後宮のガリレオ2

 さて、そんなこんなで胡粉宮の院子である。

 あたりはすっかり暗くなり、かんかん照りの太陽もなりをひそめている。このくらいになるとようやくひと息つけるなと、ほっとした。

 それにしても、と目の前の光景を眺める。

 (いくらなんでも広すぎでしょうが)

 どこぞのテーマパーク並みの広さである。院子の入り口に立っていても、端が見えないのには恐れ入った。

 その院子は今までに見たことがない造りだった。入り口には石柱が立ち、その左右からごつごつとした岩壁が伸びている。まっすぐに伸びた岩壁ははるか遠くで九十度に折れ曲がり、おそらくその先まで伸びているのだろう。

 院子全体が岩壁に囲まれているのだ。その様子は、前世で幼い頃に訪れた、遊園地の迷路のようである。──規模感が少々異常であるが。

 岩壁のそこここには灯籠(とうろう)が置かれ、灯りが入っている。月こそはないものの、満天の星は柔らかい光をたたえて院子に青い光を落としていた。暑さも和らぎ、風も穏やかで、軽やかな虫の声が耳に届く。

 幻想的な夜である。しかし、その美しい夜の院子には不釣り合いなほど、周囲は熱気に包まれていた。

 それもそのはずで、今回の宴は豪華な食事や派手な出し物が主役(メイン)ではない。

 「それぞれの宮で競争するだなんて、主上もおもしろいことをお考えになるわよね!」

 ふんふんと鼻息を荒くしながら、雪梅は着ていた胡服の裾をちょいちょいと伸ばす。胡服を着ているのは雪梅だけではない。今回の宴に参加する四夫人、そのお付きの女官たちは全員動きやすい格好を義務づけられていた。

 「いい? (ルール)を確認するわよ。私たちは合図があったら院子に入って、院子の中心にある()(ざん)から旗を取る。そして、入り口まで戻ってくるのよ!」

 雪梅の言葉に、香鈴も勢いよくうなずき、両の拳を握りしめた。

 「最初に戻ってきた宮が勝ちなんだよね? んふふ、楽しみ!」

 そう、つまり今回の宴は……。

 (運動会なんだよねぇ)

 假山とは、人工的に造られた岩山である。この院子の中心にある假山から旗を抜き取り、スタート地点まで戻る速度を競争する出し物だ。鬼作楽の話を聞いた皇帝が、おもしろがって考えたお遊びなのだという。

 (まーた変なことを考えたよねってお気持ちなんだけど)

 当然、皇帝含む妃たちは参加しない。麗麗たちが待機している場所の真正面。院子を挟んだ最奥の高台で、文字通り高みの見物をしている。

 それにしても、驚くべきは女官たちの闘志の高さである。

 後宮では基本的に決まった日常の繰り返しが多く、刺激が少ない。妃や女官たちは常に娯楽に飢えているのだ。その中でこのような催し物を行えばどうなるか。

 もう、燃えに燃えるのである。

 絶対に勝ってやる、と勢い込んでいるのは深藍宮の者だけではなく、あちこちで気合いの満ちた声が聞こえてきた。

 特にすごいのは例によって玉璇妃のところだ。赤を基調とした派手な胡服に身を包んだ女官たちは目を爛々(らんらん)と光らせ、のびをしたり足を伸ばしたりと準備に余念がない。どの女官も目つきが鋭く、引き締まった体つきでいかにも運動ができそうだ。

 「玉璇妃のところ、事前に選抜戦が行われたらしいわよ」

 ひそひそと雪梅が耳打ちをする。

 「女官が多いのをいいことに、体力のある者たちを選んだんですって」

 「ほええ……」

 宮に住む玲沙妃の女官たちは余裕の顔だった。「今夜も道に迷うのかしら、ほほほ」と上品に笑い合っている姿は、闘志をむき出しにした玉璇妃、瑛琳妃の女官たちとは対照的だ。しかし。

 (目が笑ってない!)

 あれは間違いなくやる(・・)顔だ。試験勉強のときに『全然勉強してないよ~』と言っておきながら、百点をかっさらっていたかつてのクラスメイトを彷彿(ほうふつ)とさせる目の光である。

 やる気に満ちている者がいる一方で、なにを考えているのかいまいちわからないのが黎蘭妃のご一行だった。整った顔で冷静に院子を見つめている彼女たちは、興奮もしていなければ戸惑ってもいない。ただ静かに時が来るのを待っている風情である。

 この出し物に参加するのは、四夫人の女官たちと、宦官有志。一陣営につき上限の人数は三人までと決められており、人海戦術ができないようになっている。という名目だが、おそらく深藍宮の女官が四人しかいないのを鑑みた救済措置であろう。

 さらに、地の利がある胡粉宮の女官たちは開始時間を他の参加者たちよりも遅く設定してあるらしい。できるだけ公平に行えるようにとの配慮に、頭が下がるというかなんというか、そこまでやるのかというお気持ちである。

 (院子自体は楽しみなんだけどさぁ……走るのか。走るんだろうなあ)

 やる気に満ちた皆さんには申し訳ないが、麗麗は運動がすこぶる嫌いだ。苦手ではないところがみそである。

 この体は意外と運動に向いているらしく、おかげさまで木登りや屋根登りはちょちょいのちょいなのだが、それは星を見たいという欲望のなせる業である。

 目的がある運動なら(いと)わない。しかし、麗麗が嫌いなのは、運動のための運動だ。前世では体育祭で気配を消すのがうまく、リレーの前には必ず腹痛を起こす性質の人種だった。麗麗(こっちの体)になったあとも、運動に対しての苦手意識が半端なく、できればまったりと過ごしたいと常日頃から願っている。

