ビビリな一軍男子に憑かれ(好かれ)てしまった。


 朝。授業が始まるまで教室の隅っこで、俺は文庫本の活字を追っていた。
 でも、頭に入ってこない。
 視界の端に、どうしても映り込んでしまう存在がいるからだ。
 教室の中央で、椎名が鶴見たちと笑っている。何かの話で盛り上がっていて、時折こっちをチラチラ見てくる。そのたびに俺は活字に目を落とすのだけれど、次の行に進めたためしがない。

「おはよう。何読んでんの?」

 ドン、と前の席に鞄が置かれた。
 椎名だ。
 当然のように前の席の椅子を後ろ向きに跨いで、頬杖をつきながら俺を覗き込んでくる。
 微かに柑橘系の匂い。制汗剤か何かだろう。朝練の後はいつもこの匂いがする。もう覚えてしまった。覚えたくなかったのに。

「……関係ないでしょ」

 椎名がさらに身を乗り出して覗き込んできたから、反射的に本を胸に抱え込んだ。
 別にやましい本を読んでるわけじゃない。ただ、この距離で顔を近づけてこられると、心臓が妙な拍子を刻む。

「見せろって」
「やだ」
「ケチ」

 教室の前方から、鶴見が声を飛ばした。
「お前ら付き合ってんの?」
「……茶化すなよ」
 椎名が顔を真っ赤にして振り返る。教室がドッと沸いた。

「……否定しないんだ」
 俺が小声で言うと、椎名は聞こえないふりをして優しく微笑む。
 そんな椎名に釣られて、俺もふっと口元を緩ませた。
 耳の先が赤い。あの夜と同じ赤。

「今のなに?」
 鶴見が椎名と俺を指差した。
「お前の相棒さ、完全に猫だよな。呼ぶと逃げるし放っとくと寄ってくるし。今のなんか、ハムスターがキレてる後にふにゃってなるやつじゃん。……くせになりそう」
「やややや、やめてよ。意味わかんない」
 顔が熱い。自分のことを猫だのハムスターだの言われるのは慣れていない。慣れたくもない。
「……見るな」
 低い声。椎名だ。
 さっきまで笑っていた顔が消えて、据わった目が鶴見と翔太を射抜いた。
「出た独占欲」鶴見がケラケラ笑った。
「いいじゃん別に、減るもんじゃなし」
「減る。俺の取り分が減る」
「取り分って何」
 俺は本で顔を隠した。
「意味わかんない」
 本の向こうで、耳が熱くなった。

 教室の後ろの方で、女子たちのひそひそ声が聞こえた。

「椎名くんが、夜森にとられるなんて……ガチ恋だったのにぃ」
「私は推しに恋人ができて、甘々な椎名くんが見れて幸せかな〜」
「……単推しだったけど、箱推しになりそう……」
「「えっ」」
「夜森くん、最近よく笑うようになったよね。ツンツンしてた猫が懐いたみたいで可愛い……」
「わかる、セットで尊い……」

(き、聞こえてるんだけど)

 顔が燃えそうだった。俺のこと「かわいい」って言ったか今の人たち。また、猫って言われたし。
 隣を見ると、椎名が口元を手で隠していた。笑いを堪えている。いや、もしかして照れてる?耳が今日一番赤かった。

「今日の放課後、本屋寄らない?」
「……一人で行く」
「じゃあ俺も一人で行く。偶然同じ本屋に」
「それ一人って言わない」
「決定」

 押し切られた。いつもこうだ。こいつに「やだ」が通じたことがない。
 でも不思議と嫌じゃない。押し切られるたびに、壁が少しずつ薄くなっていく感覚がある。
 ——通じなくていいと思っている自分がいることには、気づかないふりをする。

