目を開けた瞬間、全身がだるかった。
寝不足だ。完全に寝不足。
昨夜、渡り廊下に白い人影が見えた気がして——結局、明け方近くまで眠れなかったのだ。
枕元のスマホを見る。午前六時十二分。
大部屋にはまだ薄暗い朝の光が差し込んでいて、周りの布団からは規則正しい寝息が聞こえる。
合宿の朝は早い。六時半に起床、七時から朝食。それまでのわずかな自由時間が、俺にとっては一日で最も安らげる瞬間だった。
身体を起こし、窓の方を見た。
カーテンの隙間から、朝日に照らされた渡り廊下が見える。
昼間見ると、ただの古びた廊下だ。夜のあの不気味さが嘘のように、間抜けな姿を晒している。
(……やっぱ見間違いだな。古いガラスは光の屈折率が均一じゃないから、月光の入射角次第で人型に見えることもある)
知識で恐怖をねじ伏せる。いつもの癖だ。
頭では理解している。でも、背筋に残るあのぞわりとした感触だけは、理屈では消せなかった。
「ん……」
隣の布団で、誰かが寝返りを打った。
「……っ!」
振り返ると同時に、すぐ自分の口を手で押さえた。
——そうだった、昨日は椎名が隣の布団になったことを思い出した。すっかり忘れていて、驚いて声が出てしまうところだった。
昨夜、椎名はなぜか俺の隣に布団を敷いていた。「空いてたから」と言っていたが、大部屋は八人で、空きはここだけじゃなかったはずだ。
つい、じっと綺麗な寝顔を見てしまう。
普段は完璧な王子様オーラに圧倒されて直視できないが、今はあどけない顔で寝ていて幼く思えた。
前髪が額に散らばり、少し開いた唇から規則正しい寝息が漏れている。
(……こいつも寝るんだな。当たり前だけど)
神様に全ステータスを振られた男も、寝ている間は無防備な人間だ。
Tシャツの襟元がずれて、鎖骨が覗いている。バスケで鍛えた体は、寝ていても輪郭がはっきりしていて、薄い生地の下に筋肉の稜線が見える。
——何を見ているんだ俺は。
慌てて視線を逸らそうとした瞬間。
ぐい。
椎名の腕が伸びてきて、俺の体を引き寄せた。
布団ごと。抱き枕みたいに。
「……っ!?」
声にならない悲鳴を上げた。
椎名の腕の中に、完全に閉じ込められている。顔がTシャツに押し付けられる。柔軟剤と、微かに汗の匂い。体温が高い。暑い。心臓がうるさい——俺のか、椎名のか、もうわからない。
「し、椎名……! 起きて……!」
小声で揺さぶる。反応がない。完全に寝ている。
こいつ、寝相が悪いのか。それとも普段からこうやって抱き枕を抱えて寝るタイプなのか。
「んー……もうちょっと……」
寝ぼけた声で呟いて、腕の力がさらに強くなった。逃げられない。百八十四センチのバスケ部員の腕力を、百六十七センチの陰キャが振りほどけるわけがない。
顔が近い。睫毛が数えられる距離。寝息が頬にかかる。
「ひ……っ」
必死にもがいていたら、椎名の眉がぴくりと動いた。
(起きちゃう!?)
