訪れた先は、『尚寝局』──後宮内の掃除などを担当する尚局の殿舎である。つまり、亡くなった女官は尚寝局に勤めていたということだろう。
下級女官が集合で暮らす殿舎は、他の殿舎と比べてもとても殺風景だった。それだけではない。回廊のすみには綿埃がたまり、飾り気のない窓の枠には黒ずんだ汚れがこびりついている。清掃を担当する尚局のはずなのに、掃除が行き届いていないのだ。
麗麗が前に勤めていた『尚服局』のほうが、まだ綺麗だったかもしれない。
(なんか、荒んでる……?)
嗅いだ覚えのある匂いだなあと鼻をひくひくさせ思い至った。これは、前世の繁華街の匂いだ。あの荒んだ、少し酸っぱいような匂いがあちこちに充満している。
冥焔もその様子に気づいたようで、顔を目いっぱいしかめていた。
「ひどいな。これは別件でも調査が必要なようだ」
麗麗もうなずいた。それがいいと思う。こういうのは、やはり上からがつんと言ってやらないとなかなか改善できないものだ。
問題の房には数人の女官たちが詰めていた。皆、青ざめた顔で、中にはすでに涙ぐんでいる者もいる。
「死んだ女官と同房なのは、お前たちか」
冥焔が口を開くと、女官たちからひいっと小さく声が漏れる。
「あ、あのっ、私たち罰せられるんですか……!?」
「なんだって?」
怪訝な顔をした冥焔に、女官たちは立て板に水のように口を開いた。
「違うんです、私たち。あの……どうしようもなくて。それで、止めなかったんです。確かに悪いことだとは思ったんですけど! でも、死んだ美月には悪いけど、全部あの子がやったんですよ。私たちはなにもしてない! こんなので罰せられるなんて、あんまりです……っ!」
「おい、落ち着け」
「お願いします。助けてください! もう二度としませんからっ……お許しください! 後宮を追い出されたら、行く場所がないんです!」
完全な混乱状態に陥っている。冥焔は途方に暮れた顔で麗麗に一瞥をよこした。『お前がなんとかしろ』と視線で命じられ、麗麗は息を吐きこめかみを指で押さえた。
(とはいえ、一体どうしろと)
おそらく彼女たちは、えらい人には言えないような“何か”をしていたのだろうなと思う。きっとその最中に、例の女官が亡くなった。
女官の言葉から推測するに、呪いより怖いのは職場がなくなることなのだ。まずは女官たちを安心させなければ、聞き出せる話も聞き出せまい。
こほん、と咳払いひとつ。
「ひとつだけ。あなたたちのやった『悪いこと』に関してですが」
びくっと女官たちが震える。
「誰かを殺したわけではないんですよね? その、美月さん?という方を殺めたとかでは──」
「ちっ、違います! 私たちは、そのっ、せ、窃盗を……」
はっと口を押さえ、しまったという顔をした女官を見て、言葉に嘘はなさそうだと判断する。
窃盗か、ぎりぎりだなと思いながら麗麗は唇を舐め、口を開いた。
「ご安心ください。冥焔様はとても寛大な御方でいらっしゃいます」
「女官、なにを──」
抗議の声をあげた冥焔を視線で黙らせて、麗麗はなおも言葉を重ねた。
「もしあなたたちが、なにか非常にまずいこと──それこそ、通常であれば罰せられて当然の悪さをしたのだとしても、ここにいらっしゃる冥焔様はとても心が深い御方でいらっしゃいますので、今回に限り、お目こぼしをしてくださるでしょう。この件に関して私たちはなにも知りません。聞いたことはすぐにその場で忘れてさしあげます。ですから……罰を恐れずに。死んだ女官になにがあったのか、なにを見聞きしたのか、教えていただけますか」
女官たちはおずおずと視線を上げ、救いを求めるかのように麗麗を見つめた。
(ここまでお膳立てしたんだ。頼むよ宦官)
麗麗の祈りが通じたのだろう。冥焔は渋々といった風情で、首を縦に振った。
「……人を殺めたのであればさすがに咎めはするが、そうでないなら──例えば、窃盗であり、そして未遂なのであれば、今回の件に限り、目をつぶると約束しよう」
女官たちは目に見えて安堵した。互いの顔を見合わせて、脱力したように息を吐く。
「あ、ありがとうございます……」
「では、聞かせてください。なにがあったのですか」
麗麗の言葉に、女官のひとりが口を開いた。
「すみません、美月は、そ、そのっ……ぬ、盗みをしました」
混乱状態で話す女官の話を要約すると。
彼女たちの尚局は大変待遇が悪いらしい。服や下着の配給回数が極端に少なく、常に朝から晩まで働かされるので、食事の配給に間に合わない日もあるという。
「もう嫌だねって房の仲間と話してたんです。私たち、いつまでここで働くんだろうって。そしたら美月が……」
女官のひとりが口ごもった。別の女官が意を決したように顔を上げて、後を継ぐ。
「お妃様に取り入るしかないって言い出したんです。なにかお妃様が気に入りそうなものを献上して、側付きにしてもらえるように頼むって。それで、尚方に忍び込むつもりだって」
尚方は取り扱っている品物が多い。妃が好みそうな調度品も確かにたくさんあるだろう。
「それで、盗みは成功したんですか」
「は、はい。こ、これです……」
女官は立ち上がり、房のすみに積み上がっていた布の中から、なにやら取り出して見せた。
(ん!?)
