後宮のガリレオ2

 木の洞に落ちたアリスだってこんな長く地下には降りまいと思うほどの時間をかけて梯子を下りると、麗麗は底に足を着く。

 (すっご)

 そこは、地下空洞だった。まるで井戸の底のような風情である。

 むき出しの土壁には()り灯籠がかかっており、淡い光を放っていた。火が燃えているということは、空気がある証左だ。どうやって空気の入れ替えをしているのかはわからないが、どこかに仕掛けがあるのだろう。

 その土壁の一部がくり抜かれ、道が先へと延びている。足元の土はならされていた。しかし、土の様子はまだ新しい。最近造られた空間で、かつ頻繁に誰かがこの道を使っている事実が暗に示されていた。

 麗麗はごくりと唾を飲み、足を踏み出した、そのときである。

 女性ふたりの争う声が、道の先から聞こえてきた。

 (おいおいおい! まじかよっ!)

 麗麗は仰天し、驚いている場合ではないと走り出す。『嘘だろ、まさか』という気持ちで最高速度で走ると、少し開けた空間に着いた。

 今までの土むき出しの通路ではなく、年季の入った石造りの床と壁である。奥には水の流れが見える。水路なのだ。

 その空間で対峙しているのは、ふたりの女性だった。麗麗が飛び出してきた通路を挟む形で、互いににらみ合い、一触即発の空気である。片や、青い顔をした玲沙妃。そしてもう片方は……。

 「黎蘭様……!?」

 (なんでこんなとこにいんの!?)

 麗麗の悲鳴に、女性のひとりが驚いたように視線を向けた。その引き締まった長身を胡服に包み、長い金髪を無造作に束ね、口布をしているが間違いなく黎蘭妃だ。その妃の手にしているものを見て麗麗の頭は思考停止する。

 黎蘭妃は手に光り輝く刃を握りしめていた。そしてその切っ先はまっすぐに玲沙妃に向けられており、刃先の妃の顔は蒼白で今にも倒れそうなありさまだ。

 黎蘭妃が、玲沙妃を襲っている。そのように見えるし、そのようにしか見えない。

 (なにがどうしてこうなった!)

 とにかくなにか言わなければ……。

 「その。……ご機嫌、いかがですか」

 (なに言ってんだこの状況で)

 麗麗は自分に盛大な突っ込みを入れた。

 殺し殺されの場面で、当事者のふたりのご機嫌がいいわけないだろう。それでも気力を振りしぼり、麗麗はさらに声をあげる。

 「おふた方とも、落ち着いて。黎蘭様もそのお手の物をどうかお放しください。もうすぐここに兵が来ますから──」

 麗麗の言葉を遮るように、黎蘭妃は舌打ちをした。瞬間、かの妃の体が沈む。あっという間に距離を詰め、刃を振りかざした。その視線の先には──玲沙妃。

 「ちょっ……!」

 体が動いたのは奇跡だったかもしれない。それをさせてはいけないと判断しての行動ではおそらく間に合わなかったに違いない。麗麗は床を蹴り、一直線に飛び出した。そして、黎蘭妃の腰のあたりに思いきり飛びかかったのである。

 「っ!?」

 この攻撃は黎蘭妃も想像していなかったようだ。麗麗と黎蘭妃は同時に石床の上に転がった。

 衝撃で黎蘭妃の手から刃が落ちる。麗麗はがばっと体を起こすと、その刃に飛びついた。それをさせまいと思ったのだろう、黎蘭妃は続けて起き上がり、一瞬で床を蹴る。しかし、麗麗のほうがわずかに早速い。

 (よっしゃ取った!)

 手中に刃を収めると、麗麗は後ろ手にして隠した。目の前には黎蘭妃が肩で息をしている。相変わらずの無表情で麗麗を見つめているが、その瞳は焦りと激しい怒りの感情に揺れていた。

 「なぜ邪魔をするのです」

 黎蘭妃は瞳を爛々と光らせている。

 「返しなさい。この者を誅せねばなりません」

 その獰猛な目の光に、麗麗は──逆に肝が据わってしまった。こっちはもう、皇帝の命を無視してここまで来ている身なのだ。今さら妃相手に多少の不敬を働いたところで一緒だろう。