椎名は起きるかと思われたが、「ん-?」とくぐもった声をだして俺を話して寝返りした。
解放された俺は、ゆっくりと自分の布団へ戻ると、布団を頭まで被り直した。
絶対、今俺の耳は真っ赤だ。首まで赤いだろう。
心臓がばくばく鳴っている。顔が熱い。椎名の体温がまだ残っている。
——忘れろ。忘れろ忘れろ忘れろ。
***
「おはよーございまーす! 朝だぞこの野郎ども! 起きろ!」
午前六時三十分。
大部屋のドアを蹴破る勢いで現れたのは、鶴見凪だった。
寝癖が爆発した頭に、なぜか首にタオルを巻いている。朝からテンションが振り切れていて、目が据わっている。こいつは毎朝こうなのだろうか。
「凪うるさい……何時だと思ってんだ……」
「六時半だよ! 林間学校の朝は早ぇんだよ! ほら蓮も起きろ!」
凪は容赦なく椎名の布団を引っぺがした。
「…………勘弁してくれ」
椎名の第一声がそれだった。
顔を枕に埋めたまま、力の抜けた声で呻いている。普段の爽やか王子の面影はゼロだ。髪はぐしゃぐしゃ、目は糸のように細く、全身から「あと五分」のオーラが出ている。
(ね、寝起きわる~~……)
意外な一面を見てしまった。
クラスの女子たちが見たら幻滅するか、あるいは「ギャップ萌え!」と騒ぐか、どっちかだろう。
「朝ごはんカレーだってよ! 朝カレー! テンション上がんね?」
「上がんねーよ。胃がもたれる」
「蓮は朝弱いからなー。しょうがねぇな、ほら、起きた起きた!」
凪が椎名の布団をはがすと、しぶしぶ椎名が起き上がってくる。
「……はぁ。起きた」
「よぉし、偉いぞ! これでみんな起きたな。ってあれ、委員長がいない? おーい、委員長ー!」
凪が部屋の奥に声を飛ばす。
すると、すでにきっちり着替えを済ませた桐生涼真が部屋の外から現れた。部屋着から学校指定のジャージに着替えており、眼鏡をかけ、髪も整っている。
どうやら、知らないうちにどこかへ出掛けていたらしい。
「三十分前から起きてる。今日のスケジュールを確認していた」
「マジかよ委員長。お前ロボットか?」
「委員長じゃない、実行委員長だ。……それと、廊下で騒ぐな。女子の部屋に声が届く」
「すんませーん」
凪が全く反省していない顔で敬礼する。
涼真は眉間を揉みながら、ため息をついた。
このやりとり、たぶん学校でもよくやってるんだろうな。息が合いすぎている。
***
朝食は、合宿所一階の食堂で一組と二組の合同だった。
長テーブルが並び、配膳台にはカレーの大鍋が湯気を立てている。朝からカレーという攻めたメニューに、生徒たちの反応は二分されていた。
「朝カレー最高! おかわりある?」派と、「無理。味噌汁にして」派。
俺は後者だが、選択肢はないので黙ってカレーをよそった。
「陽、こっち空いてるぞ」
今回の林間学校で唯一俺が会話できる友人、加賀翔太が手を振ってくれた。
ありがたい。合宿の食事で一人になるのは、教室で弁当を一人で食べるのとはレベルが違う公開処刑だ。
俺はトレイを持って、翔太の向かいに座った。
「お前、目の下すごいクマだな。寝てないだろ」
「……ちょっと」
「やっぱ肝試しのペアのこと気にしてんの?」
「それもあるけど……昨日の夜、渡り廊下にちょっと変なもんが見えた気がして」
「は? マジで?」
翔太がスプーンを止めた。
「いや、たぶん見間違い。古いガラスの屈折で——」
「出たよオカルト解説。お前ってさ、怖い話するくせに最後は科学で片付けるよな。ほんとブレないっつーか」
「……いいだろ、別に」
小学校からの付き合いなので、翔太は俺がどれだけ怖がりかをよく知っている。
それもあって、翔太はからっと笑って俺の肩を叩きながら、「でもまあ、無理すんなよ」と付け足した。
こいつのこういうところが好ましいと思っている。否定しない。笑い飛ばしてくれるけど、最後にちゃんと心配してくれる。
