ビビリな一軍男子に憑かれ(好かれ)てしまった。


 窓ガラスに映る自分の顔は、まるで幽霊のようだった。
 伸びすぎた前髪が、ただでさえ暗い瞳をさらに隠していて、日に焼けていない肌は真っ白で、ぼんやりと浮かんでいた。

「……帰りたい」

 俺——夜森陽(よもり・はる)は、林間学校へ向かうバスの中で、何度目かわからない溜息をついた。
 ガラスの向こうでは、鬱蒼とした杉林が猛スピードで流れていく。
 まるで、俺の憂鬱を加速させるように。

 イヤホンからは、お気に入りのオルタナティブ・ロックが大音量で流れている。歪んだギターの音だけが、今の俺を肯定してくれていた。
 けれど、安物のイヤホンは、車内に充満する「青春の騒音」を完全には遮断することはできなかった。

「うわ、マジ? お前、水着忘れたの?」
「ギャグだろ。どうすんの」
「いや、誰かに借りるから! 誰か貸して!」
「貸すわけねーだろ、無理無理!」

 バス内にどっと笑いが起こった。
 手足のぶつかる音。スナック菓子の袋を開ける音。
 高校二年の夏。八月半ば。
 林間学校という名の、三泊四日の強制収容イベント。
 うちの高校は創立百年を超える伝統校で、この「林間学校」なんて昭和の遺物みたいな行事が未だに生き残っている。OBの寄付金と圧力のおかげで廃止にできないらしい。
 クラスの連中は浮かれているが、俺にとっては苦痛以外の何物でもなかった。
 人見知りで、口下手で、友達も少ない。クラスのカースト最下層の住人である俺にとって、二十四時間体制の集団行動は地獄だ。
 逃げ場がない。一人の時間がない。そして何より、「楽しんでいないこと」が罪であるかのような空気が、呼吸を困難にさせる。

 うちの高校の二年生は、全部で八クラスある。
 今回の林間学校は、一組と二組の二クラス合同での実施だ。
 一クラス分の人数で埋まった車内は、二酸化炭素と制汗スプレーの匂い、そして過剰なお祭りテンションで飽和状態だ。
(……早く着いてくれ。いや、着かないでくれ。このまま異世界にでも迷い込んでくれ)
 矛盾した願いを抱きながら、俺は視線を彷徨わせた。

 俺の席は、バスの前方、乗車側の窓際。
 隣は空いている。誰も座りたがらなかったからだ。
 ふと、ガラス越しに見える後方——いわゆる「一軍」が陣取る最後部エリアに、視線が吸い寄せられた。

 そこは、バスの中でも別世界だった。
 窓から差し込む陽の光さえ、その場所だけ特別に明るく照らしているようだ。
 その中心に、彼はいた。

 椎名蓮(しいな・れん)。

 窓際で足を組み、気怠げにスマホをいじっているだけで絵になる男。
 計算された無造作ヘア。セットされた前髪が少しかかった、涼しげな切れ長の瞳。
 バスケ部のシューティングガードを務めるエースで、高身長かつ運動神経抜群。
 成績優秀、性格も明るくて、誰にでも優しい。
 神様がステータスを割り振る時、誤って全部最大値にしてしまったような存在だ。

 俺とは、生物としての種類が違う。
 住む世界どころか、吸っている空気の成分さえ違うんじゃないか。
 関わることなんてない。
 一生、交わることのない平行線上の存在。

 そう思って、目を逸らそうとした瞬間だった。

 椎名が、ふと顔を上げた。
 スマホから視線を外し、まっすぐに——。

 ——目が、合った。

 距離にして五メートル以上。
 たくさんの生徒の頭越しに、視線がかち合った。

 偶然だと思った。
 あんな中心にいる奴が、隅っこで死んだ目をしている陰気な男を見るはずがない。
 けれど、視線は外れなかった。
 椎名は、明確に、俺の目を見ていた。
 焦げ茶色の瞳が、俺を射抜いている。

 そして。
 椎名の形の良い唇が、ゆっくりと弧を描いた。

 にこり。

 微かな、けれど確かな笑顔。
 誰に向けたものでもない、俺だけに向けられた笑顔。

 ひっ。
 俺は喉の奥で悲鳴を上げ、慌てて顔を背けた。
 席に深く座り、身を縮ませる。
 ばくばくと、心臓が嫌な音を立てて早鐘を打っていた。
 なんだ今の。
 今の笑顔、何?
 愛想笑い? 目が合ったから、とりあえず笑っておいた?
 それとも、「お前みたいな陰キャも楽しめよ」という強者の余裕?
 あるいは——「こっち見んな、陰キャ野郎」という牽制かも?

