白蓮妃の宮のほとんどを建て直して作られた胡粉宮は、雪梅の言う通り、とんでもなく贅沢な造りだった。とはいっても、やはり華美な印象は受けない。柱や屋根の彫刻は紅木の木目を生かした花鳥風月の彫りがさりげなくほどこされ、以前の宮と比べるとかなり小ぢんまりとした造りである。
その分、とにかく院子が広く取られていた。建物の数倍はあるであろう広大な敷地には背の高い木がびっしりと植えられており、まるで森のようなありさまである。
この院子は白蓮妃の住まいにはなかったものだ。新しく造られた宮であるのは間違いないので、おそらくは計算されて植林されているのだろう。華やかな花木ではなく、自然な木々の様子を再現したような造りは、おおよそ中央では見ない形状の院子だ。この院子を好んでいるのであれば、玲沙妃はかなりの趣味人である。
(渋い趣味だよなあ。まだお若いんじゃなかったっけ。確か私と同じ、十五、六歳くらいって噂で聞いたけど)
例えるなら、『金閣寺』よりも『銀閣寺』。ハンバーグではなく肉じゃが、デコレーションケーキではなくお煎餅……。
考えていたらぐーっとおなかが鳴ってしまう。隣をしずしずと歩いていた雪梅がぎょっとした顔をして、肘でぐっと麗麗の腕を押した。
(不可抗力!)
腹だって減るさ、人間だもの。
朝からずっと準備準備で、なにもおなかに入れてないのだ。なぜ他の皆は平気なのかと疑問に思う麗麗である。
案内されたのは広い房だった。どうやらここがいわゆる貴賓室兼客間らしい。調度品は皆、慎ましやかながらも格調高く、まるで寺院を連想させる。そして珍しいことに香の香りがしない。以前も思ったが、この妃は自然のままがお好きな方なのだろう。
房の壁際には、女官が数名控えていた。白の衣装を着ていることから、玲沙妃の女官であるとわかる。そして……。
(げっ)
警護のためだろう、入り口近くに控えた数名の宦官の中に見知った顔を見つけて、麗麗は思わず顔をしかめた。仕方ない。もう反射でそうなってしまうのだ。
向こうもこちらに気づいたらしく、目がかち合い、ややあってふいっと逸らされる。
(そりゃまあ、いるか。四夫人そろい踏みの茶話会だもんね)
目を背けた宦官はもちろん冥焔である。相変わらず整った顔で口を真一文字に引き結ぶ姿たるや、なんとも厳めしい。甘いお茶菓子も苦くなりそうな渋い顔つきである。
玲沙妃もすでにその場に待機していた。
「淑妃・瑛琳様にご挨拶申し上げます。ようこそお越しくださいました」
「お招きいただきありがとうございます」
揖礼を捧げている袖の隙間から、麗麗は目の前の妃を観察する。
こちらが礼を捧げる前に膝を折り、優雅に礼を取る玲沙妃は、とても可憐な人だった。
胡人である黎蘭妃ほどではないが、玲沙妃もとても色素が薄い。玉のような白い肌に、茶味を帯びた髪の対比が美しい妃だ。目は丸みを帯びた形で、派手さはないが愛らしい印象を受ける。はにかんだ笑みにはほんの少しの緊張が浮かんでおり、まるで幼い少女のような印象を受けた。
(この方が、毒婦……?)