俺が学校でかろうじて人間として生きていられるのは、こいつのおかげだと思っている。
「——ここ、いい?」
不意に、頭上から声が降ってきた。
見上げると、トレイを片手に持った椎名が立っていた。
さっきの寝起きゾンビはどこへ行ったのか、完璧にセットされた髪、制汗シートの清潔な匂い。王子様モードに完全復帰している。変身速度が異常だ。
しかも笑顔が眩しい。意識してやっているのか、天然なのか——いや、たぶん意識している。さっきの寝起きの死にかけた顔を見た後だと、この笑顔がどれだけ丁寧に「作られた」ものなのかがわかる。
「え、あ……どうぞ」
翔太が若干引きつった笑顔で答える。
椎名はごく自然に——本当にごく自然に——俺の隣に座った。
座っても身長差がわかる。椎名の肩の位置が、俺より明らかに高い。同じ長椅子に並んでいるのに、目線の高さが合わない。俺が正面を向くと、視界に入るのは椎名の肩から腕のラインだ。
長テーブルには他にもいくらでも空席がある。なのに、なぜここなのか。
「カレー、朝から重くない?」
椎名が俺に話しかけてくる。
「……重い、です」
「だよな。俺も朝は食パンくらいがちょうどいいんだけど」
なんだこの会話。普通すぎる。
隣を見ると、翔太が「え、なにこの状況?」という顔で固まっている。俺に目で語ってくる。一軍のエースが突然カースト底辺の食卓に降臨したのだから、無理もない。
「おーい蓮! こっち来ないのか?」
離れたテーブルから凪が手を振っている。カースト上位の面々がずらりと並んだ、いわゆるVIP席だ。
「今日はこっちで食べる」
「はぁ? なんで?」
「肝試しのペアだし、ちょっと打ち合わせ」
椎名はにこりと笑って、もっともらしい理由を付けた。完璧だ。嘘くさくない程度のカジュアルさ。王子様の外面は、こういう小さなところまで隙がない。
隣のテーブルの女子たちが、箸を止めてこっちを凝視している。
「蓮くんが自分からあっちに……?」
「打ち合わせって何。肝試しの打ち合わせに朝ごはん一緒に食べる必要ある?」
「ない」
「ないよね」
ないです。俺もそう思います。
凪は一瞬きょとんとして、それからニヤリと笑い、意味ありげに「ふーん? 打ち合わせね」と呟いた。あの目は完全に何かを察している目だ。やめろ。何も察するな。
翔太が俺の袖をこっそり引っ張る。
(お前、椎名と何かあったのか?)
目でそう言っている。
俺は首を振った。
(ない。何もない。俺が聞きたい)
目で返す。
椎名は俺たちの無言のやりとりに気づいているのかいないのか、淡々とカレーを食べていた。
食べ方まで綺麗だ。スプーンの持ち方、口の開け方、すべてに品がある。
隣で俺がガチャガチャと皿を鳴らしているのが恥ずかしくなる。
「……夜森」
「な、なに?」
「今日の午後、自由時間あるだろ。川の方行くんだけど、お前も来ない?」
「え?」
「滝もあるんだって」
なんで俺を誘うんだ。
また、あの読めない笑顔。目は笑っているのに、どこか探るような色がある。
断る理由を探したが、椎名の視線に捕まると、言葉が出てこなくなる。
「あー……まあ、暇だし……」
「おっけ。じゃあ決まり」
椎名は満足そうに頷いて、カレーの最後の一口を綺麗に掬った。
***
午前中はクラス合同のレクリエーション——という名のフィールドワークだった。
部屋割りの八人がひとつの班となって、指示の通りに登山をしながら植物や鳥の観察記録を付けていく。
俺の班には、一軍男子の椎名や凪、涼真も同じ部屋なので当然一緒だ。翔太は別の部屋なので別の班。唯一の話し相手がいない心細さが半端ない。
配布された観察シートには「山野草を五種以上記録」「野鳥を三種以上確認」などの課題が並んでいる。理科の課外授業らしいが、実質は登山だ。