 それなのに、わざわざこの暑い中、出し物にかり出されるとはなんともはや。

 麗麗は正面の高台を一瞥する。

 ここからだと、妃様方と皇帝は小指の先ほどの大きさにしか見えない。この院子、どれだけ広いんだと早くもげんなりしてしまう。

 (おや)

 今日は皇帝の周囲には幕が張られていた。あれでは院子が見にくいのではと思ったが、どうやら幕は薄布でできているらしい。こちらからは顔が確認できないだけで、皇帝側からは見渡せるようになっているのだろう。

 いつもそばに控えている冥焔の姿は見えない。てっきりいつものように皇帝のそばにいるものとばかり思っていたから、やや拍子抜けだ。今日の宴に参加すると言っていたから、どこかにいるには間違いないのだろうが。

 その周囲には、屈強な宦官たちがいつにもましてひしめいている。かなり厳重な警戒態勢だ。

 (夜だからかな)

 四夫人がそろい踏みで、皇帝も来るとなったら物々しくなるのもむべなるかな。

 当の四夫人は、皇帝より一段下がった場所で、おのおのくつろいだ姿勢で腰を下ろしていた。瑛琳妃の隣には花里が控えている。できれば麗麗もその位置にいたかった。この広い院子を駆け巡らなくていいなんて羨ましい限りである。

 (あれ?)

 そういえば、冥焔はどこだ。

 てっきりいつものように皇帝のそばにいるものとばかり思っていた。今日の宴に参加すると言っていたので、どこかにいるのは違いないだろうが。

 「なにぼーっとしてるの! 始まるわよ!」

 雪梅に横腹をつつかれて、視線を正面に戻した。院子の入り口、石柱の前に手に銅鑼(どら)を持った宦官が控える。

 ざわめいていた女官たちが、すっと真剣な表情になった。

 しんっと静まり返った空気をかき分けるように、宦官の手が大きく振りかぶられ、一打。

 体の芯が震えるほどの音が宴の始まりを告げた瞬間。

 「邪魔よ! どきなさい!」

 「うわっ!」

 「きゃあっ!」

 突然背中をどんっと押される。

 倒れた麗麗や雪梅、香鈴の横を、赤の軍団、もとい珊瑚宮の女官たちがけらけら笑いながら駆け抜けていった。

 突き飛ばされたのだ。驚きのあまり、眼前の地面を見つめて麗麗はぽかんとしてしまう。

 (そ、そこまでやるっ!?)

 三人が呆然(ぼうぜん)としているうちに、他の女官や宦官たちもあっという間に横をすり抜け、院子へと駆け込んでいく。

 出遅れたのだとわかったのだろう、立ち上がった雪梅がきーっと拳を振り上げた。

 「あんたたちっ! ()(きょう)よ……!」

 香鈴はすでに立ち上がっており、可愛い顔に青筋を浮かべてにこにこと笑っている。

 「雪梅、無駄だよ。あの人たち、卑怯って言葉の意味がわからないんだから」

 なんと香鈴、ぶち切れている。かくいう麗麗もさすがにむかっ腹が立つというものだ。

 (勝負は正々堂々とが基本でしょうが!)

 そこまでして勝ちたいお気持ちは理解するが、『はいそうですか』と勝利を譲ってなるものか。運動嫌い、小なり、負けず嫌い。この勝負、受けて立とうじゃないか!

 むくりと起き上がり、顔についた土をぬぐう。

 「一矢報いてやりましょう」

 「もちろん」

 「絶対勝ちましょっ!」

 めらめらと燃え上がる闘志を糧に、三人はえいやと院子へと飛び込んだ。

 院子にはまっすぐ、細い道が延びている。

 その道の左右には柳の木が立ち、ゆらゆらと風に揺られていた。周囲には木々が生い茂り、しかもその木のほとんどが剪定(せんてい)されず自然のまま放置されているような枝ぶりである。

 すでにその場にはこの三人しか残っていない。他の参加者たちはとっくに先に進んでしまっているのだ。

 「とにかく院子の真ん中に行けばいいのよね」

 焦ったように雪梅が道を指さす。

 「そのはずです。院子は真四角でしたから、この道沿いに進めば問題なく着くでしょう」

 そう言いながら、麗麗ははてと首をかしげる。

 (道に迷う要素、どこにある?)

 道はまっすぐに延びている。逆に言うと、目の前の道しかないのだ。木々に覆われた周囲に他の道は見当たらない。その無数にある木々の中で、異色なのが柳の木である。自然な姿を重んじる院子の中で、柳だけがまるで道しるべのようにゆらゆらとたなびいているのである。

 ぴゅうっと風が吹いた。その拍子に雪梅の顔にぴしっと柳の枝が当たる。

 「痛っ! もう……ひどい院子ね。全然手入れができてないじゃない!」

 「いえ、それは違います」

 麗麗は足下を指さした。

 「こんなに木が密集しているのに、下草は荒れていない。見たところ落葉する木々が多いようですが、葉が地面にほとんど落ちていません。本当に手を入れていない院子なのであれば、もっと雑草が伸びていて、落ち葉だらけになっているはずです」

 「じゃあ玲沙妃って、よっぽど物好きなんだわ」

 「ほんとだよねえ。花をつける木がほとんどないなんて変なの。池も橋も、亭子までないなんて。そんなの院子って言えないよね」

 雪梅と香鈴の言葉に、麗麗もうなずく。

 この国において、院子の造りには不文律がある。石、木、橋、池、そして亭子を配置して初めて院子であると認められるのだ。格調高い宮であればあるほど、この律を重んじる傾向がある。

 しかし、玲沙妃の院子は木と石で構成されているという。本来あるべき格調を捨て、敢えてこのような鬱蒼とした風景を表現するだなんて、確かに、よほどの趣味人でなければ造るまい。

