暗闇で泣くだけの簡単なお仕事〜ろくでなし陰陽師の拗らせ溺愛譚〜


(まずい、かも……)
 触れてはいけないところに触れたのだ。そう直感するのと同時に、男の指が鈴音の首に食い込んだ。驚いて見開いた瞳に、吊り上がった男の目が見える。そこには、粘り気のある火のような、怒りの色が浮かんでいる。

「……怪異だと? この俺を”怪異”呼ばわりとはものを知らぬのか」
「ちが」
「貴重なのはおまえの血、それだけだ。おまえそのものに価値があるわけではない。口を慎め」
 不機嫌さを煮詰めたような声だ。
「いっ……」

 男の爪が皮膚を裂いた。驚きと痛みとで鈴音の涙腺が緩む。いけない、涙を流したら。眉間に力を入れて堪えるが、殺気立った眼差しを向けられると全身の力が抜ける。

「訂正して詫びろ。今すぐにだ」
「ご、ごめんなさい……」
「わかればいいんだ」

 男は涼しい微笑を浮かべ、指の力を解いた。まるで沸騰した鍋に差し水をしたようで、その変わり身の早さがかえって恐ろしい。いつどこで、どんなふうに気分が変わるかわかったものではない。

「よかった。俺だっておまえを殺したくはないんだ。殺せば一度きりだが、生かしておけばその分だけ血を楽しめる。そうすれば俺とおまえ、双方に益がある」
「……」
「どうした。謝罪同様、感謝の言葉も惜しむものではない」
 じっと黙り込んだ鈴音に、男はきょとんとしている。
「あぁ、そうか! おまえ、ろくに教育を受けていないのだな。……それはかわいそうなことだ。無知蒙昧なのも致し方なし、許してやらねば。すまなかったな」

 さて、と男は鈴音の手を引く。

「いつまでも”幽虚”にいてはつまらないだろう。俺の家に帰ろう」
「え、ちょ、ちょっと……」
「拾われたのが俺でよかったな。感謝するといい。わが家は御三家のなかでも穏健派だから、うちにくればそれなりの教養をつけさせてやれる。おまえの頑張り次第では、幽界での地位も認めてやろう」
「そんな、一方的な」

 拐かしか。鈴音は真っ青になって抵抗する。
 鐵もひとの話を聞かないが、この男はそれを超えている。鐵がマシにみえるだなんて……。

「稀血の人間を嫁に迎えた鬼はめずらしいが、いないわけでもない。稀血でも人間を娶るなど家格を落とす、などと古臭いことを言う輩もいるが俺はそうは思わない。柔軟な発想が大事だとは思わないか? 鬼どうしの子よりも、鬼と稀血の子の方がより力の強い子が生まれることもある。……とはいえ、おまえを娶るかどうかは俺の心次第ではあるが、まぁ少なくとも、うちの家に招く以上、その貧乏くさい形はどうにかしてやれ——」
「失礼ね!」

 急に大声を出した鈴音に、男は虚をつかれたように固まった。
 鈴音もここまで大きな声が出るとは思わず、内心どぎまぎしていたが、一度出してしまったものは引っ込められない。やぶれかぶれになって続ける。

「この着物は母の形見よ! わたしが実家から唯一、持ち出せたものなの。それをあのケチな鐵が仕立て直してくれた大事な、大事な着物なのよ! 鬼だかなんだか知りませんけど、そこまで言われる筋合いはないわよ!」

 ひと息に言い切ると、悔しさと興奮で涙が溢れた。
 肩で息をする鈴音に、男は呆然とした顔で言う。

「……鐵」
 予想外の反応に、こんどは鈴音が虚をつかれる。
 男は考えるように口元に手をやって、
「どこかで聞いた。——ああ、そうだ。思い出したぞ」
 嬉しそうに手を叩く。
「稀血の子か!」
「は?」
「生きていたか、現世で。なぁ、どこにいる? 見せてくれ。いちどこの目で見たいと思っていたんだ」

 肩を揺さぶられ、鈴音は目を白黒させる。
 これまでになく男は高揚していた。早口になって男は言う。

「たしか母は、術者の血を引く稀血だったな。その子は、並の鬼なら泣いて逃げ出すほどの力を持っていると聞いた。俺は、そういう子が欲しい」
「あの、待って! 話がわからないんだけど」
「わからない?」
「……鐵がなんですって?」
「なにとは」
「あなた今、鐵のことをまるで鬼の子供……みたいな言い方をしたけれど」
「みたいな、ではなくそうなんだよ。稀血と鬼の血が掛け合うと父鬼をも凌ぐ力をもつ子が生まれる。もちろん、ごくごく稀なことだが、当たりを引いたら大きい。だから俺はおまえを」

 そこまで言って、ふと男はつまらなそうに目を細めた。

「……おまえは本当に教養がない。こんなこと、幽界ならば赤子だって知っているのに。説明するのが面倒くさくなった」
 男の嫌味など、鈴音はどうでもよかった。そんなことよりも、鐵だ。
 聞き捨てならない。男の言葉が本当なら、いや——。
(術師の血を引く『鐵』なんてめずらしい名前の人間が、そう何人もいるはずはないわ。ということは、鐵には鬼の血が流れて——)

