「……帰りたくなってきた」
俺は胃のあたりを強く押さえて、大広間の柱の陰で小さくなっていた。
林間学校の二日目、夜。
外はとっくに日が落ちていて、窓の向こうは墨を流したような闇だ。大広間には蛍光灯の代わりにランタンが灯されていて、それだけで空気が不穏になる。理屈はわかっている。わかっているのに、胃がキリキリと痛む。
「えー、それではこれより! 林間学校の恒例、肝試し大会を始めまーす!」
鶴見の司会が大広間に響く。人類のエネルギー問題は鶴見を発電機に接続すれば解決するんじゃないか。
「夜森、マジで顔色やべーぞ。白を通り越して青い」
翔太が心配そうに覗き込んでくる。
「リタイアすれば?」
「……いや、好奇心が勝つから無理」
桐生に「体調不良者は見学可」と言われた時、俺は手を挙げようか迷った。
だがその瞬間、少し離れた円陣の中心にいた椎名と目が合ったのだ。
椎名は無言だった。口元だけでニヤリと笑うと、小さく顎をしゃくった。
周りに見せるための作り笑い。だが、目の奥はまったく笑っていない。あれは「絶対に逃がさない」という圧そのものだった。
それに気づいてしまった以上、カースト底辺の俺は大人しく手を下ろすしかなかった。
そうして、スタート地点に移動する途中で椎名が不意に足を止めた。
「なぁ夜森、もっと気軽に話してよ」
「え?」
「ペアだろ。やりづらいって。同い年なんだし、普通に喋ってよ」
「……わ、わかった」
椎名がふっと力の抜けた笑いを見せた。営業スマイルじゃない。口角の上がり方が左右非対称で、少しだけ目尻が下がっている。作り物にはない、不揃いな笑い方。
俺は耳が熱くなるのを感じた。なんだよ、暗くて助かった。
「第二班、椎名・夜森ペア! スタンバイ!」
鶴見の声が無情に響く。
「うわ、もうかよ……」
俺はお盆に乗せられたドナドナ気分でスタート地点に立った。隣の椎名は涼しい顔をしている。
——嘘だ。今朝の寝起きの死にかけた顔を知っている。こいつの「平気な顔」は、全部、丁寧に組み上げられた鎧だ。
椎名が俺の方をチラリと見て、鼻で笑った。
「おい夜森、手、震えてんぞ」
「……む、武者震いだし」
「へぇ。面白いくらい震える武者だな。戦う前から負けてんじゃん」
からかう口調は軽い。でも声のトーンが、今朝カレーの話をしていた時より少し低い。気づいているのは多分、俺だけだ。こいつの声の温度を測ってしまう自分が気持ち悪い。
俺はポケットの中で数珠を握った。もう片方のポケットには粗塩の小袋。荷物に忍ばせたオカルトグッズの中から、最低限の武装を選んできた。
(大丈夫。俺には知識がある)
——それが役に立つかどうかは、別の話だが。
「はい、懐中電灯ね。これ持ってってー」
係の女子から手渡されたのは、安物の懐中電灯だった。スイッチを入れると、頼りない黄色い光が足元をかろうじて照らす。電池が弱いのか、時折ちらちらと明滅する。周囲の木々に光を向けると、かえって影の濃さが際立って不気味さを増幅させている。照らした先の闇が余計に深く見える。
「じゃあ、行こうか」
椎名が軽い調子で歩き出した。俺は「待って」と言う気力もなく、へっぴり腰でついていく。
一歩、森に足を踏み入れると、空気が変わった。
湿った土と腐葉土の匂い。雨上がりの苔が含む水分が、粘度の高い湿気となって纏わりつく。懐中電灯の弱々しい光だけが頼りだ。周囲の闇がじっとりと肌にまとわりつく。光の輪から一歩でも外に出れば、すぐに飲み込まれそうだ。
夏だというのに、森の中は妙にひんやりとしていた。木々の葉が天蓋のように空を塞ぎ、月明かりすら遮っている。時折、梢の隙間から青白い月光が地面に差し込んで、まだら模様を作った。虫の声が近い。やけにうるさい蝉の残響と、足元で鳴くコオロギ。その合間に——しん、と音が途切れる瞬間がある。あの無音が、一番怖い。