 どれにせよ、居心地が悪すぎる。
 今の笑顔は、普段女子たちに見せている爽やかな「王子様スマイル」とは、どこか違って見えた気がした。
 もっと温度のない、獲物を狙う野獣のような、感情の読めない表情。

(気にすんな。自意識過剰だ。あいつは俺の存在も認識してないはずだ)

 俺はイヤホンの音量を最大まで上げて、目を閉じた。
 瞼の裏に、あの笑顔が焼き付いて離れなかった。

***

「うわっ、ボロ……」
「マジで、ここに泊まるの?」
「幽霊出そうじゃん。つーか絶対出るってこれ」
「待って、逆に雰囲気エモくない?」
「あー、わかる。一周回って映えるかも。ストーリー載せよ」

 バスから降りた生徒たちの第一声は、おおむねそんな感じだった。
 標高八百メートル。深い山間にひっそりと佇む合宿所「清風荘」。
 木造二階建ての本館は、壁の一部が黒ずみ、屋根にはびっしりと苔が生えている。窓ガラスは曇っていて、中は見えない。
 さらに不気味なのは、本館から五十メートルほど離れた「別館」だ。
 本館と別館は、一本の長い渡り廊下で繋がっているのだが、その廊下が異様に長い。
 中空に浮くように設置された廊下は、支柱が頼りなく細く、今にも崩れ落ちそうだ。

「おい、静かにしろ! 失礼だろ! お世話になるんだから!」
 生活指導の教師が怒鳴るが、生徒たちの興奮は冷めない。
 むしろ、ボロい宿というのは、非日常感を盛り上げるスパイスになるらしい。
 みんなスマホを取り出して、「"廃墟に潜入してみた"で投稿~」「一緒に写真とろ!何か映るかも?」なんて言いながら写真を撮りまくっている。

「きゃっ! 重!」
 近くで女子生徒が、大きなボストンバッグを降ろそうとしてよろけた。
 その瞬間、すっと伸びた手がバッグを支えた。
「大丈夫? 貸して、俺が運ぶよ」
「えっ、椎名くん!? だ、大丈夫だよ悪いし……」
「いいって。女の子にこんな重いの持たせられないし。入り口まで持っていくよ」
 爽やかな笑顔。嫌味のない自然な気遣い。
 女子生徒は顔を真っ赤にして「あ、ありがとう……好き」と小声で漏らしている。
「はは、どういたしまして」

 完璧だ。
 外見だけでなく、振る舞いまでイケメン。
 神様は不公平すぎる。俺は舌打ちしたくなるのを堪えて、自分のバッグを持ち直した。

 俺はため息をつきながら、ボストンバッグを持って砂利道を踏みしめた。
 湿った土と、朽ちかけた木の匂いが鼻をつく。
 この宿には、一つ良くない噂がある。
 オカルトマニアの間だけで囁かれている噂だ。

 ——「渡り廊下の子」。

 夜中にあの渡り廊下を一人で渡ると、誰かに名前を呼ばれるらしい。
 呼ばれても、絶対に振り返ってはいけない。
 振り返ると、連れて行かれる。
 どこへ? ……「あっち側」へ。

 俺は右手のポケットに入れた数珠を握りしめた。
 俺はホラーが大の苦手だ。
 お化け屋敷も無理だし、ホラー映画のCMが流れただけでチャンネルを変える。
 なのに、なんでこんなに詳しいのかって?
 それは、「知りたい」からじゃない。「怖いから」だ。
 しかし、「怖いから知りたい」で始まったオカルト情報収集も、今ではすっかりエンタメとして楽しむようになったが。