登山道に入って五分で、俺は早くも後悔していた。
圧倒的に、体力がない。インドア派の筋肉は山道を舐めていた。
周りはみんな平気な顔で歩いている。一人だけ息が上がっているのが恥ずかしくて、必死に平静を装う。装えていない自覚はある。
「——ペース、速い?」
不意に、隣に影が差した。
見上げると、椎名だった。さっきまで先頭にいたはずなのに、いつの間にか俺の横まで下がってきている。
「え、いや……全然」
「嘘。顔、真っ赤だけど」
椎名が小さく笑った。馬鹿にする笑い方じゃない。困った奴だな、という顔で笑っている。
「ちょっと休も。俺も水飲みたいし」
そう言って、椎名は自分のペットボトルを取り出しながら、道端の木陰に寄った。自然すぎる動きだった。「お前のために止まってやる」じゃなくて、「俺も休みたかったからちょうどいい」という空気を作っている。
——嘘だ。こいつ、息ひとつ乱れていない。
「ほら」
椎名がスポーツドリンクのペットボトルを差し出してきた。
「え、いいよ。自分の水あるし——」
「塩分入ってるやつのがいい。夏の山は脱水早いから」
有無を言わさない口調だった。でも、目は優しい。
受け取ると、ペットボトルはひんやりと冷たかった。椎名がタオルに包んで持ち歩いていたらしい。こういう細かいところまで完璧なのが、逆に怖い。
「……ありがとう」
「ん」
椎名は俺が飲み終わるまで、何も言わずに隣に立っていた。
(椎名の王子キャラは、女子専用じゃなくて全人類対象だったのかも)
女子には「疲れてない?」「持とうか?」と声をかけていた王子様は、どうやらモブキャラでカースト底辺の男子にも優しいらしい。
俺が気を遣わないように、今もあえて声をかけない。理由をつけない。ただ、黙って隣にいてくれている。
——なんだろう、どきどきする。
「行けそう?」
「うん……大丈夫」
「無理すんなよ。しんどかったら言って」
椎名はそう言って、また先頭に戻っていった。
その背中を見ながら、俺はペットボトルを握りしめていた。手のひらに残る冷たさが、妙に心臓に近い場所にあった。
(……なんで俺なんかに)
先頭に戻った椎名は何食わぬ顔だった。
バスケ部で鍛えた脚は山道をものともせず、余裕の足取りで登っていく。それだけなら「さすが運動部」で終わるのだが、こいつは歩きながら周囲への気配りも完璧にこなしていた。
足元の悪い段差では俺に手を差し伸べ、「ここ滑るから気をつけて」と声をかけてくる。フィールドワーク中に、休憩所で俺が先生に頼まれた重そうな荷物を持っていると「持とうか?」と自然に申し出る。しかもそのすべてが嫌味なく、スマートに行われていた。
「椎名くん優しい……」
「ほんとイケメンって何やってもかっこいいよね」
「ねー、王子様じゃん」
女子たちのひそひそ声が聞こえる。
椎名は聞こえていないふりをして、でも口元にはほんの少しだけ笑みを浮かべている。——聞こえている。確実に聞こえていて、「聞こえていないふり」まで含めて演出している。この男は自分が「王子様」であることを完全に自覚していて、その期待を一ミリも裏切らない。
「おっ、これなんだ? 蓮わかる?」
凪が道端の花を指差す。
「ヤマユリだろ。観察シートの三番」
「マジ? じゃあこっちは?」
「こっちは、ノカンゾウかな」
「すっげ。お前植物も詳しいの?」
「たまたま知ってただけ」
椎名がさらりと答える。なんでも卒なくこなすとは聞いていたが、本当になんでもできるらしい。
凪はゲラゲラ笑いながら「お前ほんとチートだよな」と椎名の背中を叩いた。椎名も笑って「うるさいな」と返す。力の抜けた、自然な笑い方だった。王子様モードの時とは違う、素に近い表情。気を許した友人にだけ見せる顔なのかもしれない。
中腹の開けた場所で、涼真が班のメンバーを止めた。
「ここで十分間、鳥の観察をする。静かにして、双眼鏡で——」