ぎょっと麗麗は目を見開いた。
「香炉……!」
それは、あの香鈴が手に入れたと言っていた香炉と、まったく同じものだったのである。
「美月から聞いた話なんですけど、ちょうど盗みに入ったときに、尚方の方が『稀少で』『妃様方にも間違いなく気に入っていただける』と誰かに話していたのを聞いたと。それで、数個在庫があったうちのひとつを……」
「盗ってきた、というわけですね」
うなずきながら、麗麗はちらりと横目で宦官を見た。
(うっわ)
めちゃくちゃ眉間にしわが寄っている。握りしめられた拳といい、ひくひくと動く頬といい爆発寸前なのは間違いない。
(そりゃあ、まあ、こう堂々と盗みの話を聞いちゃったらねえ)
この宦官は後宮の管理をしているお偉いさんだ。己の職務の一環として、見過ごせないという気持ちと戦っているのかもしれないが、今ここで爆発されたら身も蓋もない。冥焔が耐えきれなくなる前に、話を進めなければならない。
「その美月さんが亡くなったときのことを教えてください」
「は、はい。私たちが止めるのも聞かずに、美月は尚方に盗みに入って、この香炉を盗ってきたんです。それで、『お妃様に渡す前に一度使ってみたい』って。私たちみたいな立場の者が、未使用の香炉を持っていたら怪しまれるから、一度使っておかないとって。で、そ……その」
女官は口ごもり、冥焔をちらっと見上げた。
冥焔は額に青筋を浮かべながらも、無理やり自分に言い聞かせるように重々しく口を開く。
「先ほどの言葉に嘘はない。申してみよ」
「は、はいっ。この香炉を、『生前の皇太后様から下賜された』って言えばいいって。後宮の人員は入れ替わってるし、昔皇太后によくしてもらったって嘘をついても、誰も事実なんかわからない。物がよいのは間違いないし、皇太后様が使っていた品だと信じてもらえれば、それだけ値打ち物だと思ってくださるはず。お妃様方も喜んで、自分を重用してくれるだろうって」
(うっわあ……)
先の皇太后様がいろいろ怪しげな噂がある方だったのだとしても、その権威は間違いない。逆に物珍しがって欲しがる妃も、間違いなくいるだろう。死人に口なしとはこのことだ。
「でも、香なんて私たち持ってないし。どうするのって聞いたら、『妃様の房の掃除をしたときに、ちょっとくすねてきたのがある』って」
(うわあああ!)
麗麗は今度こそ頭を抱えた。
これはだめだ。その美月という子は、もう盗みが恒常化してしまっていたのだろう。つつけば余罪がぼろぼろ出てくるに違いない。
冥焔はというと、ついに表情が消えてしまった。頼むから、突然爆発しないでよ、と心の中で祈りながらも、麗麗は口を開いた。
「で、その美月さんは、使ったんですか」
「はい……多分」
「多分?」
「美月、夜の配給に来なかったんです。香炉がうまく盗めたから気が高ぶってるんだろうなって思いました。で、私たちが食事を終えて帰ってきたら……そ、その廊下で……!」
わっと女官たちは顔を覆った。
「彼女、まだ生きてて。でも顔が真っ白で、手も足もすごく痙攣してて。『息が苦しい。首を絞められてる。皇太后様に呪われたんだ……』って。そ、それだけ言って……」
死んでしまった、と。つまりそういうことか。
「あの……本当に呪いなんでしょうか」
罰せられないとわかったからだろう、女官たちは今度こそ怖がり始めた。
「私たちまで呪われませんよね。だ、だって皇太后様の名前を使ったのは、美月だけですしっ……」
まあなんというか、俗物的な考えであるなあと、妙なところで麗麗は感心してしまった。
(下級女官なら、むべなるかなって感じだよね)
目の前に口を開けた虎がいるのと、虎の怨念ならどちらが怖いかという話である。
彼女たちにとって確実に行われるのは罰の方だ。簡単に命を奪われる立場だからこそ、まっ先に罰を恐れる。その心配がなくなってから呪いを怖がるというのは、非常に興味深いなぁと思う。
気を取り直して、麗麗は女官たちに向き直った。
「その香炉を見せてください」
女官たちはおずおずと香炉を差し出した。冥焔がちらりと麗麗に視線を送る。注意しろと言いたいのだろう。
麗麗は軽くうなずき、懐から絹の巾を取り出して直接香炉に触れないように気をつけながら受け取った。
「うわっ……!」
受け取った瞬間、驚いた。
(お、重い……!)
手のひらにすっぽりと納まるくらいの大きさなのに、まるで金属の玉を持っているかのような重さである。
「冥焔様。あの、私、香炉を持ったのは初めてなんですけど。こんなに重いものなんですか?」
麗麗から巾ごと香炉を手渡された冥焔は、眉を寄せた。
「いや、この香炉は特に重いな。……妙だ、異様に重量がある。陶器だけでは、こんな重さになるまい。まるで……金属でできているかのようだ」
(金属で……)
はっと麗麗の目が見開かれる。
「ちょっと、貸してください!」
慌てて冥焔から香炉を奪うと、ためらいなく蓋を開けた。
中には使われた形跡がしっかりと残っている。
(でも、香の方じゃない……)
香になにか仕掛けがあるのだとしたら、くすねた先のお妃様側にもなにか起こっていないとおかしい。では、やはり香炉だ。
注意深く香炉を観察すると、蓋が異様に分厚いことに気がついた。
この国の香炉は、蓋が天蓋型になっているものがほとんどである。丸みを帯びた蓋にはいくつも穴が開いており、そこから香りを漂わせるのだ。
しかし、この香炉の蓋は外から見ると天蓋型だが、その下は平らになっている。まるで、蓋に空間があるような……。
麗麗は香炉を持ったまま周囲をうかがった。
共同の房には寝台代わりの菰が数枚。その間を衝立が仕切っており、卓子はない。これでは、麗麗がやりたいことはできない。
麗麗は隣の宦官に目を向けた。
「冥焔様。小刀かなにか、持っていらっしゃいませんか」
「あるにはあるが。なにをするつもりだ」
「ちょっと確かめたいことがあります」
冥焔は苦い顔をしながら袍のあわせから小刀を取り出すと麗麗に手渡した。おあつらえ向きに、刀部分はやや厚く大変頑丈そうである。
麗麗は鞘を抜くと、刀の先端を陶器の天蓋部分とその底の隙間に差し込んだ。
「おい、女官。お前、まさか──!」
冥焔がなにやら焦った声を出すが、それで止まる麗麗ではない。拳を握りしめ、刀の束をまっすぐ平衡に叩いた。
「てえいっ!」
──かこんっ。
綺麗に真っ二つに割れた香炉の蓋を見て、冥焔は頭を抱えている。しかし、それどころではなかった。
さすが高級品だ。香炉の内側にも鮮やかな絵が描かれている。しかし蓋の裏の彩色豊かな絵柄を見て、麗麗は目を見開いた。
知らず知らずのうちに冷や汗が流れる。喉がからからに渇いているような気がして、唾を飲み込んだ。
(まずい……)
だが、ここで騒いではいけない。目の前には、固唾を呑んで、成り行きを見守っている女官たちがいるのだ。
(まずは、この女官たちを安心させないと……!)