 「そもそもなんでこんなことになってんですか」

 「お前に説明する必要はないでしょう」

 「あります」

 麗麗は目に力を込めた。

 「私は、真実を追究する者(ガリレオ)です」

 口にしながら麗麗は自身の言葉に驚いた。自分でもこの名を使ったのが意外だったのだ。

 麗麗のふたつ名である『真実を追究する者』。それは本来、怪異を解き明かす者として与えられた号である。人と人との軋轢(あつれき)に深入りすることは、麗麗の職務ではない。関与してはならないはずだった。

 では、そもそも怪異とはなんなのだろう。怪異は、なぜ起こるのだ。

 (……そっか)

 怪異は、単独では存在しない。

 恐怖、不安、疑念といった人の心的状態が一定条件を満たしたとき、初めて現象として現れる。人の恐怖が存在しなければ、怪異は成立しない。

 怪異とは、人の心だ。

 人の心に踏み込まなければ、真の意味で怪は解けないのだ。

 「私は、主上ならびに冥焔様より賜りました号において、真実を確かめなければなりません。それが私の使命です」

 黎蘭妃は表情を変えない。どこまでも冷たい顔で、麗麗を一瞥すると、視線を玲沙妃へと向けた。

 「それがお前の使命なら、この幽鬼を始末するのが私の役目です」

 黎蘭妃の吐き捨てるような言葉に、玲沙妃の体が震えた。それでも麗麗が引かないと悟ったらしい。黎蘭妃は冷酷な視線を麗麗に向けた。

 「……いいでしょう。お前が〝真実を追究〟するのであれば、私の使命を教えましょう」

 黎蘭妃の視線は逸れない。

 「私は、この後宮を守るために入内しました。先の皇太后、(ルイ)(ジェン)様より依頼を受け、はるばる西方より幽鬼を狩りに来たのです」

 この方は、なにを言っているのだろう。言下の問いを正確に読み取り、黎蘭妃は言葉を重ねる。

 「この国では瑞真様をまるで幽鬼のように扱うのが流行っているようですが──、わたくしは知っています。かの貴人こそがまさしく国の天意でありました。この焱国の行く末を常に考え、幽鬼から国を守るために尽力したのが、瑞真様だったのです」

 麗麗は目の前の妃を見る。妃の瞳は静かだが、そこには確かに真実の光があった。この人は、嘘をついていないと直感でわかる。

 「龍帝が登極される際、まだ皇后であらせられた瑞真様はもとより親交のあった我が国へと書簡を送られました。そこにはこのように記載されておりました」

 黎蘭妃は一度口をつぐみ、記憶を探るように瞳を細めた。そして、再度口を開く。

 「后宫之内(後宮内に) 有鬼出没(幽鬼がいる) 怪异之下(怪異に隠れ) 暗影潜行(暗躍している)

 (幽鬼がいる……?)

 「幽鬼は城を滅ぼすもの。その幽鬼を狩るに最も長けていたのが我が血筋。その功績を認められ、焱より王に封じられたのが我が祖先です。瑞真様が、我が国に助けを求めていらっしゃる。鬼狩りの血を持つ者を後宮へ送れと言っているのだと父母は判断し。、その求めに従ってわたくしの入内を決めました。わたくしは──鬼殺者(ゴーストキラー)。焱に(あだ)なす者を滅ぼすために中央へ来たのです」

 (もしかして……)

 麗麗の頭の中で、ひとつの可能性が浮かんだ。黎蘭妃の言う『幽鬼』とは、麗麗の追っている怪とは少し違う意図で使われているのではないか。

 『──鬼火が現れるのは幽鬼がさまよっている証左です』

 『──幽鬼は鬼火や怪音と共に現れ、城の主を苦しめます。そうして弱らせ、やがて死へと導く』

 茶話会のときに、黎蘭妃が口にしていた言葉である。

 姿が見えないゴーストのように、国にはびこり、そして城の主の力を弱めて死へと導く。つまり、それは。

 麗麗の目が驚愕の形に見開かれた。

 「幽鬼は内奸(反逆者)ということですか。黎蘭様は、内奸を殺すために、入内されたのですか」

 黎蘭妃の表情は変わらない。その表情を見て、麗麗は確信を深めた。

 皇帝は、この事実を知っているのだろうか。

 「大家は知りません。この宮において、わたくしの担う役目について知っている者はお亡くなりになった瑞真様と、わたくしの女官たち以外におりません。真実を追究する者の名を持つ、お前だからこそ話しました」