 そのとき、ぐらりと身体が傾いた。空いている方の腕を強く引かれたのだ。
 鈴音はたたらを踏んで、その腕に背中を委ねた。恐怖は感じない。だって、いつだって危機を助けてくれるのは、
(……鐵。やっと来てくれた)
 鈴音は大きくため息をつく。
 肩越しに振り向くと、呆れたように鐵が肩をすくめる。

「ため息をつきたいのは俺のほうだよ」
 その顔をみたら全身から力が抜ける。
「どこまで買い物に行ったのかと思えば、こんな場所で迷子になっているなんてな。煙草を買いに出てよかった」

 飄々として言う鐵の髪はいつもよりも乱れている。
 それに、さっき引かれた腕がまだ痛む。まるで我が子を奪われた親のように必死だったのに、どうして何でもないふりをするのだろうか。

「引き止めないんじゃなかったの」
「……は?」
「去るものは追わないって言っていたのに」
「……いじわるだな。こうして迎えに来てやったのに、嫌なら置いて帰ってやろうか」
「いいえ、困るわ。昨日のお給金を、まだもらっていないもの」
 
 ふふ。鈴音が笑うと、鐵もつられたように微笑する。
 ここがどこだか知らないが、これが日常だ。怪異が出て、鈴音が泣き、鐵が祓う。この生活を半年も続けるうちに、こんな不可思議にも慣れてきてしまった。その証拠に、鈴音はいまちっとも怖くないのだ。

「……おい」
 唸るような声に、鈴音は顔を上げる。
「俺は無視されているのか」
 すっかり忘れていた。男は美しい顔を憎悪に歪め、鈴音たちを睨んでいる。
「鈴音、あれは?」
 鈴音は鐵の背後に隠れてから、こっそりと耳打ちをする。
「自称、鬼の方なんだけど……」
「ふうん、だからおまえは虚界に閉じ込められていたのか」

 鐵は「鬼」と聞いてもうろたえない。白けたような表情はいつもと変わらず、そこにいるのが怪異だろうが、鬼だろうが、鐵にとってはそう問題にならないらしい。
(……出自のこと、鐵は知っているのかな)
 そう頭を掠めたが、鐵が打ち明けない以上、鈴音が踏み込んで良い話題でもないのだろう。

 鐵は袂から札を取り出すと、無言のまま扇状に広げて宙に放った。
 この瞬間、いつも鈴音は見惚れてしまう。
 鈴音が触れてもただの紙なのに、鐵の手にかかればこのとおりだ。まるで何もない場所に張り付けられたように整然と並び、鐵の合図で術を発する。まるで美しい魔法だ。

「—————」
 鐵がなにかをつぶやいた。呪詛のような、念仏のような、鈴音には耳慣れない音の言葉のあとに、数十枚の札が一斉に発光しはじめる。夏の太陽を直視したような燦然と輝く光に目をやられる。まぶしくて何も見えない。不安になって、鈴音は鐵の背中をぎゅっと掴んだ。その瞬間、台風が直撃したような強い風が吹いた。

「鈴音」
 鈴音は目を開けることも、口を開くこともできない。鐵は平気なのが不思議だ。
「おまえが泣いたから、おまえを見つけられた。だけど、これっきりにしてくれ。——おまえを泣かせていいのは、俺だけなんだよ」

 瞬間、風が止む。目を開くと、札が姿を変えていた。
 刃。斧。槍。小銃——。物騒な代物が見えたかと思うと、鬼を目掛けて光の速さで飛んでいく。その先で何が起きているのか確認できないうちに、もういちど視界が真っ白に発光した。

「……」
 味噌汁の匂いが鼻先をかすめる。耳に町の喧騒が戻ってきた。懐かしいざわめきの音に目を開くと、もといた道に戻っている。それでも鐵の紬に触れる手を離せずにいた。
 油断していると、どこかからまたあの男がやってくるのではないか。
 しかし、杞憂だった。
 チリン。ベルの音のあとに、鈴音の真横を自転車が抜けていく。見まわり中の駐在が、訝しげな表情を鈴音に向ける。

「……お姉ちゃん、こんな道の真ん中でなにしてんの」
「逢引きだよ、逢引き! けっけっけ〜」
 子供たちの揶揄う声に、ようやく鈴音は我に返った。

 どうやら鈴音たちは、周囲から好奇の目を向けられているようだ。別にやましいことは何もないのだが、途端に恥ずかしくなって鈴音は俯く。すると、鐵はフンと鼻先で笑ってすたすたと歩き始めた。

「なにをぼうっとしているんだ、鈴音。今日はオムレツだと言ったのに。早く帰ろう、腹が減って死にそうだ。……俺は、朝から何も食べさせてもらっていないんだから」
「そ、それは鐵が起きないからでしょう⁉︎ 人聞きの悪い言い方をして……!」