 早足で歩き、振り返っても入り口が見えなくなってきたあたりで、麗麗は一度足を止めた。体に違和を感じたのである。

 「なんか、ちょっと変ですね」

 「変ってなによ」

 「いや、ちょっとこう……気持ち悪いっていうか」

 なんだか、ふらふら、ふわふわするような気がするのだ。そしてその感覚は麗麗の気のせいではなかったと判明するのは、この少し後のことである。

 とにかく先へと足を進めた一行が辿り着いたのは。

 「えっ……壁?」

 なんと院子のどこかの岩壁である。当然ながら假山の姿はなく、旗もどこにも見当たらない。

 「なんで!? 私たち、まっすぐ来たわよね!?」

 雪梅が悲鳴のような声をあげた、そのとき。すぐ隣の茂みからがさがさと音がした。はっと振り返ると、赤の胡服の三女官がまさに茂みから飛び出してきたところである。

 「あっ、あんたたち!」

 「げっ」

 雪梅の言葉に、赤の集団、もとい珊瑚宮の女官たちは盛大に顔をゆがめた。

 「なんであんたたちがこんなとこにいんのよ」

 「それはこっちが聞きたいわ!」

 珊瑚宮の女官たちはつんとすました顔である。だが、顔にも服にも盛大に泥がつき、肩で息をしている様子が見受けられた。暗い夜でもわかるくらい顔は強ばり、なにかにおびえているような風情である。

 「もう、最悪! なんでまたここに出るのよ!」

 「ねえ……もうやめたいわ。おかしいわよこの院子」

 おっ内輪もめだ。ひとりの女官が今にも泣きそうな顔で、あとのふたりに(すが)りついている。

 「わたくし、こんな恐ろしいところもう無理……っ! ねえ、戻りましょう? なにかあってからじゃ遅いわよ」

 「なに言ってるの! 娘娘に叱られるわよ!」

 「そうよ! 早く假山を探さないと……!」

 思わず麗麗は口を開く。

 「えっ。まだ見つかってないんですか? あんな卑怯なことしておいて?」

 一拍置いて、ぶふっと雪梅、香鈴が吹き出した。一方で珊瑚宮の女官たちは驚いたように麗麗を見つめ、瞬時に柳眉を逆立てた。

 「だ、黙りなさい! これだから()(せん)の者は!」

 「あなたたちが勝手に転んだんでしょう!? こっちのせいにしないでほしいわ!」

 しかし、麗麗は別のことが気になった。ぶち切れている女官たちを尻目に、ふむと考えを巡らせる。

 「でも、皆さん、ずいぶん先に院子に入りましたよね。それでまだ見つからない。しかも、『なんでまたここに出るの』とおっしゃいました。もしかして……同じ場所をぐるぐる回っているのですか?」

 ぎくっと女官たちが口をつぐむ。しかし、どうしても素直になれないらしい。

 「だ、だからなんだってのよ! あなたたちには関係ないでしょう!?」

 「いえ。なるほどなと思っただけです。歩いても歩いても、同じ場所に出てしまう。前に進んでいるつもりでも、目的地に辿り着けないまま道に迷って、何度も何度も同じ道を歩き続ける……。へえ……」

 麗麗の目が爛々と光る。女官たちは顔を見合わせ、ごくりと唾を飲み込んだ。

 「だったら、どうだっていうの?」

 「本当なんだなって思って」

 「本当って、なにがよっ!」

 「この院子。いるんですね、“鬼作楽が”」

 その言葉を聞いた赤軍団たちの反応たるや。目を見開き、信じられないものを見るような目で麗麗を見つめ──ややあって、ひとりが一歩、足を引いた。続けざまに二歩。

 折しもそのとき、ひときわ強い風がびゅうと吹いた。近くの灯籠がふっと消え、あたりは暗闇に包まれる。女官たちの絶叫が院子に響き渡った。

 「い、嫌ああっ!」

 「ちょっ……! 待ちなさい! ああ、もう! 待ってったら!」

 (だっ)()のごとく駆け出した女官を、他のふたりが諫めたがもう遅い。完全に混乱状態に陥ったらしい女官はとんでもない速度で走り去ってしまう。

 「っ……覚えてなさいよ、あなたたち!」

 そう言い捨て嵐のように去っていく後ろ姿を見て、麗麗ははてと首をかしげた。

 「……なにが気に障ったんでしょうか」

 その麗麗の肩を、雪梅、香鈴の両名が目尻に笑い涙を浮かべながらぽんと叩いた。

 「あんたのそういうとこ、最高よ」

 「同感」

 どうやら相当脅かしてしまったらしい。そんなつもりがなかっただけに、少しだけ申し訳ないことをしたなあと反省する麗麗だった。

 灯りが消えた灯籠に別の灯籠からもらい火を差し、ひと息ついたご一行は、さてどうするかと顔を見合わせた。もう院子に入ってからかなり時間が経ってしまっている。しかし、先ほどの珊瑚宮の事例もあることだし、他の参加者たちも迷っている可能性が濃厚だ。で、あれば、優勝への希望はまだ残っているだろう。

 「珊瑚宮の人たちじゃないけど、おかしいわよね。なんで假山に辿り着けないのかしら」

 「ねえ麗麗、“鬼作楽”がいるって本気で言ったわけじゃないでしょ?」

 雪梅、香鈴のふたりの言葉に麗麗は軽く首を横に振る。

 「いえ、本気ですよ」

 「ええっ!?」

 「道に迷わせる現象が起こっているのは間違いないと思います」

 麗麗は胡服についていた玉の飾りをおもむろにぷちりとむしった。

 「ちょっ! 麗麗! なにしてんの! それ、すっごく稀少な玉なんだよ!?」

 「すみません、必要だったのでつい」

 香鈴の悲鳴にも似た言葉に頭を垂れつつ、麗麗はその玉を地面に置き、軽く手を添えた。

 (もしこの院子がそうだったとしたら、きっと……)

