夜の学校は、別の生き物だ。
蛍光灯が消えた廊下は底のない暗闇に沈み、靴底がリノリウムを叩くたびに、廊下の奥まで音が転がっていく。キュッ、キュッ、と靴底がリノリウムに吸い付く音。昼間は何百人もの足音に埋もれて聞こえない音が、夜は一つ一つ際立つ。昼間は何百人もの生徒が行き交う場所が、今は俺たちだけの領域になっている。
天井の配管が、時折キン、と金属音を立てる。建物が呼吸しているみたいだ。温度変化で鉄が伸縮する音だと頭では分かっている。でも暗闇の中だと、それだけで肩がびくりと上がる。
校庭の方から、微かに虫の声が聞こえている。秋の虫。りーん、りーん、と細い音が夜気に溶けている。——あの音が止まったら、気をつけろ。林間学校で学んだことだ。何かが近づくと、虫が黙る。
怪異の根源を断つには、まず現場を知らなきゃいけない。学校の渡り廊下で何が起きているのか。どこまで侵食が進んでいるのか。
「……マジで入んの?」
隣で椎名が囁いた。
体育館裏の非常口から忍び込んだばかりだ。椎名がスマホのライトで足元を照らしている。光の輪が小さくて、闇がすぐそこまで迫っている。
椎名の手は安定していた。さすがバスケ選手だ。——今のところは。
「入るよ。渡り廊下で怪異が"場所"を作り始めてる。広がる前に確認しないと」
「ここ、昼間に通った時も空気が重かったんだ。気温が周りより二度くらい低い」
「……わかる。俺も、ここ通ると首の後ろがゾワッてする」
椎名が小声で言った。見える人間の感覚だ。
俺の知識と、椎名の直感。林間学校の時と同じ組み合わせ。
あの時は利用と被利用の関係だった。今は——なんだろう。共犯者? 相棒? どの言葉も微妙にずれている。名前をつけると壊れそうで、考えないことにした。
俺はリュックの中身を確かめた。
粗塩。料理酒。方位磁針。数珠。スマホ。
一人で乗り込んだ前回と同じ装備。違うのは、隣に椎名がいること。
それだけで、こんなに心強い。その事実が、少しだけ怖い。
渡り廊下に足を踏み入れた。
真っ暗で、ガラスの向こうに夜空が広がっている。星は見えない。曇り空。街灯の光がぼんやりとガラスに映り込んでいるだけ。
足元の板が、ギシ、と鳴いた。古い木の匂いがする。昼間は全く気にならない匂いが、夜になると急に生々しくなる。
椎名が隣にいるのが、呼吸音でわかる。規則正しいけれど、少し速い。緊張している。でも崩れてはいない。
***
四隅に盛り塩を置く。
渡り廊下の入り口と出口、それぞれの左右。計四箇所。
調査中に外から別のものが入ってこないようにするための簡易結界だ。
三つ目、渡り廊下の中ほど、別館側の角。暗くて手元が見えない。
塩の袋から慎重に掬い取る。円錐形に盛るには安定した手元が必要だ。
「……ここ、暗すぎるな。照らしてくれ」
椎名がしゃがみ込んできた。スマホのライトを近づける。
その時、塩がバランスを崩して崩れかけた。
「あ——」
「おい、こぼれる」
椎名の手が伸びてきて、俺の手ごと塩を掬い上げた。
大きな手のひらが、俺の指を包み込む。
——熱い。
椎名の体温が、指先から一気に流れ込んでくる。