 ふ、と。首筋を、冷たい風が撫でた。
 一瞬だった。教室の温度が、ほんの一度だけ下がったような。
 左腕の痣があった場所を指でなぞる。成仏したはずなのに、皮膚の下に冷たさの記憶が残っている気がする。
 気のせいだ。たぶん。
 椎名の方を見た。椎名も一瞬だけこっちを見て笑みをこぼす。同じものを感じたのだろうか。

 ——大丈夫。
 頷いたその仕草だけで伝わる。言葉はいらない。

***

 文化祭の準備期間に入った、ある放課後のことだった。

「夜森ちゃん、ちょっといい?」

 鶴見だった。
 珍しく一人で、しかも俺のところに来た。教室の隅に連れていかれる。
 いつもの軽い調子だけど、目だけは笑っていない。

「蓮のこと、ありがとな。最近マジで楽しそうだから」

「……俺さ、知ってたんだよ。蓮のこと。あいつが『見える』こと。小学校の時に友達にバラされてハブられたこと」

 驚いた俺は、鶴見の顔をまじまじと見た。

「俺と蓮、別のクラスだったけど、小学校から一緒だったからさ」
 鶴見の声のトーンが、いつもの陽気さとは全然違った。低くて、静かで、奥の方から絞り出しているような声。
「あいつと仲良くなったのは中一からだったし、小学校のときの俺は何もできなかった。蓮もそれをわかってて、俺には絶対その話をしなかった。……俺が気づいてることにも、たぶん気づいてたんじゃないかな。でもお互い、触れないようにしてたんだ。触れたら壊れそうだったから」

 俺は言葉を失っていた。

「だからさ。お前がオカルトに詳しいって知った時、蓮に教えたのは俺なんだ」
 鶴見はあっさりと言った。
「1年のとき、俺たち別クラスだったけど。俺が椎名に『2組の夜森ってやつ、オカルトめっちゃ詳しいらしいぜ』って教えた。——わざと」
「……わ、わざと? そんな前から?」
「そう。わざと。――つまり、1年の時から、蓮はお前に夢中だったってこと」

 鶴見は、二カッと楽しそうに笑った。

「——で、もう一個だけ」
 鶴見の目が、真剣に俺を見据えた。
「翔太にくじ引きの仕込みをバラしたのも、わざとだから」
「へ?」

 頭の中が混乱する。あの最悪の日。翔太から聞かされた、くじ引きの真実。
 その引き金を引いたのは、鶴見だった。

「あのままじゃ蓮はずっと嘘をついたままだった。本当のこと全部出した方が蓮のためになると思ったんだ。
 それに、夜森なら絶対に大丈夫だって思ってたからさ。結果オーライだろ?」

 鶴見はポンと俺の肩を叩いた。いつもの力加減。でも、その手が少し震えていたのを、俺は見逃さなかった。

「だけど、夜森を傷つけたことに変わりはない。ごめんなさい。でもって——蓮のこと、よろしくな」

 最後の一言だけ、声が少し掠れていた。
 振り返り際に、片手を上げて。

 こいつ、ずっと椎名のそばで、気づかないふりをしながら守っていたんだ。
 椎名が「見える」ことに怯えていた時も。一軍の仮面を被って笑っていた時も。その裏で震えていることを知りながら、あえて触れずに、隣に立ち続けていた。
 俺が「手を握る人」になるずっと前から——鶴見は、椎名の最初の守り手だった。

***

 十月末。文化祭当日。
 俺たちのクラスの出し物は、お化け屋敷だった。
 教室を暗幕で覆い、ドライアイスの煙を焚き、BGMに読経を流す。ベタ中のベタだけれど、装飾班が本気を出したせいで、思いのほか怖い仕上がりになっていた。

 休憩時間に椎名がやってきた。

「ほら、差し入れ」

 紙コップのジュースを渡される。りんごジュース。冷たくて甘い。

「せっかくだし入ろうぜ、お化け屋敷」
「自分たちのクラスだよ。中身わかってるのに面白い?」

 強引に腕を引かれて、入り口の暗幕をくぐらされた。
 中は思った以上に暗かった。ドライアイスの煙が足元に漂い、BGMは不気味な読経の声。天井からぶら下がった白い布が、微かな空調の風で揺れている。

