「しかし、わからないことがある」
帰る道すがら、冥焔は首をひねっていた。
「お前の言う通り、土木作業の音が響いているというのは理解した。だがなぜ、あの殿舎だけなのだ? 他の宮ではそんな訴えは起きていなかったが」
「それは、土の中に答えがあると思いますよ」
冥焔に歩調を合わせながら、麗麗は自身の見解を述べた。
「冥焔様は先ほど言葉を濁されましたが、建てている建物は上級妃の宮のあたりではないですか。そしておそらく……白蓮妃の宮の……」
ぴたりと冥焔が足を止めた。それが答えであると判断し、麗麗は声をひそめた。
「この殿舎と白蓮妃の宮は、直線上の距離です。おそらく土中の水路も同じものを使っているのでしょう。その水路を通じて、音が響いてきているんですよ」
この国の土木技術は、かなり発達している。宮城内には、地下に生活排水用の巨大な水路が張り巡らされており、衛生面が保たれるようになっているのだ。
それは後宮も同じで、基本的には上級妃の住まう宮から下級妃の殿舎に向けて、地下にまっすぐ水路が通っている。
白蓮妃の住んでいた宮から先ほどの殿舎は地下の水路で繋がっている状態だった。だから、あの殿舎にだけ音が響いていたのだろう。
「ははあ……」
感心したように冥焔はうなずく。
「なるほどな。お前にはいつも感心させられる」
「えっ」
どきりとした。咄嗟に、まじまじと冥焔の顔を見てしまう。
「冥焔様、どうしたんです。おなかでも痛いんです?」
「なぜそうなる」
「急に素直で、驚いてしまって」
「思ったことを言っただけだ」
冥焔は一度むっとした表情になるが、ややあって苦笑いする。そして仕方がないとでも言うように肩をすくめ、再び歩き出した。
その横に並んで歩きながら、麗麗はなるほどなあと思う。
冥焔は、先日の白蓮妃の一件以降、明らかに表情が豊かになった。以前は眉間に寄っていたしわも緩やかに解かれていることが増え、先ほどのように苦笑いをしたり、肩をすくめたりするのだ。おそらく冥焔を取り囲む女官たちは、宦官の纏う空気がほんの少し柔らかくなった事実に気がついたのだろう。
しかし、格段に話しかけやすくなったというだけで鬼上司は鬼上司である。根っこが変わっていないのだから、あの女官たちの想いが叶う日はおそらくまだまだずっと先に違いない。
そんなことを考えながら歩いていると、冥焔が口を開いた。
「お前には隠しても仕方がないゆえ、話すが。確かに今、白蓮妃のいた宮では建築が行われている」
ぴんときた麗麗である。冥焔の顔を見上げて、ためらいがちに言葉を落とした。
「……もしかして、新しい妃様が入内されるのですか」
「ああ。白蓮妃に代わり、四夫人──徳妃が選出された。その準備のためだ」
冥焔がぴたりと足を止めた。風がふわりと宦官の長髪を揺らし、少しだけ険しい表情をあらわにする。
「噂をすれば、当の本人が来るぞ」
その場で膝を折り、揖礼する冥焔に、慌てて麗麗もならう。ほどなくして、道の向こうよりしずしずと輿が運ばれてくるのが目に入った。
慎ましやかな輿である。派手好きで名を馳せる賢妃・玉璇妃の輿などは、絹花やら沙羅やらでごてごてと飾りたて、揺れるたびに鈴がしゃらしゃらと鳴る仕様になっているが、例の輿には華美なところは見当たらない。
しかし、華美ではないからといって、決して粗末な輿ではないのは見てすぐにわかった。磨き込まれた木枠や、使われている布、どれも超一級品だ。素材を生かした美しさを大切にした、格式の高い輿だった。
お付きの女官たちも同様に、上品な佇まいである。
(自然主義者って感じなのかな)
輿はゆっくりと進むと、冥焔と麗麗の前でと止まった。輿の四方には布が垂れ下がっており、当の妃の姿は見えない。
「徳妃、玲沙様にご挨拶申し上げます」
冥焔がさらに深く揖礼を捧げた。
「こちらこそ、不慣れな身ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします」
輿からは軽やかな声が返ってくる。
まるで春風がそのまま声になったかのような、朗らかで優しげな少女の声に、麗麗は思わず頬をゆるめた。
(へえ……!)