花園で一度お見かけはしているが、あのときはじっくり観察する余裕がなかった。今こうして対峙すると、輿での発言や噂との印象がちぐはぐだ。
人は見かけによらないと言うが、いやいやしかし。あまりにも違いすぎるではないか。
貴妃・黎蘭、賢妃・玉璇もやってきて、いよいよ四夫人勢ぞろいである。
女官たちは壁際へ寄り、いつでも妃たちの手伝いができる位置へと移動した。
玲沙妃が挨拶を女官に述べさせ、茶をそれぞれの椀に入れる。毒味も終わり、いよいよ茶話会の始まりである。
頼むから何事も起こらず、和やかな雰囲気で終わってほしい。麗麗の願いを打ち砕いた方は、もちろんこの方だった。
「ところで玲沙様。借りぐらしはさぞつらかったでしょうね。聞けば中級妃の殿舎に房を与えられていたのですって? あのような場所に、四夫人の冠を与えられた妃が一時の間でも住まうだなんて、なんて不憫なと思っておりましたのよ」
舌鋒鋭く、あからさまな侮蔑の響きを言葉に乗せたのは後宮の虎……もとい、玉璇妃である。本日も絶好調に煌びやかな妃は、歩揺をじゃらじゃら言わせながら赤い唇に皮肉げな笑みを浮かべている。
玉璇妃の言葉に、玲沙妃は小首をかしげて口を開いた。
「ご心配いただきありがとうございます。不慣れな身ではございますが、妃様方皆様に大変親切にしていただきまして、おかげさまで楽しく過ごさせていただきました」
にこりと花が咲いたような笑顔である。
玉璇妃はぐっと言葉に詰まったようだが、さらに笑みを深くした。
「そういえば、もう大家とはお会いになられたのでしたっけ? 大家と旧知でいらしたとはいえ、昔と寸分違わぬ調子でお言葉を交わせるなど、並の方にはとても真似できません。どうすればそれほど気安くお振る舞いできるものなのかしらと、気になってしまいまして。ぜひ、ご教示いただきたいわ」
(こっわあ)
本当にこの『珊瑚宮』の小主は、人を怒らせるのが天才的にうまいのだ。いくら蹴落とし合いが常であるとはいえ、この妃の棘は全方向に向いている。美しい花に棘は付きものとよく言うが、薔薇ではなくて雲丹だなこれは、と余計なことを考えてしまう。
だがしかし、玲沙妃はどこ吹く風で受け流す。
「ご教示だなんて、とんでもないことでございます。わたくしはただ、昔からのご縁に甘えているだけで……。それを咎めずに受け止めてくださる大家と、こうして気にかけてくださる皆様に、感謝いたします。もし不調法がございましたらすぐに改めますので、こちらこそ、ご指導いただけますと嬉しいですわ」
(あっなるほど)
わかった。この妃、めちゃくちゃ頭がいいのだ。玉璇妃の言葉が嫌みだとわかったうえで、自分に刃を向けにくくなるよう真綿でくるんで返している。高度な話術である。
これには玉璇妃も毒気を抜かれてしまったらしい。どうしたらいいのかわからないといった風情で唇を震わせ、眉を無理やり上げて「そんな、ほほほ」と笑った。
その後、それぞれの妃たちが己が選ばせた贈り物を披露し合った。
それにしても、玲沙妃は大変褒め上手である。
「玉璇様、ありがとうございます。この披帛、貝片が縫いつけてあるのですね。素晴らしいですわ。動くたびに輝いて、夢のようです。これほどまでに煌びやかな披帛、わたくし手にしたことがございません」
と、玉璇妃が贈った披帛を手に取り頬を紅潮させ、黎蘭妃が直々に選んだという贈り物には手を打って喜んだ。
「まあ! これは鏡ですわね。それに見事な櫛……! このような細かな彫り、初めて見ますわ。さぞ名の通った匠人の手なのでしょうね! ありがとうございます!」
そして、瑛琳妃が簪を取り出すと、目を光り輝かせて満面の笑みになった。
「紅木の簪ですか? なんて美しいのでしょう……! 木目も艶もこれほどまでに鮮やかな簪、初めて見ました。瑛琳様の女官は素晴らしい目をお持ちでいらっしゃいますね。今この場で挿してみても?」
「もちろんですとも」
瑛琳妃がうなずくと、玲沙妃は頬を興奮で染めながら、女官に簪を挿してもらった。
雪梅の横で、香鈴が顔を赤くしながら小さく拳を握りしめたのが見えた。その場で贈り物を身につけるということは、最も気に入ったと暗に主張する行為である。
(よかったねえ……)
すっかり自信喪失したと思われる香鈴だったが、完全復活を遂げてなによりである。
それから茶話会は各妃方の内心はともかくとして穏やかに進んでいった。
玲沙妃はそれぞれ妃たちが持参した菓子をおいしそうに口にし、それぞれに感想を述べて妃たちを喜ばせた。もちろん、花里の作ったキャラメルもどきも大好評を博したものだ。また、玲沙妃は貴重な飲み物と称して氷入りの茶を振る舞った。実家が氷室を有しており、暑さをしのぐために運ばせているのだという。これには妃たちも驚いたようで、目を輝かせながら冷たさを楽しんでいる。