夜の冷たい空気の中で、その熱がやけに鮮明だった。バスケで鍛えられた掌。指が長くて、関節がしっかりしていて、俺の指が全部隠れてしまうサイズ。
脈が一拍、大きく乱れた。耳の奥で血流の音が聞こえる。
「……これでいい?」
椎名の声が近い。
顔を上げたら、目が合った。
暗闇の中、スマホのライトに照らされた椎名の目がすぐそこにあった。光の加減で琥珀色に見える瞳。真剣な目。睫毛の先が触れそうな距離。
塩の粒を挟んで、指が触れ合っている。じりじりと体温が移っていく。どちらの手がどちらの手なのか、境界が曖昧になる。
「……ん。そこ」
かろうじて声を絞り出した。
二人で塩を盛り直す。椎名がゆっくり手を離した。指先が名残惜しそうに、俺の手の甲を滑っていった。
——気のせいだ。たぶん。
四つ目を置いて、結界が完成した。床に少量の酒を撒く。料理酒だが、アルコールの匂いが暗闇に広がった。
方位磁針の針が微かに揺れている。怪異が近い証拠だ。
スマホのライトを点けた。白い光が暗闇を切り裂いて、俺たちの影を壁に投げかけた。二人分の影が、くっきりと浮かび上がっている。
暗闇に向かって声を出した。
隣に椎名がいるからか、声は思ったより落ち着いていた。
「ここにいるなら、聞いてくれ。俺たちは追い出しに来たわけじゃない」
「お前のこと、もっと知りたい。なんで学校までついてきたのか。何を——」
『——はる……』
遮られた。
声が、闇の奥から響いた。林間学校の時より、ずっとはっきりしている。あの時はかすれた音の断片だったのに、今は言葉として認識できる。力が増している。
方位磁針の針が痙攣するように揺れ始めた。
「……聞こえた?」
「ああ。聞こえた」
椎名の声が硬い。
次の瞬間——空気が変わった。
スマホのライトが痙攣した。安定していた白い光が、ちかちかと明滅を繰り返す。点いて、消えて、また点く。まるで何かに怯えているように。
冷気が押し寄せてきた。四隅の盛り塩が、目に見えて溶けていく。結界が侵食されている。
方位磁針の針が一方向を指したまま、ぴくりとも動かなくなった。さっきまで痙攣していたのに、今度は石になったみたいに固まっている。北でも南でもない、壁の一点を——渡り廊下の奥の闇を、指し続けている。
怖い。唾を飲み込もうとして、舌が口蓋に張り付いているのに気づく。
でも、ここで逃げたら何も変わらない。
「……お前の声は聞こえてる。俺たちはここにいる。逃げない」
声が震えた。虚勢だ。情けない。でも、言い切った。
沈黙が降りた。
暗闇が濃くなる。ガラスの向こうの街灯すら見えなくなる。闇が生き物みたいに膨らんで、渡り廊下の空間を塗りつぶしていく。
ふと、足元に目が行った。
スマホのライトが俺たちの影を壁に投げかけている。二人分の影。——なのに、三つ目の影があった。
俺と椎名の間に、もうひとつの影。俺たちと同じくらいの背丈。
影は揺れていなかった。スマホのライトで俺たちの影が微かに揺れるのに、あの影だけが微動だにしない。切り抜かれたように、壁に貼り付いている。
椎名が息を呑んだ。あいつにも見えている。
——怒っている?
