放課後、俺はこっそり学校を出た。
翔太にだけ「用事がある」とメッセージを送った。椎名には何も送らなかった。送れるわけがない。あいつは今、三十九度の熱でベッドの上だ。
バス停でスマホを何度も開いた。椎名のトーク画面を開いては閉じ、開いては閉じ。
昨日の猫のスタンプが、画面の一番下に残っている。あの時のあいつは元気だった。ふざけたスタンプを即既読して、猫の頭を撫でるスタンプを返してきた。
今日は一通も来ていない。
(何を迷ってるんだ。行くって決めたんだろ)
結局、何も打たなかった。
バスが来た。乗り込んだ。ドアが閉まる音が、やけに重く響いた。
車窓に自分の顔が映っている。四月にこの学校に来た時と同じ、空っぽの顔。
椎名と過ごした時間で少しだけ動くようになった表情が、また止まっている。
***
清風荘に着いたのは、夕方の五時過ぎだった。
バスを降りた瞬間、空気が違った。夏の林間学校の時はセミの声と草の匂いに包まれていたこの場所が、十月の夕暮れの中では別の建物みたいだった。
管理人のおばさんに「忘れ物をしたんです」と嘘をついて鍵を借りた。制服姿だったこともあり、おばさんは「あら、夏に合宿で来た子?」と笑って、あっさり渡してくれた。
建物の中に入ると、空気が変わった。
十月の夕方なのに、冬だ。建物の中だけ、季節が違う。
廊下の蛍光灯がチカチカと瞬いている。呼吸みたいなリズムで。点いて、消えて、点いて、消えて。
自分の足音が、やけに大きく響く。他に誰もいない。管理人室は離れにあるから、ここには俺一人だ。
渡り廊下への扉の前で立ち止まった。
ドアノブに手をかける。金属が氷みたいに冷たい。
深呼吸。
扉を開けた。
薄暗い朱色の光が、渡り廊下を染めていた。西の窓から差し込む夕陽。でも、血みたいな赤だった。
林間学校の時とは比べ物にならないほど、気配が濃い。空気が澱んでいる。粘度があるみたいで、歩くたびに抵抗を感じる。
痣が、焼けるように疼く。左腕全体が脈打つように痛む。ここに来たことを、あの子が喜んでいるのか。それとも怒っているのか。
——いる。
廊下の真ん中に、影があった。
男の子が、うつむいて立っている。
透けていない。輪郭だけがぼやけて、世界から浮いているような違和感。
前は椎名にしか見えなかった姿が、今は俺にもはっきりと見えている。名前を呼ばれ、振り返り、痣を通じて繋がりが深まった結果——俺の感覚は、もう元には戻れないところまで開いてしまっていた。
男の子がゆっくりと顔を上げた。
目がない。深い闇のような穴が二つ、じっと俺を見つめている。そこから黒い涙のようなものが、頬を伝って流れ落ちている。床に落ちると、すうっと染み込んで消える。
制服姿だ。でも、胸の前に色褪せた青いサッカーのユニフォームを大事そうに抱えている。背番号は——7。
『いっしょに……いて……』
声が脳の中に直接響いた。鼓膜を通さない音。頭蓋骨の内側に反響する、子供の声。
冷気が津波みたいに押し寄せてくる。体温が一気に奪われていく。全身の血が凍っていくような感覚。
男の子が手を伸ばしてきた。
小さな手。でも力は凄まじい。
その手が俺の腕に触れた瞬間——世界から色が奪われた。
白。何も見えない。何も聞こえない。
ただ、冷たい。痛い。骨の髄まで凍りそうだ。
引きずり込まれていく。永遠の孤独の中へ。
(ああ、これでいいのかもな)
不思議と、恐怖が薄れていく。
諦めに似た感覚が、体の芯を侵食していく。
(どうせ俺は一人だ)
林間学校の前も。林間学校の後も。結局、何も変わらなかった。
このまま消えても、誰も困らない。
(消えても、きっと清々するだろ。厄介なオカルトマニアがいなくなって)
椎名の顔が浮かんだ。笑ってる顔。怯えてる顔。俺の背中にしがみつく、大きな体。あの丁寧な力加減。拗ねた声。赤い耳。
……そして、俺を見るときの優しい顔。
(ごめん)
視界が暗く染まっていく。
男の子の手が、俺の腕を強く引く。奈落の底に向かって。
意識の端が、ちりちりと溶けていく。
誰か。
誰か、助けて——。
バンッ!!!