 ぱっと手を離す。すると、玉がころころと斜めに転がり始めたのである。

 「やっぱり!」

 麗麗の顔がぱっと華やいだ。こんな素晴らしい院子に出会えたことに感謝を禁じえず、心の中で踊り出す。にまにまと笑っていると、雪梅が焦れたように麗麗の肩をつかんだ。

 「なーにが『やっぱり』なのよ! わかるように説明しなさいよっ!」

 (えっと、どうしようかな)

 説明してもいいのだが、この院子の造りを見ると、人工的に手が入っているのは間違いない。曲がりなりにも徳妃の院子、その秘密をぺろっとしゃべってしまうのは危険な気がする。

 雪梅や香鈴の口の堅さを信じていないわけではないが、知らないほうがいいこともあるのだ。ここ最近、己の口で危機に(ひん)していた甲斐(かい)もあり、こっち方面に頭が向くようになったのは怪我の功名かもしれない。

 (黙っとこ)

 転がる玉を追いかけ手中に収めると、麗麗はふたりに向き直った。

 「そんなことより、急ぎましょう。まずは假山に着かなければ、勝てる勝負も勝てませんよ」

 「んなこたわかってるのよ! けど、どうしたらいいの? やみくもに茂みに突っ込むつもり?」

 雪梅の言葉に、香鈴がうえーっと顔をゆがめた。

 「それは嫌だなあ……」

 「ご安心ください」

 麗麗はにんまり笑う。

 「私たちには強い味方がついています」

 「味方?」

 「ええ」

 そうして麗麗は天を指さした。そこには光り輝く星空が広がっている。疑問でいっぱいだという顔をしたふたりに、麗麗は安心させるようにうなずいた。

 「この院子に限って言うなら、すでにある道を信じてはいけません。ってなわけで、えっと……こっちです!」

 ぱあっと顔を輝かせた麗麗は、腕まくりをすると近くの茂みにえいやと飛び込んだ。

 「ちょっ……麗麗!」

 「やっぱり茂みの中には入るんだぁ……」

 ふたり分の文句を後ろに聞きながら、麗麗はぐんぐんと木々の間をすり抜けて走り、体感にして数分。

 「う、嘘でしょ……」

 目の前にどーんとそびえる假山に辿り着いたというわけである。

 「えっ!? ええっ!? なんで? どうなってんの!?」

 「すごいっ! 麗麗! すごすぎる!」

 雪梅と香鈴は手を握り合って飛び跳ねた。無事に案内できてなによりである。

 「これが胡粉宮の假山ですか……」

 とにかく大きい。高さは麗麗の三、四倍くらいあるし、横幅も十数人の大人が手を広げてようやく端に届くかというほどの広さである。瑛琳妃の住まう深藍宮にも院子はあり、当然假山も存在するが、規模が桁違いである。

 「無駄にでっかいわねえ」

 「本当。ちょっと見ない大きさだよね」

 「もう子どもができたときのことを考えてんのかしらね。あーやだやだ」

 両女官の言葉に、麗麗は首をかしげた。

 「子どもの有無が假山の規模に関係あるんです?」

 そう聞くと、雪梅は呆れたように肩をすくめる。

 「假山は子どもの遊び場なのよ。ごつごつしてるでしょ? そこを登ったり下りたりして体力をつけるんですって」

 ははあ、なるほど。子どもは高いところが好きであるし、この假山のごつごつ感は、さぞかしクライミング欲をそそられるであろう。

 さて問題は旗である。これほど大きな假山であれば、旗探しも難航するかと思いきや、意外と早く見つかった。白い布を使った旗が、假山の上、登り切ったところに刺さっているのがちらちらと見えるのである。麗麗はうわあと顔をゆがめた。

 「これ……登れってことですよね」

 「そうね……」

 「わあ……」

 三女官は、おのおのの顔を見る。見えないゴングが鳴り響き、それぞれの顔に闘志がみなぎった。

 「せーので!」

 「はいっ!」

 それぞれがおのおのの指を出す。雪梅、香鈴のふたりが人差し指を、麗麗は親指を立てた。

 「ああっ……」

 蛇、蛇、(かえる)。麗麗の負けだ。絶望のあまりがくりと肩を落とした。

 これは指の形で勝敗を決める遊びだ。人差し指は蛇を、親指は蛙を差す。そして小指は蛞蝓(なめくじ)|だ。蛇は蛙に強く、蛙は蛞蝓に勝ち、蛞蝓は蛇を征するという、つまるところ、この国でのじゃんけんである。

 負けてしまったのなら仕方ない。覚悟を決めて登るしかない。

 えいやと気合いを入れて足をかけ、慎重に岩を登っていく。ひやひやしながら頂上に着くと、旗は五本残っていた。

 「旗、全部残ってます」

 「ほんと? やったあ!」

 香鈴の快哉が響く。参加しているのは四夫人の女官プラス宦官有志なので、まだどの参加者も旗を手にしていなかったらしい。

 麗麗はよいしょと手を伸ばし、ごつごつとした岩に刺さっていた旗を一本引き抜いた。すると。

 (あれ、なんだ?)

 視界の端、岩と岩の裂け目に違和感を覚える。妙に気になり、身を乗り出してのぞき込もうとした麗麗を焦れたように雪梅がせかした。

 「なにしてんの!? 早く降りてきなさいよ!」

 そうだった、今はとにかくこの勝負が最優先だ。

 登ったときの倍の時間をかけて地面まで戻ると、麗麗は旗を雪梅に渡す。

 「さあ、急いで戻りましょう!」

 「ええ!」

 「んふふ、これで私たちの勝ちだねっ!」

 そうして踵を返し、走り出そうとしたとき。

 「うわあっ……!」

 (ん!?)