違う。
寂しいんだ。この冷たさは、怒りじゃない。どうしようもない孤独だ。
十五年間、一人でここにいた。誰にも見つけてもらえなかった。その寂しさが、冷気になって滲み出している。
背後で、椎名の呼吸が乱れ始めていた。
——ふっ、と。
空気が緩んだ。
三つ目の影が、壁から消えていた。盛り塩は半分崩れ、スマホのライトは何事もなかったように白い光を取り戻している。
冷気が引いた。急に、ただの古い渡り廊下に戻っている。
対話は成立しなかった。こっちの言葉は届かず、あの子は勝手に現れて、勝手にいなくなった。
何も変えられなかった。
***
「……無理」
椎名の声だった。搾り出すような、小さな声。
「吐きそう……。ダメだこれ」
次の瞬間——ドン、と背中に重みがかかった。
椎名が、俺の背中に額を押し付けてきたのだ。
両腕が俺の胴を囲い込んだ。きつい。逃げ場がない。百八十四センチの体が、小刻みに震えている。
バスケ部のエース。学校の王子様。
その全部が剥がれ落ちて、今ここにいるのは、ただの怖がりの男の子だった。
背中越しに、椎名の鼓動が伝わってくる。速い。全力で走った後みたいに。
椎名の吐く息が、俺のうなじにかかっている。熱い。凍えそうな夜気の中で、その息だけが火傷しそうなくらい熱い。
幽霊の冷たさと、椎名の熱さ。二つの温度が俺の体の中でせめぎ合って、頭がおかしくなりそうだ。
「……笑うなよ」
椎名が、顔を伏せたまま言った。声がくぐもっている。うなじに触れる唇の動きを感じて、俺の肩がビクリと震えた。
「かっこ悪いってわかってるから。……笑うなよ」
笑ってない。
俺だって怖いんだ。
——なのに。
何かが、壊れた。
口元が動いた。こらえようとしたのに、こらえきれなかった。
笑っている。
俺、笑ってる。
怖い。死ぬほど怖い。
なのに——あの完璧な椎名蓮が、俺なんかの背中にしがみついて、本気で震えている。
学年一のイケメン。バスケ部のエース。女子の憧れの的。
その全部がいま、百六十七センチの陰キャオカルトマニアの背中に額を擦りつけて、声を震わせている。
クラスの誰が見ても信じないだろう。あの王子様が、百六十七センチの陰キャにしがみついて離れない。
このどうしようもない人間が、怖くてたまらないくせに、俺と一緒にここにいる。
俺を置いて逃げることもできたのに。いや、普通は逃げる。こんな状況で逃げない方がおかしい。なのにこの男は、逃げるどころか俺にしがみついてきた。
背中が温かい。腕が温かい。存在が、丸ごと温かい。
怖い。でもおかしい。おかしくて、温かくて、切なくて——なんだこれ。こんな感情、名前を知らない。
笑い声が漏れた。小さく、震えながら。
自分でも止められない。息の隙間から、ひゅっ、ひゅっ、と空気が抜けていく。
「……笑ってんじゃん」
椎名の声が、背中で拗ねたように響いた。
「なんで笑えんだよ……こんな状況で……お前、神経おかしいだろ……」
「ごめん、ごめん。でも——」
涙が出そうだった。怖くて、おかしくて、嬉しくて、切なくて——感情が溢れすぎて、目の端が熱い。
でも、この腕の中で、この言葉だけは本当だった。
「ちょっと、かわいいと思っただけ」
——言ってしまった。
口が勝手に動いた。取り消せない。空気中に放たれた言葉は、もう回収できない。
俺、何言ってんだ。男に向かって、かわいいって。幽霊が目の前にいるかもしれない渡り廊下で。
怒られる。気持ち悪いって言われる。そう思って身構えた。
恐る恐る、背中越しに椎名の様子を窺った。
——顔が、真っ赤だった。額に手を当てて、俯いている。
「……幽霊より、お前のほうが心臓に悪いって」
小さく、掠れた声。
え?
「……ごめん、やっぱキモかった?」
「そういうことじゃなくて……!」
椎名が即座に否定した。でも、その先の言葉が続かない。
口を開いては閉じ、開いては閉じ。何かを言おうとして、飲み込んでいる。
沈黙が降りた。
怪異の冷気すら、この奇妙な空気に気圧されたのか、一瞬だけ弱まった気がした。
背中に張り付いている椎名が、動かない。