玲沙妃は希有な輝きを持つ妃だ。幼い少女のような風貌も相まって、敵愾心が湧きにくいのである。自分の強みを活かしていると言ってもいい。これを計算でやっているのだとしたら、恐ろしい妃だと思う。
茶話会も終盤といったところか。皆の緊張もほぐれてきたところで、玲沙妃が『そうだ』、といった風情で手を叩いた。
「わたくしから皆様に、おもしろいものをお見せしたいと思います」
ちらりと横に控えていた女官に目配せし、なにかを取ってこさせた。
その女官が手にしていたのは、麗しい茶器である。白の陶器でできており、見ただけで高価なものだとわかる。蓋には見事な瑞獣が彫り込まれていて、鑑賞品としても優れていた。
しかし、玉璇妃にとっては取るに足らないものらしい。ちらりと一瞥すると、鼻を鳴らして笑った。
「まあ。それが〝おもしろい〟ものですの? ずいぶんと素朴な茶器でいらっしゃいますわね。わたくしの宮では見たことがございませんので、大変興味深いですわ」
これはかなりわかりやすい。地味で平凡な茶器だと言っているのだ。
(ほんっとにこの人、嫌みばっかだな)
きらきら光っていれば高価であり、その他のものは皆取るに足らないとでも思っているのだろうか。まさか前世は烏なのではあるまいな、などと、麗麗が少々失礼なことを考えているうちに、玲沙妃は話を進める。
「実はこの茶器には仙術がかかっているのです」
玲沙妃の言葉に合わせて、女官たちが卓子の上に三つの椀を置いた。そして、その椀のひとつにお茶を注いでみせる。いたって普通の、ほこほこと湯気の立つ黒色をした茶だ。
「このお茶に仙術がかかっているのですか? それともこれから仙術を?」
(おっと、乗り気だ)
瑛琳妃が身を乗り出して口を開いた。この妃が実はこういったおもしろい出来事に目がないのは麗麗も最近知った意外な一面である。普段が大人っぽいだけに、瑛琳妃が目を輝かせると途端に年齢相応の可愛らしさが出る。
本当に仙術だと信じきっているわけではない。手妻であるとわかったうえで、仙術という口上を含め楽しんでいるのだ。瑛琳妃は本当に怪しいと思うものには近づかないし、反応もしない。それが明確にわかるからこそ麗麗は安心して見ていられる。
玲沙妃も瑛琳妃が合わせていることを承知したらしく、口元を隠しふふっと恥ずかしそうに笑みをこぼした。そうして、ことさらもったいぶってわざとらしく咳払いをし、視線で女官に指示を出した。女官も心得ているようで、先ほどと同じように茶を別の椀に注ぐ。すると。
「おおっ! 色が!」
さっきは黒の茶だったのが、乳白色の茶になっている。
「では、最後の茶を入れてみましょうか」
玲沙妃の声に合わせて、女官が三つ目の椀に茶を注いだ。茶の色は先ほどの濃い色でも、乳白色でもなく、その中間の色をしていた。
(へえ~!)
麗麗の喉がごくりと鳴る。おそらく、この仙術の種は茶器である。
(きっとあそこがああなって、それでこうなってるんだろうな~! 実際に使われてるのは初めて見たけど、うん、多分そう……!)
手元さえ見られればもっと詳細がわかるのに!と目を輝かせ、身を乗り出そうとした麗麗の袖を雪梅がぐっとつかんだ。
この女官、だいぶ麗麗の扱いに慣れてきたらしい。こういう場面で麗麗が突拍子もないことをしでかすのだと学んでいるようである。
実際、危ないところではあったので、素直に雪梅に従っておく。麗麗の首はこの世話焼き女官によって繋がっていると言っても過言ではないかもしれない。
一方で感嘆の声をあげたのは瑛琳妃だ。
「すごい! 同じ茶器なのに、なぜこんなふうになるのでしょう? これが仙術ですか」
瑛琳妃の目が最大級に輝いている。頬を軽く紅潮させ、まじまじと椀を見つめていた。反対に、玉璇妃は狐に化かされたような、驚愕ともおびえとも取れる表情である。
「こ、こんな怪しげなものを持ち込むなんて品位が感じられませんわね。わたくし、このようなものを楽しむなんてできません」
口では強がりを言っているが、目は泳いでいるし、顔はやや青ざめている。なるほど、さては玉璇妃、こういう摩訶不思議に見える出来事には弱いとみた。
(あっ、前回の絞鬼事件のやつ……)
玉璇妃が冥焔を呼びつけ、ふたりで話をしたいと言っていた件を思い出す。
(あれって、まじでおびえてたんじゃ)
だとしたら悪いことをした。おそらくこの妃、かなりの臆病者なのだろう。本当に幽鬼の噂に恐れおののいていた可能性があると思ったら、なんだかこのいけすかない妃もやたらと可愛らしく見える。
(今度なにか仕掛けてきたら、やり返しちゃおっかなぁ)
実行すれば下手したら処刑されるであろう案件だが、想像の翼は自由だ。頭の中でああでもないこうでもないと〝玉璇妃おどかし大作戦〟を考えていたら、雪梅からまた肘でつつかれた。顔に出ていたらしい。
両極端な妃の反応を前に、ひとり冷静なのは黎蘭妃だ。陶器の茶器をしげしげと眺め、そして──かすかに眉を寄せた。
(ん?)
