「わたし、このお仕事を辞めようと思うの」
鐵はゆっくりと振り返る。ガス灯の橙色の灯りが、鐵の肌をいっそうなめらかに浮き上がらせた。
鈴音はその表情をのぞきこむが、なにを考えているのかわからない。長い外套を着込んでクスリと微笑を浮かべる様は、まるで銀幕のスターのように小洒落ている。癪だ。
「本気よ」
追いかけて伝えると、鐵は「ふうん」といじわるに目を細めただけだ。
「おまえには無理だよ」
「無理じゃない」
「いいや、無理だ。……鈴音、おまえの性格はよく知っているんだ。おまえは嫌だと思えばすぐにでも出ていく性質だけど、どうしてまだ俺のところにいるんだろうな」
「それは……」
「おまえのことだから、俺に言わなかっただけでずっと考えていたんじゃないのか。そのたびおまえは、踏ん切りがつかずに思い直したはずだ」
「どうして」
「わかるよ。鈴音のことは、なんでも」
鐵にはこういうところがあった。
つかみどころのない男だが、他人のことをよく見ている。そのよく見える目で、鈴音の弱いところもしっかり捉えていて、ここぞという機に弱点を突いてくるのだ。
「帰る場所がないのは、俺も、おまえも同じだろう」
鈴音は小さく息を呑む。
そう、だから鈴音は鐵のもとを離れがたい。鈴音には、この性悪のほかに頼るべき人間はいないのだから。
「それともおまえは、俺との暮らしよりも、星宮の家で虐められている方が楽しかった?」
「……それは、鐵には感謝しているけれど」
でも。鈴音はいちど言葉を区切る。
「このお仕事は危険だし、あんまり役にも立たないし。……鐵は、わたしがいなくても祓えるでしょう」
鐵は否定も肯定もしなかった。ただ静かに、鈴音の言葉に耳を傾けている。
「どこかのお家で働かせてもらうほうが、性に合っているとも思うし」
「……おまえが出ていきたいというのなら、そうすればいい」
鐵は光のない瞳をゆったりと細める。
「別に、俺は止めないから」
そう言って、鐵は歩き出す。
自分勝手な後ろ姿をみつめながら、鈴音はぎゅっと拳を握った。
結局、鐵にとって鈴音は、都合のよい道具なのだ。
鈴音が泣けば怪異が寄ってくる。まさに「呼び鈴」のような使い道だ。
鈴音がいれば手っ取り早く仕事が片付くが、いなくても鐵は困らない。あの破滅的な生活だって、鈴音がいなくなれば、それなりに何とかするに違いない。
(……そう思うと虚しいわ。早く、明日になったら別の働き口を探そう)
✴︎
翌る日。鐵は昼を過ぎても布団から出てこなかった。
”商売”の次の日はいつもこんなところだ。
鐵に言わせると「力を使うとこうなんだ」らしいが、星宮の家にいたころの鐵は少なくとも”こう”ではなかったし、同業者である彼の兄も”こう”ではなかった。鐵の兄は、使用人よりも早くに起きてひとりで書類を認めているような、潔白で立派なひとだった。
鈴音は呆れ顔で布団を剥いだ。
「鐵! いいかげんに起きないと夜になっちゃうわ!」
鐵の部屋の雨戸を開けると、鐵は枕をぎゅっと抱き込んで障子の光に背を向けた。なんて情けないことだろうか。
「うぅ……」
着崩れた浴衣の胸元から白い肌がのぞいている。繊細な線で描かれた美しい女のような顔をしているのに、胸元や喉のあたりはやっぱり男だ。眠ってばかりいるのに筋肉があるのはどういうことだろう。
(妙に色っぽいのよね、この男は……)
が、鈴音は眉ひとつ動かさずに、半裸の鐵に着ていた羽織をかけてやった。
「あのね、鐵。こんなことではお兄様に申し訳が立たないわ。わたしと一緒だからって、無理やりあなたの家出を認めてくれたっていうのに」
「……鈴音。朝から他の男の話はよしてくれないか」
寝起きの掠れ声で鐵は言う。
「もう夕方よ」
「夕方でも同じことだ」
ふいに手首を引かれた。バランスを崩して、鈴音は鐵の胸元に倒れ込む。
「なにする——」
「一緒に眠ろう。どうせもうすぐ夜になる」
耳の近くで囁かれ、くすぐったくて鈴音は身を縮める。それが愉快だったか、調子に乗った鐵は「鈴音は甘い匂いがするな」などと睦言のように繰り返す。
どうやら鈴音を布団に引き摺り込んで、二度寝を始めるつもりらしい。
「……呆れた」
鈴音はむくりと身を起こす。
「寝ている暇などないわ。お買い物にいかなくっちゃ」
布団に取り残された鐵はつまらなそうに唇を歪めた。
「昨日までほとんどお金がなかったの。あればぜーんぶ使っちゃうから、あなたが!」
「……む」
「さぁ、まだお金があるうちに食べ物を買って来ないとね。鐵のせいでわたしまで餓死したらたまらないわ」
「かわいげのない」
「お夕飯は奮発してオムレツにしようと思ったけれど」
「愛しているよ、鈴音」