 近くで悲鳴が聞こえたのである。女性の声ではなく、宦官だ。宦官チームになにかあったのだろうかと振り返った瞬間、麗麗の頭に嫌な予感がぽかっと浮かんだ。

 (この声……いや、まさか)

 「な、なにかしら……」

 「あの声、宦官?」

 気づかなければよかった。けれど、一度思い浮かんでしまったのだから仕方ない。もし麗麗の推測が正しければ、そしてその人物がなにか困っているのであれば、急いで駆けつけたほうがいいに違いない。

 「先に戻ってください。見てきます」

 「ええっ、危ないわよ!」

 「旗を持って、先に帰っていてください。適当に進めばどこかで壁に突き当たります。そしたら、そのまま壁沿いに走れば、おのずと目的地に着きますから!」

 止める雪梅の声を振り切って、麗麗は再び茂みの中へと突っ込んだ。

 院子は広いうえに木々が茂っており見通しが利かない。しかし、土がならされているのが唯一の救いだ。幹や枝、たまに飛び出ている足元の根にだけ気をつけていれば最高速度を維持できる。

 かなりとばした走り方をし、ぜーはー言いながら茂みを抜け、悲鳴が聞こえたあたりまで辿り着く。

 息を整えながら周囲を見回すと、青灰色の袍を纏い、幞頭(ぼくとう)を目深にかぶった宦官が、ひとりですっ転がっていた。木の根元に足がすっぽりとはまってしまっている。自力で抜け出せなかったのだろう、じたばたと暴れた跡が土の上に残っていた。

 「おお、そこの女官、ちょうどいい。足が抜けなくて困ってるんだ。助けてくれ」

 宦官の朗らかな声を直に聞き、麗麗は眉と眉の間にどんどんしわが寄っていくのを感じていた。

 (……高台の、主上の席には幕が張ってあって。冥焔様も近くにいなくて、それで、ええと。この声でしょ。これってつまり、つまり……)

 記憶の中の声と、目の前の宦官の声が一致する。ああやっぱりという諦観と、嘘だろまじかという現実逃避がせめぎ合いながら、麗麗はおそるおそる口を開いた。

 「しゅ、主上……で、いらっしゃいますか……?」

 宦官はびくりと体を震わせた。

 ふたりの間に、気まずい沈黙が下りる。さーっと麗麗の顔から血の気が引いた。

 (主上じゃん~っ!)

 なにしてんだ。なにしてんだこんなところで! しかもひとりで、供もつれずに!

 信じられないという気持ちと、いやこれはまずいという感情がせり上がる。とにかくこの場をなんとかせねばと麗麗はとりあえず揖礼を捧げた。

 「主上に、ご挨拶申し上げます」

 「いやいやいや、いい、今、そういうの、いいから!」

 「わたくしはなにも見ておりませんので、これにて、失礼します」

 「待てぃっ!」

 踵を返そうとした麗麗に、皇帝は必死の(てい)で声をかける。

 「見ての通り、動けないのだ。わたしに触れることを許可する。なにをしても咎めないと約するので、とにかく助けてくれないか、麗麗」

 そう言われてはさすがに捨て置けない。

 「……し、失礼しますっ」

 ぐるんぐるん回る胃に、とにかく今だけは耐えてくれと言い聞かせながら、麗麗は恐れ多くも皇帝の足をつかみ上げると、えいっと木の根から外して差し上げる。

 すぽっと足が抜けると、皇帝は明るく笑いながらつま先をぐりぐりと回してみせる。

 「いやあ、助かった。どうなることかと思ったぞ」

 あいにく、麗麗はまったく助かっていない。

 (多分お忍びだよね? えっ、これ、私どうしたらいい?)

 夏の暑さとは別の意味で汗が噴き出る。この件、どうやって始末をつければいいものかと必死で考えるが、いい案が浮かばないのである。とにかく顔を見なきゃいいんだろうとぎくしゃくと再び揖礼を捧げ、かろうじて声を息に乗せた。

 「お、役に立てて、なによりでございます……」

 「まあそう硬くなるな麗麗。わたしとお前の仲ではないか」

 (どんな仲ですか!)

 やめてほしい。心底やめていただきたい。こんな場面を他の誰かに見られたらと想像するとぞっとする。ただでさえ、あの顔面偏差値激高宦官と一緒に行動することでとんでもない嫉妬を買っているのである。このうえ、皇帝にまで目をかけられたという噂が広まったら、本当に殺されてしまう。

 麗麗の内心の焦りとは裏腹に、皇帝はのんびりと言葉を落とした。

 「しかし驚いた。玲沙妃の宮にこんな院子が造られていたなんてなあ。実際に体験してみると本当に不思議だ。ぐるぐる回ってしまって、一向に假山に着かないのだよ。ところで、ここはいったいどこかな?」

 (迷ってたんかい!)

 答えるか否かを迷っている麗麗を、あらゆる神仙は見逃さなかったようだ。礼を捧げる麗麗の真後ろから超絶不機嫌な美声が聞こえてきたのである。

 「こんなところにいたのですか。わたくしのそばを離れないでくださいとあれほどお伝えしたのに、なぜひとりでふらふらふらふらなさるのです!」

 「そんなに怒らないでくれ。わざとじゃないよ。いつのまにか道に迷ってしまったんだ」

 「よそ見をしていたのでしょう? 他の者たちともはぐれて、こんなところでおひとりで……なにかあってからでは遅いのですよ!」

 (め、冥焔様……!)

 普段ならこの声が聞こえた瞬間、反射で顔をしかめる麗麗だが、今度ばかりは天の助けだ。思わず礼の袖下から『助かった』と視線を送ると、当の宦官はぎょっとしたように目を見張った。麗麗と皇帝を見比べ、ややあって不機嫌な声が落ちる。

 「……なぜここに女官がいるのです」

 「助けてもらったんだ」

 皇帝はどこ吹く風である。

 「わたしの声を聞き、駆けつけてくれたんだよ。勇敢な女官だ」

 皇帝は軽く笑う。そしてにこやかに声をかけた。

 「麗麗。礼は不要だ。顔を上げよ」

 (嫌です!)

