後宮のガリレオ2

 ◇◇◇

 (ぬ、抜けた……!)

 麗麗は一度立ち止まり、息を整えた。目の前には緩やかに流れる川がある。水路の水はこの川へと排出されているのだ。

 (本当に後宮の外じゃん……!)

 麗麗は今出てきた入り口を見る。もともとは出入りできないようにしっかりと格子がはまっていたようだが、無残にも壊され、人が出入りできるようになっていた。

 (こういうの、まじでちゃんとチェックしたほうがいいと思うよ)

 冥焔に言いたい文句がまたひとつできた。

 (よし、探そう)

 えいやと伸びをし周囲に目を向けた麗麗は、ある一点に目を向け、ぎょっとする。

 今出てきた水路のすぐ後ろは坂になっている。そのまま山中へと延びる坂道の、木々に隠れた奥の方から煙が出ているのである。耳を澄ませば、なにやら男たちの焦りや怒気を伴う声がかすかに聞こえてくる。

 山火事か、それともなにかあったのか。

 (火のないところに煙は立たないもんね)

 使い道が間違っているような気がするが、そんなことはどうでもいい。あの場でなにか起こっている。そのなにかとは、状況から考えて、おそらく冥焔がらみである可能性が高いだろう。麗麗は足を向け、一路走り出す。

 悪路である。後宮のならされた院子とは違い、自然の山の中だ。何度か足を取られそうになるがそれでも麗麗は走った。

 枝が頰を打つ。土が舞い裾を汚す。かまうものかと走り続け、そして眼前にその姿を──捉らえた!

 (冥焔様っ……!)

 幞頭を脱ぎ捨て髪を振り乱し、駆け下りてくる宦官の姿が木々の隙間から見える。その背後から多数の声が聞こえた。追われているのだ。

 危機的状況である。決して楽観できない状況なのはわかっていたが、それでも麗麗は嬉しかった。今すぐこの場にうずくまり、大声をあげて泣いてしまいたかった。

 (生きてた……)

 体中の血が沸騰するかのような爆発的な喜びが、爪先から脳天まで突き抜ける。

 (生きてた……!)

 そのときの麗麗は、おそらく正常でなかった。アドレナリンだとかドーパミンだとかそのあたりのあれそれがどぱどぱ出ていたに違いない。

 追われている冥焔を助けねばと思った。あの追っている男たちの注意を引きつけねばと思った。その結果──。

 麗麗は懐から刃を取り出す。黎蘭妃から借りたものだ。その鞘を抜き払うと、一直線に男たちの方へと突撃したのである。

 「てええええいっ!」

 「うおっ!」

 男たちからしたら、理解不能だったに違いない。こんな場所で、明らかに部外者の、しかも弱っちそうな女が刃を振りかざして向かってくるのである。

 さすがに驚き、冥焔を追う足が乱れた。それをいいことに、麗麗は男たちの中に突っ込んだ。

 一閃(いっせん)。手に軽い手ごたえがあり、男の悲鳴が耳に届く。そのまま遮二無二刃を振り回すが、素人刃だ。先ほどのようにはうまくいかない。

 「なんだお前は!」

 「かまわん、やれ!」

 邪魔者は消せと言わんばかりに男たちが麗麗に向かって手を伸ばした。そのときである。

 「馬鹿者がっ……!」

 襟首をつかまれ、そのまま後ろの地面に突き飛ばされる。体をしたたか打ちつけて、一瞬思考が飛んだ。

 (なんか、前にも、こんなことが……って!)

 「めっ……!?」

 麗麗の前には、冥焔がいた。

 「なにしてんですか! さっさと逃げてくださいよっ!」

 「できるか大馬鹿者!」

 冥焔はぶち切れながらも目の前の男たちを鮮やかな足蹴りで地に沈めていく。だがしかし、圧倒的に数が多い。

 「くそっ……走れ、女官!」

 すっ転がっていた麗麗の襟首を再びつかみ上げ、冥焔が突き飛ばした。その勢いに押されるように、麗麗は駆け出した。その隣を冥焔も走る。どっちへ行けば、など考えている余裕はない。とにかくこの場を離れなければという一心で闇雲に駆け続ける。

 だが追手はあきらめない。

 (や、やば、横っ腹が、いっ……)

 無茶な動きをしたからだろう、麗麗の横腹がしくしくと痛み始める。その痛みに気を取られ足元がおろそかになった。踏鞴(たたら)を踏む。その先に木の根が飛び出ている。あっという間に足を取られ──。

 「えっ……」

 ふわり、と体が浮いた。あっと思う間もなく、麗麗の体が重力を伴う。そのとき麗麗の眼下に見えたのは、まごうことなき崖の底である。

 (お、落ちる……!)