麗麗は唇を引き結び、無理やり笑みの形を作った。
「此度の件、呪いではありません」
「呪いじゃない?」
「ええ。どうやらこの香炉……あー、えっと……! 熱がうまく回らない造りになっていたようです! そのせいで、燃やした香から体に有害な煙が出てしまったんだと思います」
怪訝な顔をする女官たちに、麗麗はなおも説明を重ねる。
「薪も燃やし方がうまくないと、煙がひどく出るでしょう? あれと同じです。その煙を吸いすぎて、美月さんは倒れてしまったんですよ」
「じゃあ、首を絞められたっていうのは……煙を吸いすぎてってこと?」
「はい。呼吸がしにくくなったのを、首を絞められたと思ったのでしょうね。お亡くなりになった美月さんには申し訳ありませんが、すべて自然現象で説明がつきます。これは呪いではありません。ご安心ください」
そう断言すると、ほーっと女官たちが安堵の息をつく。
「よ、よかった……」
「本当、死んでからも人騒がせなのよあの子……! もともと嫌いだったよね、私!」
どうやら美月は麻煩製造者だったようだ。彼女の死を悼むどころか、迷惑だと言い始めた女官たちに密かに苦いものを覚えながらも、麗麗は再度口を開いた。
「では、この香炉はお預かりしますね! 皆さんも、これに懲りたら真面目に働いてください。次はないと冥焔様もおっしゃっておられますし」
麗麗の発言の意図を汲んでくれたのだろう。冥焔はことさら厳しい表情で彼女たちに告げる。
「その通りだ。お前たちの顔と所属は覚えた。もし次になにか問題が起こったらどうなるか、わからないほど愚かではないだろう」
女官たちは、ぴしりと固まる。息を詰め、顔を強ばらせてこくこくとうなずいた。
これだけ脅しておけば、問題ないだろう。
麗麗は香炉を巾で包むと、慎重に持ち、手のひらに収める。冥焔に視線を送ってから房を出た。
(うまく、騙せたはず)
嘘をつくのは苦手だ。だが、ここは貫き通さなければならない。
尚寝局の殿舎を出る。暗がりを歩きながら、麗麗はぐるぐると考える。
気づいた事実をどこまで言えばいい。冥焔がこの事実を知ったら皇帝に話をつけに行くだろう。そこまでする案件か。もし麗麗の杞憂だったとしたら、いろいろなところに迷惑をかけてしまう。
だが、黙っていることは論外だ。少なくとも麗麗は、この香炉に隠されている真実に気がついてしまった。人為的に、作為的に物事が行われているのは間違いない。なれば、やはり報告を……──。
「──官!」
しかし、自分が正しいとなぜ言える? 偶然ではないのだと確信を持って告げられるだろうか。自分はこの国の文化にも技術にも明るくはない。もしこれが故意ではなかったとしたら、無駄な命を散らしてしまうのでは──。
「女官!」
ぐいっと後ろ首をつかまれた。麗麗ははっと目を見開く。
目の前には壁があった。後宮を取り囲む壁の一部が、麗麗の目と鼻の先に〝こんにちは〟している。
「ひえっ」
「お前は、なぜいつもそうなんだ」
後ろから呆れた声が飛んできた。
冥焔は麗麗の首根っこから手を離し、肩を両手でつかんだ。
「うおっ……!?」
そのままぐるりと向きを変えられ、冥焔と向かい合わせとなる。深い闇の色をたたえた瞳が麗麗を貫く。
「言ってみろ」
「……なんのことでしょう」
素知らぬ顔をして目を逸らすが、冥焔は騙されてはくれない。
「気づかないとでも思ったのか。その香炉、まだなにかあるんだろう?」
「私の勘違いかもしれません」
「それでも言え。お前はひとりではない」
「……えっ?」
耳を疑った。冥焔の鋭い瞳とかち合った。
まじまじと自分を見る麗麗になにを思ったのだろうか、冥焔は再度言葉を重ねる。
「なんのために俺がいる。自分だけで判断しようと考えるな」
冥焔のまっすぐな視線と飾り気のない言葉に、自身に寄せる深い信頼を見た。
なぜか胸に迫るものがある。不思議な安堵と嬉しさが押し寄せ、麗麗は自身の感情に戸惑いを覚えた。
「なぜ顔を背ける」
「……お気になさらず」
理由はわからないが、冥焔の顔を正面から見られない。
(なんだこれ……?)