呼吸が浅くなっている。背中越しに伝わる心臓の音が、さっきとは違うリズムで鳴っている。恐怖とは別の理由で、速い。
一秒。二秒。三秒。
永遠みたいな三秒。
ゆっくりと、椎名が顔を上げた。
俺は振り返れない。振り返ったら終わりだと思った。
何が終わるのかは分からない。でも、今この瞬間のバランスが崩れる。目を合わせたら、言葉にしてはいけないものが溢れ出してしまう。そんな予感がした。
でも、横目で見えた。
暗闇の中、スマホのライトの弱い光に照らされた椎名の耳。
——赤い。耳の先まで、真っ赤だった。
背中に回された腕の力が、変わった。
さっきまでの、しがみつくような必死さじゃない。
もっと慎重な。もっと丁寧な。壊れ物に触れるような力加減。
「……うるせぇ」
低い声。掠れた声。
でも、腕は離さなかった。
椎名がゆっくりと顔を持ち上げる気配がした。
俺の肩越しに、横顔が見えた。目が合った。
暗闇の中の、椎名の瞳。
潤んでいる。唇が微かに開いた。何か言いかけている。たぶん怖いのと、別の理由と、両方で潤んでいる。
——ガタンッ。
渡り廊下の向こうで物音がした。
俺たちは同時にビクッと体を強張らせた。
椎名の腕がぎゅっと強くなって、それから、ゆっくりと緩んだ。体温が離れていく。名残惜しそうに。
「……帰るか」
椎名の声が掠れていた。
俺は頷いた。声が出なかった。
***
盛り塩を回収して、渡り廊下を後にした。
非常口から外に出ると、十月の夜風が頬を撫でた。
さっきまでの冷気が嘘みたいだ。夜空には薄い雲の隙間から星が覗いていて、校庭の向こうにコンビニの明かりが見える。日常の風景。普通の世界。
二人で並んで歩いた。どちらも黙っていた。
制服のシャツが夜風に冷やされて、肌に張り付く。椎名のジャージの裾が風に揺れている。靴底がアスファルトを踏む音だけが、夜の住宅街に響く。
虫の声。遠くの電車の音。自販機の明かり。全部が、ただの日常だった。
あの渡り廊下での非日常な出来事が、遠い記憶のように思えた。でも俺たちだけが、その裏側を知っている。
分かれ道の手前で、椎名が口を開いた。
「今日のこと、誰にも言うなよ」
「言わないよ」
即答した。言うわけがない。
椎名が怖くて俺にしがみついたこと。俺がそれをかわいいと言ったこと。あの丁寧な腕の力加減。赤い耳。掠れた「うるせぇ」。
どっちも——全部、墓まで持っていく。
俺だけが知っている。この人の、本当の姿を。
それが少し誇らしくて、少し苦しい。
椎名が少し間を置いて、前を向いたまま、小さく言った。
「……お前がいると、見えてても平気だった」
「!」
足が止まりかけた。
でも止めなかった。止めたら何かを認めてしまいそうで。止めたら振り返ってしまいそうで。振り返ったら、たぶん、もう二度と離れられなくなる。
横目で椎名を見た。街灯の光が横顔を照らしている。
耳は、まだ赤いままだった。
「……おやすみ」
それだけ言って、俺は自分の道を歩き出した。
背中に椎名の視線を感じながら。振り返りたい衝動を、歯を食いしばって堪えながら。
十歩。二十歩。角を曲がるまで、背中がずっと熱かった。
角を曲がった瞬間、足が止まった。壁に背中を預けて、天を仰いだ。星が見えた。さっきまで曇っていたはずなのに。
胸の奥で、何かがとくとくと脈打っている。痣の痛みじゃない。もっと深いところの、もっと温かい痛み。
***
家に着いた。電気もつけずにベッドに倒れ込んだ。
暗い天井を見上げる。
自分の部屋の匂い。本と埃の匂い。日常の匂い。
なのに、椎名の体温が、まだ背中に残っている。
腕の感触。うなじにかかった息。あの丁寧な力加減。拗ねたような声。赤い耳。
全部が鮮明に残っていて、上書きできない。
——「かわいい」って、言っちゃったな。
思い出して、顔が熱くなった。
枕に顔を埋める。布団を頭まで引き上げる。暗闇の中で、自分の体温だけが篭もっていく。
あの時、椎名は何を言いかけたんだろう。
ガタンッ、という音に遮られて、言葉は空中に消えた。