 とはもちろん言えない。おそるおそる顔を上げると、宦官服を着た皇帝と、同じく宦官服の冥焔が麗麗を見つめている。今日は冥焔も幞頭をかぶっており、まったく同じ服装をしていた。

 (あれえ?)

 同じ格好をしているからだろうか。

 (なんか……似てる?)

 かたや朗らか、かたや不機嫌の表情の違いはあるが、顔の構成要素がかなり似通っているのである。ついまじまじと見てしまい、冥焔の咳払いではっと目を伏せた。

 (しまった、見すぎた)

 しかし、()(しつけ)な視線を送ったはずなのに、皇帝はまったく気にしていないようである。むしろご機嫌な様子で、麗麗に話しかけた。

 「ところで、同じ宮の子たちはどうしてるんだ? お前もはぐれたのか?」

 「いえ、旗を無事に回収できたので、先に戻ってもらっています」

 「旗を? では、“鬼作楽”に惑わされることなく辿り着いたのか」

 目を輝かせた皇帝はぐいっと麗麗に迫った。

 (うわっ)

 思わぬ至近距離に一歩足を引くと、するりと麗麗の前に立った宦官が皇帝を両手で押しとどめる。

 「おやめください。女官が困っています」

 「おっと、失礼」

 皇帝はぴたりと足を止め、冥焔と麗麗を交互に見るとにやっと笑い、納得するようにうなずいた。なにやら変な誤解をされているような気がするのだが、深く考えないようにした。

 「それにしてもすごいねえ麗麗は。この院子ね、実はわたしは建設前に図をもらってるんだよ。ここに来る前にもちゃんと確認をしたにもかかわらずこのありさまだ。どうやって“鬼作楽”を出し抜いたんだい?」

 「わたくしも()に落ちません。事前に図を確かめていてなおも辿り着けなかった假山に、なぜ迷わず至ることができたのか。女官、説明を」

 冥焔の問い(というよりも命令に近いが)を受けて、麗麗は言っていいものかと考える。いや、迷うことはない。目の前にいるのは皇帝で、そしてその側近なのである。雪梅や香鈴とは立場が違うのだ。

 なれば、知っておいたほうがいい。

 「では、まず、“鬼作楽”の正体についてご説明申し上げます」

 麗麗は先ほど服からむしり取った玉をもう一度取り出し、地面に置いた。

 「よく見ていてください」

 そして、ぱっと手を離す。すると、玉はまたもや地面の上をころころと転がり出してしまう。

 「これが、“鬼作楽”の正体です」

 「これが……って、玉がか?」

 皇帝の言葉に麗麗は首を横に振る。

 「いえ。地面です。この院子は、地面が斜めに造られているようなのです」

 「斜め……とは」

 皇帝が首をかしげる。麗麗は玉を拾い上げると、再び礼を捧げた。

 「(はい)。実はこの院子に入ったときから、とても奇妙な感覚を覚えました。まるで雲の上を歩いているかのような心もとない感覚と言いますか。ふわふわするような、安定感がないような。その原因が、この地面です」

 麗麗は目を伏せ、地面を見つめた。

 「この院子の地面は先ほど見ていただいた通り、傾斜をつけて造られています。見ただけでは判別できない程度の傾斜ですが、体は自然と均衡を取ろうと修正をかけるのです。すると、まっすぐ進んでいるつもりでも、無意識に進行方向が曲がっていく。結果、目的地に辿り着かなくなってしまいます」

 「ははあ……」

 皇帝は感心したように息をついた。

 「さらに言うと、この院子はわざと見通しが利かないように造られています。そしてこれ見よがしに柳の木を植え、さもまっすぐな道であるかのように見せているのです。柳の木は風が吹くと容易に揺れ、平衡感覚を奪う。地面に置かれた灯籠の灯りは昼の明るさと比べて頼りなく、ますますどこを歩いているのかわからなくなってしまう。これが、“鬼作楽”の正体なのです」

 納得の表情を浮かべた皇帝の横で、冥焔はまだ怪訝そうな顔つきである。

 「しかし、それでは女官。なぜお前は假山へ辿り着けたのだ。その言葉が真であるならば、お前たちもまた道に迷っていなければ道理が合わぬ」

 麗麗は礼をそっと解き、片手で天を指さした。

 「星です」

 「星、だと」

 「どんなに道が悪かろうと、天の星は迷わず同じ順路を巡っています。その中にひとつだけ、北の空にほとんど場所を移動しない星があるのをご存じですか」

 麗麗の言葉に、冥焔ははっと天を見上げた。

 「(りゅう)(きょく)(せい)か」

 「へえ、あの星は龍極星というのですね」

 前世の世界でいう北極星だ。ポラリスと呼ばれるくだんの星は地球の自転軸の延長線上にあり、夜空の中でただひとつ同じ場所に留まり続けているという。その北極星にも似た星が、焱国でも観測できるのである。

 転生直後、まだ戸惑いが多かった頃にこの星を見つけたとき、麗麗は無性に感動したものだ。

 自分が以前いた世界から隔絶され、絶望を覚えたときも何度もあった。見上げた天に既知の星座は見当たらず、闇の中で迷子になったような心もとない気分に襲われる夜も多かった。それでも天の動かぬ星は、この見知らぬ地が、理が通じる世界であるのだと麗麗に語りかけている。

 麗麗はその星をよく観察するようになった。控えめに輝く金の星は、北の空の同じ場所にあり続け、今も変わらずか細い光を届けている。

 「たとえ木の枝に遮られていたとしても、一度見つけた星は見失いません。星は嘘をつきませんから」

 運がよかったのは、麗麗たちが院子に入った場所が南側であった点だ。必然的に假山は北側に位置している。それを知っていたからこそ、星を見て大まかな位置を把握できたといえよう。

