎名が何かを言いかけて、止めた。飲み込むように口を閉じる。
「……なに?」
「いや、なんでも」
 椎名は少しだけ耳を赤くして、視線を逸らした。

(なんだよ、その反応。意味わかんねぇ)
 俺は少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じていた。こそばゆいような、落ち着かないような。慣れない感情だ。
 秘密の同盟。一軍エースと、底辺の俺。ありえない組み合わせだけど、悪くない響きだ。

***

 その夜。自由勉強の時間。
 俺は部屋の隅で、持ってきたとっておきのオカルト本を広げていた。『現代怪異録 渡り廊下の子ども』——渡り廊下に纏わる怪異の報告をまとめた同人誌。即売会で手に入れた逸品だ。
 今まで自分の趣味のためだけに集めてきた知識が、誰かの役に立つかもしれない。そう思うと、文字を追う目にも熱が入る。ページをめくる手が、いつもより早い。
 付箋を貼り、ノートに要点を書き写す。「水の匂いがする時は活性化の兆候」「名前を呼ぶのは接触の第一段階」「応答した場合、対象との結びつきが強まる」——。
 背筋が寒くなる内容ばかりだ。椎名には、俺の名前を呼ぶ声が聞こえていた。あれが「接触の第一段階」だとしたら——。
 考えるのを中断した。今は情報を集める段階だ。怖がるのは後でいい。

 ブブッ。スマホが震えた。
 筆箱の陰に隠していたスマホを恐る恐る確認する。
『椎名蓮』。さっき裏庭で無理やりメッセージアプリを交換させられたばかりだ。「連絡手段ないと不便だろ」と有無を言わさずQRコードを突きつけてきた。あの強引さは何なんだ。

 恐る恐る開くと、メッセージは一言だけだった。

『ありがとう』

 シュールな犬が土下座しているスタンプ。目が死んでいる犬。なんでこのスタンプを選んだんだ。真面目な感謝にこれを合わせるセンスが意味不明すぎる。
「……ふっ」
 思わず吹き出してしまった。周りを警戒する。同室の連中は勉強に集中している。セーフ。
 俺は先生に見つからないように机の下で返信を打つ。

『どういたしまして。明日、塩持っていくから』

 送信。指が少し震えた。椎名蓮にメッセージアプリを送っている自分が信じられない。昨日まで接点すらなかったのに。
 既読がすぐにつく。入力中の表示が出て——ウサギが敬礼しているスタンプが返ってきた。

 文字じゃなくてスタンプで返すのか。こいつ、文章を打つのが苦手なのか、それとも言葉にすると照れるからスタンプで逃げているのか。
 どっちにしろ、なんか——かわいい、と思ってしまった。
 いや違う。かわいいって何だ。一軍男子に対して何を思ってるんだ俺は。

 もう一通、メッセージが来た。

『明日もよろしく相棒』

 相棒。
 昨日の肝試しの前に聞いた言葉だ。あの時は冗談だと思っていた。でも今は、その二文字に重みがある。

『了解。早く寝なよ。寝不足だと防御力が下がるから』

『マジ?やべー寝る!おやすみ!』

 即レス。素直か。
 おやすみ、の後にまた犬のスタンプ。今度は布団を被っている犬。スタンプのバリエーションが無駄に豊富だ。

 俺はスマホを胸に押し当てた。
 心臓がとくとくと温かいリズムを刻んでいる。
 頼られてる。あの椎名蓮に。「秘密を共有する相棒」として。
 教室で透明人間のように過ごしてきた俺が。誰の記憶にも残らない背景でしかなかった俺が。誰かにとっての「特別」になっている。

(俺なんかが——って思うのは、もうやめよう。あいつが「お前がいい」って言ったんだ。俺が勝手に否定するのは、あいつの判断を馬鹿にすることだ)

 本を閉じ、枕元に置いた。明日はもっと詳しく調べよう。渡り廊下の構造、清風荘の歴史、過去の目撃情報。椎名を守るために——いや、椎名と俺自身を守るために。
 瞼を閉じると、暗闇の中に椎名の顔が浮かんだ。あの、屈託のない笑顔。
 ——違う、浮かんでない。目を閉じただけだ。瞼の裏の残像だ。

 もちろん、俺はまだ知らない。
 この安易な「取引」が、俺たちの関係をどう変質させていくのか。
 あの渡り廊下の怪異が、こんな甘い関係を許さないほど危険なものだということを。