顔がぽこぽこと熱くなり、麗麗は手のひらで顔を仰いだ。その様子を冥焔は訝しげな視線で眺める。
「お前の行動はよくわからんな」
「はい。私も自分がよくわかりません」
とはいえ、今はそんなことはどうでもいいのである。それよりも先に、話さなければならない事実があるだろう。
自分を叱咤し、麗麗は冥焔に向き直った。
すばやくあたりを見回し、誰も近くにいないことを確かめてから、口を開く。
「自然現象ではありません。これは、殺人です」
瞬時に冥焔の纏う空気が変化する。ひりついた緊張感を漂わせながら、冥焔は視線で話を促した。
「この香炉、蓋が二重構造になっていました。先ほど割った部分を見てください」
麗麗はそう言いながら、手元に抱えていた香炉から巾を外し、そっと冥焔に差し出した。
夜の闇の中でもはっきりとわかる。陶器でできた香炉の天蓋部分には、色とりどりの絵が描かれている。
「瑞獣だな。縁起のよい獣を図案化したものだ。見事な手だが、これがなんの問題なんだ?」
「……色です」
「色?」
麗麗はうなずき、香炉の天蓋部分を指さした。
「ここ、赤い色が使われていますよね」
「ああ。昇る日を表しているのだろう。それがどうした」
「この顔料は辰砂といって、鉱石を砕いたものを使用しています。とても美しく発色するので人気なのですが、実はこれにも毒があるんです」
冥焔は訝しげに首をかしげた。
「辰砂は俺も知っている。服用すると毒になるという話は有名だが……香炉の場合は別に問題ないだろう。直接口に含むわけではないのだから」
「確かに、普通はそうですよね。ただ、毒は口から入る物だけとは限らないんですよ」
麗麗はそう言いながら、蓋の下部分を指さした。取り外した底の部分だ。
「ここ、金属でできていますよね。なぜ天蓋と同じ陶器で作らなかったのでしょう」
「それは……確かに不思議な造りだが、加工のしやすさの問題ではないのか?」
「かもしれません。しかし、丸みを持たせた天蓋は陶器で見事に作り上げているのに、平らな下部分が難しいとは思えないんですよ。それに、最も重要なのは、この天蓋の絵が内側に描かれている事実です。私が割らなければ、ここに絵が描いてあることすらわからなかった。ではなぜ、見えない場所にこのような絵が描かれているのか」
めでたい絵なら、天蓋の外側に堂々と絵付けをすればいいだけの話である。おしゃれは目立たないところに、などという慎ましやかな風習でもあれば話は別だが、華やかさを競う、こと後宮においては不要の文化と言えるだろう。
「辰砂は熱と酸に弱いです。特に、熱せられた辰砂は空中に猛毒をまき散らします。……こんな金属の蓋の下で香を焚いたら、香炉の内部の熱はどれほど上がっていたでしょう」
冥焔の顔色がはっきりと変わった。
「つまり、内部の絵は高熱で空中に溶け出す毒で、蓋の二重構造はわざと内部を高温にさせるためだ、と」
「はい。……この尚寝局の待遇は劣悪でした。美月さんはおそらく、健康体ではなかったのではないでしょうか。食事を取らなければ人は当然ながら弱り、過酷な労働は不調に拍車をかける。体が弱った状態でこの香炉から発する煙を吸ってしまったので、早く反応が出たのでしょうね」
言うべきことは言った。あとは、冥焔の出方をうかがうまでだ。
冥焔は口を閉ざし、鋭い視線で手の上の香炉を一瞥する。
「この件は俺が預かろう。慎重に調べを進める必要がありそうだ。今日は戻れ。宮まで送ろう」
くるりと踵を返した冥焔のあとをついて歩きながら、麗麗は考える。
あの女官たちの話によると、尚方が『稀少で』『妃様方にも間違いなく気に入っていただける』と言っていたのだという。であれば、この香炉は間違いなく妃以上の者が嗜む超一級品として作られたはずだ。
命を落とした下級女官には申し訳ないけれど、彼女が先に盗み出してくれてよかった。もし上級妃がこの香炉を手にしていたらと考えるだに恐ろしい。
自分で楽しむにしても、人に贈るにしても、使用すれば体に害を及ぼすのは間違いない。美月のようにすぐ亡くならなくとも、いずれ中毒で命を落としてしまうだろう。そこまで考えて、麗麗の脳裏にふとよぎった物がある。
「あっ!」
「な、なんだ、どうした」
急な大声に驚いたのだろう、冥焔が焦ったような声を出す。しかし、構っていられない。
「大変です! う、うちの宮にもこの香炉があります!」
「なんだって!?」
「例の徳妃が、香炉好きだって噂を聞いて……香鈴が尚方から仕入れたんです! 贈答用ですが、万が一使っていたら……!」
「お前! なぜそれを早く言わない!」
青ざめた表情で駆け出した冥焔のあとを麗麗も必死で追う。
深藍宮に駆け戻って、入り口の宦官たちの止める声も聞かず、扉を蹴破る勢いで房へと突入した。
「あっ! 麗麗! 遅いわよ。みんなもう寝ちゃって……って、冥焔様も!? ど、どうなさったんです?」
麗麗の帰りを待ってくれていたのだろう、雪梅が驚いた声を出す。
「雪梅……っ、香鈴が今日持ってた香炉って、い、今どこに……!」
「ああ、あれなら回廊の奥の房に──って、ちょっと!?」
ごめん雪梅、緊急事態! と心の中で謝りながら、麗麗は示された場所へと急いで向かう。
叩きつけるように扉を開けると、房をぐるりと見回した。
貴重品や贈答用の品物を収めている房だ。そこかしこに煌びやかなものがあふれている。
(香炉、香炉……っ!)
「あった!」
棚にちょこなんと置かれているそれを見つけて、麗麗は快哉をあげた。
「冥焔様、これです!」
「……大丈夫だ」
香炉の様子を確かめて、冥焔が張り詰めていた息をふーっと長く吐き出した。
「まだ使われてはいないようだ」
「よ、よかった……」
安堵の息が漏れる。
贈答用でよかった。もし、これを瑛琳妃や三女官が使ってしまっていたら、取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。
「冥焔様。これと同じ香炉が出回っていないか、早急に調査をお願いいたします」
冥焔もわかっていたようで、厳しい顔でうなずいた。
下級女官が集合で暮らす殿舎は、他の殿舎と比べてもとても殺風景だった。それだけではない。回廊のすみには綿埃がたまり、飾り気のない窓の枠には黒ずんだ汚れがこびりついている。清掃を担当する尚局のはずなのに、掃除が行き届いていないのだ。
麗麗が前に勤めていた『尚服局』のほうが、まだ綺麗だったかもしれない。
(なんか、荒んでる……?)
