◇◇◇
(昼を過ぎたか)
冥焔は体を起こし、かろうじて設けられている明かり取りの天窓を見上げた。燦燦と差し込む日差しは強い。意識を失っていた数刻を抜きにしても、冥焔の体感ではこの場所に連れてこられてからおおよそ半日以上が経っている。
庵のようだった。山中で採れた薪材を保管しておく場所らしく、狭い房の壁側に積み上げるようにして乾燥した木の枝や幹、焚きつけようの細かな木くずが置かれている。
周囲の壁は石造りである。扉は木製でずっしりと重く、外から鍵がかけられる構造のようだ。食べ物やその他のものを差し入れるためだろう、扉の下部には急ごしらえで作ったらしい差込口が設けられていた。
外には見張りの男たちが交代で立っており、厳重な警戒態勢が敷かれているのがわかる。だからだろう、冥焔の体は拘束されておらず、比較的自由に動ける状態で放置されている。
それにしても意外だった、と冥焔はひとりごちる。
(てっきりすぐに殺されるとばかり思っていたが)
目覚め、自分が見知らぬ庵へと押し込められていることに気づいた冥焔が最初に考えたのは、体罰を伴う尋問である。
貴人が悪漢に連れ去られた場合、大体は暴力を振るわれるものである。力の差を見せつけ、屈服させ、自分に逆らえば命がないと思わせる。それから話を聞き出すなり、身の安全と引き換えになにかしらの要求を通すなりするものだ。
だから、冥焔も最初はそれを警戒した。今はまだ皇帝だと信じられているようだが、体に触れられ、暴力を振るわれたら偽物だと気づかれてしまう。その場合はすぐに殺されるだろうとある意味諦観していたのだが、実行犯たちは冥焔を閉じ込めたまま手を出してこないのである。
それどころか、かなり待遇がいいのだ。押し込められた場所はともかくとして、夜間用の錦被が用意されていたり、湯気の立つ食事が運ばれてきたりする。
これ幸いと、冥焔はここぞとばかりに無理を言った。どの程度〝皇帝〟の言葉を重視するのか判断するためだ。『この布は好みではないから取り換えろ』『食事を毒見しろ』『冷たい飲み物が欲しい』などさまざまなわがままを言ってみたところ、すべて叶えてもらえたのだから驚きである。
これは、よほど強い命令を受けているのだろうと冥焔は確信した。『手を出すな』と言われているのだ。『皇帝に触れてはならぬ』『皇帝として扱い、気を配るように』と厳命されているに違いない。
しかし、その手もそろそろ使えなくなってきているようである。先ほどまで丁寧だった不届き者たちの態度にほんの少しの粗雑さを感じたのだ。
扉の外の話を盗み聞きしたところ、どうやら彼らは、攫った人物が偽物の可能性に気がついたようだった。
『偽物だ、殺したほうが』という話が出る一方で、『まだわからん。もしかしたら宮城にいる皇帝が替身の可能性もある。そういう話を聞いた』と言い出す輩も出ており、仲間内でかなり意見が割れている。
(あの人は、本当に知恵が働く)
どうやら恩雲がうまくやっているらしい。わざと方々に噂を流したに違いない。
実は本当に皇帝が攫われていて、宮城にいるのは替身である、混乱を避けるために皇帝のふりをさせているのだ、と吹聴すれば、おもしろがった人たちはあっという間にその話を広めてくれるだろう。
それがこちらの耳に入れば、冥焔の命は多少長くなる。あの手この手でなんとかして生きながらえさせようとしてくれているのが、手に取るようにわかった。
(放っておけばいいものを……)
冥焔は再び座り込むと、背後の薪束に体を預けた。
馬鹿な人だ。自分のような者を助けるために、きっと今も無茶を言ったり、したりしているに違いない。
(ん?)
扉の向こうがにわかに騒がしくなる。見張りが入れ替わるのかと思ったが、どうやら様子が違うようだ。足音を殺し、冥焔は扉のすぐ近くに侍った。耳を寄せると、見張りたちの緊急性の高い声がひそやかに届く。
「──様が、もうすぐこちらに到着する」
「──れで、本物か偽……かわか……だろう」
背中を冷たい汗が滑り落ちるのがわかった。
(あの男が来る!)
玲沙妃の父、皇帝の叔父。そしてかつて自分の臣下だったあの男が、この場に来る。
(まずい)
顔を見られたら、冥焔の存在が明らかになる。今の自分とかつての自分を繋げられる、ほとんど唯一の人物だ。その男とだけは、顔を合わせてはいけない。
ごくりと喉が鳴った。
(……考えろ)
決して命を惜しんでいるわけではない。一度けちがついた命だ、この場で散らすのはかまわない。だがしかし、それは殺されることが前提であればの話である。
ただの宦官として死ぬのはかまわない。だが、冥焔が一時でも別の名で呼ばれ、その名を冠して再度死ぬのは断じて避けなければならなかった。自身の大切な弟弟のためにも、その彼が治める国のためにも──!