まったく、障子紙よりも薄っぺらい言葉だ。
外套を着込んで外へ出ると、近所の子供たちが鬼ごっこをして遊んでいた。夕暮れにはまだ早い。どこかの家の味噌汁の匂いを嗅ぎながら、鈴音は商店街へと向かう。
売り言葉に買い言葉でああ言ったものの、本当に出ていってやろうかと思う。
——でもいいさ。
おまえが出ていきたいというのなら、そうすればいい。別に、俺は止めないから。
「頼まれてなかったら、わたしだってすぐに出ていくわよ!」
家からしばらく離れた場所で、鈴音は袂から手紙を取り出した。
鐵の兄から届いたものだ。
手紙を開くと、いつものように鐵の身を案じる言葉が並んでいる。手紙は毎週必ず届けられた。成人したとはいえ、鐵はあの頼りなさだから、お兄様も心配が尽きないのだろう。
鐵の兄には恩がある。別に鐵のお守りを頼まれたわけではないが、彼への恩を思うと鐵を放って家を出づらいということもある。もちろん、鐵のいうように「帰る場所がない」という事情が一番だが。
鐵たちは兄弟といっても、鐵は星宮家の養子だ。鐵の母は前当主の妹で、つまり兄と鐵は従兄弟にあたるらしい。その複雑な事情のためか、 鐵はお兄様のことが苦手らしい。
彼らふたりの生家——星宮家は、平安時代からつづく陰陽師の名門だから、いろいろと難しいこともあるのだろう。家もない、兄妹もいない鈴音は、そういう意味では気楽なものだ。
鈴音の生家は商売をしていた。
維新後に曽祖父が商いを始め、それから星宮家との縁ができたらしい。父に付いて、はじめて星宮の家を訪ねたときにそう聞いたことがある。
家でさえ商談を避けた父が、どうして鈴音を陰陽師の家へ連れて行ったのか。今となっては父の真意はわからないが、幼い鈴音にとって、星宮の家はちょっとした”遊園地”だったから、着いていくのがおもしろかった。
星宮の当主はいつも、男の子を連れていた。それが鐵の兄だ。
その頃の鐵はというと、別棟でほとんどひとりで過ごしていたらしい。だから鈴音は、鐵に声をかけられるまで、星宮の家に子供が二人いると知らなかったのだ。
あるとき、鈴音は別棟に迷い込んだ。
縁側に座っていた鐵は、読みかけの本を閉じて顔を上げる。まるで鈴音が来るのをわかっていたような仕草に、
(……神様、かしら)
と、思った。別棟は古く、庭は荒れていた。まるで廃れた神社のようで、鐵だけが、光を帯びたように景色から浮き上がって見てたのだ。
『鈴音』
鐵は手招きをする。
『……どうしてわたしの名前を知っているの』
『まだ弱いけれど、式神が使えるんだ。そいつがきみのことも、ここに迷い込んだことも教えてくれた』
『式神?』
『見せようか。……ほら、この紙をこうして折ると』
『小さな馬だわ』
『ああ。でもね』
鐵は、和紙にふうっと息をかける。
伸びかけた青い雑草の間を、小さな白い馬が駆けていく。鈴音が喜ぶと鐵はもういくつか馬を庭に放った。どこかから黄色い蝶がやってきて、馬の周りをくるくると回る。そのとき春の甘い風が吹いて、鈴音は童話の一頁に入り込んでしまったような気分になった。
春が来るたびに、鈴音は今でもあの光景を思い出す。
あんなふうに心が躍ったのは、あとにも先にもあれが初めてだ。父が亡くなったときも、母が亡くなったときも、鈴音の心を温めてくれたのは”あの日”の光景だった。
住む家がなくなったときに、とっさに星宮家を頼ったのもそのためだった。あの場所にいけば、鐵に会えば、幸せだった頃の鈴音を忘れずにいられる気がして。
それなのにまさか、修行から戻った鐵が、昔の純真をすっかり失っているとは思わなかった。
星宮の家で働きはじめて三月ほど経った頃に、鐵が戻ってきた。
大病をした当主が呼び寄せたらしい。いかにも「しぶしぶ」といった様子で戻ってきた鐵は、お兄様の仕事を手伝おうとはしなかった。多忙なお兄様では手に負えず、現場がめちゃくちゃになってようやく出てくるといった有様で、へらへらとしているくせに術士としては一人前どころか百人前だと依頼人の評判だけはいい。
『術と引き換えに良心を失ったらしい』『昔はかわいらしかったのに』『それにしても、鬼のように美しい』『淫魔と契約したと聞いたわ』『寿命を一年差し出してもいいから抱かれたいものね』
などと、依頼人どころか使用人まで勝手な噂を立て始めていた。あんな調子だけれど、鐵はひとに好かれるのだ。美しすぎて人間味のない鐵といると、まともな感覚で、というか”人間として”彼を測るのがばかばかしくなってくるのだと思う。
それはさておき、鈴音の目から見ても再会した鐵は、記憶の”あの少年”とはすっかり別人だった。まるで鐵という容れ物に、別の誰かが住み着いてしまったようにさえ思えた。だから鈴音は、もう諦めることにした。思い出は美しいまま心にしまっておくことにして、鐵に声をかけるのも止そうと。