嗅いだ覚えのある匂いだなあと鼻をひくひくさせ思い至った。これは、前世の繁華街の匂いだ。あの荒んだ、少し酸っぱいような匂いがあちこちに充満している。
冥焔もその様子に気づいたようで、顔を目いっぱいしかめていた。
「ひどいな。これは別件でも調査が必要なようだ」
麗麗もうなずいた。それがいいと思う。こういうのは、やはり上からがつんと言ってやらないとなかなか改善できないものだ。
問題の房には数人の女官たちが詰めていた。皆、青ざめた顔で、中にはすでに涙ぐんでいる者もいる。
「死んだ女官と同房なのは、お前たちか」
冥焔が口を開くと、女官たちからひいっと小さく声が漏れる。
「あ、あのっ、私たち罰せられるんですか……!?」
「なんだって?」
怪訝な顔をした冥焔に、女官たちは立て板に水のように口を開いた。
「違うんです、私たち。あの……どうしようもなくて。それで、止めなかったんです。確かに悪いことだとは思ったんですけど! でも、死んだ美月には悪いけど、全部あの子がやったんですよ。私たちはなにもしてない! こんなので罰せられるなんて、あんまりです……っ!」
「おい、落ち着け」
「お願いします。助けてください! もう二度としませんからっ……お許しください! 後宮を追い出されたら、行く場所がないんです!」
完全な混乱状態に陥っている。冥焔は途方に暮れた顔で麗麗に一瞥をよこした。『お前がなんとかしろ』と視線で命じられ、麗麗は息を吐きこめかみを指で押さえた。
(とはいえ、一体どうしろと)
おそらく彼女たちは、えらい人には言えないような“何か”をしていたのだろうなと思う。きっとその最中に、例の女官が亡くなった。
女官の言葉から推測するに、呪いより怖いのは職場がなくなることなのだ。まずは女官たちを安心させなければ、聞き出せる話も聞き出せまい。
こほん、と咳払いひとつ。
「ひとつだけ。あなたたちのやった『悪いこと』に関してですが」
びくっと女官たちが震える。
「誰かを殺したわけではないんですよね? その、美月さん?という方を殺めたとかでは──」
「ちっ、違います! 私たちは、そのっ、せ、窃盗を……」
はっと口を押さえ、しまったという顔をした女官を見て、言葉に嘘はなさそうだと判断する。
窃盗か、ぎりぎりだなと思いながら麗麗は唇を舐め、口を開いた。
「ご安心ください。冥焔様はとても寛大な御方でいらっしゃいます」
「女官、なにを──」
抗議の声をあげた冥焔を視線で黙らせて、麗麗はなおも言葉を重ねた。
「もしあなたたちが、なにか非常にまずいこと──それこそ、通常であれば罰せられて当然の悪さをしたのだとしても、ここにいらっしゃる冥焔様はとても心が深い御方でいらっしゃいますので、今回に限り、お目こぼしをしてくださるでしょう。この件に関して私たちはなにも知りません。聞いたことはすぐにその場で忘れてさしあげます。ですから……罰を恐れずに。死んだ女官になにがあったのか、なにを見聞きしたのか、教えていただけますか」
女官たちはおずおずと視線を上げ、救いを求めるかのように麗麗を見つめた。
(ここまでお膳立てしたんだ。頼むよ宦官)
麗麗の祈りが通じたのだろう。冥焔は渋々といった風情で、首を縦に振った。
「……人を殺めたのであればさすがに咎めはするが、そうでないなら──例えば、窃盗であり、そして未遂なのであれば、今回の件に限り、目をつぶると約束しよう」
女官たちは目に見えて安堵した。互いの顔を見合わせて、脱力したように息を吐く。
「あ、ありがとうございます……」
「では、聞かせてください。なにがあったのですか」
麗麗の言葉に、女官のひとりが口を開いた。
「すみません、美月は、そ、そのっ……ぬ、盗みをしました」
混乱状態で話す女官の話を要約すると。
彼女たちの尚局は大変待遇が悪いらしい。服や下着の配給回数が極端に少なく、常に朝から晩まで働かされるので、食事の配給に間に合わない日もあるという。
「もう嫌だねって房の仲間と話してたんです。私たち、いつまでここで働くんだろうって。そしたら美月が……」
女官のひとりが口ごもった。別の女官が意を決したように顔を上げて、後を継ぐ。
「お妃様に取り入るしかないって言い出したんです。なにかお妃様が気に入りそうなものを献上して、側付きにしてもらえるように頼むって。それで、尚方に忍び込むつもりだって」
尚方は取り扱っている品物が多い。妃が好みそうな調度品も確かにたくさんあるだろう。
「それで、盗みは成功したんですか」
「は、はい。こ、これです……」
女官は立ち上がり、房のすみに積み上がっていた布の中から、なにやら取り出して見せた。
(ん!?)