房の内部を見る。天井近くに明かり取りがあるだけで、他に出口らしいものはない。その明かり取りもかなり狭く、とてもではないがそこから出られるという代物ではない。床は石床だ。これでは土を掘り、逃げ出すことも叶わない。
薪はあるが、強度が足りない。これを使って扉を破るのは不可能だ。
(なにかあるはずだ、なにか……)
そのとき、なにかに呼ばれたような気がした。ふと顔を巡らせると、そこには先ほど冥焔が“わがまま”を言い、無理やり運ばせた冷たい水がある。その水に浮いているのは──。
──『嘘だって言われたんで。嘘じゃないってのを見せてやろうかと思って』
あの小憎らしい、口の減らない、生意気な女官の顔がふっと浮かんだ。知らず知らずのうちに冥焔の口元に笑みが浮かぶ。
(お前はいつも俺の頭の中に出てくるのだな)
なぜあの女官を思い浮かべてしまうのか、冥焔にはわからない。
(けれど、今回ばかりは感謝するぞ、女官)
こんなものがすぐ出てくるのだ、近くに貯蔵している場所があるに違いない。賭けてみる価値はありそうだ。
さて、と冥焔は体を伸ばし、立ち上がると扉に大股で近づいた。激しく戸を打ち鳴らすと、何事かと焦りを含んだ声が返ってくる。冥焔はことさら大声で怒鳴りつけた。
「氷が溶けたぞ。新しいものを所望する」
「こ、氷でございますか」
「朕にこのようななまぬるいものを飲めというのか。即刻運べ。溶けぬよう、大きなものを所望する!」
扉の向こうでは逡巡する気配がある。
「どうする。本物じゃないなら聞く必要は──」
「いや、小姐の命令は絶対だ。取りに行くぞ」
果たしてすぐさま氷が運ばれた。扉の下部に設けられた差込口から、椀に入った氷が差し込まれる。冥焔はその椀を取ると、ごくりと喉を鳴らした。
本当に、これでできるのだろうかと疑惑が浮かぶが、すぐさま打ち消した。
(女官は嘘を言わない)
冥焔の目に力が宿る。
(その信念、見せてもらうぞ、女官……)
(昼を過ぎたか)
冥焔は体を起こし、かろうじて設けられている明かり取りの天窓を見上げた。燦燦と差し込む日差しは強い。意識を失っていた数刻を抜きにしても、冥焔の体感ではこの場所に連れてこられてからおおよそ半日以上が経っている。
庵のようだった。山中で採れた薪材を保管しておく場所らしく、狭い房の壁側に積み上げるようにして乾燥した木の枝や幹、焚きつけようの細かな木くずが置かれている。
周囲の壁は石造りである。扉は木製でずっしりと重く、外から鍵がかけられる構造のようだ。食べ物やその他のものを差し入れるためだろう、扉の下部には急ごしらえで作ったらしい差込口が設けられていた。
外には見張りの男たちが交代で立っており、厳重な警戒態勢が敷かれているのがわかる。だからだろう、冥焔の体は拘束されておらず、比較的自由に動ける状態で放置されている。
それにしても意外だった、と冥焔はひとりごちる。
(てっきりすぐに殺されるとばかり思っていたが)
目覚め、自分が見知らぬ庵へと押し込められていることに気づいた冥焔が最初に考えたのは、体罰を伴う尋問である。
貴人が悪漢に連れ去られた場合、大体は暴力を振るわれるものである。力の差を見せつけ、屈服させ、自分に逆らえば命がないと思わせる。それから話を聞き出すなり、身の安全と引き換えになにかしらの要求を通すなりするものだ。
だから、冥焔も最初はそれを警戒した。今はまだ皇帝だと信じられているようだが、体に触れられ、暴力を振るわれたら偽物だと気づかれてしまう。その場合はすぐに殺されるだろうとある意味諦観していたのだが、実行犯たちは冥焔を閉じ込めたまま手を出してこないのである。
それどころか、かなり待遇がいいのだ。押し込められた場所はともかくとして、夜間用の錦被が用意されていたり、湯気の立つ食事が運ばれてきたりする。
これ幸いと、冥焔はここぞとばかりに無理を言った。どの程度〝皇帝〟の言葉を重視するのか判断するためだ。『この布は好みではないから取り換えろ』『食事を毒見しろ』『冷たい飲み物が欲しい』などさまざまなわがままを言ってみたところ、すべて叶えてもらえたのだから驚きである。
これは、よほど強い命令を受けているのだろうと冥焔は確信した。『手を出すな』と言われているのだ。『皇帝に触れてはならぬ』『皇帝として扱い、気を配るように』と厳命されているに違いない。
しかし、その手もそろそろ使えなくなってきているようである。先ほどまで丁寧だった不届き者たちの態度にほんの少しの粗雑さを感じたのだ。
扉の外の話を盗み聞きしたところ、どうやら彼らは、攫った人物が偽物の可能性に気がついたようだった。
『偽物だ、殺したほうが』という話が出る一方で、『まだわからん。もしかしたら宮城にいる皇帝が替身の可能性もある。そういう話を聞いた』と言い出す輩も出ており、仲間内でかなり意見が割れている。
(あの人は、本当に知恵が働く)
どうやら恩雲がうまくやっているらしい。わざと方々に噂を流したに違いない。
実は本当に皇帝が攫われていて、宮城にいるのは替身である、混乱を避けるために皇帝のふりをさせているのだ、と吹聴すれば、おもしろがった人たちはあっという間にその話を広めてくれるだろう。
それがこちらの耳に入れば、冥焔の命は多少長くなる。あの手この手でなんとかして生きながらえさせようとしてくれているのが、手に取るようにわかった。
(放っておけばいいものを……)
冥焔は再び座り込むと、背後の薪束に体を預けた。
馬鹿な人だ。自分のような者を助けるために、きっと今も無茶を言ったり、したりしているに違いない。
(ん?)
