大丈夫、今だけ。




春の風が、桜の花びらをやわらかく舞い上げていた。



空は、磨いたガラスみたいに澄みきっていて、雲ひとつない青がどこまでも続いている。

その下に広がる超名門校、"オルテンシア・英都学園高等部"。

石造りの校舎は、長い年月を重ねたような重厚さをまといながらも、朝の光を受けて反射するように輝いていた。

蔦の絡まる壁。アーチ状の回廊。

整えられた英国風の庭園には、白い砂利道と幾何学模様の花壇が広がる。

噴水の水が、陽射しを弾いてきらきらと瞬いている。
まるでどこか貴族のワンシーンの様な景色の中で、
今日だけは、世界が少しだけ特別だった。


入学式。

中央にそびえる体育館は、荘厳な空気をまとっている。

高い天井に吊るされたシンプルなシャンデリア。
赤いカーペット。

壇上には金色の校章が掲げられ、窓から差し込む光がほこりを淡く浮かび上がらせていた。

静まり返った会場。
可愛いらしい水色のギンガムチェックのリボンと、制服の紺と白が、規則正しく並ぶ波のように広がっている。
緊張と期待が混ざり合った空気が、わずかに震えていた。




――そのとき。



「新入生代表、"北条 鈴《ほうじょう すず》"。」


「はい。」


名前を呼ばれた瞬間ざわり、と空気が揺れた。
私はゆっくりと壇上に上がる。
焦げ茶色の艶やかなロングストレートをハーフアップにまとめ、背筋を伸ばしゆっくりと歩く。

そこにはたくさんの視線が集まっていた。
――慣れているはずなのに、少しばかりトクンと脈を打つのはきっと、今日というこの特別な入学式のせいだ。

原稿を静かに開き、鈴は完璧に微笑んだ。

「本日、この歴史ある学園に入学できたことを、誇りに思います――」

落ち着いた声がマイク越しに体育館へ広がる。

主席らしい、非の打ちどころのないスピーチで、すこし小悪魔でお得意の可愛らしい仕草が、体育館に集まるたくさんの男子生徒の視線を集め、釘付けにしていた。

終わった瞬間、たくさんの拍手と同時に小さなざわめきが広がった。

「やば!何あの子マジ可愛くね?」

「北条って……あの黒薔薇の?」

「黒薔薇王の妹だろ?!何お前、知らねぇの?」

「マジかよ、うわぁ、絶対ぇ彼女にしたい!」

「兄妹揃って美形かよ…」

「あの可愛さ、罪だな」


聞こえてるけど、聞こえないふりをして少しあざとく首をかしげてにっこりと微笑む。

そして、そんな鈴の胸中はいかに…


(う~ん……ほんと、めんどくさいっ♪)


かの有名な黒薔薇学園高等部で、そして広く名が知れた強い暴走族、黒薔薇チームのトップ、北条 椿(ほうじょう つばき)の妹であり、そして年の離れた一番上の兄は、北条グループの病院で外科医をしている。

鈴は所謂、“北条家の末っ子”または"お嬢様"の地位にある。

そのなんとも重たーい肩書きのせいで、鈴の恋はいつも長続きしなかった。

(ほーんと普通の恋愛って、どこに落ちてるのかなぁ~?)

(この調子じゃ多分、流れ星を掴むより難しいかも…?)

壇上を降りた瞬間、きゅ、とお腹が痛んだ。

……あ、最悪、これはきてるやつだ。

顔色を変えずに少し急ぎ気味で体育館を後にした。

その後ろ姿に、目をハートにしてうっとりしているたくさんの男子生徒達。

鈴は、急ぎ足でトイレに駆け込み、現実を確認する。

「はぁ……もう!なんで今日来ちゃうの~?!」

鈴以外誰もいないお洒落で綺麗なトイレの中で、負のオーラを放つため息が漏れる。

よりによって、入学式の日にくるなんて。
テンションは地の底に真っ逆さまに落ちていく。

でもとりあえず戻らなきゃ、と重たい腰を上げて、体育館近くの階段へと向かった。
しかし階段に差し掛かったとき、ふらっ、と鈴の視界が揺れた。

(え……)

足元が、一瞬でつるんっと滑り、階段を大きく踏み外した。
身体が前に傾き、階段の段差が迫っていく。
一瞬で、世界がスローモーションになった。

――終わった。

(あ、これきっと助からないやつだ。美羽お姉ちゃん、ごめんね。お兄ちゃんと末永く仲良くね……)

咄嗟に兄の恋人、仲良くなって鈴がいつも慕っている天宮 美羽(あまみや みはね)の事を思い出し、心の中で謝罪した。
何故か冷静に謝罪している自分に驚きつつも
走馬灯って、ほんとにあるんだとふと思った。

もう駄目だと目を閉じた、その瞬間。

「危ないっ!」

強い腕が、私を受け止めたことで来ると思われていた床の衝撃は来なかった。
代わりに、硬くてあたたかい感触が広がる。
鈴は、かろうじて目をうっすらと開け、視界に集められるだけの情報を集めた。

綺麗な上品さを保つグレーのスーツに、
皺のない白いキメ細やかなさらっとしたカッターシャツ。
少し乱れた茶髪。窓の光が少し反射してキラキラと髪の一本一本が輝いている。

そして――息をのむほど整った顔立ちがすぐそばにあった。

「君、大丈夫か?!」

低く、爽やかを含んだ、でも焦りを訴えている声。

鈴は自然と彼の胸元のシャツをぎゅっと掴んでいた。
そして微かに香る、洗いたてのシャツの匂いが鈴の鼻を掠めた。

「……入学式、が……」

やっと振り絞ったか細い声はしっかりと彼の耳に届いた様で。

彼は、少し困ったように眉を寄せ、鈴の顔色を伺った。

「こんな状態で、行けないだろ。悪いけど、しっかり捕まっててね」

次の瞬間、視界がふわりと持ち上がる。
気がついたときには、所謂お姫様抱っこをされていた。

(え、ちょっと待っ…)

鼓動が、いつもより変なリズムで跳ねる。
でも、身体は眩暈がしてなかなか言うことをきかない。

「でもっ、いかない……と……」


私は彼のシャツを掴んだまま、意識を手放した。