「……うわ、暗っ」
 隣で椎名が身を固くした。しっかり俺のTシャツの脇腹あたりを掴んでいる。指の力が強い。

 壁からコンニャクが飛び出してきた。

「うわあああっ!!」
 椎名が盛大な悲鳴を上げて、俺にしがみつく。百八十四センチの体が、百六十七センチの俺の背中に隠れようとしている。物理的に無理がある。

 さらに進むと、井戸のセットから貞子風の女子が這い出してきた。
「呪ってやるぅ……」
「ひいっ! ごめんなさい!」
 椎名は俺の背中に完全に隠れて、ガタガタ震え出した。お化け役の女子が「え、椎名くん?」と一瞬素に戻っている。

「お前さぁ……あの渡り廊下の本物に比べたら、こんなのギャグでしょ」
「こ、怖いもんは怖いんだよ!」
 椎名が涙目で反論する。
「本物は『出る』ってわかってるから覚悟できるけど、これは『いつ来るか』わかんねーから心臓に悪いんだよ!」

 その理屈は全くわからない。でも、この人が本気で怖がっているのは本当だ。背中越しに伝わる震えが、あの渡り廊下の時と変わらない。

「はいはい、俺が先に行くから。離れないでよ」
「……おう」
 椎名は素直に頷いて、俺のTシャツの裾をギュッと握り直した。
 大きな手が、小さく丸まって、俺の服を掴んでいる。子供みたいだ。

 残りのルートを俺が先頭で進む。椎名が後ろにくっついている。本物の幽霊には俺が椎名の背中に隠れたのに、作り物のお化けでは逆転している。おかしな話だ。

 出口の光が見えた瞬間、椎名はホッと息を吐いた。
 すっと背筋を伸ばして、一軍オーラを取り戻す。さっきまでの怯えが跡形もなく消える。
 ——が、俺のTシャツの裾だけは、まだ握ったままだった。

「……陽がいると安心する」
 耳元でボソッと囁かれた。さっきまでビビり散らかしてた奴と同一人物か? ずるい。

***

 文化祭の片付けが終わった放課後。
 西日が差し込む渡り廊下を並んで歩いていた。
 校舎の渡り廊下。清風荘のあの場所とは違う、何の変哲もない学校の廊下。ガラス窓の向こうにグラウンドが見える。野球部が白球を追いかけている。平和な光景。
 でも、西日の角度が似ていて、一瞬だけあの場所を思い出した。

 スッ、と隣から手が伸びてきた。俺の手を、指を絡めて握る。恋人繋ぎだ。

「学校だよ……」
「見せつければいいじゃん」
「誰かに見られたらどうすんの」
「俺の相棒はこいつでーすって」
「相棒じゃないし」
「じゃあ何? 彼氏?」
「っ……か、かかかかれ、かか」
「はは、顔真っ赤」
「〜〜ば、バカ!」

 振りほどこうとしたのに、椎名は離さなかった。
 握った手にさらに力を込めて、グッと引き寄せられる。

「——陽」
「うわっ」

 バランスを崩して、椎名の胸に倒れ込んだ。
 近い。整った顔がすぐ目の前にある。夕日に照らされた瞳が、俺を見下ろしている。
 椎名の手が伸びてきて、前髪をさらりと耳にかけた。あの朝と同じ仕草。