冥焔は名乗っていないし、輿の中の人物からは彼が宦官の袍を着ていることしか判断できない。その横に控えている麗麗もまた、女官服である。
妃の立場からすれば取るに足らない家畜のような身分の者にもわざわざ輿を止めて挨拶をする。
しかも、冥焔は揖礼を捧げており、顔も見えていないはずだ。宦官の美しさにのぼせたわけでもない。格下の者だとわかったうえでの丁寧な態度と柔らかな言葉使いが、妃の人柄を示しているように思えた。
「本来であれば宮が完成してから入内という律を侵し、不調法にも早期入内をお許しくださった大家に感謝申し上げます。借り暮らしとなり、そなたたちにも迷惑がかかるかと存じますが、早く慣れるよう努めますので何卒ご容赦くださいませ」
温かな声がそう告げると、お付きの女官たちも品よく微笑み、会釈してその場を去った。
輿の後ろ姿を見送りながら、麗麗は揖礼を解く。同じく揖礼を解いた冥焔に声をかけた。
「いい人みたいでよかったですね」
しかし、冥焔の険しい表情は変わらない。
「あれだけでは、まだわかるまい」
「頑固ですねえ」
「慎重と言ってほしいものだ。……あの宮が完成する頃には、自ずと答えが出るだろう。それまではお前も口を閉ざしておくように」
冬の、切りつけるような冷たい風はとうになりをひそめている。
ほのかに混じる湿気と、土の匂い。どこかで梅が咲いているのだろうか、甘酸っぱい香りがかすかに鼻先に届いた。
後宮に、春が来る。
帰る道すがら、冥焔は首をひねっていた。
「お前の言う通り、土木作業の音が響いているというのは理解した。だがなぜ、あの殿舎だけなのだ? 他の宮ではそんな訴えは起きていなかったが」
「それは、土の中に答えがあると思いますよ」
冥焔に歩調を合わせながら、麗麗は自身の見解を述べた。
「冥焔様は先ほど言葉を濁されましたが、建てている建物は上級妃の宮のあたりではないですか。そしておそらく……白蓮妃の宮の……」
ぴたりと冥焔が足を止めた。それが答えであると判断し、麗麗は声をひそめた。
「この殿舎と白蓮妃の宮は、直線上の距離です。おそらく土中の水路も同じものを使っているのでしょう。その水路を通じて、音が響いてきているんですよ」
この国の土木技術は、かなり発達している。宮城内には、地下に生活排水用の巨大な水路が張り巡らされており、衛生面が保たれるようになっているのだ。
それは後宮も同じで、基本的には上級妃の住まう宮から下級妃の殿舎に向けて、地下にまっすぐ水路が通っている。
白蓮妃の住んでいた宮から先ほどの殿舎は地下の水路で繋がっている状態だった。だから、あの殿舎にだけ音が響いていたのだろう。
「ははあ……」
感心したように冥焔はうなずく。
「なるほどな。お前にはいつも感心させられる」
「えっ」
どきりとした。咄嗟に、まじまじと冥焔の顔を見てしまう。
「冥焔様、どうしたんです。おなかでも痛いんです?」
「なぜそうなる」
「急に素直で、驚いてしまって」
「思ったことを言っただけだ」
冥焔は一度むっとした表情になるが、ややあって苦笑いする。そして仕方がないとでも言うように肩をすくめ、再び歩き出した。
その横に並んで歩きながら、麗麗はなるほどなあと思う。
冥焔は、先日の白蓮妃の一件以降、明らかに表情が豊かになった。以前は眉間に寄っていたしわも緩やかに解かれていることが増え、先ほどのように苦笑いをしたり、肩をすくめたりするのだ。おそらく冥焔を取り囲む女官たちは、宦官の纏う空気がほんの少し柔らかくなった事実に気がついたのだろう。