渡り廊下の扉が、蹴破られたような音を立てて開いた。
「夜森ッ!!!」
喉が張り裂けるような絶叫が、渡り廊下を震わせた。
空気が、びりびりと振動した。窓ガラスが共鳴して軋む。
「椎名……?」
遠のいていた意識が戻ってきた。
目の前に映ったのは、肩で息をしながら、渡り廊下に飛び込んできた椎名の姿だった。
髪はボサボサで、額に汗が張り付いている。必死な表情で、俺を見ている。
いつも余裕でいた王子様の面影なんか、どこにもなかった。
しかし、こちらへ向かっていた椎名の足は、途中で止まった。
渡り廊下の中ほどで、見えない壁に阻まれたように、体がビクンと跳ねて前に進めなくなった。翼の力が、侵入者を拒んでいる。
椎名の顔が恐怖に歪む。見えているのだ。俺の腕を掴む翼の姿が。目のない顔が。黒い涙が。
「くるな……!」
俺は絞り出すように言った。声が掠れる。舌が痺れている。
「にげて……椎名……」
「逃げるかよ!」
椎名が叫んだ。
顔がくしゃくしゃに歪んでいる。涙が頬を伝っている。鼻水も出ている。
あの椎名蓮が、子供みたいに泣いている。
「最初は自分のためだった!」
渡り廊下に響き渡る、飾りのない懺悔。
声が壁に反射して、何重にも重なって聞こえる。
「お前も『見える』んだと思い込んで、同じ側の仲間がほしくて近づいた! お前のオカルト知識にも頼りたかった! ペアを仕込んで、全部俺の都合で——お前の気持ちなんか考えてなかった!」
一歩。椎名が、見えない壁に逆らって足を踏み出した。
靴底が軋む。冷気が椎名の体にまとわりつく。吐く息が真っ白になる。
——ミシッ。
足元の床板が、嫌な音を立てた。
椎名が踏んだ場所じゃない。渡り廊下の中央、翼が立っている付近の板が、内側から押し上げられるように膨らんでいる。古い釘が浮き上がって、ぴん、と弾けた。
「でも今は違う! 全然違うんだよ!」
涙で顔がぼろぼろだった。
プライドも、見栄も、一軍の鎧も、全部脱ぎ捨てた、剥き出しの声。
「お前がいなくなったら! 俺はまた一人で『見えるだけ』に戻るんだぞ!」
もう一歩。冷気が椎名の体にまとわりつく。肩に霜が降りている。ジャージの表面に白い結晶が浮かんでいる。
それでも止まらない。
——バキッ。
渡り廊下の窓ガラスに、蜘蛛の巣のようなヒビが走った。
一枚、二枚。ガラスの亀裂が、端から端へ連鎖していく。枠を支える木の支柱が、ギィ、と軋んで傾いた。
渡り廊下全体が揺れた。十五年分の怨念が、建物の骨格を侵食している。このままじゃ、渡り廊下ごと崩れる。
「誰にも言えなくて! また一人で震える夜に戻るんだぞ!」
椎名の声が裂けた。泣きながら怒鳴っている。
嗚咽で言葉が途切れ途切れになる。鼻をすする音。みっともない。かっこ悪い。学校の誰が見ても、椎名蓮だと信じないだろう。
(こいつ、泣いてる)
頭の中が、真っ白になった。
(あの椎名蓮が。俺のために、こんな——)
「俺が怖がってるの知ってるのは、お前だけなんだよ! 俺のダサいとこ全部見て、それでもそばにいてくれたのは、お前だけなんだよ!」
椎名は歯を食いしばって、一歩。また一歩。
怖がりのくせに。幽霊が見えるくせに。泣きながら震えているくせに。
それでも、止まらない。
「頼むから——俺を一人にするな!!」
その叫びが、空気を裂いた。
男の子の影が、大きく揺らいだ。
同じ孤独の叫びに、怪異が共鳴したのだ。
一人にするな。ここにいて。——翼がずっと、誰かに言ってほしかった言葉。
椎名の叫びは、翼への言葉でもあった。
引きずり込まれる力が、一瞬だけ緩んだ。