少し気になる表情である。だがしかし、それとつかむ間に一瞬見せた感情は消え元の面に戻る。そしてとんでもないことを口にしたのである。
「瑛琳妃。あなたの女官は怪を解くと有名ですね。大家より号を賜ったと伺っておりますが」
(んんっ?)
どきりと胸が跳ねる。
「その女官がこの仙術をどう解くか、わたくしは気になります」
(おいっ……! なんつーことを言い出すのさっ!)
黎蘭妃の言葉に乗ってきたのはもちろん、玉璇妃だ。
「わたくしも女官の話は伺っておりますわ。なんでも下級女官からわざわざ召し上げたという話ではありませんか。瑛琳様の先見の明は素晴らしいと我が宮でも噂しておりますのよ」
(嘘つけーっ!)
邪魔者扱いしたうえに、『鼠』と言われたのを忘れてないぞ。
しかし困った。これはおそらく、麗麗……もとい瑛琳妃が試される場なのではなかろうか。
冥焔の表情がどんどん険しくなっていく。隣で雪梅の体が緊張で強ばり、その横に控えている香鈴、花里からも緊張感が伝わって、ますます間違いではないのだという思いが募る。
黎蘭妃の真意は不明だが、玉璇妃は明らかに戦闘態勢に入っているようで、唇に嫌な笑みを浮かべていた。本当に懲りない。好戦的な妃だなとある意味感心する。
玲沙妃はほんの少し慌てたように瑛琳妃に視線を送ると、可憐な声を震わせた。
「まあ、そうなのですか。あいにくまだ情報には疎く、存じ上げずに失礼しました。そのような力を持つ女官がいるのは頼もしいですわね。もしその女官がこの仙術を解けるというならば、わたくしも拝見してみとうございます。けれど……いかがでしょう?」
うかがうように瑛琳妃の顔を見る玲沙妃の表情には、大きく【心配】と書かれている。
おそらく、玲沙妃の『存じ上げず』は嘘だ。彼女の立場で現在の後宮の状況を耳に入れていないとは考えづらいし、麗麗と冥焔は彼女が入内してからも何度も怪を解いている。その都度、噂になっていたのは麗麗も把握しているので、入内したばかりで情報に飢えているであろう玲沙妃の耳に入らないはずがない。
だから、玲沙妃が気にしているのは瑛琳妃の面子が保てるか否かなのだろう。
瑛琳妃からちらりと視線をいただく。この話を受けていいのかと暗に尋ねているのだ。どうしようかと迷い冥焔に視線を送ると、当の宦官は素知らぬ顔である。
こんなふうに試されるのもこの宦官のせいだというのに、他人事とはなんたることか。今に見ておれと心中穏やかではない。
幸いなことに茶器の仙術には見当がついている。解くというほどのものではないのだが。
(まあ、それで瑛琳様の評価が上がるんならね)
麗麗の表情を見て、瑛琳妃はふっとまなじりをゆるめた。
「承知いたしました。では、麗麗」
「はい」
揖礼を捧げながら、麗麗は前に進み出た。
「玲沙妃。女官の発言を許してもよろしいか」
瑛琳妃の言葉に、玲沙妃は微笑みうなずいた。
「もちろんでございます」
それでは、と麗麗は顔を伏せたまま進み出ると、瑛琳妃の〝免礼〟の言葉を待ってから揖礼を解いた。
玲沙妃の女官たちが、新しい椀を三つ用意してくれた。これに新たに茶を入れてみせよということなのだろう。
「では、調べさせていただきます」
茶器を持ち上げた。中身はまだだいぶ残っているようで、ちゃぷちゃぷと音がする。
高価そうな茶器であると思ったが、やはりそうだ。間近で見る彫刻の細かさたるや他の追随を許さない。白い陶器は手に吸いつくようになめらかで、つやつやと光り輝いている。玉璇妃は地味だと言っていたがとんでもない代物である。さすがは四夫人の持ち物といったところか。
麗麗は深呼吸する。そして、もう一度しっかりと茶器を持ち直し、そっと上に掲げてのぞき込んだ。
(やっぱり!)