 「女官……!」

 冥焔の手が伸びる。つかもうと麗麗も腕を伸ばしたが、とてもじゃないが届かない。

 (あ、これ、死ぬ……!)

 覚悟を決めた瞬間、腕に衝撃。引き戻されるも視界が横に振れ、次の瞬間には背中から地面に叩きつけられていた。

 息が潰れる。肺が一気に空になり、声も出なかった。それでも体は止まらず、そのまま斜面を転がっていく。上下も前後も失われ、世界がばらばらに砕けていく。

 その激しい衝撃の中で、麗麗は誰かに抱え込まれる感触を覚えた。体を引き寄せられ、胸に押しつけられる。

 ──冥焔だ。崖の上から腕をつかみ、離さぬまま追ってきた宦官は、その身で麗麗をかばいながら、共に斜面を滑り落ちている。

 どさり、と音がして、世界が止まった。一拍遅れて、痛みが全身に広がる。だが、致命的なものではない。

 (な、なにが起きた……?)

 目の前には、青灰色の袍が見える。ところどころ擦り切れ、土にまみれた服だ。

 麗麗の頭上で荒い呼吸が聞こえた。一度体を起こした冥焔は、再び強く麗麗を抱き寄せ、崖の土壁に身を寄せた。

 「めいえ──……っ」

 「黙れ」

 鋭い声が飛んだ。強く抱きすくめられ思わず冥焔の顔を見る。宦官は視線で崖の上を示した。人の気配がある。

 「ここに落ちたか?」

 「いや、見えなかった」

 「先へ行ったのやもしれん、行くぞ!」

 足音が遠ざかっていくのを確認し、ようやく冥焔は息を吐いた。

 「……もう少しここにいたほうがよさそうだ」

 「は、はい」

 冥焔は、まだ回した腕を離さない。麗麗を抱きすくめたまま息を殺している。その胸に麗麗を抱いているという事実に気づいていないのかもしれない。

 麗麗は敢えてなにも言わなかった。

 回された腕の温度が温かい。押しつけられた胸からはかすかに鼓動が聞こえている。

 (……生きてる)

 強烈な安堵と、激しい怒りとも思える感情が麗麗の胸に込み上げる。ぐちゃぐちゃになった感情の行き場を逃がすように麗麗は拳を握りしめ──、冥焔の胸をどんっと殴った。

 「痛っ……おい、なにを──」

 「ふざけんじゃないですよ……っ」

 声が震える。

 「なにやってんですか冥焔様。あんなやつらに捕まったりして馬鹿なんじゃないですか」

 これには冥焔もむっとしたようで、体に回された腕の力が強くなる。

 「馬鹿はお前だ、女官」

 冥焔の少しかすれた声が頭上から聞こえる。

 「なぜあんな無茶をした。わかってるのか、殺されるところだったんだぞ」

 「うるさいですよ……!」

 回された腕が痛いのか、胸が痛いのか、麗麗にはわからない。とにかくすべてが痛かった。麗麗は怒りに任せ、冥焔の腕を振り払う。

 「もう私やってられません。こんなこと、二度と御免ですからね!」

 「おい、女官……!」

 声の大きさに焦ったのだろう。冥焔は麗麗の肩をつかんだ。そのまま顔をのぞき込み、ぎょっとしたように目を見張った。

 その冥焔の表情で、自分がひどい顔をしているのだと気づく。きっと今にも泣き出しそうな顔をしているのだろう。しかし、取り繕う余裕なんてなかった。ほんの少しでも油断したら、この涙腺はあっという間に決壊する。泣いてたまるかと麗麗は歯を食いしばった。

 冥焔は麗麗の肩から手を離すと、一度大きく息を吐く。

 「……捕まるとは思っていなかったのだ」

 「でしょうね。聞きました」

 「聞いたって、誰から」

 「主上に」

 瞬間、冥焔の顔から表情が消えた。一瞬にして冷気を身に纏った宦官は、鋭い声で言葉を落とした。

 「まさか、大家はまだ俺を探しているのか?」

 「当たり前でしょう」

 冥焔の声が一段と低くなる。

 「……無駄なことをする」

 (んだとこのやろ!)