椎名は逃さなかった。飛び込んできた。
俺の腕を掴む。あの強い手で。熱い手で。怪異の冷たい手を力ずくで振りほどいて、俺を自分の方へ引き寄せる。
ドサッ。
二人して床に倒れ込んだ。
椎名の腕が、俺の背中を抱きしめている。壊れるんじゃないかと思うほど強く。
温かい。猛烈に温かい。椎名の体温が、心臓の鼓動が——全部、生きている人間の証拠だった。
世界に色が戻った。血の色の夕暮れが、冷たい渡り廊下の床が、椎名の泣き腫らした顔が——全部、色を取り戻した。
覆いかぶさってくる椎名の顔を見上げた。
ボロボロと大粒の涙を流して、俺の肩を掴んで、ガタガタ震えていた。
「夜森……勝手に一人で行くなよ……」
「どうしてここに……高熱出したんじゃなかったの……?」
掠れた声で聞いた。椎名には行き先を伝えていない。
椎名の頬に触れるとまだ熱い。ここに来るまで、辛かったはずだ。
「夢を見た」
椎名は震える声で言った。
「お前が渡り廊下で、あいつに引きずり込まれる夢だ。目が覚めても嫌な予感が収まらなくて。電話しても、お前でないし。無我夢中で、タクシー拾ってここまで来たんだ」
霊感持ちの椎名には、見えたのだ。夢という形で。
俺が一人でここに来たことも。危険に晒される可能性があることも。
「幽霊が怖いくせに、一人で来てくれたんだな……」
「あんなものより、お前がいなくなることの方が怖いんだよ……ッ」
椎名の声は震えていた。
ああ、こいつ、本当に怖がりなんだ。
幽霊も怖いけど、それ以上に——また一人に戻ることが、死ぬほど怖かったんだ。俺と同じだ。
なのに、怖い場所に飛び込んできた。泣きながら、震えながら。
俺の手を掴むために。
——ああ、もう無理だ。こいつに応えない理由が、一個もない。
「……ごめん」
俺は椎名の背中に腕を回した。震える背中を、今度は俺が支える。
「ごめん、椎名」
涙が出た。堪えていた感情が、決壊したダムみたいに溢れ出した。
「離さないから」
椎名の袖を握った。猫みたいに添えるんじゃなくて、自分の意思で。拳を作って、ぎゅっと。
どれくらいそうしていたかわからない。
涙が枯れて、ようやく顔を上げた。
少し離れたところに、翼が立っていた。
黒い穴の目で、俺たちを見つめている。羨ましそうに。どこか満足そうに。でもまだ、消えていない。
俺は椎名の手を握ったまま、ゆっくりと立ち上がった。
膝は震えている。でも、隣にこいつがいるから、腹は据わっていた。
「まだ、見える?」
「……ああ。サッカーのユニフォームを持ってる。背番号7。泣いてる」
俺はポケットから粗塩の袋を取り出した。来る前にリュックに入れてきたものだ。それと、料理酒。前に学校で使った時の残り。
「足元の、一番気配が濃いところを教えてくれ」
「……あの板が変色してるあたり。ちょうど真ん中」
椎名が指した場所。廊下の板が一枚だけ黒ずんでいる。十五年前に翼が最後に手を伸ばした場所。
俺は塩の袋を破り、その場所を中心に、ゆっくりと円を描くように撒いた。
それから、酒の蓋を開けて、塩の円の内側に少量注いだ。前回——学校の渡り廊下で撒いた時、酒は腐った。あの子に拒絶されたのだと思っていた。でも、今なら違う意味がわかる。届いていたのだ。届いたから、反応があった。腐ったのは拒絶じゃなく、あの子の寂しさが酒を受け取った証だった。
「追い出すためじゃない」
前回、渡り廊下で盛り塩をした時、俺は「結界」のつもりで使った。怪異を弾くための壁。だから効かなかった。
今回は違う。塩は「場所を定義する」ために撒いている。