考えたくない。考えたら、戻れなくなる。
ふと、自分の顔に手を当てた。
頬が、少し痛い。筋肉痛みたいな、鈍い違和感。
なんだろう。
……笑ったからだ。
いつ以来だろう。声を出して笑ったのは。
頬の筋肉が、使い方を忘れていたみたいだ。
枕から顔を上げて、スマホを見た。
メッセージの通知が一件。
『今日の塩の盛り方、めっちゃ上手かった。職人になれるな』
椎名からだった。
なんだよ、それ。褒めるところそこかよ。
でも、口元が緩むのを止められなかった。
返信を打とうとして、やめた。打っては消し、打っては消し。
結局、スタンプひとつ送った。猫が小さく手を振っているやつ。
既読がついた。即既読。こいつもスマホ見てたのか。
三秒後に返信が来た。猫の頭を撫でる手のスタンプ。
なんだよそれ。なんでそのスタンプなんだよ。俺は猫じゃない。
「……ばか」
誰にも聞こえない声で呟いて、スマホを裏返しにした。
布団を引き上げて、目を閉じた。
椎名の温もりが、まだ消えない。
消えないでほしいと思っている自分が、少しだけ怖くて、少しだけ嬉しかった。
眠れない夜。
でも悪夢じゃない夜。
それだけで、十分だった。
***
翌朝、椎名が学校に来なかった。
一時間目が始まっても、椎名の席は空のままだった。
あいつが遅刻するところなんて見たことがない。皆勤賞を狙っているわけでもないだろうけど、王子様は「いつも通り」を崩さない。それが鎧だから。
二時間目の休み時間に、翔太が俺の席に来た。
「陽、椎名のこと聞いた?」
「……いや」
「今朝から高熱で休みだって。バスケ部の連中が言ってた」
息が止まった。
「……熱って、どのくらい」
「三十九度超えてるらしい。朝起きたら立てなかったって」
鶴見と、同じだ。
肝試しに参加したメンバーが次々に倒れている、あの症状と。
「なんかうわ言みたいなこと言ってたらしいぜ。『渡り廊下が』とか——」
翔太の声が遠くなった。
教室の喧騒が水の底に沈んでいく。
昨日の夜、一緒に渡り廊下を調査した。
俺の背中にしがみついて、震えていた。あの時、椎名の体に何かが入り込んだのか。俺を守ろうとしたせいで、あいつの方が喰われたのか。
スマホを取り出した。昨日の猫のスタンプが、まだ画面に残っている。
あの時、椎名は元気だった。ふざけたスタンプを送ってきて、即既読して、猫の頭を撫でるスタンプを返してきた。
あれから、たった数時間で。
メッセージを打とうとした。指が止まった。
何を送る? 「大丈夫?」——そんな言葉、何の意味もない。
椎名からの連絡はなかった。
あいつは、自分が倒れたことを俺に知らせようとしない。王子様の鎧は、三十九度の熱でも脱がないのだ。
教室の窓が、一枚だけ曇っていた。俺の席の横の窓だけ。
息が白くなりかけて、すぐに消えた。
——こいつは、俺の周りにいる人間を順番に壊していく気だ。
鶴見が倒れ、他にもクラスメイトが次々と倒れ、そして椎名まで。
次は誰だ。翔太か。桐生か。
全部、俺があの『声』に振り返ったせいだ。俺が名前を呼ばれた時に振り返ったから、あの子は俺についてきた。俺の周りの人間を巻き込んでいる。
昨日の夜、椎名は言った。「お前がいると、見えてても平気だった」と。
——平気じゃなかったんだよ、ばか。お前の体は、正直に壊れてるじゃないか。
放課後、一人で図書室に籠もった。
本を引っ張り出した。民俗学の棚。怪異の鎮め方。霊の成仏。地縛霊の解放。
全部読んだ。全部知ってる。でもまだ足りないものがある。
本を閉じて、天井を見上げた。
——俺が行くしかない。
清風荘へ。あの渡り廊下へ。根っこを断ちに。
椎名を連れていくわけにはいかない。あいつは霊感があるせいで、俺より深く喰われる。昨日の夜がその証拠だ。
霊感ゼロの俺の方が、まだ安全だ。知識はある。対話の方法も、場所の意味を書き換える理論も、全部頭に入っている。
足りないのは「見える目」——でも、あいつをもう一度あの恐怖に晒すくらいなら、目なんかなくていい。手探りでいい。
俺が始めたことだ。俺が終わらせる。