 どうやらまた顔に出ていたようである。

 「龍帝のときは間に合いませんでした。しかし、瑞真様より賜ったわたくしの使命は変わりません。国に徒なすものを討つ。わたくしは。ずっと見ておりました」

 麗麗は思い出す。黎蘭妃の鋭い視線と、まるで自分が試されているような感覚を。

 それは間違いではなかった。この妃は、常にああやって人々の反応を見ていたのだ。焱国に対して牙をむいていないか。味方のふりをしてはいないか。刃を隠し持ってはいないか……。

 黎蘭妃は鋭い視線を玲沙妃へと送る。

 「この者は、初めから怪しかったのです。だからこそそばに置きました。一挙手一投足を見ておりました。──玲沙妃、なぜ香炉がお好きだなんて嘘をおっしゃったのです。あなたの宮には、ほとんど香の香りがしませんでした。好みの傾向からいっても、収集癖があるようにも思えません。それなのに、なぜ?」

 (あっ!)

 確かにそうだ。玲沙妃は香炉が好きだという噂があった。だからこそ香鈴は例の香炉を仕入れたはずだ。だが──、実際に訪れた玲沙妃の宮は、シンプルに整えられていた。この妃は、煌びやかだからといって香炉を集めるような性質(タイプ)ではない。

 「答えられないなら代わりに言いましょう。香炉が欲しかったのですね。毒の香炉が尚方にあるとあなたは知っていたのです。それを大家に贈らせて、一緒に楽しもうと声をかければ、怪しまれませんから」

 淡々と、黎蘭妃は言葉を口にする。

 「入内が早まったのは、この通路を造る音を偽装したかったからでしょうね」

 「……偽装?」

 麗麗の問いに、黎蘭妃は呆れたように口を開いた。

 「その目は節穴ですか。この水路を見てもまだ気づかないとは恥ずかしい。下級妃の殿舎、そこで聞こえる怪音を解決したのはお前たちだと噂で聞きましたが。どうやら違ったようですね」

 痛烈な皮肉に、麗麗ははっと目を見開く。

 (あの、怪音!)

 下級妃の殿舎の下から怪しい音が聞こえるという怪である。麗麗はそれを、胡粉宮を建てている音が水路を通して響いているのだと結論づけた。しかし、実際は假山の下に掘られたこの通路と、水路を繋げる音だったのだ。

 「この水路は後宮の外まで続いています。外部からの侵入経路を造っていたのでしょうね」

 (……だから、後宮に男が入り込めたんだ)

 襲撃の夜。武器を持った男たちがどうやって後宮にと思っていたが、この水路から侵入してきたということか。

 「小動物の死骸を廟の池に沈めたのもあなたですね。その他に起こった細かな怪も、すべてあなたがやったこと。……おそらく狙いは、後宮内の混乱」

 そこまで言うと、黎蘭妃は麗麗にちらりと視線を向けた。

 「この女官と、あの宦官が怪を解決するという役目を大家から賜ったと知ったとき、あなたは──いえ、あなた方は、という言い方にしましょうか。あなた方は困ったのでしょう。怪に乗じてさまざまな悪事を行ってきたあなた方ですから」

 黎蘭妃は視線を玲沙妃に戻す。

 「この女官と宦官の行いで、皇太后・瑞真様の呪いという最大限の武器が使えなくなった事実に気がついた。だから新しい怪を生もうとした。それで皇太后の呪いが復活すればよし。もし復活しなくても、次は白蓮妃の呪いだと噂を広げればいい。後宮さえ混乱していれば格段に動きやすいのですから、なんだっていいのです」

 玲沙妃は俯き、服の裾を握りしめている。

 「……あなたは哀れな殺人者。そこに自分の意志はなく、ただ家のためだけに動き、宮城の主を殺すためだけに育てられた哀れな幽鬼です」

 黎蘭妃の鋭い言葉が、容赦なく玲沙妃を切りつけた、そのとき。

 「おっしゃる通りでございます……!」

 玲沙妃が叫んだ。俯いた色白の顔はさらに白く、硝子(ガラス)玉のような瞳はまるで作り物のごとき空虚な輝きを浮かべていた。

 「わたくしのような者は、今すぐここで死ぬべきです」

 それから先、玲沙妃が語ったことは、黎蘭妃の言葉を裏付けるものだった。

 「わたくしの父は、皇太后・瑞真様ご存命の折より、恐れ多くも罪深いことを考えておりました。おっしゃる通り、わたくしは宮城に徒なす毒として育てられました」

 玲沙妃は指の先が白くなるほど強く、服の裾を握りしめている。

 「『怪をはびこらせ、乱を招き、竜を亡き者にせんとす。怪を(たく)()としすべてを手中に』。それが我が父、我が一族の望みなのです。『成功したのだ』と父は語っておりました。羅帝、龍帝、共々墜ちた。ならば次は我が妹の子が東宮であると」