「ここは君の場所だ。——君が、いた場所だ」
この場所で、あの子は一人で死んでいった。誰にも見つけてもらえずに。
——その瞬間、翼が叫んだ。
声ではない。感情が、冷気になって爆発した。
廊下の温度が一気に氷点下まで落ちた。息ができない。肺に入る空気が凍っている。吸い込むたびに気管が焼けるように痛い。
渡り廊下の窓ガラスが、一斉にヒビ割れた。バキバキバキ、と連鎖する破砕音が暗闇に響く。天井から霜が降る。塩の円の上にも白い結晶が積もっていく。
足元の床板が大きく隆起した。釘が弾け飛ぶ。支柱が悲鳴を上げて傾き、渡り廊下全体がぐらりと揺れた。
——怒りじゃない。
これは泣き声だ。
彼の孤独が、堰を切って溢れ出している。「来てくれた」と思ったのに、また塩で壁を作られた。また拒絶される。また一人になる。その恐怖が、建物を壊すほどの力になっている。
「陽!」
椎名が俺を庇うように覆いかぶさった。天井から落ちてきた木片が椎名の背中に当たる。
「大丈夫か!」
「……大丈夫。——でも、あの子は大丈夫じゃない」
塩の円は半分崩れていた。酒の瓶が倒れて、中身が床に広がっている。
でも、崩れた塩の形が——偶然、手を伸ばしているように見えた。
翼が、俺たちの方に手を伸ばしている。
(追い出しに来たんじゃない。そう伝えなきゃ)
俺は椎名の腕を振りほどいて、崩れた塩の円の前にしゃがみ込んだ。椎名も隣に膝をつく。
氷点下の空気の中で、歯の根が合わない。でも声は出す。
「翼くん」
声を落として呼びかけた。怪異に——いや、あの男の子に。
「寂しかったんだよな。ずっと一人で、ここで待ってたんだよな」
この言葉は、翼に向けている。椎名にも。俺自身にも。
「一人は、怖いよな。誰も見てくれないのは、怖いよな」
男の子の影が、小さく震え始めた。
『……ひとり……ぼっち……』
『やだ……ひとりは……やだ……』
「……違う」
椎名が声を上げた。涙の跡でぐしゃぐしゃの顔のまま、まっすぐに翼を見据えている。
「君は一人じゃない」
椎名の声は震えていたけど、力強かった。
「俺には見えるよ、翼」
「お前が泣いてるの、ずっと見えてた。——お前は一人じゃない」
その言葉に反応して、翼の影が激しく揺らめいた。冷気が渦を巻いて、椎名に向かって殺到する。
同時に、足元の床板が一枚、真っ二つに裂けた。
裂け目から冷気が噴き上がる。渡り廊下の支柱がさらに傾き、天井から木片がパラパラと降ってきた。ガラスのヒビから夜風が吹き込んで、埃と冷気が渦を巻く。
廊下が、死にかけている。翼の力が建物そのものを壊し始めている。
「椎名!」
俺は椎名の前に飛び出した。両腕を広げる。
見えない。俺には翼の姿は見えても、その力の流れは見えない。
でも、こいつの前に立つことならできる。
「こっちを見ろ。お前が話したいのは俺だ」
冷気が俺の正面で止まった。
俺は塩の円に手を置いた。
「ここはもう、君が一人で死んだ場所じゃない」
声が震える。でも、言葉は止めない。
「俺たちが来た。君の名前を呼んで、ここに戻ってきた。——ここは、君を見つけた場所だ」
椎名が俺の隣にしゃがみ直した。震える手を、塩の円に重ねる。
「……ああ。俺が見てるから。ちゃんと見えてる。お前はもう一人じゃない」
道具が場所を定義した。塩の円が「ここはお前の場所だ」と認めた。
目が存在を証明した。椎名が翼を見て、「お前はいる」と示した。
言葉が意味を書き換えた。「一人で死んだ場所」を「見つけてもらえた場所」に変えた。
三つが重なった瞬間だった。
ドクンッ!!