しかし、格段に話しかけやすくなったというだけで鬼上司は鬼上司である。根っこが変わっていないのだから、あの女官たちの想いが叶う日はおそらくまだまだずっと先に違いない。
そんなことを考えながら歩いていると、冥焔が口を開いた。
「お前には隠しても仕方がないゆえ、話すが。確かに今、白蓮妃のいた宮では建築が行われている」
ぴんときた麗麗である。冥焔の顔を見上げて、ためらいがちに言葉を落とした。
「……もしかして、新しい妃様が入内されるのですか」
「ああ。白蓮妃に代わり、四夫人──徳妃が選出された。その準備のためだ」
冥焔がぴたりと足を止めた。風がふわりと宦官の長髪を揺らし、少しだけ険しい表情をあらわにする。
「噂をすれば、当の本人が来るぞ」
その場で膝を折り、揖礼する冥焔に、慌てて麗麗もならう。ほどなくして、道の向こうよりしずしずと輿が運ばれてくるのが目に入った。
慎ましやかな輿である。派手好きで名を馳せる賢妃・玉璇妃の輿などは、絹花やら沙羅やらでごてごてと飾りたて、揺れるたびに鈴がしゃらしゃらと鳴る仕様になっているが、例の輿には華美なところは見当たらない。
しかし、華美ではないからといって、決して粗末な輿ではないのは見てすぐにわかった。磨き込まれた木枠や、使われている布、どれも超一級品だ。素材を生かした美しさを大切にした、格式の高い輿だった。
お付きの女官たちも同様に、上品な佇まいである。
(自然主義者って感じなのかな)
輿はゆっくりと進むと、冥焔と麗麗の前でと止まった。輿の四方には布が垂れ下がっており、当の妃の姿は見えない。
「徳妃、玲沙様にご挨拶申し上げます」
冥焔がさらに深く揖礼を捧げた。
「こちらこそ、不慣れな身ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします」
輿からは軽やかな声が返ってくる。
まるで春風がそのまま声になったかのような、朗らかで優しげな少女の声に、麗麗は思わず頬をゆるめた。
(へえ……!)
冥焔は名乗っていないし、輿の中の人物からは彼が宦官の袍を着ていることしか判断できない。その横に控えている麗麗もまた、女官服である。
妃の立場からすれば取るに足らない家畜のような身分の者にもわざわざ輿を止めて挨拶をする。
しかも、冥焔は揖礼を捧げており、顔も見えていないはずだ。宦官の美しさにのぼせたわけでもない。格下の者だとわかったうえでの丁寧な態度と柔らかな言葉使いが、妃の人柄を示しているように思えた。
「本来であれば宮が完成してから入内という律を侵し、不調法にも早期入内をお許しくださった大家に感謝申し上げます。借り暮らしとなり、そなたたちにも迷惑がかかるかと存じますが、早く慣れるよう努めますので何卒ご容赦くださいませ」
温かな声がそう告げると、お付きの女官たちも品よく微笑み、会釈してその場を去った。
輿の後ろ姿を見送りながら、麗麗は揖礼を解く。同じく揖礼を解いた冥焔に声をかけた。
「いい人みたいでよかったですね」
しかし、冥焔の険しい表情は変わらない。
「あれだけでは、まだわかるまい」
「頑固ですねえ」
「慎重と言ってほしいものだ。……あの宮が完成する頃には、自ずと答えが出るだろう。それまではお前も口を閉ざしておくように」
冬の、切りつけるような冷たい風はとうになりをひそめている。
ほのかに混じる湿気と、土の匂い。どこかで梅が咲いているのだろうか、甘酸っぱい香りがかすかに鼻先に届いた。
後宮に、春が来る。