 麗麗の話を聞いて、皇帝は満足げに顎を撫で、ひとしきりうなずいた。

 「さすが、〝真実を追究する者(ガリレオガリレイ)〟だ。これからもその名に恥じぬ働きを期待しているよ」

 どうやら納得してもらえたようで、麗麗はほっと胸を撫で下ろした。もうこんな抜き打ちテストのようなことはこりごりだ。

 「さて」、と皇帝はちらりと冥焔を見る。冥焔もうなずき、なにやら視線で会話をすると、おもむろに言葉を落とした。

 「では、わたしたちはここで失礼する。わかっていると思うが、わたしがここにいたことは誰にも言ってはいけないよ」

 「(はい)

 もちろんである。というか、言えるわけがなかろう。

 「それでは、わたくしもこれにて御前を失礼いたします」

 そう、麗麗が揖礼を捧げたときである。

 耳元を、ひゅんとなにかが駆け抜ける。

 (えっ!?)

 頬にちりりとした痛みを感じ、思わず顔を上げようとしたところ、無理やり頭を押さえられた。

 「頭を伏せろ!」

 冥焔だ。

 (えっ!?)

 なにが起こっているのかわからない。腕を取られ、思いきり引っ張られ、冥焔の後ろにかばわれる。

 青灰色の袍越しに、茂みの中から黒衣の集団がぬっと現れるのが見えた。五、六人はいる。全員覆布をつけ、顔立ちはわからない。がっちりとした体形といい、一糸乱れぬ動きといい、訓練された兵であるのが見て取れた。

 「御身、預からせていただく」

 不届き者のひとりが声をあげた。野太い声だ。宦官のものではない。れっきとした成人男性の声である。

 (後宮に男……!?)

 不届き者たちが一斉に飛びかかった。その者たちの手が冥焔に伸びる瞬間、冥焔は瞬時に姿勢を低くし、男の腹に強烈な一撃をお見舞いする。

 「ぐっ……」

 くぐもった声が聞こえ、不届き者の足が鈍った。一瞬の隙をつき、冥焔は振り返ると麗麗の襟首をぐいっとつかみ、思いきり背後の茂みへと突き飛ばした。

 「っ……!」

 木の幹にしたたか体を打ちつけられ、一瞬息が止まる。目の前では、皇帝を背後にかばった冥焔が、不届き者たちに苛烈な蹴りを叩き込んでいた。

 不届き者の手から(いしゆみ)が落ちる。冥焔はそれを茂みの奥に蹴り込むと、改めて黒衣の集団に向き直った。

 (なっ、なっ……なにが起きてる!?)

 頬に手を当てると、暗闇でもわかるほどべとりと血の感触がした。黒衣の集団のひとりが放った弩が麗麗の頬をかすめたのだと気づいた瞬間、脳天まで突き上げるほどの恐怖が麗麗を襲った。

 なぜこんなところに、こんなやつらが。

 背後にかばわれた皇帝は懐に手を突っ込み、呼子(警笛)を取り出した。だがしかし、それに気づいた不届き者が皇帝に照準を変える。

 「鳴らさせるな!」

 皇帝に伸びた拳を冥焔が払う。吹く隙がないと見た皇帝は呼子をあきらめ、構えを取った。あとはもみくちゃの乱闘である。

 冥焔、皇帝は拳や蹴りを繰り出すが、多勢に無勢、黒衣の集団のほうが優勢だ。ふたりともすでに息が上がり、足が鈍り始めている。

 「どちらが皇帝だ!?」

 「かまわん、ふたりとも連れていけ!」

 このときはっきりと、麗麗は理解した。

 今自分は、この国の存続が危ぶまれるほどの危機を目撃しているのだ。なんとかしなければならない。例え自分が危険な目に遭ったとしても、危機を脱さなければならない。さもなくば、皇帝も、冥焔も、そして目撃者である自分も、命がない。

 (どうしよう……!)

 麗麗が恐慌していたのは、長い時間のようでその実一瞬である。回転を始めた頭脳はさまざまな問題をシミュレートしていく。

 弩を使うか? 冥焔が茂みに蹴り込んだ武器は、麗麗の近くにあるはずだ。だが、麗麗は弩の使い方を知らない。適当に取り扱って万が一皇帝や冥焔に命中したら目も当てられない。

 走って助けを呼ぶか。それは無理だ。この院子に人がいることはわかっているが、どこに誰がいるのかはわからない。偶然人に行き合ったとしても、宦官ならいざ知らず、女官は非戦闘員である。助けを求めたとて、自分同様役立たずであり、混乱させてしまえば事態の悪化を助長するだけだ。

 だが、と麗麗は爪を噛む。

 皇帝は、呼子を鳴らそうとしたのである。助かる見込みがあるからこそ皇帝は呼子を手に取ったはずだ。

 (……そうか、兵が来てるんだ!)

 いくら朗らかな皇帝とはいえ、身を守る術は固めているはず。おそらく、この院子のどこかに皇帝直属の戦闘員が紛れ込んでいるのだろう。呼子が鳴ったら駆けつけるようにと命じられているに違いない。で、あれば、麗麗ができることはただひとつ。

 (ええい、やるしかない!)

 どうせ死ぬなら、死なぬ努力をしてからだ。麗麗は頬を一度叩くと、茂みから思いきり立ち上がった。

 「呼子をこちらに!」

 冥焔が驚いたように麗麗を一瞥した。

 皇帝との視線がかち合う。麗麗の意図を読み取ってくれたらしい。皇帝は一瞬の隙をつき、呼子を高く放り投げたのである。

 (届けっ……)

 麗麗は駆け出し、必死に手を伸ばす。

 麗麗に気づいた不届き者が、こちらに向かって走り出すのが見えた。冥焔が焦りを顔に張り付けたまま、その男に蹴りを繰り出す。しかし、一度はひるんだ男は体勢を立て直すと、一気に麗麗へと距離を詰めた。

 男の手が伸びるも、麗麗はかまっている余裕がない。

 (お願い、届いて……っ!)