 敵を知れば百戦危うからず。
 怖いからこそ、事前に徹底的に調べる。どんな怪異が出るのか、その起源は何か、どうすれば回避できるのか。
 知識で武装し、理論で解明することで、なんとか恐怖をねじ伏せ「ホラー」というジャンルのエンタメとして昇華しているのだ。
 今回も、ネット掲示板や怪談サイトを漁り、この清風荘の因縁を調べ尽くしてきた。
 数珠だけじゃなく、盛り塩用の粗塩も持ったし、邪気払いとして撒く用のお清めの塩や、その他色々な除霊グッズを鞄に忍ばせてある。
 左のポケットには、真鍮製の方位磁針。中学の時にオカルトショップで買ったお守りみたいなものだ。ポケットの中で指先に触れると、少しだけ安心する。

(大丈夫。何も起きない。俺はただ、部屋の隅で気配を消して、本を読んで過ごすだけだ)

 自分に言い聞かせながら、古びた玄関の敷居を跨いだ。
 ギィ……と床板が不安な音を立てて、俺たちを迎え入れた。

***

「ちゅーもーく!」
 夕食後。大広間に集められた生徒たちの前で、実行委員長の桐生涼真(きりゅう・りょうま)が声を張り上げた。
 涼真は眼鏡をかけた真面目そうな男子で、普段は寡黙だが、こういう時は責任感を発揮する。ただ、マイクを持つ手が少し震えているのが微笑ましい。

「えー、これより明日のスケジュールの確認を行いますが、その前に! 明日の夜のメインイベント、『肝試し』のペアを発表します!」
 ドッ、と広間が沸いた。
「マジか! ペアなの?」
「女子と組めるってこと?」
「うわー、ガチじゃん!」
 うげ。
 俺は顔をしかめた。
 肝試し。
 クラスの連中は「男女が密着できる神イベント」としか思っていないだろうが、俺にとっては別の意味で重要だ。
 この「清風荘」の裏山は、地元でも有名な心霊スポットなのだ。
 SNSのオカルト垢界隈では、「白い服の女性が出る」「子供の笑い声が聞こえる」といった目撃情報が多数上がっている聖地だ。
 オカルトマニアとして、これほどの有名スポットに来られたことは僥倖だ。
 自然と俺の目には輝きが増し、ネットで有名なオカルト現場を体験できると期待で胸が高鳴った。
 誤解しないでほしいが、俺は今でもホラーは大の苦手だ。しかし、本物の幽霊なんて、そういるもんじゃないということもわかっている。
 ネットで噂になるくらいのオカルト話であれば、誰かの作り話であるのが現実的なところだろう。
 本物じゃないとわかっていれば、何も怖くない。
 だからこそ、オカルトマニアとしては、あの噂の聖地で肝試しにワクワクしないわけがなかった。

 だから問題は「ペア」だ。
 コミュ障の俺がもし親しくもないクラスメイトとペアになってしまったなら、キモがられるに違いない。
 一人でじっくり探索したい気持ちが先行して、ペアになったクラスメイトを置いてけぼりにしてしまう自信がある。

「今回はクラス混合で、公平にくじ引きで決めました。文句は受け付けません。異存がある奴は俺じゃなくて神様に言え! じゃあ、読み上げます」
 涼真がリストを片手に、淡々と名前を読み上げていく。
 歓声と悲鳴が交差する。
「よし! 女子とペア!」
「えー、お前とかよ」
「男とペアはむさ苦しいだろ!」
 一喜一憂するクラスメイトたち。
 俺はどうでもいい。誰と組もうが、俺がキモがられて終わる可能性が高い。
 ……いやでも。もしかしたら「実はオカルトに興味あるんだよね~」っていう類友が現れるかもしれない。
 せめて俺寄りの、カーストでいうなら中ぐらいの人とペアになれますようにと、祈らずにはいられなかった。

「——次は、椎名蓮」

 その名前が呼ばれた瞬間、空気が変わった。
 女子たちの視線が一斉に一点に集中する。
「蓮くん! 私とペアになって!」
「お願い神様! 一生のお願い!」
「椎名君とだったら死んでもいい!」
 人気者は大変だな。俺は完全に他人事として聞き流していた。
 椎名が女子の誰かと組むことになれば、嫉妬の嵐で大変なことになりそうだ。
 それで女の子達から羨望のまなざしでキャーキャー言われながら、ペアになった子には王子様らしくエスコートするんだろう。

「ペアは——夜森陽」

 ……ん?