「うおー! すげぇ景色! 見ろよ蓮!」
「……凪、静かにしろと言っただろう。鳥が逃げる」
「あ、わりぃ」
凪が口を押さえるが、目はまったく反省していない。
涼真はクリップボードを手に、几帳面に観察記録を付けている。字が綺麗だ。フォーマットも完璧に整っている。
「涼真、ここの欄なんて書けばいい?」
凪が覗き込む。
「……お前は自分のシートに書け。俺のを写すな」
「えーいいじゃん、同じ班なんだから助け合いだろ?」
「それは助け合いとは言わない。それは寄生だ」
「ひでぇ!」
凪と涼真のやりとりに、班の何人かがクスクス笑っている。俺も思わず口元が緩んだ。
(こいつら、仲いいな)
ムードメーカーの凪と、生真面目な涼真。正反対に見えて、お互いの欠けたところを埋め合っている。凪が暴走すれば涼真が止める。涼真が固くなれば凪がほぐす。長い付き合いで培われた、自然な信頼関係だ。
少し、羨ましいと思った。
***
午後。自由時間。
合宿所の裏手を流れる小さな川に、何人かの生徒が集まっていた。
山間の清流は笑ってしまうほど透明で、川底の小石の一つ一つまで見える。ひんやりとした水が、照りつける日差しに灼かれた肌に心地良い。
「つめてぇ! 最高!」
凪が真っ先に飛び込んだ。膝下までの浅瀬だが、盛大に水飛沫を上げる。
「服のまま入るな馬鹿! 着替え足りなくなるだろ!」
涼真が岸から怒鳴る。が、自分は絶対に水に近づこうとしない。
「涼真も来いって!」
「断る。俺はここでスケジュールの最終確認をしている」
「合宿に来てまで仕事すんなよ! 委員長の鑑かよ!」
「実行委員長だ」
「お前らも入れよ! Tシャツ脱いで来い!」
凪が水をバシャバシャ叩きながら叫ぶ。
椎名が「しょうがねぇな」と笑って、Tシャツの裾を掴んだ。
一息で脱ぐ。
——目を逸らすタイミングを、逃した。
日に焼けた肌。バスケで鍛え上げられた体。広い肩幅、引き締まった腹筋、腕の筋が浮き出た前腕。脱いだTシャツを片手で肩に引っ掛ける仕草が、いちいち絵になる。
周りの男子も脱いでいるのに、椎名だけ明らかに造りが違う。教室にいる時はわからなかったけど、服の下はこんなことになっていたのか。
女子がいなくて本当に良かった。いたら黄色い悲鳴が山に木霊していたはずだ。
「陽も入ろうぜ」
凪が手招きする。
「俺はいい……」
「暑いだろ。ほら脱げ脱げ」
翔太にまで背中を押されて、仕方なくTシャツを脱いだ。
自分の体が、嫌でも目に入る。
細い。白い。肋骨の形がうっすら見える。日に焼けていないから、この集団の中で俺だけ異常に白く浮いている。
椎名の体と比べたら、同じ人間の体とは思えない。向こうはスポーツカーで、こっちは竹箒だ。
「お前、白ッ……」
凪が率直に驚いている。
「うるさい。日に当たらない生活してるんだよ」
「いや、すげぇな。透けそう」
「透けない。幽霊じゃないんだから」
椎名が川に入りながら、ちらりとこっちを見た。
一瞬だけ。でも確かに、俺の体を見た。
何か言いかけて、やめた。視線を水面に戻す。
俺は腕を抱えるようにして川に入った。水が冷たくて、一気に鳥肌が立つ。浅瀬でも膝まで浸かると、足が白くぼやけて見えた。
不意に、うなじに指が触れた。
「ぴゃっ!?」
自分でもびっくりするくらい変な声が出た。
飛び跳ねて振り返ると、椎名が手を伸ばした姿勢のまま固まっていた。
「な、なに!? 何すんの!?」
「いや……」
椎名は指先を見つめて、それから俺のうなじを見た。
「白いなと思って。つい」
つい? つい、で人のうなじ触る?
「お前のうなじ、よく目に入るんだよ。教室でも、昼休みにお前の後ろに座った時とか。……綺麗だなって」
何を言っているんだこいつは。
教室で俺のうなじを見ていた? 綺麗? 男のうなじに「綺麗」?