 嘘だろ、と麗麗は目を見開く。

 「……今、羅帝、龍帝が墜ちたとおっしゃいました?」

 玲沙妃は口を閉ざしている。

 「前の皇帝のときも、その前のときも、なんか、したんですか。それで、今の主上を皇位につけたと?」

 麗麗の問いかけにも、かの妃は答えない。しかし、その表情を見てわかってしまった。

 (なっ……なんつー一族だよ!)

 つまり、わざと後宮内で怪しい事件を起こして混乱させ、それに乗じて〝なんかした〟のだ。おそらく……死に関わるようなことを。

 「でも、待ってください。それで、お望み通り今の主上を東宮として擁立できたんですよね? 願ったり叶ったりだったんじゃないんですか。なのに、なんで今になって!」

 「傀儡が、傀儡にならなければどうなりますか」

 妙にひやりとした口調だった。

 「不要な傀儡は処分するのが妥当でしょう」

 (……うっそだろ)

 おそらく、皇帝は操れなかったのだろう。

 麗麗は間近に接した、かの竜の性質を思い出す。情に厚く、朗らかで、どこかつかめないお方だ。だがしかし、芯は一本通っているし、皇帝としての自覚もお持ちである。この方がいれば、国は安泰だと信じられるくらい、器の広い方だ。

 その皇帝を、傀儡に仕立てるのは無理がある。

 (だからといって殺す!? 自分の(おい)を、しかも自分の娘を使って?)

 権力者たち、いい加減にしてほしい。なぜこうも物騒なのかと心が荒む。

 それほどまでに皇位とは魅力的なものなのだろうか。自分の血族を消してなお、権力を欲するのはなぜなのか。

 玲沙妃は顔を上げた。目が合うと、茶色の瞳が、ゆっくりと細められた。

 「麗麗。その刃を黎蘭妃にお返しください」

 「えっ……」

 「わたくしも一族の傀儡なのです。出来損ないの傀儡は不要。すべて明るみに出てしまったのなら、わたくしは誅されるべきなのでしょう。どのみち、実家へと戻ったとてこの命が救われるわけでなし。今この場で国に仕える鬼殺者に誅されるのであれば、こんなに光栄なことはございません」

 「でもっ……」

 これを渡したら、黎蘭妃は確実に玲沙妃を殺す。

 「返しなさい」

 黎蘭妃が一歩進み出る。

 「お前の義はどこにありますか。その心が焱にないのであれば、わたくしはお前も誅さねばなりません」

 さらに言葉を重ねた黎蘭妃の顔をじっと見て、麗麗は考える。

 (なんか引っかかる)

 見落としてはいけないなにかがあるような気がして、ずっと頭の中で警鐘が鳴っている。ここで玲沙妃を殺してはいけない理由があるはずだ。

 黙り込んでしまった麗麗に、黎蘭妃がさらにもう一歩詰め寄った。

 「女官。あきらめて、それを──」

 「あっ!」

 麗麗の声に、黎蘭妃が何事かと伸ばした腕を引っ込めた。麗麗はそれに気がつかない。頭の中でさまざまな出来事がぐるぐると回り、そしてひとつの方程式を導き出した。

 「違います。玲沙様は主上をお救いしようとなさっていました!」

 「──なんですって?」

 黎蘭妃が眉を寄せる。

 「だっておかしいんですよ。香炉が好きだ、なんて噂をわざわざ玲沙様が流さなくても、きっと主上の元にはあの香炉が渡っていたはずなんです。ものすんごく綺麗な香炉でしたし、尚方の人たちも上級妃が使うのにふさわしいって話していたと聞きました。別に玲沙様がとやかく言わなくても、上級妃の誰かが香炉を手にしたでしょう。そして、主上と一緒に楽しんで、ふたりとも死ぬ。わざわざ自分の手を汚さずに済むんだから、こんなおいしいことはないですよね」

