後宮のガリレオ2

 ◇◇◇

 山中に向かうには馬はむしろ邪魔である。馬を降り配下に預け、男は久しく踏み入れていなかった山の中へと足を進めた。ついて歩く配下たちは声をかけてこない。男がひどく不機嫌なのを察しているのだ。

 族誅の勅が出たと聞く。想定の範囲内だったとはいえ、その速度に驚いた。急ぐ必要がある。宮城の兵がこの場所を探し出す前に、事を起こさねばなるまい。

 娘の玲沙から策が出たのは、入内が決まったすぐあとである。初めは馬鹿馬鹿しいと感じた。もしや情が湧いたかと思っていたが、よく考えれば筋は通っている。だからこそこの話を進めるようにと指示したし、そのための準備も行った。

 血だのなんだの馬鹿馬鹿しいが、うるさい連中はいるものである。その愚かな者たちを黙らせる、よい手だと思ったのが運の尽きだった。

 男が望むのはこの国の頂点だ。妹が寵妃となったあの日から、男は常に頂点を見据えて生きてきた。

 理由はいくらでも用意できる。そのすべてがもっともらしく、論理的に説明せよと乞われればひと晩だって語りつくしてみせよう。しかし、真実からはほど遠い。

 飢えている虎の目の前に肉を差し出せばどうなるかということだ。男の目の前には肉があった。それも、極上の肉である。だから食う。それだけの理由だ。

 だがしかし、この体たらくである。あの娘も、そして娘の甘言を一時でも信じた自分自身も、腹立たしくて仕方がない。

 (策は失敗だ!)

 秘密裏に行われるはずだった拉致が明るみに出た時点で、負けはもう決まったようなものだった。だがしかし、今から向かう先で捕縛された男が本物の皇帝であれば話は変わる。

 焱はまだ混乱期。皇帝・恩雲を捕らえて、若き皇帝の不甲斐(ふがい)なさを説き、国を変えるのだと熱弁を振るい愛国の士として振る舞ってみせよう。そして、宮城の兵の前で恩雲を殺すのだ。

 強者こそがすべてのこの国において、黒が白に変わるのは間違いない。愚かな宮城の者たちも、内心の憤りを抑え勝者に頭を垂れるだろう。波乱の道ではあるが、皇帝として自分が頂点に立つことは可能である。

 しかし、万が一皇帝が偽物だったらと考えると腸が煮えくり返るようだ。

 その場合、男の一族はただの反逆者となり果て、逃げるだけの人生が待っている。そんなことは断じて御免だった。

 配下のひとりでも切り殺せばさぞ気持ちが晴れるだろうが、男の周囲にいる者たちはそんな主の気性を知り尽くしている。不敬がないようにと気を張り詰めているのが見え、その事実もまた、男をより苛立たせるのである。

 (失態があればすぐにでも手打ちにしてやれるものを)