「……俺、からかわれてる?」
声が裏返った。首筋に触れられた場所がじんじんする。指一本分の接触だったのに、そこだけ火傷みたいに熱い。
「あ、いや、別に変な意味じゃ——」
椎名が慌てて目を逸らした。耳が赤い。今朝の布団事件と同じ赤さだ。
「忘れて」
「さっきから忘れてばっかだな俺たち」
「……うるさい」
涼真はクリップボードを手に、几帳面にチェックリストを確認している。
だが、その視線がちらちらと川の奥——合宿所の渡り廊下が見える方向——に向かうのを、俺は見逃さなかった。
あの渡り廊下、昼間でも気になるんだな。……まあ、気持ちはわかる。
翔太は近くの岩に腰掛けて、スマホでゲーム配信を見ていた。
「陽、見ろよこのRTA。爆速プレイすぎるっしょ」
「ごめん何言ってるかわからない」
「お前さぁ~。もうちょっと今どきの話題に興味持てよ」
翔太は嘆くが、すぐに「あ、そうだ」と話題を変えた。
「そういや朝飯の時、椎名がお前の隣座ったの、なんか噂になってるぞ」
「……噂?」
「『夜森と椎名って接点あったの?』みたいな。まあ、肝試しペアだし不思議じゃないけど、椎名があんな自分から寄ってくのは珍しいって」
やめてくれ。目立ちたくないのに。
俺が頭を抱えていると、背後から水飛沫が飛んできた。
「——冷たっ!」
「悪い悪い」
振り向くと、椎名と凪がいた。
ジャージの裾を膝まで捲り上げて、浅瀬に立っている。水滴が跳ねて、日差しにきらきらと光っていた。
「お前、入らないの?」
「……俺はいいよ」
「なんで?」
「水辺は霊道が通りやすいし……」
言ってから、しまったと思った。
普通の人間にオカルトの話をすると引かれる。それは十七年の人生で嫌というほど学んだ教訓だ。
だが、椎名の反応は予想と違った。
「霊道?」
引くどころか、椎名は興味深そうに首を傾げた。——いや、違う。興味深そうに見えたのは表面だけで、目の奥にはもっと切実な何かがあった。
「……水が流れてる場所は、気の通り道になりやすいって言われてて。特に山間の川は霊的なエネルギーが集まりやすくて……ごめん、気持ち悪いよなこういう話」
「全然。面白いじゃん」
椎名の声は軽かった。でも、さっきから水面を見つめる目が、わずかに揺れている。
「もっと教えてくれよ。この合宿所って、そういうの多いのか?」
その時の椎名の表情を、俺はうまく言語化できない。
笑顔のまま尋ねているのに、声だけがほんの少し低い。まるで、何気ない雑談に見せかけて、本当に知りたいことを必死に隠しているような。
まるで、俺の言葉の中に、自分がずっと一人で抱えてきた何かへの答えがあるかもしれないと思っているような。
「……まあ、ネットの情報だけど。ここら辺の山一帯は地元でも有名な場所ではあるらしくて。特にあの渡り廊下は——」
「渡り廊下?」
椎名の声のトーンが、一段下がった。
笑顔はそのまま。でも、頬の筋肉がほんのわずかに強張ったのが見えた。
俺が渡り廊下の名前を出した瞬間、空気が変わったのを感じた。
「……あそこ、なにかあるのか?」
「『渡り廊下の子』っていう話があって。夜中に一人で渡ると、名前を——」
「蓮ー! 夜森も! こっち来いよ、でけぇカニいた!」
凪の大声が、会話を断ち切った。
——タイミングが良すぎないか。
俺が「渡り廊下」の話を始めた、まさにその瞬間。凪は川の下流にいたはずなのに、わざわざ走ってきて割り込んだ。
凪の目が一瞬だけ、蓮の横顔を確認するように動いたのを、俺は見逃さなかった。蓮の表情を窺って、それからすぐにいつものおちゃらけた笑顔に戻った。
(……あ、そういうことか)
陰キャと一軍が二人で話してるのを見て、止めに来たんだ。「お前、あんなのと喋ってんなよ」を、カニの話で包んだだけだ。
椎名はすぐにいつもの笑顔に切り替える。切り替えの速度が、本当に異常だ。
「カニ? マジで? でかいの?」
「超でかい! 蓮ビビるなよ?」
「ビビんねーよ」
椎名が笑って凪のところへ歩いていく。さっきまでの張り詰めた空気が嘘のようだった。
凪が振り返る。
「夜森も来る?」
「あ、いや……俺はいいです」
「そっか」
残された俺は、岩場で膝を抱えたまま、二人の背中を見つめていた。
(わかってるよ。俺みたいなのが一軍に混ざっちゃいけないのは)
どうしたって、俺は一軍の中には入れない。周囲に面白おかしく注目を浴びるだけだ。
後ろからやってきた翔太が「言ったろ、接点作ろうとしてんだって」と呟いたが、俺の頭にあったのはそういうことじゃなかった。
椎名は「オカルト好きなんだろ」と聞いてきた。今日は「渡り廊下」の話に強く反応した。
偶然か?