 麗麗の頭の中から、不敬という文字はとうに消えている。皇帝や上級妃が死ぬと堂々と口に出し、夢中でしゃべり続けた。

 「じゃあ、なんでそんな噂をって思ったんですけど、多分……自分の元に、あの香炉を集めようとしてたんじゃないですか」

 黎蘭妃が驚いたように目を見開いた。その表情にも気づかず、麗麗は言葉を重ねる。

 「あのとき、徳妃入内で後宮中が噂でもちきりでした。しかも玲沙様は主上の従妹様でいらっしゃるのですから、皆お近づきになりたいでしょう。香炉が好きだと言っておけば、自分の元にあの香炉が集まると踏んでいた。だから敢えて噂にして、流した。理由は──、毒から主上やその他の妃たちを守るため」

 「っ……」

 玲沙妃が息を呑む音が聞こえた。しかし麗麗は止まらない。親指を唇の上に乗せ、記憶を反芻しながら再度口を開いた。

 「それに……実は、主上から聞いたんですけど。厨から同じ辰砂の毒が使われた皿が見つかったそうです。玲沙妃のご実家が関わっている窯元で造られていたものだと判明したらしいのですが。あれも玲沙様の御一族が用意なさったんですか」

 きっと玲沙妃が麗麗をにらみつけた。

 「ええ。わたくしの家の者がやりました。大家は本当に運のいい方で、残念ながら皿は使われなかったようですけれど」

 「じゃあ、なんで『膾が嫌い、見たくもない、絶対に食べないで』と主上にお願いしたんです?」

 雪梅がぷんすこ怒っていた件だ。自分の好き嫌いを主上に押しつけるなんて、と青筋を立てていたのを思い出す。

 黎蘭妃は目をわずかに見張りながら、麗麗の顔を見つめていた。

 「……お前は、わざと玲沙妃がわがままを言って、大家を助けたとでも言うつもりなのですか」

 「はい。それが真実だと確信していますよ。なぜなら、その皿は膾や酢漬けなどを入れるような椀状のものだったとお伺いしましたから。辰砂は酸に弱いんです。玲沙様のわがままで、宮城の厨はしばらく膾を出さなかったはずです。主上は玲沙様を大切になさっていると噂になっておりましたし、そんな状態で、わざわざ皇帝寵愛の妃を怒らせてもいいことはないですから」

 臣下は皇帝の好悪の感情に敏感だ。皇帝の寵愛する妃が『食べてほしくない』とお願いしたものを、皇帝の卓子の上に並べるなんて、恐ろしくてできなかっただろう。

 「暗殺者の茶器も、わざと使いましたよね。私たちに『こういうものがあるのだ』と知識を与え、そして警鐘を鳴らすために。あれは、上級妃の皆さんが主上に寝物語で話すことを見越しての演出(パフォーマンス)だったのでしょう。まだ見つかってはいないですが、もしかしたら、主上がお使いの茶器の中に、その茶器が混じってるのかもしれません。あるいは、いよいよとなったらご自分で主上にお使いになる予定だったのかもしれませんが」

 玲沙妃は唇を噛みしめる。形のよい唇が嗚咽の形にゆがみ、ややあって、うっと小さく声を漏らした。

 「それに、この院子での催し物にしてもそうです。わざわざ人を呼んで、“鬼作楽”の話までして興味を引きますか。こんな通路が隠されているのに? なにかを積極的に隠したいのであれば、話さなければいいのです。でも玲沙様は嬉々として話して聞かせた。しかも、遊びに来るようにとまで進言しました」

 「…………」

 玲沙妃は口を閉ざしている。

 「そして、宴の当日に白旗が置いてあった位置もです。わざわざ假山に白旗を置いたのは、ここに通じる入り口があると誰かに気づいてほしかったのではないですか」

 黎蘭妃が虚をつかれたような顔をする。

 「……確かに、わたくしの女官たちはこの通路を宴で見つけ出しました」

 黎蘭妃のつぶやきに、麗麗もうなずいた。

 「私もです。あと、これはずっと考えていたことなのですが、そもそも……主上はなぜ、あの襲撃で殺されなかったのでしょう」

 「なんですって」

 黎蘭妃が今度こそ目を見開いた。

 「おかしいではありませんか。奇襲に成功し、たったふたり──まあ、私がその場にいたので、正確には三人なのですが、少人数の供しか周りにはいない。周囲は森のような院子でしたし、兵の姿も見えなかった。そんな状況で、なぜ、殺しではなく連れ去りを企んだのか」