 そこまで考え、男は口の端をゆがめてみせる。

 いや、失態などいらぬ。配下の命など虫けらと同じだ。捕らえた男が皇帝ではなかったらすぐにでも殺してやろう。理由はあとからいくらでもつければいいのだ。

 黒々とした心を抱えながら男は急ぎ歩く。視界が開け、ひっそりと建つ庵が見える。扉の前で警戒をしていた配下の者が、男を見て深い礼を取った。

 「こちらです、玄策(シェンヅァ)様」

 男──玄策は視線を周囲に飛ばした。

 「玲沙はまだ着いておらんのか」

 「はい。こちらには皇帝ただおひとりをお連れしております」

 玄策の不機嫌を感じ取ったのであろう、配下は目を伏せ、ひたすら地を見つめている。その卑屈な態度が気に食わない。今すぐこの場で殺してやろうか。

 「もし皇帝でなかったら、わかっているだろうな」

 「は……はい」

 玄策は扉をにらみつけた。その扉には見慣れない差込口がついている。

 「これはなんだ」

 「は、これは、その、小姐の指示で」

 「玲沙の?」

 「は、はい。皇帝に不敬があってはならぬと小姐はおっしゃっておりまして。それで、急ぎ作りました」

 強烈な舌打ちが漏れる。怒りでどうにかなりそうだ。びくりと体を震わせた男に苛立ちながら、玄策は吐き捨てるように言葉を放った。

 「あの小娘が……」

 腹が立つ、腹が立って仕方ない。

 「(はら)ませるだけの畜生に餌を与える道理がどこにある!」

 「小姐にも、お考えが──」

 「その小娘のせいですべてが終わるのだぞ。羅帝のときも、龍帝のときもうまくやっていたのだ。それを、あの愚かな小娘が……!」

 玄策は獰猛な笑みを浮かべた。

 「皇太后──瑞真は実に使い勝手がよかった。派手に動いてくれたおかげで世論はすべてこちらに転んだ。怪しげな術だの、人を呪っただの愚民どもの想像力にはいつも助けられる。本当は、ただ羅帝や息子を救おうとあがいていただけだというのにな。まったく哀れで、滑稽な女だった」

 「玄策様……」

 「だがもっとも愉快なのは、その実の息子に処刑されたという事実だ。こんなにおもしろいことはあるか? ないだろう。大笑いしたものだ。しかし……!」

 足を振り上げ、玄策は目の前の配下を蹴り飛ばした。

 「私も瑞真と同じ道を辿るのだ! 我が子に足を(すく)われた。龍帝と同じ愚を、わが娘が……!」

 「玄策様……! おやめください!」

 止めに入った別の配下を殴り飛ばそうと、玄策が拳を握りしめたときである。

 最初に違和に気づいたのは、配下だった。鼻先に不穏な香りを感じ、振り向いたその男は大声をあげた。

 「火事だ……!」

 皇帝を捕らえていた庵の、明かり取りの窓からもうもうと煙が立ち昇っているのである。

 配下たちは悲鳴をあげた。

 「なぜ!? 火種などなかったはずでは!」

 「そんなことを言っている場合ではないだろう!」

 玄策は配下をもう一度蹴り飛ばすと、唾を飛ばしながら激昂(げっこう)する。

 「早く消せ!」

 こんなところで皇帝が焼け死んだとなれば、玄策の最後の策すら破綻する。まずはこの火を消し止め、皇帝の真偽を確かめねばと焦りが募った。

 「玄策様、お下がりください!」

 配下が玄策をかばう。別の配下がぎくしゃくとした動きで、戸に下ろされていた(かんぬき)を外す。その瞬間──。

 戸が勢いよく開く。中に立っていた〝皇帝〟は眼光鋭く目の前の配下めがけて手にした薪を大きく振りかぶった。

 頭に一打。続けざまに腹に二打。そこで配下の足が崩れた。地に倒れ伏した男には目もくれず、〝皇帝〟は続けざまに薪を振るい、次々と配下を地に沈めていく。

 そこで、〝皇帝〟はようやく腕を下ろした。

 「……まさか」

 その姿を見て、玄策は今度こそ言葉を失う。

 そこにいたのは、名も知らぬ身代わりの男でもない。そして皇帝──甥の恩雲でもない。だが彼がよく知る、別の人物がその場に立っていたのである。

 〝皇帝〟はなにも言わなかった。氷のような表情に感情は一切映らない。ただ、底光りする不気味な色を湛えた双眸で、玄策を射殺さんばかりに見据えていた。

 玄策の体が震えた。圧倒的王者の風格が〝皇帝〟にはあった。

 「あ、あなたは……死んだはずでは──」

 〝皇帝〟はその声には答えず、玄策から視線を外した。薪をその場に捨て、背を向けてゆっくりと歩き始める。

 手は出せなかった。とてもではないが、あの背中に切りかかることはできなかった。凄まじいまでの怒気を孕んだ〝皇帝〟は、まるで玄策など見えなかったかのようにその場をあとにする。

 玄策が立ち尽くしていたのは、ほんのわずかな刻であった。

 「──えろ……」

 地に伸びていた配下を蹴り飛ばし、無理やり起こす。

 「捕らえろ! あの男を逃すな……!」

 「はっ?」

 「龍帝だ! あやつ、生きていたぞ……!」