 まるで何事もなかったかのような様子に、なんだか鈴音は狐につままれたような気分だ。
 鬼に拐かされたことも、鐵が助けに来てくれたことも、鐵の放った術も、すべて白昼夢だったのではないか。
 そう疑いたくなるくらいに、鐵は普段どおりだ。

 鐵に追いつくと、
「あ」
 身体中をバンバン叩いてみるが、やっぱりない。どこにもない。財布が、ない……。
 真っ青になった鈴音に、鐵は怪訝なまなざしを向ける。
「ごめん鐵、オムレツ作れないわ」
「……ん?」
「さっきの場所にお財布を落としてしまったみたいなの」
 唖然として鈴音をみつめ、それから「え?」と訊き返す。お財布を、落としたの。もういちど言えば、鐵は魂が抜けたようにぼうっとしている。
「そんなにオムレツが……」
「食べたかったよ!」
 まるで子供のようだ。鈴音は少し驚いた。
「でもな、それだけじゃない。さっき死ぬほど札を使ったんだ。おまえも見たろう。やりすぎた。鬼相手なら、あそこまでする必要はなかったんだ。それなのにおまえが」
「わたしが?」
「……」
「……よくわからないけれど、お札を大盤振る舞いだなんて、ケチな鐵がめずらしいわね」

 鐵は恨めしそうな視線をよこす。
 その表情の意図がわからずに、鈴音は首を捻る。

「ともかく、これからも仕事をがんばるしかないわ。わたしたちいい相棒だと思うのよね、うんうん。アコギなやり方じゃなくって、まっとうな方法で、怪異に困っている人たちを助けましょう! そうやって、地道にお金を稼ぐのがいいわ」

 しかし、鐵は憮然としたままだ。
 どうしたのだろう。鐵の顔を覗き込むと、さっと視線を逸らされてしまう。

「出ていってもいい」
「は?」

 どうしたのだろう、藪から棒に。
 どうやら鐵は、鈴音が「出ていく」といった件を根に持っているらしい。鐵なりに、鈴音の言葉を受け止めていたことに鈴音は驚いていた。てっきりまともに聞いていないものだと思い込んでいた。

「星宮の家から無理やりに連れ出したのは俺だ。おまえ、あの家でいじめられていたろう。……俺も相当にろくでもないが、あんなろくでもない家にいるよりも、二人で暮らせば少しはマシだと思ったんだ」

 鈴音は言葉を失う。
 この軽薄な男が、こんなふうに考えていただなんて想像もしていなかった。これではまるで、鈴音のために家を出たような言い方ではないか。そんなことはありえない。本音はきっと別のところにある。おおかた、鈴音の同情を引くための策略だとわかっているのに、これには心が揺らいだ。

「俺には術以外の能もないから、こんな仕事に付き合わせることになったが。これでも恩返しのつもりだったんだ」
「……恩返し?」

 心当たりがまったくない。
 訊き返すが、鐵は笑うだけだ。その寂しそうな表情に、どういうわけか鈴音の方が泣きそうになった。
 
 鐵はなんでも欲しがる。新しいもの、めずらしいもの、おもしろそうなものを、いっとき触れてはすぐに飽きて放り出す。術師の家にも、血を分けた家族にも、せっかく稼いだお金にだって、鐵はちっとも執着しない。
 鐵はなんでも欲しがるけれど、ほんとうは何にも欲しくないのではないか。矛盾しているようだけれど、鐵をみているとそう見えるのだ。まるで、欠けたなにかを埋め合わせるように、鐵は「なにか」で心を満たそうとしている。

「おまえがどうしても嫌だって言うなら、ここを出ていけばいい。引き止めるつもりは本当にない。そんな権利がないことは、俺はちゃんとわかっている」
 まるで拗ねたような物言いに、鈴音はふと閃いた。
(……そっか)
 いまわかった。
 鐵はいつも寂しそうなのだ。幼い頃、あの庭で会ったときから、今もずっと。
 そして鈴音は、その寂しさを埋めたいと思っている。

 鐵の生い立ちがどうだとか、浪費家だとか、女にだらしないとか、そもそも全体的にだらしがないのだが、こんなふうに複雑で厄介な男を面倒をみてやれるのは、広い世界で鈴音くらいのものだろう。そしてこの、怪異に絡まれがちな特異体質に付き合ってくれる男もまた、世界で鐵しかいないのだ。

 幽霊屋敷のようなボロ家でも、都にするかは自分次第だ。
 鈴音は玄関扉に手をかけながら、鐵を振り向く。鐵は、迷子のように頼りなげに視線を彷徨わせた。

「出て行かない。わたしにはあなたしか、あなたにはわたししかいない。ここが、わたしたちの帰る家だもの」

 そう言うと、鐵は目を見開く。
 鐵の顔に夕陽が差している。赤橙色の瞳は、まるで潤んだガラス玉のようだ。
 ふと細められた瞳の輝きに、さすがに今だけは、魅入ってしまった。