 ただでさえ不眠不休で駆けつけ、そのうえで過酷な運動をこなし、さらに(自業自得だが)崖から転落した今、体力的にも精神的にも限界が近いのである。そのうえでのこの発言。丈夫でない堪忍袋の緒はゆですぎた素麺のようにやわやわだ。

 「……心配してる人の気持ちをもっとお考えになってはいかがですか」

 「宦官など所詮使い捨てにすぎん。『よくやった』と口で言い、切り捨てるのが賢い選択だ」

 「それが嫌だから主上は冥焔様をお探しになったんですよ。冥焔様だって、主上がお優しい方だってわかっているでしょう」

 「それとこれとは話が別だ」

 冥焔の表情は変わらない。

 「すでに死人のようなものを助けたところでなんになる。捨て置けばよかったと言っているのだ」

 (はあっ!?)

 この宦官はよくもまあ、そんな発言ができたものだ。『冥焔をあきらめない』と宣言した皇帝の気持ちをまるっと無視した言い草に、さすがの麗麗もぶち切れた。

 「いい加減に──!」

 思わず激昂しかけた麗麗の言葉を遮るように、冥焔は口火を切った。

 「愚かな男の話をしよう。とある国の皇帝の話だ」

 唐突な言葉に、麗麗は息を呑んだ。

 「その皇帝の母は毒婦でな。ありとあらゆる悪事に手を染めていたと言われていた。特にひどかったのは巫蠱(ふこ)に傾倒していたことだ」

 巫蠱とは、呪術の総称だ。主に人を呪う行為を指す言葉である。

 「そのせいで一時期後宮は大荒れに荒れた。というのも、皇帝の母は、自分の息子──東宮を登極させたくなかったようなのだ。毒婦は息子に恐ろしいまでの執着心を抱いていた。だから、息子が皇帝になるのが耐えられなかった。皇帝になれば後宮に女を囲う。それが許せぬと」

 (ん!?)

 もしかしたら、これはそういう話(・・・・・)なのではないか。白蓮妃の言っていた、『本当の名』、冥焔の『お前はなにも聞かないのだな』という発言。そして黎蘭妃の『冥焔の正体』という言葉……。

 「登極したばかりの息子は母を疎んじた。怪しげな術を使い、暴言を吐き、混乱を招く方だ。この方を皇太后と呼ばせてはならぬと強く思った。後宮内に怪異が蔓延(まんえん)し始めたのもその頃だ。人々はそれを『皇太后の呪い』と呼び、実害も出始め、なおのこと皇太后におびえ始めた。そして、その折、臣下からもたらされた讒言(ざんげん)を息子は信じた」

 冥焔は一度言葉を区切る。

 「処刑を決めた。これ以上この方を生かしておけば、暗黒の世となると」

 (やっぱり!)

 龍帝の話だ。それをこの宦官の口が語るということは、つまり。

 「臣下の言葉を鵜呑(うの)みにし、皇帝は皇太后を殺した。周囲には自殺だと言えと命じた。実母を処刑したという事実を知られるのは治世に影響が出ると思ったのだ」

 この国は先祖を特に大切に扱う。その風習を鑑みると、たとえ皇帝とはいえ実母の処刑は後ろ指を刺されかねない。

 「だが、それが間違いだった……」

 歯を食いしばり、冥焔は唸った。激情をこらえているかのように拳を握りしめ、眉間に深いしわが寄る。

 「間違いだと、先ほど、わかった……! 今になって、愚かな男は気づいたのだ。すべて己の過ちだったのだと!」

 ぎょっとした。冥焔の顔は、憤怒に染まっている。目には底冷えのする光を湛え、白い顔がゆがむ。噛みしめた唇はぷつりと裂け、みるみるうちに血の玉が浮かんだ。

 「皇帝の見ていたものはなんだ。信じていたものはなんだったのだ。だから騙されるのだ。臣下が蛇であることも見抜けなかった間抜けだ。それどころか、その間抜けはまんまと実の母を、蛇の讒言で殺した! そんな愚かな男だから天意を失ったのだ!」

 (やばい!)