(やばい、これマジでいい。想像の五倍雰囲気がある)
この湿度は霊体が具現化しやすい条件を満たしている。独自の磁場なら杉林でも出現の可能性は——
本能が警鐘と歓喜の二重奏を奏でている。怖い。脚がすくんで引き返したい。でも、見たい。矛盾する感情が暴れ回って、脳汁が出そうだ。
恐怖を乗り越えて得た知識が、目の前の「答え合わせ」を求めている。
足元の落ち葉が、一歩ごとに湿った音を立てる。パキ、と小枝を踏む音が森に響いて、そのたびに息が詰まる。
俺が少し前を歩いている。懐中電灯で足元を照らしながら。
ふと、首筋がちりっとした。視線だ。後ろから、椎名が俺のうなじを見ている。
昼間の川を思い出す。指先の熱。慌てて首を竦めたら、背後で椎名が小さく咳払いした。
——こいつ、こんな状況でも見てるのか。
背後の椎名の呼吸音は、暗闘の中でもやけに近く聞こえた。でもその呼吸が、微かに乱れているのを俺は聞き逃さなかった。
ガサッ、と枝が揺れた。
「うわっ!」
情けない声を上げて、前のめりにつんのめった。木の根に足を取られたのだ。茂みの奥に白い影が見えた気がして気を取られていた——白い影の正体は、たぶん、剥がれかけた木の皮だ。たぶん。
転ぶ——そう思った瞬間。
グイッ。
強い力で腕を引かれた。身体が宙で止まる。
「っと……大丈夫か? 足元見ろよ」
目を開けると、すぐ目の前に椎名の顔があった。俺の腕をガシッと掴んで支えている。近い。吐息がかかる距離だ。懐中電灯の灯りが揺れ、椎名の瞳が俺の顔を映した。
椎名は一瞬、何か言いたげに目を細めた。その視線に射抜かれて、心臓が変な音を立てる。暗闇の中で、こいつの顔だけが妙に鮮明だった。
「ごめ……ごめん」
「……暗いからな。気をつけろよ」
椎名はふいっと視線を逸らし、俺を立たせた。少しだけ、耳が赤い気がした。暗くてよくわからないけど。
こいつの優しさには、いつも理由がつけてある。「暗いから」「脱水するから」「ペアだから」。全部もっともらしいけど、全部嘘くさい。本当の理由を言葉にしない。できないのか、しないのか。
そして俺の手を見た。数秒の沈黙。何かを言い淀むように唇を動かして、それからぶっきらぼうに言った。
「——手、出せよ」
「え?」
「暗いから。逸れると面倒だろ」
言うが早いか、椎名の大きな手が、俺の手を包み込んだ。
思考が停止した。
一軍の、あの椎名蓮が、俺と手を繋いでいる。
骨が軋むくらい強く、ガシッと全体を覆うような握り方だ。椎名の手は大きくて、驚くほど熱かった。俺の手がすっぽり収まってしまう。対する俺の手は薄くて冷たい。その温度差が、皮膚を通して鮮烈に伝わってくる。
(暗いからって、男同士で手を繋ぐものなのかな……)
友達がほとんどいないから、普通がよくわからなかった。
でも今の握り方は、ただ「導く」だけの手じゃない。俺の手を完全に支配するように覆い込みながら、指先だけが微かに震えている。強さと弱さが同居した、矛盾だらけの手だ。
「……あ、ありがと」
心臓がバクバクとうるさいのを誤魔化すように、視線を足元に向ける。ありがとう、とは。何に対しての礼なのか。自分で突っ込みするくらい混乱して出てきた言葉だった。
「おう」
椎名は短く答えて、再び歩き出した。
手を繋いで歩くと、歩幅が全然違うことに気づく。椎名の一歩が、俺の一歩半くらいある。自然と俺が小走りになる。それに気づいた椎名が、何も言わずにペースを落とした。
繋がれた手から伝わる体温だけが、この暗闇の中で唯一の確かな現実だった。
***
森の小道を抜けると、視界が開けた。