扉の向こうがにわかに騒がしくなる。見張りが入れ替わるのかと思ったが、どうやら様子が違うようだ。足音を殺し、冥焔は扉のすぐ近くに侍った。耳を寄せると、見張りたちの緊急性の高い声がひそやかに届く。
「──様が、もうすぐこちらに到着する」
「──れで、本物か偽……かわか……だろう」
背中を冷たい汗が滑り落ちるのがわかった。
(あの男が来る!)
玲沙妃の父、皇帝の叔父。そしてかつて自分の臣下だったあの男が、この場に来る。
(まずい)
顔を見られたら、冥焔の存在が明らかになる。今の自分とかつての自分を繋げられる、ほとんど唯一の人物だ。その男とだけは、顔を合わせてはいけない。
ごくりと喉が鳴った。
(……考えろ)
決して命を惜しんでいるわけではない。一度けちがついた命だ、この場で散らすのはかまわない。だがしかし、それは殺されることが前提であればの話である。
ただの宦官として死ぬのはかまわない。だが、冥焔が一時でも別の名で呼ばれ、その名を冠して再度死ぬのは断じて避けなければならなかった。自身の大切な弟弟のためにも、その彼が治める国のためにも──!
房の内部を見る。天井近くに明かり取りがあるだけで、他に出口らしいものはない。その明かり取りもかなり狭く、とてもではないがそこから出られるという代物ではない。床は石床だ。これでは土を掘り、逃げ出すことも叶わない。
薪はあるが、強度が足りない。これを使って扉を破るのは不可能だ。
(なにかあるはずだ、なにか……)
そのとき、なにかに呼ばれたような気がした。ふと顔を巡らせると、そこには先ほど冥焔が“わがまま”を言い、無理やり運ばせた冷たい水がある。その水に浮いているのは──。
──『嘘だって言われたんで。嘘じゃないってのを見せてやろうかと思って』
あの小憎らしい、口の減らない、生意気な女官の顔がふっと浮かんだ。知らず知らずのうちに冥焔の口元に笑みが浮かぶ。
(お前はいつも俺の頭の中に出てくるのだな)
なぜあの女官を思い浮かべてしまうのか、冥焔にはわからない。
(けれど、今回ばかりは感謝するぞ、女官)
こんなものがすぐ出てくるのだ、近くに貯蔵している場所があるに違いない。賭けてみる価値はありそうだ。
さて、と冥焔は体を伸ばし、立ち上がると扉に大股で近づいた。激しく戸を打ち鳴らすと、何事かと焦りを含んだ声が返ってくる。冥焔はことさら大声で怒鳴りつけた。
「氷が溶けたぞ。新しいものを所望する」
「こ、氷でございますか」
「朕にこのようななまぬるいものを飲めというのか。即刻運べ。溶けぬよう、大きなものを所望する!」
扉の向こうでは逡巡する気配がある。
「どうする。本物じゃないなら聞く必要は──」
「いや、小姐の命令は絶対だ。取りに行くぞ」
果たしてすぐさま氷が運ばれた。扉の下部に設けられた差込口から、椀に入った氷が差し込まれる。冥焔はその椀を取ると、ごくりと喉を鳴らした。
本当に、これでできるのだろうかと疑惑が浮かぶが、すぐさま打ち消した。
(女官は嘘を言わない)
冥焔の目に力が宿る。
(その信念、見せてもらうぞ、女官……)