「……が、学校でそれやめて」
「なんで。見たいんだけど、陽の顔」

 耳が熱い。こいつは人前でも平気でやるのか。
 椎名がにっと笑って——頬に、唇を当てた。
 ちゅ、と小さな音。子供みたいな、軽いキス。

「っ……!」
「お化け屋敷のお礼」
「……ッ、ここ学校……!」
「ほっぺだからセーフ」
「セーフじゃない……!」

 顔が燃えそうだ。椎名はケラケラ笑っている。悔しい。悔しいのに、頬に残るあの温度が消えてくれない。

「あーあ。陽、耳まで赤い。かわいー」
「もう……蓮くん、なんなの……」

 言ってから、気づいた。
 今、なんて呼んだ?
 椎名の目が見開かれている。笑いが止まっている。

「……今、なんて言った?」
「……なんでもない」
「いや言った。俺の名前、もう一回言って」
「言ってない」
「言った。絶対聞こえた。もう一回!」
「……蓮くんのバカ」

 蓮がまた俺の手を取って、指を絡めた。もう振りほどく気力もなかった。
 というか、振りほどきたくなかった。それを認めるのは、まだ少し恥ずかしいけれど。
 蓮の手のひらが温かい。いつも温かい。この手に何度助けられたかわからない。

 並んで歩きながら、ポケットのスマホが振動した。
 クラスのグループチャットで写真が送られてきた。一番最初の写真は、文化祭の初日に教室で撮った集合写真だった。
 蓮と俺は端っこの方で、隣同士で笑って写っている。

 ……ん?

 俺たちの後ろに、薄っすらとモヤが写り込んでいる。
 そこに。白い顔が、浮かんでいた。

 息が止まった。——翼くん?
 成仏したはずだ。なのに、なぜ。

 もう一度よく見る。白い顔の口元が——微かに、笑っているように見えた。
 成仏する時の、あの笑顔だ。寂しさと安堵が混ざった、あの表情。
 怖い笑みじゃない。手を振るような。「じゃあね」と言うような。
 ——いや。一瞬だけ、寂しそうにも見えた。置いていかれた子供みたいな顔。
 ……気のせいか。画面を凝視しすぎて、目がおかしくなっているだけだ。

 残像だ。あの場所に、『渡り廊下の子』という怪談が染みついていたように、この写真にも翼の残像が焼きついている。
 怨念じゃない。ただの——名残。たぶん。

 俺はスマホ画面を暗くして、ポケットにしまった。
 怖くないと言ったらウソだ。
 でも、この夏の出来事は、ずっと忘れられないだろう。

「どうした?」
「……なんでもない」

 蓮には言わないでおこう。言ったら泣く。怖くて絶対泣く。
 この秘密は、俺の胸にしまっておく。
 繋いだ手に、ぎゅっと力を込めた。蓮が不思議そうな顔をしたけど、何も言わずに握り返してくれた。

 ふと、廊下の窓ガラスに自分の顔が映った。

 八月の夏休み半ば。強制参加させられた林間学校の時。
 バスの窓に映った自分の顔は、まるで幽霊のようだった。
 表情がない。感情がない。何も映っていない、電池切れしたスマホ画面のようだった。

 今、窓ガラスに映っている俺は——目が細くなって、口元が上がって、頬がほんのり赤い。

(いつからこんな顔をするようになったんだろう)

 窓ガラスの中に、もうひとつの顔が映り込んだ。
 隣に立つ蓮が、俺を見て笑っている。作り笑顔じゃない。俺だけに見せる、くしゃっとした、本物の笑顔。

(ああ——こいつがいるから、俺の顔は動くようになったんだ)

 電源が入っていなかった画面に、映るものができた。
 映したい人ができた。

 蓮が窓ガラス越しに俺と目を合わせた。
 何も言わずに、繋いだ手に力を込めてくる。
 俺も、握り返した。

 あの渡り廊下はもう怖くない。

 ——たぶん。

 でも、もし何かあっても。
 隣にはこいつがいる。怖がりで、泣き虫で、でも絶対に逃げないこいつが。
 俺は猫みたいにこいつの袖を掴んで、こいつは俺の手を離さない。
 それだけで、たぶん大丈夫だ。

 空いた手で、ポケットの中の方位磁針に触れた。
 真鍮のケースが、体温で温まっている。
 針は、北を指していた。静かに、まっすぐに。

(完)