その先に、黒い影のような建物が見える。別館だ。そして、そこへ至る「渡り廊下」が、月光の下で白く浮き上がっている。
地面から数メートル浮いたその廊下は、まるで異界への架け橋のように見えた。
きた。ここだ。
昼間、川で「渡り廊下の子」の話をしようとして鶴見に遮られた。あの時、椎名の声のトーンが一段下がったことを覚えている。
——「あそこ、なにかあるのか?」
あの問いかけの答えを、今から身体で確かめることになる。
俺の足が自然と止まった。渡り廊下の入口から、微かに——ほんの微かに、腐った水のような匂いがした。この建物の構造上、水が溜まる場所はない。なのに、水の匂い。淀んだ、動かない水の匂い。
「どうした?」
椎名が振り返る。強張った表情が一瞬で笑顔に切り替わる。その変わり身の鮮やかさが、逆に痛々しい。
「……いや、なんでも」
左手は椎名に握られている。右手はポケットの数珠。
ポケットの中で、方位磁針に指が触れた。いつもなら針は北を指して静かに揺れているだけだ。なのに今、指先に伝わる微かな振動がある。針が震えている。
完全防備だ。俺は意を決して、渡り廊下に足を踏み入れた。
ギィ……。
乾燥した床板が軋む音が、静寂の中で不気味に響く。一歩踏み出すたびに、廊下全体が微かに揺れる。古い木造建築特有の不安定さ。足の裏から伝わる振動が、嫌な想像を掻き立てる。
吹きさらしの廊下を、冷たい風が通り抜けていく。さっきまでの森の湿気とは違う、乾いた、骨まで冷やすような風だ。夏の夜風にしては冷たすぎる。明らかにおかしい。体感で五度は下がっている。古びた埃とカビの匂いが鼻をつく。そして、あの水の匂いが——濃くなった。
俺は無意識に歩幅を狭めていた。一歩、また一歩。床板がギシ、ギシと規則正しく鳴る。自分の足音と、椎名の足音。二人分の足音。——二人分、のはずだ。
真ん中あたりに来た時だった。
懐中電灯が、ちかちかと痙攣した。
さっきから弱っていた光が、断末魔のように明滅を繰り返す。
——ぷつん。
消えた。
闇が、一瞬で世界を塗りつぶした。
月明かりだけが頼りの、青白い世界。さっきまで懐中電灯が照らしていた足元が、底なしの穴みたいに暗い。
椎名の手が、ぎゅっと強くなった。
「……電池」
「わかってる。叩けば——」
懐中電灯の尻を手のひらで叩く。一瞬だけ点いて、また消える。完全に死んだ。
暗闇の中で、二人の呼吸だけが聞こえる。
その時だ。
ゾクリ。
背筋に、氷のような冷たいものが走った。
気配。後ろに、誰かいる。
足音はない。でも、空気の動きでわかる。そこに「質量」がある。首の後ろの産毛が逆立つ。鳥肌が腕を駆け上がる。
(俺に霊感なんてないはずなのに——なんで『いる』ってわかるんだ)
(振り返るな。振り返ったら終わる)
——「振り返ると、連れて行かれる」。伝承が頭を過ぎり、身体が硬直した。呼吸が浅くなる。膝が笑って、足の裏から力が抜けていく。
ギュッ、と。
繋いでいた左手が、痛いくらいに強く握られた。
自然と歩く速度も上がり、腕がぐいっと引っ張られる。
椎名を見た。
前を向いたまま、無言で歩き続けている。
「……椎名?」
小声で呼んだ。返事はない。
月明かりに照らされたその横顔が、蝋人形のように白く強張っていた。目は一点を見つめ、瞬きすらしていない。呼吸が荒い。唇が微かに動いている。何かを——聞こえない声で、何かを堪えるように唇を噛んでいる。
額に汗が浮いている。夜風はこんなに冷たいのに。
こいつ、もしかして——。
川辺で「渡り廊下」の名前に表情が変わったこと。夕方の険しい表情。「相棒」と言った時の、縋るような声の色。
全部、繋がった。
(こいつには、俺に見えないものが見えている——?)