ぎょっと麗麗は目を見開いた。
「香炉……!」
それは、あの香鈴が手に入れたと言っていた香炉と、まったく同じものだったのである。
「美月から聞いた話なんですけど、ちょうど盗みに入ったときに、尚方の方が『稀少で』『妃様方にも間違いなく気に入っていただける』と誰かに話していたのを聞いたと。それで、数個在庫があったうちのひとつを……」
「盗ってきた、というわけですね」
うなずきながら、麗麗はちらりと横目で宦官を見た。
(うっわ)
めちゃくちゃ眉間にしわが寄っている。握りしめられた拳といい、ひくひくと動く頬といい爆発寸前なのは間違いない。
(そりゃあ、まあ、こう堂々と盗みの話を聞いちゃったらねえ)
この宦官は後宮の管理をしているお偉いさんだ。己の職務の一環として、見過ごせないという気持ちと戦っているのかもしれないが、今ここで爆発されたら身も蓋もない。冥焔が耐えきれなくなる前に、話を進めなければならない。
「その美月さんが亡くなったときのことを教えてください」
「は、はい。私たちが止めるのも聞かずに、美月は尚方に盗みに入って、この香炉を盗ってきたんです。それで、『お妃様に渡す前に一度使ってみたい』って。私たちみたいな立場の者が、未使用の香炉を持っていたら怪しまれるから、一度使っておかないとって。で、そ……その」
女官は口ごもり、冥焔をちらっと見上げた。
冥焔は額に青筋を浮かべながらも、無理やり自分に言い聞かせるように重々しく口を開く。
「先ほどの言葉に嘘はない。申してみよ」
「は、はいっ。この香炉を、『生前の皇太后様から下賜された』って言えばいいって。後宮の人員は入れ替わってるし、昔皇太后によくしてもらったって嘘をついても、誰も事実なんかわからない。物がよいのは間違いないし、皇太后様が使っていた品だと信じてもらえれば、それだけ値打ち物だと思ってくださるはず。お妃様方も喜んで、自分を重用してくれるだろうって」
(うっわあ……)
先の皇太后様がいろいろ怪しげな噂がある方だったのだとしても、その権威は間違いない。逆に物珍しがって欲しがる妃も、間違いなくいるだろう。死人に口なしとはこのことだ。
「でも、香なんて私たち持ってないし。どうするのって聞いたら、『妃様の房の掃除をしたときに、ちょっとくすねてきたのがある』って」
(うわあああ!)
麗麗は今度こそ頭を抱えた。
これはだめだ。その美月という子は、もう盗みが恒常化してしまっていたのだろう。つつけば余罪がぼろぼろ出てくるに違いない。
冥焔はというと、ついに表情が消えてしまった。頼むから、突然爆発しないでよ、と心の中で祈りながらも、麗麗は口を開いた。
「で、その美月さんは、使ったんですか」
「はい……多分」
「多分?」
「美月、夜の配給に来なかったんです。香炉がうまく盗めたから気が高ぶってるんだろうなって思いました。で、私たちが食事を終えて帰ってきたら……そ、その廊下で……!」
わっと女官たちは顔を覆った。
「彼女、まだ生きてて。でも顔が真っ白で、手も足もすごく痙攣してて。『息が苦しい。首を絞められてる。皇太后様に呪われたんだ……』って。そ、それだけ言って……」
死んでしまった、と。つまりそういうことか。
「あの……本当に呪いなんでしょうか」
罰せられないとわかったからだろう、女官たちは今度こそ怖がり始めた。
「私たちまで呪われませんよね。だ、だって皇太后様の名前を使ったのは、美月だけですしっ……」
まあなんというか、俗物的な考えであるなあと、妙なところで麗麗は感心してしまった。
(下級女官なら、むべなるかなって感じだよね)
目の前に口を開けた虎がいるのと、虎の怨念ならどちらが怖いかという話である。
彼女たちにとって確実に行われるのは罰の方だ。簡単に命を奪われる立場だからこそ、まっ先に罰を恐れる。その心配がなくなってから呪いを怖がるというのは、非常に興味深いなぁと思う。
気を取り直して、麗麗は女官たちに向き直った。
「その香炉を見せてください」
女官たちはおずおずと香炉を差し出した。冥焔がちらりと麗麗に視線を送る。注意しろと言いたいのだろう。
麗麗は軽くうなずき、懐から絹の巾を取り出して直接香炉に触れないように気をつけながら受け取った。
「うわっ……!」
受け取った瞬間、驚いた。
(お、重い……!)
手のひらにすっぽりと納まるくらいの大きさなのに、まるで金属の玉を持っているかのような重さである。
「冥焔様。あの、私、香炉を持ったのは初めてなんですけど。こんなに重いものなんですか?」
麗麗から巾ごと香炉を手渡された冥焔は、眉を寄せた。
「いや、この香炉は特に重いな。……妙だ、異様に重量がある。陶器だけでは、こんな重さになるまい。まるで……金属でできているかのようだ」
(金属で……)
はっと麗麗の目が見開かれる。
「ちょっと、貸してください!」
慌てて冥焔から香炉を奪うと、ためらいなく蓋を開けた。
中には使われた形跡がしっかりと残っている。
(でも、香の方じゃない……)
香になにか仕掛けがあるのだとしたら、くすねた先のお妃様側にもなにか起こっていないとおかしい。では、やはり香炉だ。
注意深く香炉を観察すると、蓋が異様に分厚いことに気がついた。
この国の香炉は、蓋が天蓋型になっているものがほとんどである。丸みを帯びた蓋にはいくつも穴が開いており、そこから香りを漂わせるのだ。
しかし、この香炉の蓋は外から見ると天蓋型だが、その下は平らになっている。まるで、蓋に空間があるような……。
麗麗は香炉を持ったまま周囲をうかがった。
共同の房には寝台代わりの菰が数枚。その間を衝立が仕切っており、卓子はない。これでは、麗麗がやりたいことはできない。
麗麗は隣の宦官に目を向けた。
「冥焔様。小刀かなにか、持っていらっしゃいませんか」
「あるにはあるが。なにをするつもりだ」
「ちょっと確かめたいことがあります」
冥焔は苦い顔をしながら袍のあわせから小刀を取り出すと麗麗に手渡した。おあつらえ向きに、刀部分はやや厚く大変頑丈そうである。
麗麗は鞘を抜くと、刀の先端を陶器の天蓋部分とその底の隙間に差し込んだ。
「おい、女官。お前、まさか──!」
冥焔がなにやら焦った声を出すが、それで止まる麗麗ではない。拳を握りしめ、刀の束をまっすぐ平衡に叩いた。
「てえいっ!」
──かこんっ。
綺麗に真っ二つに割れた香炉の蓋を見て、冥焔は頭を抱えている。しかし、それどころではなかった。
さすが高級品だ。香炉の内側にも鮮やかな絵が描かれている。しかし蓋の裏の彩色豊かな絵柄を見て、麗麗は目を見開いた。
知らず知らずのうちに冷や汗が流れる。喉がからからに渇いているような気がして、唾を飲み込んだ。
(まずい……)
だが、ここで騒いではいけない。目の前には、固唾を呑んで、成り行きを見守っている女官たちがいるのだ。
(まずは、この女官たちを安心させないと……!)