 「殺す武器の類を持っていなかっただけではないのですか。あるいは、連れ去ってからゆっくり殺そうとしていたとか」

 麗麗は首を横に振った。黎蘭妃の仮説は間違っている。

 「いえ、武器は持っていました。あの人たち弩を使ったんですよ。これがその証です」

 麗麗は、刃を持っていない方の手で自分の頬を指さす。そこには、一文字に走った傷跡がまだ生々しく残っている。

 「こんなものが持ち込めたのだから、全員刃なりなんなり持って襲いかかればいちころです。でも、それをしなかった。あくまでも連れ去り目的だった。弩を最初に放ったのは、おそらく私だけが胡服だったからでしょう。明らかに皇帝ではないですから、目撃者を始末せよという意図で弩を使ったんだと思います」

 麗麗はそこで一度口を閉ざした。玲沙妃に視線を向けると、玲沙妃は唇を噛みしめ、拳を握りしめてうつむいている。まるで、涙をこらえているかのように。

 「玲沙様。あなた様がご実家に口添えなさったんじゃないですか」

 麗麗の言葉に、ぴくりと妃の肩が動いた。

 「今のまま主上を殺してしまうと、ええと、なんて言うんでしたっけ。皇帝の血? は絶えてしまうわけですよね。まだ主上には御子がいらっしゃらないので、完全にお家断絶になってしまう。もしそれで、玲沙妃のご実家が台頭したとして、仮に……仮にですよ。叔父上様が『皇帝でござい』と名乗ったとて、周りが素直に納得するとは考えられないんですよね」

 ええい伝われ、と半ばやけくそで麗麗は言葉を紡ぐ。この際口の悪さには目をつむってもらおう。なにせ、緊急事態なのである。

 「だから、玲沙様が口添えをなさったんじゃないかなと。その、つまり、ええと……皇帝を攫ってきて、無理やりにでもやることやって、既成事実を作ってから殺す。すると、正当な血を持つ子が玲沙様の腹の中にいるということになる」

 今回の事件は、皇帝のお忍び参加を知っている人物が、玲沙妃だけだったという点がポイントである。

 もしこの拉致事件が成功していたら、皇帝はまさしく神隠しにあったかのように姿をくらましていたはずだ。当然、院子に皇帝がいたなんて誰も知らない。玲沙妃はなんにもおとがめなしに後宮に居続け、そして『おなかに彼の子が!』ができるのである。

 「まったく違う血を持つ主上の叔父上様と、主上の御子なら、『御子に皇位を』という方が自然です。しかも赤子からご自身の手で育て上げるのなら、洗脳も容易でしょう。……と、まあ、ご実家の方々を納得させ拉致させて、そのうえで玲沙様は囚われた主上の元に向かおうとなさったのではないですか。もちろん、主上をお助けするために」

 玲沙妃は、宴で通路の存在が明るみに出なかった際の救済措置として、自身の手で皇帝を逃がすつもりだったのではないか。

 黎蘭妃は、冷たい視線を麗麗に向けた。

 「納得いきません。その理屈なら、自然に子ができるまで待てばよかっただけではありませんか。玲沙妃は大家の寵愛を受けておりました。大家の子を成すまで待ち、そのうえで大家を殺すなりなんなりあったでしょうに。なぜ玲沙妃の一族はそれを待てなかったのか」

 「今の主上は大変な名君です。刻が経てば経つほど守りは盤石になることでしょう。そうなってからでは遅いのだと考えたのでは。今ならまだ主上はお若いですし、登極して数年なら国のあれそれも整いきっていないでしょうし。逆に、今しか殺せないと思ったんじゃないですかね」

 それと、おそらく冥焔と麗麗のことも、この件に拍車をかけたのではないかと思う。怪に乗じて混乱させるという手段を取っていたのであれば、その怪を解いて回る専門の者が現れたのはよろしくない展開に違いない。混乱が起きにくくなると考えたのかもしれなかった。

玲沙妃は肯定も否定もしない。ただ、蒼白な顔で黙っている。

 一方、黎蘭妃は軽く頭を抱えていた。

 「……わたくしは、……瑛琳妃に同情しております。先程までにお前が口にした言葉の数々、死罪を言い渡されてもおかしくはない。圧倒的に口がよろしくありません。これでは、瑛琳妃は気が休まる暇がないでしょうね」