 我を忘れるほどの怒りが宦官の胸に飛来しているのだろう。

 咄嗟に、止めなければと感じた。今はいい。だが、宦官が我に返ったときにどうなる。こんな事情まで話してしまったと後悔することになりやしないか。

 冥焔に、こんな表情をさせてはいけない。これ以上話させてはならない。

 麗麗は冥焔の拳に自分の手を重ねた。冥焔の手は固く握りしめられ、細かく震えている。

 「天意を失い、俺は一度死んだ。死んだと思った。だが死ねなかった。死すらも俺を拒むのだ。俺ひとりが、生からも死からも拒絶された。こんな愚かな畜生が、この先どうやって生きていく?」

 「冥焔様!」

 麗麗の言葉は届かない。冥焔の瞳は過去を映し、その憤怒は己に向けられ、握りしめた拳には爪が食い込み血が滲む。

 「あのとき死ねばよかったのだ。尊厳を失ってまで生きながらえてどうすると何度も自問した。それでも浅ましくも俺は生きたいと思ってしまった……!」

 「冥焔様……!」

 「今もそうだ! あのまま死ねばよかった! 生き恥をさらしてもなお、息をしている自分が許せぬ! 俺は、俺など、死ねば──!」

 これ以上聞いていられない。

 麗麗の手が不穏に動き、そしてぱんっと乾いた音が山中に響いた。

 「……っいい加減にしろっつってんですよ!」

 頬を張った手のひらが痛い。けれどこんなもので許してたまるものか。

 麗麗は両の手を伸ばし、宦官の両頬を正確に捕らえた。手のひらの(しび)れをじわりと感じながら、麗麗は目の前の宦官をにらみつけた。

 「冥焔様なんて! 冥焔様なんてこうしてやる!」

 「お、おひっ……」

 焦ったように冥焔が麗麗の手を外しにかかる。

 させてなるものか。この麗しい顔をぐっちゃぐちゃにしてやるという勢いで、麗麗は冥焔の両頬をむぎゅっと潰した。

 「冥焔様は本当に馬鹿です。馬鹿野郎ですよ! もう救いようのないほどの大馬鹿者……っ」

 「や、やめほっ……」

 「生きててよかったね! 助かってよかったね~っ、でいいじゃないですか! それなのにぐっじぐっじぐっじぐっじ! 死ねばいいとかほんと、なに言ってんだって話なんですよ!」

 「ほい、ひょかんっ」

 「いいですか! 冥焔様の過去なんてほんっとどーでもいいんです!」

 その言葉に、冥焔はぎょっと目を見開く。麗麗は冥焔の両頬から手を下ろし、そのまま自分の服の裾をつかんだ。『こらえろ、こらえろ』と必死に自分に言い聞かせる。

 「どうして、冥焔様を大切に思っている人の気持ちを、考えてくださらないんですか」

 冥焔をあきらめない、と言った皇帝を思い出す。ここから先はだめだと告げたときの、自分を責めるような表情を麗麗は決して忘れない。本当はなにもかもなげうって、助けに行きたかったに違いないのだ。それに。

 「わ……っ、私だって……っ」

 (やばい……っ)

 ぐっと喉が詰まる。口に出したら、もう止まらなかった。麗麗の両の目から涙が落ちる。

 「私だって……!」

 もう会えないのかと思った。何度もその体が刃に倒れるところを想像し、胸を貫かれるような痛みに襲われた。

 (くっそお……!)

 なにも言えず、麗麗は俯いた。服の裾を握りしめていた手が冥焔によってそっと外されても、その手をそのまま握られてもなにもできない。迫りくる感情のまま、麗麗は嗚咽を繰り返す。

 「……なぜ泣く」

 (知らないよ!)

 ぼろぼろに決壊した涙腺に聞いてくれ。

 握りしめられていた手がくいと引かれ、引き寄せられた。冥焔の手のひらが、おずおずと背中に回った。

 「……悪かった」

 「遅いです」

 「すまなかった」

 「許しません……!」

 もう自分の感情がぐちゃぐちゃだ。

 「冥焔様にはいっぱい文句があるんですから。私、本当に恨んでるんです。どんなに文句を言っても言い足りません……」

 「そうか」

 「勝手に死なれては困るんですよ」

 「善処する。だからもう泣くな」

 そのまま、とん、とんと麗麗の背中をゆっくりと叩く。麗麗を落ち着かせようとしているのだ。不器用な動きに、じわりと心に温かいものが広がっていく。

 「あの、冥焔様……」

 「嫌か」

 「……いえ」

 嫌ではない。だからされるがままになっている。冥焔は吐息だけで笑ってみせた。

 「──昔、母がよくこうしてくれた。お前のように泣きじゃくっているときにな」

 「……冥焔様が泣きじゃくるって、想像つかないんですが」

 「よく泣いていたぞ。夜が来るのが怖かったのだ」

 麗麗は腕を上げた。宦官の背中に腕を回し、固い体を抱きしめた。宦官が、驚いたように体を跳ねさせる。それを無視して、麗麗は言葉を落とした。

 「冥焔様にとっておきのことを教えて差し上げます」

 麗麗は顔を上げ、冥焔の顔を間近で見る。

 「私だって、死んでます」

 「……なんだって?」

 「私は死にました。死ぬ直前、強く思いました。死にたくないと。そしたら、いつの間にかこの体になっていました」

 佐々木愛子が倒れる瞬間を、それほど鮮明に覚えているわけではない。けれど、強烈なまでの生への執着があったのは事実だ。死にたくない。もっと生きたかったと願った。そして転生したときは、戸惑いこそあれ、安堵の気持ちも強かった。ああ、まだ生きられる。まだ生きてていいのだと。