視界がホワイトアウトした。
知らない映像が脳内に流れ込んでくる。
記憶だ。翼の、最後の夜の記憶。
——真夏の夜。合宿所の渡り廊下。
少年が一人で泣いていた。膝を抱えて、背番号7のユニフォームを胸に押し当てて。
大会のメンバーに選ばれなかった。心臓の持病がある以上、仕方ないとわかっていた。わかっていたけど、サッカーが好きだった。チームが好きだった。一緒にピッチに立ちたかった。
着るはずだったユニフォーム。別の誰かの名前が書かれる前に、こっそり持ち出した。一度でいいから袖を通したかった。でも、着れなかった。着たら、もう手放せなくなる気がして。
——泣き疲れて、少し眠った。
——目が覚めた時、胸が痛かった。
——突然の激痛。息ができない。体が動かない。
——暗い廊下を這う。冷たい床。膝が擦りむける。爪が割れる。
——怖い。死にたくない。一人は嫌だ。
——朝になれば、みんなが迎えに来てくれる。そう信じて廊下の窓の下で待った。
——手を伸ばす。視界が暗くなる。冷たい。寒い。胸に抱いたユニフォームだけが、まだ温かい。
——誰か、僕を見つけて。
「くっ……」
隣で椎名が呻いた。同じ光景を見ているのだ。
俺の手を握る椎名の手が、痛いほど食い込む。椎名は泣いていた。声を上げずに、ただ涙を流していた。
「……わかった。わかったから」
椎名が、見えない誰かに語りかけるように言った。
「辛かったな。怖かったな。……俺も——ずっと怖かったから」
「うん」
俺も頷いた。涙が止まらなかった。
同情じゃない。これは、俺たちの痛みだ。
「俺も一人だった。ずっと。だからわかるよ、翼くん」
三人分の孤独が、ひとつに溶けていく。
翼の寂しさ。椎名の恐怖。俺の諦め。形は違うけど、根っこは同じだ。
一人は、怖い。誰かにいてほしい。それだけのことだった。
俺たちは、空いた手を伸ばした。虚空に浮かぶ翼の影に向かって。
「もういいよ」
俺は言った。
「俺たちが知ってる。君がここで一人で頑張ってたこと。出口に手を伸ばして、最後まで諦めなかったこと。——知ってるから」
「ああ」椎名が重ねる。「俺たちが覚えてる。絶対忘れない。だからもう——泣くな」
二人の手が、影に触れた——ような気がした。
その瞬間。
冷たく凍りついていた空気が、ふわりと温かいものに変わった。
翼の影から黒い澱みが抜けていく。潮が引くように。
普通の男の子の姿が浮かび上がった。日に焼けた肌。あどけない顔。
——ユニフォームを、着ていた。
ずっと胸に抱えていただけの、色褪せた青いユニフォーム。背番号7。一度も袖を通せなかったそれを、今、着ている。
少しぶかぶかだった。肩が余って、袖が指先まで隠れている。十六歳の痩せた体には大きすぎるサイズ。でも、それを着た翼の顔は——。
目はもう黒い穴じゃなかった。どこにでもいる高校生の目。泣いていた。でもそれは安堵の涙に見えた。