 一瞬、自分の名前だと認識できなかった。
 夜森? 誰だっけ……あっ、俺か。

 理解が追いついた瞬間、さらに大きな沈黙が落ちた。
 そして次の瞬間、ざわめきが爆発した。

「えっ、椎名と……夜森?」
「誰それ?」
「ほら、あのいつも教室の隅で本読んでる……」
「ああ、あの地味な」
「うわ、意外な組み合わせ」

 視線が集まる。
 痛い。物理的に痛い。
 嘲笑、憐憫、嫉妬、無関心。様々な感情の礫(つぶて)が飛んでくる。
 なんで。
 なんでよりによって、カーストトップの椎名と、最底辺の俺なんだ。
 外見偏差値70と40。太陽と深海魚。
 くじ引きの神様は、性格が悪すぎる。
 俺は自分の存在を消し去りたくて、背中を丸められるだけ丸めた。

「うわー、これは面白れぇことになったな!」
 大げさに茶化す声が響いた。
 椎名の親友で、ムードメーカーの鶴見凪(つるみ・なぎ)だ。
「蓮と夜森ちゃんかー! 美女と野獣ならぬ、王子と村人Aって感じ? どんな化学反応起きんのこれ! 混ぜるな危険?」
 悪気はないんだろうけど、的確に傷口を抉ってくる。
 村人A。言い得て妙だ。いや、村人ですらないかもしれない。背景の木とか、石ころとか、その程度だ。

 俺が恥ずかしさと惨めさで顔を上げられずにいると、人混みがモーゼの海割れのように左右に開いた。
 近づいてくる気配。
 圧倒的な、陽のオーラ。
 目の前に、有名ブランドのスニーカーが止まった。

 恐る恐る顔を上げる。
 そこには、椎名蓮が立っていた。
 高身長。整いすぎた顔立ち。ジャージ姿なのに、ランウェイを歩いてきたモデルみたいに見える。
 目の前に立たれて、初めて身長差を実感した。俺の目線が、椎名の喉仏あたりに来る。顔を見るには首を上げないといけない。
 椎名は見下ろすように俺を見て、困ったように笑った。

「よろしく、夜森」
 爽やかな声だった。
 毛穴の一つ一つまで手入れされたような清潔感。
 俺は引きつった顔で、何度も頷くことしかできない。
「……あ、う、うん。よ、よろしく……お願いします」
 敬語になってしまった。情けない。
 会話終了。頼むから向こうに行ってくれ。女子たちの視線がレーザービームみたいに俺を焼いているんだ。

 そう念じたが、椎名は動かなかった。
 それどころか、スッと屈み込んで、俺の耳元に顔を近づけた。
 フワッと、ムスク系のいい匂いがした。

「——お前、オカルト好きなんだろ?」

 心臓が、ドクリと跳ねた。
 時間が止まった気がした。
 え?
 驚いて顔を上げる。
 椎名の瞳が、至近距離で俺を見ていた。
 その目は笑っていたが、奥底には冷たい光のような、探るような色が宿っていた。

「え、なんで……」
 声が裏返った。
 俺がオカルトマニアだなんて、クラスの誰も知らないはずだ。
 なのに、なんでこいつが知ってるんだ?

 椎名は、またにこりと笑った。
 バスの中で見た時と同じ、あの読めない笑顔。
「なんとなく。カバーして誤魔化してたけど、そういう本読んでるの、よく見かけたから」
 ば、ばれてた?
 よりにもよって、カースト最上位の存在に?
 俺のことをクラスメイトとして認識していたことにも驚きだが、それを問いただす隙も与えず、椎名は身を起こした。

「蓮ー! どうだった村人Aは! 会話成立した?」
 凪が遠くから叫ぶ。
 椎名はくるりと振り返り、明るい声で答えた。
「やめろよ凪。夜森は、意外と面白い奴だと思うよ」
 そう言い残して、椎名は一軍の仲間たちの輪へ戻っていった。

 残された俺は、呆然と立ち尽くしていた。
 あいつ、どこまで俺のこと知ってるんだろう?
 名前だけじゃない。俺のオカルト趣味のことまで。
 一軍の、住む世界が違うはずのあいつが。
 なんで俺なんかを見てたんだ?
 ただの興味本位? からかいの対象?