 麗麗は今度こそしっかりと、冥焔の胸に自らの頬を押しつけた。

 「女官、なにを」

 焦るように体を離す冥焔を逃がしてなるものかと、回した腕に力を込める。

 「鼓動が聞こえます」

 「鼓動……」

 「いいですか、鼓動が聞こえるということは、つまり冥焔様は生きていらっしゃるのです」

 「…………」

 冥焔は黙っている。

 「冥焔様、指を私の耳下に当ててください」

 麗麗は腕を下ろした。そのまま宦官の腕を取り、自らの耳の下に五指を当てさせる。

 「鼓動です」

 「……ああ」

 「私も生きています」

 冥焔の指先はほんのりと冷たい。その冷たさに一度落ち着いたはずの涙が出そうになって、麗麗はそれをぐっと呑み込んだ。

 「仮に冥焔様が一度死んでしまったのだとしても、今は生きておられます。私も死に、そしてこの体を得ました。そのことを幸運だと思いこそすれ、浅ましいと嘆くだなんてとんでもない。だって、死んだらそれまでなんですから」

 冥焔はなにもしゃべらない。ただ黙って、麗麗の耳の下に指を当て続けている。

 「もしかして、信じられませんか」

 「いや」

 麗麗の耳元から指を離し、冥焔は己の指先を見つめた。そして視線を上げ、まっすぐに麗麗の双眸を見る。

 「お前はこういうとき、嘘をつかない」

 その黒々とした瞳には、いつもの冥焔の落ち着きが戻っている。

 (よかった)

 「冥焔様。私、思うんですけど」

 「……なんだ」

 「生きとし生けるものは皆、生を全うするために生きようとするものです。息を吸うのはなぜですか、生きるためです。食事をするのだって、寝るのだって、生きるためでしょう。体のあらゆる機能が〝生〟を求めている。それが命というものです。だから……生きたいと強く願い、決して命をあきらめないこと。それこそが〝天意〟なのではないですか」

 冥焔は驚いたように麗麗を見つめた。

 「お前は……本当にわからない女官だな」

 「なんのことですか」

 「だが、俺も、俺がわからない」

 「どうしたんです?」

 支離滅裂だ。もしかして、崖から落ちたときに頭でも打ったのだろうか。

 複雑な表情をした冥焔は、麗麗に手を伸ばした。指先が麗麗の頬をかすめる。

 「ふおっ!」

 宴の夜についた傷をするりと撫でられ、麗麗は思わず身を引いた。

 「この傷、弩か。痕が残らねばいいが」

 (び、び、びっ……)

 びっくりした。今のは完全に不意打ちだった。驚きすぎて、心臓がばくばくと鳴っている。

 「め、冥焔様……」

 「なんだ」

 「そういうの、本当に、心臓に悪いので、他の人とかにやらないほうがいいですよ」

 こんなのを食らったら、ただでさえめろっている方々が、さらにめろられてしまうに決まっている。

 真剣に案じた麗麗に冥焔は苦笑する。

 「やらん。お前だけだ」

 それはそれでどうかと思う、という言葉を麗麗は呑み込んだ。

 なにはともあれ、立ち直ってくれたようでなによりである。

 冥焔は肩をすくめると、立ち上がる。麗麗を見下ろし、ふと真顔になった。

 「お前は今でも、俺を冥焔と呼ぶのだな」

 「当たり前でしょう」

 本当に何度も何度も同じことを言わせないでほしい。

 確かに先ほどの冥焔の言葉で、ある程度の察しがついた。思うところがないわけではない。だがそれはそれ、これはこれ。

 「冥焔様は冥焔様です」

 その答えに満足したらしい。冥焔は目を細め、ゆっくりと微笑した。

 「帰るぞ、麗麗」

 「はい、冥焔様」

 すでに夜。天を仰げば、木々の隙間からは満天の星だ。

 龍極星の幽かな光を捉え、ふたりは一路、足を北へと向けた。