翼が笑った。ユニフォーム姿で、十六歳の、あどけない笑顔。
ずっと泣いていた男の子が、ずっと着たかった服を着て、最後に見せた笑顔。
『ありがとう』
風のような声が響いて、翼の姿が光の粒子になって溶けていった。蛍の光みたいにキラキラと輝きながら、天井を抜けて空へ昇っていく。
渡り廊下を満たしていた冷気が、霧が晴れるように跡形もなく消えた。
音が、消えた。
何も聞こえない。風の音も、建物の軋みも、自分の呼吸さえも。世界から音だけが抜き取られたような、完全な静寂。
その静寂の中で、たった一つだけ聞こえるものがあった。
ドクン。ドクン。ドクン。
椎名の心臓の音。繋いだ手を通じて、脈拍が伝わってくる。生きている音。温かい音。
そこに、もう一つ重なった。俺の心臓の音。二つの鼓動が、少しずつリズムを合わせていく。
——チュン。
鳥の声が、静寂を破った。小さく、澄んだ一声。窓の外から。
それを合図にしたように、世界が動き始めた。
——渡り廊下が、静まった。
さっきまで軋み続けていた支柱が沈黙した。傾いたまま止まっている。ヒビの入ったガラスはもう広がらない。裂けた床板の隙間から、冷気の代わりに朝の空気が流れ込んできた。
崩壊が、止まった。翼がこの場所を握りしめていた力が、解けたのだ。
ボロボロの渡り廊下は、まだ辛うじて繋がっている。俺たちの足元には亀裂が走り、ガラスは蜘蛛の巣だらけで、支柱は傾いたまま——でも、崩れなかった。
後には、ただ静寂だけが残った。
窓の外が白み始めていた。ヒビ割れたガラスの隙間から、朝の光が差し込んでくる。砕けた破片が光を乱反射して、廊下中に小さな虹を散らしていた。数分前まであんなに恐ろしかった場所が、今はただ、静かで懐かしい場所に見えた。
ふと、ポケットの中で何かが指に触れた。
方位磁針だ。ここに来る前にリュックから移しておいたのを忘れていた。
取り出した。真鍮のケースが朝日を受けて、鈍く光る。
針は——北を指していた。
微動だにしない。林間学校の夜からずっと狂い続けていた針が、初めて、正しい方角を指して静止していた。
「……行ったな」
「うん。成仏したんだと思う」
俺たちはその場に並んで腰を下ろした。
背中を壁に預けて、体温が伝わる距離で。
繋いだ手は、まだ離していなかった。離す理由がなかった。
朝の光が、ゆっくりと渡り廊下を照らしていく。血のような赤だった場所が、淡い金色に変わっていく。
外から鳥の声が聞こえた。朝だ。夜が明けた。
しばらくの間、二人とも何も言えなかった。
椎名の手だけが、俺の手を握り続けている。
「……なあ、陽」
朝焼けに照らされた椎名の横顔は、完璧なアイドル顔じゃなかった。瞼が腫れて、鼻が赤くて、頬に涙の跡がこびりついている。
なのに、今まで見たどの顔よりも綺麗だった。
「ん?」
「お前は、俺の何なんだ?」
友達? そんな軽い言葉じゃ足りない。
相棒? 共犯者? 恋人?