その可能性に思い至った瞬間、恐怖より先に、別の感情が胸を突いた。こいつは今、俺よりずっと怖い思いをしている。俺には「気配」しか感じないものが、椎名にははっきりと見えているのだとしたら——。
俺は、精一杯の力で、震える椎名の手を握り返した。
椎名の指が一瞬、びくりと跳ねた。そしてすぐに、さらに強く握り返してきた。
『ぎゃあああああああ!!』
前方の別館から鋭い悲鳴。先行していた女子ペアの声だ。仕掛け人に驚いたのだろう。
「うわっ!?」
俺は反射的に飛び上がった。その拍子に、背後の気配が霧散した。張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れる。
椎名も肩をびくりと震わせ、深い息を吐く。
「……なんだよ、脅かすなよな」
低く掠れた声。素の、飾りを全部剥がした声だ。いつもの余裕は欠片もない。声が微かに上擦っている。
「早く行こう。さっさと終わらせよ。……ここ、なんか気持ち悪ぃ」
「あ、ああ……」
そこからは早かった。
逃げるように別館に入り、お札をひったくって、来た道を戻る。別館の中は埃っぽくて暗かったが、渡り廊下に比べれば天国だった。お札を掴んだ椎名の手は、まだ震えていた。
帰りの渡り廊下は不思議と何も感じなかった。気配は消えていた。
ただ一つ、強烈に気になることがある。
椎名の手だ。
ずっと繋がれたままのその手が、微かに、しかし絶え間なく震えている。携帯電話のバイブレーションのような、小刻みな振動。
俺はちらりと椎名の顔を盗み見た。
平然としている。いつもの余裕ぶった表情を作っているのだ。
顎のラインが強張り、奥歯を噛み締めているのがわかる。でも、手は嘘をつかない。汗ばんで、熱くて、震えている。
(こいつ、怖がってる)
確信に変わった。
俺の手をこんなに強く握っているのは、俺を守るためじゃなくて——自分が怖いから、俺を命綱にしている。
胸の奥が、きゅっと締まった。
こいつはずっと一人で、こんなものを抱えてきたのか。誰にも言えずに。完璧な笑顔の裏で。
「……大丈夫?」
思わず聞いてしまった。
「何が?」
即答。こちらを見ようともしない。早口だ。
「いや、なんか……手が」
「夜森。早く戻らないと、凪に笑われるぞ。あいつ俺らのタイム計ってるから」
話を逸らされた。椎名はペースを上げて、俺の手を引っぱるように森を抜ける。
——逸らされたけど、否定はしなかった。「震えてない」とは言わなかった。それだけで十分だった。
***
「おおー! お帰りペア第二号! 生還おめでとー!」
鶴見が懐中電灯を点滅させて出迎える。
「どうだった? 何か出た? 夜森ちゃん泣いた?」
光の洪水の中に踏み出した瞬間、椎名は繋いでいた手をパッと離した。何事もなかったかのように。
俺の手のひらが急に涼しくなった。汗の感触と熱だけが残って、変な寂しさが込み上げる。さっきまで当たり前のようにそこにあった温度が、急に消えた。手のひらが、椎名の手の形を覚えてしまっている。
「普通。虫が多かったくらいかな。全然怖くなかった」
椎名は肩をすくめて完璧な笑顔を見せた。
「なんだよつまんねーの! 蓮がビビって腰抜かす動画撮りたかったのに!」
「あるわけねーだろバーカ」
椎名は鶴見の頭を小突いて笑い合っている。素に近い表情。でも今は、その笑い方すら演技に見えてしまう。
だって俺は、こいつの手が震えていたのを知っている。
(普通じゃなかっただろ、お前)
俺は疲労困憊でその場に座り込んだ。膝が震えている。自分の方もだいぶ限界だったらしい。座った途端に、どっと疲労が押し寄せてきた。
翔太が「お疲れ」と冷たいお茶を渡してくれる。翔太の優しさには、椎名のような理由の偽装がない。ただ真っ直ぐで、だから安心する。
俺は自分の左手を、そっと握りしめた。そこにはまだ、椎名の体温と、あの微かな震えの感触が確かに残っていた。
ふと、椎名が振り返った。俺と目が合う。
椎名は人差し指を唇に当てた。
「シーッ」。共犯者めいた笑み。
内緒にしておけよ、というジェスチャー。——お前の弱いところ、見なかったことにしろよ、という意味だ。
その仕草を見た瞬間、口元が勝手に動いた。
自分では気づいていない。ほんの一瞬、唇の端が持ち上がっただけ。
でも椎名は見ていた。目を見開いて、何かを言いかけて——口を閉じた。
その反応の意味がわからなくて、俺は首を傾げた。
「……なに?」
「いや、なんでもない」
椎名はそう言って、輪の中に戻った。
ドキっと、心臓が変な音を立てた。吊り橋効果だ。全部、状況のせい。暗闇と恐怖と、手を繋いでいたことの残響。俺の心臓が馬鹿なだけ。
俺は慌てて冷たいお茶を一気飲みした。ペットボトルを握る手がまだ震えている。こっちは純粋に恐怖の名残だ。たぶん。
なんなんだよ、あいつ。
椎名蓮は、王子様の仮面の下で震えていた。
そしてその秘密を、なぜか俺だけが握っている。
