後宮のガリレオ2

 後宮の夏も、もう終りだ。風は秋の気配を纏い、爽やかに頬を撫でていく。

 盛大に着飾った麗麗を、通り過ぎる女官や宦官が驚いた顔で見送っている。

 (そんなに変か)

 もちろん変ではない。後宮の女官は、普段からこのくらい着飾っている者もいる。視線のほとんどは麗麗の変わりっぷりに驚いているだけであるが、当の本人はまったく気づいていないのである。

 このまま往来を歩いているのは据わりが悪いので、せっかくだからと麗麗は花園へと足を向けた。まだ時期は少し早いが、(けい)()が咲いているかもしれない。瑛琳妃へのお礼にひと枝持って帰ろう。

 辿り着いた花園に人の影はない。

 思った通り、桂花はようやく綻び始めたばかりだった。香りはするが、満開にはほど遠い。だからこんなに人がいないのだ。

 見頃にならないと花を愛でないというのは、なんというか現金だなあと思う。

 なにはともあれ、枝を手折ろうと、手をついと伸ばしたときである。

 麗麗の後ろから、すっと手が伸びた。枝をひと枝手折る手の主は。

 「冥焔様!」

 相変わらずの仏頂面で、冥焔は桂花の枝を麗麗に差し出した。

 「前にもこんなことがあったな」

 「本当ですね」

 ありがたく受け取った。冥焔はまなじりを少しゆるめると、花園の中を視線で示した。

 「ひと月ぶりだな。……ちょうどいい。話したいと思っていたのだ」

 「はい。私もお聞きしたいことがあります」

 ふたりで歩き、花園の亭子へと向かった。石造りの長椅子に腰を下ろすと、冥焔は一度目を周囲に走らせた。誰もいないことを確認してから、口を開く。

 「気になっているだろうから、先に報告しよう。……玲沙妃の一族はほとんど捕縛されたぞ。その日のうちに誅殺され、すでに(しょう)(ぼつ)済みだ」

 抄没とは、いわゆる〝お家取りつぶし〟だ。連座により家が没したという意味である。当然の処罰だろう。

 だがしかし、麗麗には他に気になる発言があった。

 「ほとんど、とはどういうことでしょう。全員ではないのですか」

 「当主の玄策だけがまだ見つからぬ」

 冥焔の目に一瞬黒い光が浮かんだ。苦々しさと言い知れぬ怒りを浮かべた瞳だ。

 「だが、早晩決着がつくはずだ。ひとりではなにもできぬからな、ああいう手合いは」

 「……そうですか」

 懸念は残るが、仕方ないということだ。

 「胡粉宮の女官たちだが、玲沙妃に命じられ、後宮内に怪を起こしていたと認めたぞ」

 「えっ、そうなんですか?」

 あの怪異もどき──いや、稚拙ないたずらは、すべて胡粉宮の女官たちの仕業だったのか。

 「だがしかし、今回の企みを知らぬというのは事実であった。玲沙妃はわがまま妃を徹底していたらしく、逆らえばひどい目に合わせると言われていたのだそうだ。女官たちは一連の命を、他の妃への嫌がらせだと認識していたらしい」

 「ははあ……」

 「そのような事情であれば、無駄に命を散らすのは忍びないと大家はお考えになったようだ。玲沙妃の女官たちは内獄から寺へと移された。二度と世俗には戻れぬが、命あるだけよし、と。全員が大家の判断に感謝をしたと聞いている」

 これはかなり驚いた。普通なら処罰されてもおかしくないはずなのに。

 「いいのですか」

 「大家が決めたことだ。問題ない。あの人は、人の感情がどう動くかを考えて判断なさる方である。恨みを買うよりよかろうと思われたのだろう」

 ははあ。確かに、と麗麗は納得する。玲沙妃のお付きの女官になるくらいだ。おそらく高位の官吏の娘だとか、豪族の縁者だとかがごろごろいるに違いない。下手に女官を処分して、その人たちからいらぬ恨みを買わないようにという計算なのだろう。

 やはり、あの皇帝は抜け目がない。

 冥焔は、一度息を吐く。そして再び麗麗の目をまっすぐに見据えた。

 「そして、玲沙妃だ」

 麗麗の背筋が伸びた。麗麗が今、もっとも聞きたかったことだ。

 「先日、かの妃は処刑された。遺体はすでに後宮の外に運び出され、当たり前だが、弔いはなしだ」

 がんと頭を金槌で殴られたような衝撃だった。

 (……そうだよなあ)

 わかっていたことだが、胸が痛む。どんな理由があれ皇帝の命を狙ったという事実は覆せない。けれど。

 (わかってるけどさ……)

 やりきれるか否かで言えば、否である。麗麗が落ち込んでいるのに気づいたのであろう、冥焔は軽く咳払いをする。

 「と、いうのは表向きだ」

 「はいっ?」

 「黎蘭妃が証言した。かの妃は大家の命を守ろうとしていたと述べたのだ」

 (なんだって!?)

 あの黎蘭妃が。

 「玲沙妃も最初こそ否定はしていたが、おおむねその事実を認めた。家には逆らえぬ、だがなんとか大家をお守りせんと、敢えて大家のそばに侍っていたのだと」

 冥焔が話した玲沙妃の証言は、あの水路で麗麗が推測したこととほとんど同じであった。

 もしかしたら、と麗麗は思う。

 玲沙妃が、宮の完成前に入内したという話。あれもそう(・・)なのではないか。実家の不穏な気配を察した妃が、皇帝をすぐそばで守れるようにと先回りして行動した結果と考えられはしないだろうか。

 それに、一連の稚拙な怪異もそうだ。自らの一族が怪を引き起こしている、その事実に気づいてほしいという思いで、あえて人為とわかるほど露骨な怪を演じてみせたのではなかろうか。

 (ぜーんぶ、推測だけどさ)

 「玲沙妃は籍を抜き、名を変え、死んだという(てい)ではあるが、生きている。どこにいるか、どうしているか、どのような処遇となるかはお前には言えぬ。だが、生きているということだけは、伝えておきたかった」

 「……ありがとうございます」

 十分だ。

 朗らかで、明るい春風のような方だった。頭のよい方だった。生きていれば、なんとでもなる。あの方はきっと十分強い。

 これですべて話したということなのだろう。冥焔は表情を和らげ、長椅子の背にゆったりともたれかかった。くつろいだ姿に、自然と麗麗の頬がゆるんでいく。

 そんな麗麗に視線を向けて、冥焔は一瞬戸惑ったような顔を見せる。

 「麗麗」

 「はい」

 「なぜ笑う」

 「私、笑ってました?」

 まったく自覚がなかったので、空いている手で思わず頬を触った。冥焔は苦笑すると、亭子の外へと視線を向けた。

 風が吹き、桂花の香りがふわりと漂う。

 「……生きたいと強く願い、決して命をあきらめない、か」

 「冥焔様?」

 「……いや、お前の言葉を考えていた」

 冥焔はもう一度視線を麗麗に向けた。その双眸が、ゆっくりと細まる。

 「俺は〝天意〟を見つけたのかもしれない」

 なんという顔で笑うのだろう。桂花の香りにも負けぬような甘やかな微笑は、麗麗を捉えて離さない。

 胸が締めつけられるような妙な焦りを感じて、麗麗は顔を外へと向けた。

 (なんか、調子狂うんだよね)

 だが、それは決して不快な感情ではない。

 綻びかけた桂花の、星のような花を見つめながら、せめて今だけは、この香りが消えませんようにと切に願った。

 了