麗麗は唇を引き結び、無理やり笑みの形を作った。
「此度の件、呪いではありません」
「呪いじゃない?」
「ええ。どうやらこの香炉……あー、えっと……! 熱がうまく回らない造りになっていたようです! そのせいで、燃やした香から体に有害な煙が出てしまったんだと思います」
怪訝な顔をする女官たちに、麗麗はなおも説明を重ねる。
「薪も燃やし方がうまくないと、煙がひどく出るでしょう? あれと同じです。その煙を吸いすぎて、美月さんは倒れてしまったんですよ」
「じゃあ、首を絞められたっていうのは……煙を吸いすぎてってこと?」
「はい。呼吸がしにくくなったのを、首を絞められたと思ったのでしょうね。お亡くなりになった美月さんには申し訳ありませんが、すべて自然現象で説明がつきます。これは呪いではありません。ご安心ください」
そう断言すると、ほーっと女官たちが安堵の息をつく。
「よ、よかった……」
「本当、死んでからも人騒がせなのよあの子……! もともと嫌いだったよね、私!」
どうやら美月は麻煩製造者だったようだ。彼女の死を悼むどころか、迷惑だと言い始めた女官たちに密かに苦いものを覚えながらも、麗麗は再度口を開いた。
「では、この香炉はお預かりしますね! 皆さんも、これに懲りたら真面目に働いてください。次はないと冥焔様もおっしゃっておられますし」
麗麗の発言の意図を汲んでくれたのだろう。冥焔はことさら厳しい表情で彼女たちに告げる。
「その通りだ。お前たちの顔と所属は覚えた。もし次になにか問題が起こったらどうなるか、わからないほど愚かではないだろう」
女官たちは、ぴしりと固まる。息を詰め、顔を強ばらせてこくこくとうなずいた。
これだけ脅しておけば、問題ないだろう。
麗麗は香炉を巾で包むと、慎重に持ち、手のひらに収める。冥焔に視線を送ってから房を出た。
(うまく、騙せたはず)
嘘をつくのは苦手だ。だが、ここは貫き通さなければならない。
尚寝局の殿舎を出る。暗がりを歩きながら、麗麗はぐるぐると考える。
気づいた事実をどこまで言えばいい。冥焔がこの事実を知ったら皇帝に話をつけに行くだろう。そこまでする案件か。もし麗麗の杞憂だったとしたら、いろいろなところに迷惑をかけてしまう。
だが、黙っていることは論外だ。少なくとも麗麗は、この香炉に隠されている真実に気がついてしまった。人為的に、作為的に物事が行われているのは間違いない。なれば、やはり報告を……──。
「──官!」
しかし、自分が正しいとなぜ言える? 偶然ではないのだと確信を持って告げられるだろうか。自分はこの国の文化にも技術にも明るくはない。もしこれが故意ではなかったとしたら、無駄な命を散らしてしまうのでは──。
「女官!」
ぐいっと後ろ首をつかまれた。麗麗ははっと目を見開く。
目の前には壁があった。後宮を取り囲む壁の一部が、麗麗の目と鼻の先に〝こんにちは〟している。
「ひえっ」
「お前は、なぜいつもそうなんだ」
後ろから呆れた声が飛んできた。
冥焔は麗麗の首根っこから手を離し、肩を両手でつかんだ。
「うおっ……!?」
そのままぐるりと向きを変えられ、冥焔と向かい合わせとなる。深い闇の色をたたえた瞳が麗麗を貫く。
「言ってみろ」
「……なんのことでしょう」
素知らぬ顔をして目を逸らすが、冥焔は騙されてはくれない。
「気づかないとでも思ったのか。その香炉、まだなにかあるんだろう?」
「私の勘違いかもしれません」
「それでも言え。お前はひとりではない」
「……えっ?」
耳を疑った。冥焔の鋭い瞳とかち合った。
まじまじと自分を見る麗麗になにを思ったのだろうか、冥焔は再度言葉を重ねる。
「なんのために俺がいる。自分だけで判断しようと考えるな」
冥焔のまっすぐな視線と飾り気のない言葉に、自身に寄せる深い信頼を見た。
なぜか胸に迫るものがある。不思議な安堵と嬉しさが押し寄せ、麗麗は自身の感情に戸惑いを覚えた。
「なぜ顔を背ける」
「……お気になさらず」
理由はわからないが、冥焔の顔を正面から見られない。
(なんだこれ……?)