その鐵が、ある日突然「家を出る」と言い出した。
お兄様は慌てた。当主も驚いたようで、星宮の家は考えうる限りの手をつかって鐵を引き留めたけれど、鐵は誰の言うことも聞き入れはしなかった。
そして、荷物をまとめて出ていく直前に「鈴音。おまえも一緒だ」と、厨房にいた鈴音をたまねぎと一緒に連れ出したのだ。あのときの場の空気を思い出すと、鈴音はいたたまれない。
「なんてお返事を書こうかしら。まさか鐵の爛れた生活をつまびらかに書くわけにはいかないし、かといって嘘を書くわけにも……あれ?」
鈴音は、はたと足を止めた。
そういえば、なんの音もしない。子供たちの笑い声も、地面を駆ける足音も。味噌汁の匂いもしないし、気づけばあたりは薄暗い。
「いつの間に日が暮れたのかしら」
鈴音は財布を持ったまま、いつもの路地裏に立っている。
それなのにおかしい。鈴音の両脇を古びた板塀がどこまでもつづき、その先は穴のように真っ暗だ。風ひとつない。肌寒さも感じない。そうか、空気が動いていないんだ。
鈴音は身じろいだ。
振り返っても景色は変わらない。まるで合わせた鏡の中に閉じ込められてしまったように、どこまでも同じ景色が続いている。
「いい匂いだ」
懐かしい声だった。耳朶を柔らかくくすぐる声には、低く甘い響きがある。けれど、誰のものかはわからない。鈴音が振り返ると、すぐそこに男がいた。
「……ひ」
鈴音は喉を引き攣らせる。
満月の白銀色の長い髪に、赤い瞳。その赤は、流れたばかりの血のように鮮烈だ。男は蝋のように白い顔を歪める。どうやら笑みを浮かべているらしい。まるで人形が無理やりわらったような不自然さに、鈴音は思わずひっくり返りそうになった。
「かかかか……かっ」
——怪異!
と、叫びそうになって両手で口を押さえる。怪異に「怪異!」と言って怒らせてはたまらない。初めてなのだ。怪異の姿をこの目で見たのは。何が彼らを刺激するのかわかったものではない。
(……泣かないようにしないと)
ということだけはわかる。
しかし、怪異というのはこうも”人間のような姿”をしているものなのか。鐵はいつも、こういうものを見ていたのだろうか。こんなことになるのなら、怖がらずに聞いておけばよかった。
鈴音は涙目を男に向ける。
すると男は、嬉しそうに「ふ」と声をもらす。その視線の先には、鈴音の目尻があった。
「涙までこんなに美味そうだなんて、俺は知らなかった。……あんたは?」
「は?」
まさか話しかけられるとは思わず、鈴音は声を上擦らせた。
「知っていたのか”マレチ”」
「ま、れち……?」
なにを言っているのかさっぱりわからない。もしかして人違いをしているのではないか。そうだとしたら、見逃してはもらえないだろうか。鈴音は、情けなくも一縷の可能性にかけ訊き直す。
「あ、あの人違いではないですか。わたしはマレチさんではございませんが」
「はっ? ——は、はは、あっはっは!」
銀髪の男はおかしそうに笑い声を立てる。笑い上戸なのだろうか。なにがそんなにおかしいのか知らないが、腹を抱えて笑っている。
(怪異に常識が通じるはずもない。それよりも……この隙に逃げられるのでは⁉︎)
鈴音は閃き、踵を返した。はずなのに——、
「えっ」
前方に男がいる。慌てて振り向けば、そこにも男がいる。
鈴音は言葉を失った。
二人いる? 怪異の双子? それとも、やはりここは”合わせ鏡”のような世界なのだろうか。いずれにしても、逃げることは叶わない。
泡を食ったように立ち尽くす鈴音に、急転直下、男は冷えた声で言う。
「間違えるわけがないだろう。あまり鬼を舐めるなよ」
男は鈴音に寄ると、鈴音の首に手を伸ばす。そして凍ったように冷たい指先で、男は鈴音の首筋に触れる。まさか締め殺されるのでは……と身をこわばらせたが、男はそれ以上は何もしてこない。
「やはり——稀血で間違いが」
「……もしかして、キケツですか。すごくめずらしい血っていう意味の」
男はきょとんとしてから「ああ」と目を細める。
「そう読むのか、ひとの言葉は難しいな。……教えてくれてありがとう」
「いえ、どういたしまして」
(この怪異……まさか良い人なのかしら)
美しいものは見慣れている。男の無機質な美しさは、どことなく鐵に近くって、なんだか親近感まで湧いてくるようだ。
いや、むしろ「ありがとう」と素直に言えるだけ、鐵よりも数段”まとも”だ。怪異とはいえ、話が通じる相手なのではないだろうか。
「あの……」
「ん?」
「怪異さん、わたしに何か御用でしょうか」
そのとき、男の目つきが変わった。