 手に呼子が当たった。そのまま握りしめたが遅かった。男に服をつかまれ、土の上に引きずり倒された。

 「痛っ……!」

 「(せん)()めが!」

 麗麗に馬乗りになった男が、拳を握りしめた。黒衣の上からでもわかる筋骨隆々な腕が思いきり振りかぶられるのを、麗麗はどこか冷静な頭で見つめていた。

 (あっ、やばい)

 これは、死ぬかもしれない。

 覚悟を決めた、そのときである。

 「(なんじ)ら、(ちん)を誰と心得る! 不敬であるぞ!」

 (えっ……!?)

 声をあげたのは皇帝ではない。冥焔だ。不届き者たちの視線が一瞬にして宦官に向いた。

 冥焔の視線が麗麗に飛び、麗麗は瞬時に悟る。

 好機を作ってくれたのだ。ならば──!

 呼子を口に当て、そして思いきり吹き鳴らした。!

 院子中に、緊急性の高い音が響き渡り、不届き者たちが色めき立つ。

 「しまった!」

 「この女卑め! 殺してくれる……!」

 「待て! 皇帝が先だ!」

 茂みの奥から、こちらへ向かってくる多数の足音が聞こえる。兵が来たのだ。

 盛大に舌打ちをした男が、麗麗の上から体を起こした。そのまま鋭い視線を冥焔へと送り、一気に距離を詰めた。

 冥焔の反応が遅れたのは、兵の足音にほんの少し気がゆるんだからなのかもしれない。男を視認する速度が一拍遅れた。だがそのひと呼吸で、男の拳は正確に冥焔の腹を捕らえる。

 「うっ……」

 くぐもった声をあげ、冥焔の体が地に沈んだ。その体を抱え上げ、不届き者たちは一斉に踵を返した。

 「めいえ──っ!」

 「だめだ……!」

 叫ぼうとした口を、駆けつけた皇帝に塞がれた。

 「呼んではいけない……!」

 (なんで……!)

 不敬を忘れじたばた暴れるも、皇帝は麗麗を離さない。

 激しい怒りが麗麗を貫く。自分を押さえているのがこの国の天子である事実は感情の防波堤にはなりえない。

 冥焔は、皇帝を(かた)ったのだ。謀反者たちの注意をすべて自分に向け、おそらく皇帝と麗麗を助けるために。そして皇帝の代わりに捕まった。

 (嫌だ……! 嫌だ、嫌だ!)

 あの集団がなんのために皇帝を拉致しようとしたのかはわからない。けれど、こんなやり方をする連中が、五体満足で皇帝を──皇帝を騙った冥焔を手放すとは思えなかった。

 行かせてはならない。逃がしてはならない。このままでは冥焔が死んでしまう。だから手を離してほしいのに、本物の皇帝は決してそれを許さない。

 「麗麗、こらえろ!」

 耳元で皇帝のひそやかな、それでいて切実な声が聞こえる。

 「あの人が死んでもいいのか……!」

 (えっ)

 思わぬ言葉に、目を見開いた。麗麗を羽交い絞めにしている皇帝の腕は強い緊張で細かく震え、唾を飲み込む音が間近に聞こえる。皇帝もまた、激しい感情をこらえているのだ。

 「……交渉の材料は残しておくべきだ」

 絞り出すようなその言葉に、麗麗ははっと息を呑んだ。

 (さら)ったのが宦官だとわかってしまえば、冥焔はその場で殺される。しかし、皇帝だと向こうが思っており、そして殺さず連れ帰ったのなら、その事実が冥焔の命綱にもなりえるのだ。

 (でも、それはそうかもしれないけどっ……!)

 理性と感情がばらばらだ。叫び出したい気持ちと、それをしてはいけないのだという気持ちがせめぎ合い、麗麗は低く(うな)った。

 黒衣の集団が完全に姿を消した頃、ようやく兵が姿を現す。

 「大家!」

 「大家はこちらか!」

 皇帝の姿を見てほっとしたのだろう、兵たちは一瞬息を吐く。しかし、皇帝は麗麗を羽交い絞めしたまま、兵たちを一喝した。

 「お前たちは玲沙妃を捕らえろ。今すぐだ!」

 「(はい)!」

 (玲沙妃!?)

 麗麗の驚愕をよそに、皇帝はさらに命を飛ばす。

 「もう一隊に急報。冥焔が連れ去られた。おそらくまだ院子にいるはずだ。一刻の猶予もない。追え!」

 「遵旨(承りました)!」

 緊急の鐘が打ち鳴らされ、落ち着いた院子が騒然とする。何事かと慌てふためく女官たちを尻目に、大量の兵が院子へとなだれ込んできた。

 だがしかし、高台にいたはずの玲沙妃の姿はすでにない。

 近くにいた妃たちの証言により、騒ぎのほんの少し前に席を外したことが判明した。

 急ぎ捕らえられた胡粉宮の女官たちは蒼白な顔で居場所は知らぬと否定する。

 宮の入り口には皇帝直属の宦官が詰めており、外に出たとは考えにくい。黒衣の集団の行方も(よう)として知れず、冥焔も見つからぬままである。

 各宮の妃、女官たちは宦官に守られながらそれぞれの宮へと戻り、胡粉宮の女官たちはすべて捕縛され、内獄へと引き立てられた。

 無人となった胡粉宮にて兵たちの必死の捜索が行われたが、玲沙妃も、そして冥焔も──未だ見つかる気配がない。

 そして、夜が明けた。