どれも当てはまるようで、どれも違う。
(俺なんかが——)
いつもの癖が顔を出す。
でも、もうその言葉は嘘だって知っている。
見えない俺だから。知識のある俺だから。怖がりのくせに逃げなかった俺だから。
こいつの傍にいられる。いていいんだ。
一番しっくりくる答えを、口にした。
「……お前が怖い時に、手を握る人」
椎名が息を呑んだ。
俺の顔をまじまじと見て——ぷ、と吹き出した。
「なんだよそれ。ダサすぎだろ」
椎名の目から、またぽろりと涙がこぼれた。笑いながら泣いている。くしゃくしゃの、泣き笑い。
「うるさいな。事実でしょ」
「……うん。事実だ」
それを見たら、俺の目からも涙が溢れた。でも口元は上がっている。
泣いているのに、笑っている。こんな顔、生まれて初めてした気がする。
「……ずっと、傍にいてくれるか」
椎名が、すがるような目で俺を見た。弱さを隠そうともしない、まっすぐな目。
「俺、またビビると思うし。夜中に泣きつくかもしれないし。めっちゃ面倒くさいと思うけど」
「知ってるよ、そんなの」
俺は椎名の手を、自分から握り返した。
——自分から。
今までいつも椎名の方から手を伸ばしてくれていた。今度は、俺から。
「いるよ。ずっと」
椎名が泣き笑いのまま、俺の手をぎゅっと握り返した。
骨が折れそうなくらい強く。でも痛くなかった。
朝日が昇っていく。
ヒビ割れたガラスを通り抜けた光が、渡り廊下を金色に染めていく。砕けた破片が床に散らばっていて、その一つ一つが朝日を反射して、まるで星を敷き詰めたみたいだった。
ボロボロの廊下なのに、こんなにも綺麗だ。
壊れた場所に朝が来ると、こんなふうに光るのか。
椎名の手が動いた。
繋いでいた手じゃない。空いていた方の手が、俺の顔に伸びてきた。
前髪に指を差し入れて、ゆっくりと梳く。泣いて乱れた髪を、丁寧に整えるように。朝日の中で、椎名の指が金色に透けている。
横髪を掬って、耳にかけた。壊れ物を扱うみたいに。いつも隠れている顔が、朝の光に晒される。
恥ずかしい。でも、目を閉じなかった。
椎名の指が、耳の縁をなぞった。頬に降りてくる。輪郭を辿っている。こめかみから頬骨、頬の曲線、顎のライン。涙の跡を拭うみたいに。指の腹が肌の上を滑るたびに、触れた場所が朝日と同じ温度になる。
椎名の指は震えていた。泣いた後だからか、緊張しているからか。たぶん両方だ。
親指が、唇に触れた。下唇の輪郭をなぞるように。かすかに。
椎名の動きが止まった。
朝日を背にした椎名の顔が、逆光でよく見えない。でも目だけは見えた。泣き腫らした赤い目が、俺を見ている。許可を求めるような目。でも、もう止まれないって顔もしている。
「……陽、好きだ」
俺は、逃げなかった。
逃げないことが、たぶん答えだった。
椎名の手が顎にかかった。指先で、くい、と上を向かされる。身長差のせいで、座っていても椎名の方が高い。見上げる形になる。
もう片方の手が、首筋に添えられた。親指がうなじの生え際をそっと撫でて——唇が触れた。
柔らかい。温かい。朝日みたいに温かい。触れるだけの、羽根みたいなキス。
でもその一瞬に、椎名の全部が詰まっていた。震える指。泣き腫らした目。怖がりで、泣き虫で、それでも逃げなかったこいつの全部。
渡り廊下に朝日が満ちていた。
十五年間、冷たくて暗かった場所が、今、光の中にある。
壊れたガラスの破片が、俺たちの周りで星みたいに輝いている。
唇が離れた。椎名の顔が近い。朝日の逆光で輪郭だけが金色に縁取られている。
「俺も、椎名と同じ気持ち。好きだよ」
目が合うと、椎名が笑った。泣き笑いの、くしゃくしゃの顔。世界で一番かっこ悪くて、世界で一番綺麗な顔。
「……なんで泣いてんの」
「泣いてない」
「泣いてるじゃん。目、真っ赤」
「お前もだろ」
「……うるさい」
二人とも泣いていた。二人とも笑っていた。
壊れた渡り廊下の真ん中で、朝日に包まれて、手を繋いだまま。
十五年分の冷たさが、朝日に溶かされて消えていく。
ここはもう、誰かが一人で死んだ場所じゃない。
俺たちが翼を見つけた場所だ。
俺たちが、お互いを見つけた場所だ。
