大丈夫、今だけ。


学園の重厚なアイアンゲートをくぐった瞬間、春の匂いがふわりと頬を撫でた。

磨き上げられた石畳に、朝の光が反射してきらきらと瞬いている。

「……なんか、今日やけに視線多くない?」

乙葉がイヤホンを外しながら、ぼそっと呟いた。
鈴は、ちらりと周囲を見渡す。
案の定、男子生徒たちがひそひそとこちらを見ていた。

「あの子、主席でスピーチしてた子だよな?」

「ばっか、北条グループのお嬢様だぞ!」

「え、マジ可愛いじゃんっ……」

「天使すぎんだろ…!」

「隣の子も美人すぎだろ!」

ひそひそ、ざわざわ。
まるで風がざわめくみたいに、鈴の名前が広がっていく。
鈴は、くるりと振り向いた。

にっこり。
ふわっと微笑み、ぱちりとウィンク。
そして、小さく手を振る。

「おはよっ♪」

その一言で、男子生徒たちの心拍数が明らかに上がった。

「やば……目、合ったんだけどっ!」

「俺、今日もう授業頭入んねぇ……」

乙葉はそれを横目で見ながら、肩をすくめる。

「でたでた。点数稼ぎ女~」

「いいの♪ 減るもんじゃないし~。敵は少ないほうがいいでしょ?」

鈴は、にんまりと小悪魔の笑みを浮かべる。
乙葉は大げさに両手を広げた。

「一年前までは、もうちょっと清らかなウユニ塩湖だったのに……なんでこうなったのか」

「あははっ。乙葉、どんな表現~!?」

ふたりは笑いながら、クラス発表の掲示板へと向かう。
掲示板の前には人だかり。
春の風に、桜の花びらが一枚、鈴の肩に落ちた。
鈴は背伸びをして名簿を探す。

「……あ!あったあった♪」

その瞬間、ぱっと顔が明るくなる。

「乙葉ぁ!やったぁ♪同じクラスだねっ!」

勢いよく乙葉に抱きつく。
乙葉は「ぐえっ」と言いながらも、どこか嬉しそうだ。
その光景を見ていた周囲が、またざわつく。

「二人の天使がいる……」
「なんか、尊い……」
「はいはい、そろそろ課金制だよこれ」

乙葉がぼそっと呟くと、鈴はくすくす笑った。



――そのとき。

反対側から、突き刺さるような黄色い悲鳴。

「「「「「きゃーーーっ!!」」」」

空気が、一瞬で変わった。
鈴と乙葉は同時に振り向く。

そこにいたのは――

グレーのスーツを完璧に着こなした、黒縁メガネで背の高い男性が歩いていた。
さらさらと揺れる茶髪に朝の光を受けて、所々にハイライトが浮かぶ。
鼻筋の通った端正な横顔と、整いすぎているシャープな輪郭が覗く。
なのに、どこか柔らかい雰囲気を纏っていた。

「皆さん、おはようございます。」

少し低めの爽やかな、よく通る声が風に乗って鈴達の方まで運んできた。

大人の余裕がある穏やかな敬語。

その一言だけで、女子生徒たちの頬が一斉に赤くなる。

乙葉は口をあんぐり開けた。
「……マジか。この間やってた映画の3D彼氏キャラじゃん」

一方鈴は、呼吸を忘れていた。

(え……)
(あの人……)

心臓がまだ知らない鼓動を覚えるように、どくん、と大きく波を立てて跳ねる。

(あの時……入学式の階段で……)

階段で助けてもらった時の記憶が一気に蘇る。
指先がじん、と熱くなるのを感じた。

(間違いない、あの人だっ……)

一 千耀は、女子生徒たちに囲まれながらも、誰にでも平等で爽やかな笑顔を向けている。
特別扱いも視線の偏りもない、ただ優しくそれが余計にずるさを物語っているようだった。

鈴が息を詰めたまま見つめていると、その先生はふと歩みを緩めた。

そして――
ゆっくりと、こちらを向いた。

黒縁メガネの奥の瞳が、まっすぐに前をとらえる。

次の瞬間、鈴と目が合った。

(え……?)

どくん、と心臓が跳ねる。
世界の音が、すっと遠のいた気がした。
まるで時間だけが、二人のあいだで止まったみたいに。

ほんの一瞬。
けれど確かに、視線が絡まる。

先生は、ゆっくりと瞬きをした。
その穏やかな仕草さえ、スローモーションで動いて、コントラストが綺麗にかかったように、映画のワンシーンみたいな感覚だった。

そのとき、春の風が強く吹いた。
ざあっと、桜の花びらが空へ舞い上がる。
淡い桃色が、鈴の視界いっぱいに広がる。

焦げ茶色の長い髪が、ふわりと揺れた。
スカートの裾が揺れ、胸元のリボンがひらりと踊る。

「……んっ」

右手で舞った髪を軽く押さえながら、思わず目を閉じる。
花びらが頬に触れ少し冷たい、春の感触を感じとった。

ゆっくりと目を開けたときには――

もう、先生は視線を外していた。
何事もなかったかのように、校舎の中へと歩いていく。
背筋の伸びた後ろ姿と、グレーのスーツが春の光に溶けていく。

鈴は、立ち尽くしたまま。

(……今、一瞬だけ、目合ったよね……?)

胸の奥が、じわっと熱い。

ただの偶然?それとも――


足が、勝手に一歩前へ出る。

追いかける?
声をかける?

でも、ぴたり、と足が止まった。
なぜだか自分でも理由がわからない。
ただ、心臓の音だけがやけにうるさかった。

校舎へと入っていく千耀を、女子たちが名残惜しそうに見送る。
鈴は、その背中から目を離せない。
春の光が、彼のスーツの肩を淡く照らしている。


そんな様子に気づいた乙葉が、肘でつついてきた。

「鈴? どうしたの?固まってるけど」


「え?…ううん!なんでもないっ」

鈴は慌てて視線を逸らす。
鈴の頬が、ほんのり桜の花びらと同じくらい頬が淡い桃色に染まっていたのを、誰も気付いてはいなかった。