ただの好奇心か?
それとも——何か、理由があるのか?
(もしかして、俺が求めていたオカルト好きな類友が、椎名蓮だったりして……)
わからない。
わからないけど、相手はあの椎名蓮だ。みんなの王子様で、一軍男子。俺なんかと友達になったり、一緒にいるのは絶対におかしい。
期待半分と、絶望半分。複雑な気持ちのまま、俺は午後の自由時間を過ごした。
***
夕暮れ時。
宿に戻った俺は、荷物をひっくり返していた。
粗塩。数珠。御神酒代わりの料理酒を入れた小瓶(あくまで儀式用だ)。清めの砂。方位磁針。真鍮製の、手のひらに収まるサイズのやつだ。中学の時にオカルトショップで買った。針が北を指しているのを確認して、ポケットに入れた。
今夜は肝試しだ。
あの渡り廊下を、椎名蓮と二人で歩く。
考えただけで胃が痛い。二重の意味で。
「何その装備。ゴーストバスターズかよ」
翔太が呆れた目で俺の鞄の中を見ている。
「備えあれば憂いなしだ」
「お前って本当に変わってるよな。……まあ、そこがお前のいいとこだけどさ」
翔太はポンと俺の肩を叩いて、自分の班に戻っていった。
大広間では、生徒たちが肝試しの順番を確認している。
涼真がマイクを持ち、スケジュールを読み上げているが、声が微妙に裏返っている。
「えー、ルートは合宿所裏の森を通り、渡り廊下を渡って、別館のお札を持ち帰る……」
最後の方は完全に棒読みになっていた。
明らかに自分で自分を怖がらせている。
「委員長、顔色悪くない?」
「……実行委員長だ。俺は大丈夫だ。問題ない」
「めっちゃ震えてんじゃん!」
凪が涼真の肩を抱いてゲラゲラ笑う。
「う、うるさい。これは寒いだけだ。山の夜は冷えるだろ」
「夏だけど?」
「山は涼しいだろ!」
「ハイハイ怖いでちゅねー。俺がそばにいてやっからよ、安心しな!」
「いらない。むしろお前がいると余計に怖い」
「ひどぉ!」
周りの生徒たちが笑っている。
凪と涼真のやりとりは、この合宿のコメディリリーフとして完全に確立されていた。
ふと、視界の端に椎名の姿が映った。
窓際に立って、外を見ている。
夕焼けに染まった渡り廊下を、じっと見つめている。
その横顔には、いつもの笑顔はなかった。
強張った、険しい表情。
何かを覚悟するような、あるいは何かに怯えるような。
ふと、視線がぶつかって椎名と目が合った。不敵な笑みを浮かべて、椎名がこちらに歩いてくる。
いつもの完璧な笑顔に、戻っている。けれど、今度は作り物だとわかった。目が笑っていない。
「——よろしくな、相棒」
小さく、俺だけに聞こえる声で、椎名はそう言った。
軽い冗談のような口調だったけど、「相棒」という言葉の響きに、どこか縋るような色があった。
俺はポケットの数珠を握りしめた。
怖い。正直に言えば、今夜のことは怖い。
渡り廊下のことも。
椎名蓮という、得体の知れない人間のことも。
でも、もう一つ。
あいつの笑顔の奥に、何が隠れているのか——それを知りたいという気持ちが、恐怖と同じくらい強く、胸の奥で燻っていた。
窓の外では、山の稜線に夕日が沈みかけていた。
空がオレンジから紫に変わり、やがて闇が降りてくる。
今夜。
あの廊下を、あいつと二人で歩く。
俺は深呼吸をして、たくさんのオカルトグッズが入った荷物をぎゅっと抱きかかえた。