顔がぽこぽこと熱くなり、麗麗は手のひらで顔を仰いだ。その様子を冥焔は訝しげな視線で眺める。
「お前の行動はよくわからんな」
「はい。私も自分がよくわかりません」
とはいえ、今はそんなことはどうでもいいのである。それよりも先に、話さなければならない事実があるだろう。
自分を叱咤し、麗麗は冥焔に向き直った。
すばやくあたりを見回し、誰も近くにいないことを確かめてから、口を開く。
「自然現象ではありません。これは、殺人です」
瞬時に冥焔の纏う空気が変化する。ひりついた緊張感を漂わせながら、冥焔は視線で話を促した。
「この香炉、蓋が二重構造になっていました。先ほど割った部分を見てください」
麗麗はそう言いながら、手元に抱えていた香炉から巾を外し、そっと冥焔に差し出した。
夜の闇の中でもはっきりとわかる。陶器でできた香炉の天蓋部分には、色とりどりの絵が描かれている。
「瑞獣だな。縁起のよい獣を図案化したものだ。見事な手だが、これがなんの問題なんだ?」
「……色です」
「色?」
麗麗はうなずき、香炉の天蓋部分を指さした。
「ここ、赤い色が使われていますよね」
「ああ。昇る日を表しているのだろう。それがどうした」
「この顔料は辰砂といって、鉱石を砕いたものを使用しています。とても美しく発色するので人気なのですが、実はこれにも毒があるんです」
冥焔は訝しげに首をかしげた。
「辰砂は俺も知っている。服用すると毒になるという話は有名だが……香炉の場合は別に問題ないだろう。直接口に含むわけではないのだから」
「確かに、普通はそうですよね。ただ、毒は口から入る物だけとは限らないんですよ」
麗麗はそう言いながら、蓋の下部分を指さした。取り外した底の部分だ。
「ここ、金属でできていますよね。なぜ天蓋と同じ陶器で作らなかったのでしょう」
「それは……確かに不思議な造りだが、加工のしやすさの問題ではないのか?」
「かもしれません。しかし、丸みを持たせた天蓋は陶器で見事に作り上げているのに、平らな下部分が難しいとは思えないんですよ。それに、最も重要なのは、この天蓋の絵が内側に描かれている事実です。私が割らなければ、ここに絵が描いてあることすらわからなかった。ではなぜ、見えない場所にこのような絵が描かれているのか」
めでたい絵なら、天蓋の外側に堂々と絵付けをすればいいだけの話である。おしゃれは目立たないところに、などという慎ましやかな風習でもあれば話は別だが、華やかさを競う、こと後宮においては不要の文化と言えるだろう。
「辰砂は熱と酸に弱いです。特に、熱せられた辰砂は空中に猛毒をまき散らします。……こんな金属の蓋の下で香を焚いたら、香炉の内部の熱はどれほど上がっていたでしょう」
冥焔の顔色がはっきりと変わった。
「つまり、内部の絵は高熱で空中に溶け出す毒で、蓋の二重構造はわざと内部を高温にさせるためだ、と」
「はい。……この尚寝局の待遇は劣悪でした。美月さんはおそらく、健康体ではなかったのではないでしょうか。食事を取らなければ人は当然ながら弱り、過酷な労働は不調に拍車をかける。体が弱った状態でこの香炉から発する煙を吸ってしまったので、早く反応が出たのでしょうね」
言うべきことは言った。あとは、冥焔の出方をうかがうまでだ。
冥焔は口を閉ざし、鋭い視線で手の上の香炉を一瞥する。
「この件は俺が預かろう。慎重に調べを進める必要がありそうだ。今日は戻れ。宮まで送ろう」
くるりと踵を返した冥焔のあとをついて歩きながら、麗麗は考える。
あの女官たちの話によると、尚方が『稀少で』『妃様方にも間違いなく気に入っていただける』と言っていたのだという。であれば、この香炉は間違いなく妃以上の者が嗜む超一級品として作られたはずだ。
命を落とした下級女官には申し訳ないけれど、彼女が先に盗み出してくれてよかった。もし上級妃がこの香炉を手にしていたらと考えるだに恐ろしい。
自分で楽しむにしても、人に贈るにしても、使用すれば体に害を及ぼすのは間違いない。美月のようにすぐ亡くならなくとも、いずれ中毒で命を落としてしまうだろう。そこまで考えて、麗麗の脳裏にふとよぎった物がある。
「あっ!」
「な、なんだ、どうした」
急な大声に驚いたのだろう、冥焔が焦ったような声を出す。しかし、構っていられない。
「大変です! う、うちの宮にもこの香炉があります!」
「なんだって!?」
「例の徳妃が、香炉好きだって噂を聞いて……香鈴が尚方から仕入れたんです! 贈答用ですが、万が一使っていたら……!」
「お前! なぜそれを早く言わない!」
青ざめた表情で駆け出した冥焔のあとを麗麗も必死で追う。
深藍宮に駆け戻って、入り口の宦官たちの止める声も聞かず、扉を蹴破る勢いで房へと突入した。
「あっ! 麗麗! 遅いわよ。みんなもう寝ちゃって……って、冥焔様も!? ど、どうなさったんです?」
麗麗の帰りを待ってくれていたのだろう、雪梅が驚いた声を出す。
「雪梅……っ、香鈴が今日持ってた香炉って、い、今どこに……!」
「ああ、あれなら回廊の奥の房に──って、ちょっと!?」
ごめん雪梅、緊急事態! と心の中で謝りながら、麗麗は示された場所へと急いで向かう。
叩きつけるように扉を開けると、房をぐるりと見回した。
貴重品や贈答用の品物を収めている房だ。そこかしこに煌びやかなものがあふれている。
(香炉、香炉……っ!)
「あった!」
棚にちょこなんと置かれているそれを見つけて、麗麗は快哉をあげた。
「冥焔様、これです!」
「……大丈夫だ」
香炉の様子を確かめて、冥焔が張り詰めていた息をふーっと長く吐き出した。
「まだ使われてはいないようだ」
「よ、よかった……」
安堵の息が漏れる。
贈答用でよかった。もし、これを瑛琳妃や三女官が使ってしまっていたら、取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。
「冥焔様。これと同じ香炉が出回っていないか、早急に調査をお願いいたします」
冥焔もわかっていたようで、厳しい顔でうなずいた。