「陽、すげぇペアだな。大丈夫か?」
 声をかけてきたのは、隣のクラスの加賀翔太(かが・しょうた)。
 この合宿で唯一、普通に話せる友人だ。卓球部で、そこそこカースト上位にも顔が利くいい奴だ。
「……死にそう」
「だよなぁ。椎名のファン怖ぇぞー。刺されないように気いつけろよ。まあ、死なない程度にがんばれよ」
 翔太は同情するように俺の肩を叩いた。
「でもまあ、運がいいとも言えるんじゃね? 椎名と仲良くなれれば、お前のスクールライフも安泰だろ」
「絶対無理。胃に穴が開く」
 俺は首を振った。
 安泰どころか、波乱の予感しかしない。
 明日が憂鬱すぎる。
 本物の幽霊より、生きた人間の椎名蓮の方が、よっぽど怖い。

***

 その夜。
 男子は大部屋で雑魚寝だった。
 八人分の布団が隙間なく敷き詰められている。
 消灯時間は過ぎているが、興奮冷めやらぬ男子たちは起きていた。
 先生の巡回が終わるのを待って、あちこちで小声の会話が花咲く。
「えっ、委員長、もう寝た?」
「早、まだ21時なんだけど!」
「寝てる奴は放っておいて、枕投げしようよ。合宿の醍醐味じゃね?」
 枕投げが始まりそうな騒ぎの端っこ、壁際の布団で、俺はひっそりと気配を消していた。
 スマホの画面光を最低にして、電子書籍の小説を読んでいるふりをする。
 でも、目は文字を追っていなかった。視線は、部屋の中央へ向かっていた。

 そこには、やっぱり椎名がいた。
 布団の上であぐらをかき、中心で談笑している。
 凪が変なポーズをして笑わせ、椎名が手元の枕で軽く叩いて突っ込む。
 周りの奴らも楽しそうだ。
 輝かしい青春のワンシーン。
 スクールカーストというピラミッドの頂上にある、選ばれた者たちの宴。
 俺には一生縁のない世界だ。

 ふと、椎名が顔を上げた。
 会話が途切れた瞬間だろうか。
 椎名の視線が、部屋の隅にいる俺を捉えた。

 まただ。
 今日だけで三回目。
 椎名は、俺を見ている。
 周りの連中は誰も気づいていない。椎名が、カーストの底辺を見ていることなんて。

 椎名は、周りに気づかれないように、俺に向かって口を動かした。
 音はない。唇の動きだけ。

『あ・し・た』
『た・の・し・み・だ・な』

 読み取れた瞬間、ぞわりと鳥肌が立った。
 椎名は楽しそうに目を細め、また輪の中に戻っていった。
「蓮、何見てんの?」
「ん? なんでもねーよ」

 ……怖い。
 純粋な恐怖だった。
 楽しみなわけあるか。俺は基本的に怖がりだ。
 それに。

 あいつの笑顔。
 みんなは「爽やか」とか「王子様」とか言うけれど。
 俺にはどうしても、何かの仮面みたいに見える。
 精巧に作られた、完璧すぎる人皮の仮面。
 その奥に、何か別のドロドロしたものが隠れているような——。

(考えすぎだ。自意識過剰もいい加減にしろ、夜森陽)
 俺は頭から布団を被った。
 布団の中は自分の匂いがして、少しだけ安心する。
 明日は肝試し。
 しかも、あの「渡り廊下」を通るコースだと言っていた。
 憂鬱だ。
 早く寝よう。寝てしまえば、今日は終わる。

 意識がとろとろ沈んでいく中で、ふと、窓の外から音が聞こえた気がした。

 ——カタン。

 何かが、建物を叩くような音。
 風の音じゃない。
 もっと硬質な、何かがぶつかる音。

 俺は布団から顔を出して、窓の方を見た。
 閉められたカーテンの隙間から、月光に照らされた渡り廊下が、黒い骨組みのように浮かび上がっていた。
 その窓ガラスの向こうに。
 一瞬、白い人影が見えた気がした。

「……っ!」
 心臓が縮み上がった。
 目を凝らす。
 ……何もいない。
 古いガラスが月光を反射しているだけだ。
(見間違いだ。疲れてるんだ)
 俺はカーテンをきつく閉めて、イヤホンを耳にねじ込んだ。
 音楽で外界を遮断する。

 だけど、背中の寒気だけはどうしても消えてくれなかった。
 明日、あそこを歩くのか。
 得体の知れない椎名蓮と二人で。
 最悪の予感しかなかった。