麗麗の表情が興奮に輝いた。こんな珍しい代物、前の人生ならば国を飛び出して他国の博物館にでも行かなければ見られない。
(転生してよかったあ……!)
「女官。どうなのです。仙術は解けましたか」
そう言う黎蘭妃の冷たい表情など、おかまいなしだ。もう麗麗の頭の中はこの茶器でいっぱいになっている。わくわくしながら茶器を掲げ、卓子の前に立つ。そしてその興奮のまま口を開いて、元気いっぱいに答えを出した。
「これは、『暗殺者の茶器』です!」
「あんさつしゃ」
ぴしっと空気が凍った。
だがしかし、麗麗は気づかない。もう一度茶器に触れ、うっとりとした瞳でその取っ手を撫でている。
「この茶器、二重構造になっているんです。注ぎ分けができるような造りになっているんですよ。取っ手部分の上下に穴が開いていて、この片方を押さえて茶を注ぐと、なんと片方の注ぎ口からは茶が出ない仕組みなんです。本当に素晴らしい茶器……」
はっと麗麗は口を閉ざした。
玲沙妃の笑顔が固まっている。黎蘭妃の表情は氷点下まで下がり、瑛琳妃は軽く人差し指で自らのこめかみを押さえてため息をついている。玉璇妃はその赤く色づいた唇をあんぐりと開けて、麗麗の顔を凝視していた。
冥焔にいたっては片手で頭を抱え、まるで見てはいけないものを見てしまったかのような反応をする。
壁際に控えていた女官たちは一斉に青ざめていた。雪梅などはもう倒れそうなありさまだ。
さすがに気づいた。麗麗の背中から冷たい汗が吹き出し、喉があっという間に渇いていく。
(『暗殺者の茶器』って言っちゃった……!)
よりによって、四夫人の持ち物に。信じられない不敬である。考えうる中で最大の失態に、一気に顔から血の気が引いた。
麗麗はそっと茶器を卓子の上に戻した。そして、ぎくしゃくとしながら揖礼を捧げる。
「し、失礼いたしました! そのっ……この茶器が実際に暗殺に使われたというような意味ではなく、単にそう呼ばれるのだと、それだけでございまして! 決して、決して含むところはございません! 本当に、まったく! 他意はなくてですねっ!」
(下手かよ……っ!)
口を開けば開くほどよろしくない言葉がまろび出てしまう。絶望で胸がいっぱいだ。
もう本当にこの口が悪い。頭から口まで直通なのがいけない。なぜもっと慎重に言葉を発することができないのかと、自分で自分に腹が立つ。
「女官。名は確か、麗麗と言いましたね」
玲沙妃の言葉が麗麗に届く。
ああ、終わった。二回目も短い人生だったなあなどと、あきらめかけていたときである。
突然、がしっと手のひらをつかまれた。
「そう、まさしくそうなのです!」
「へっ……あ、あの!?」
なんと玲沙妃が麗麗の手をしっかりと握りしめている。
「さすが瑛琳様の女官。慧眼をお持ちなのですね」
「り、玲沙様?」
これには瑛琳妃も驚いたようで、めったに見ないような驚愕顔である。玲沙妃はおかまいなしに、握りしめていた麗麗の手のひらをそっと離し、励ますように肩に手を置いた。
「確かにこの茶器は『暗殺者の茶器』と呼ばれています。まさか知っていたとは思わなかったわ」
「あ、ありがとうございます。けれど、失礼ながらなぜ玲沙様ともあろうお方が、そのような代物を持っていらっしゃるのでしょう」
(待て待て! 止まれこの口っ……!)
ほっとした拍子にまろび出る言葉を自分の意志では止められず、麗麗は言葉を次々と紡ぎ出す。
「その茶器はまったく別の種類の茶を注ぐことが可能です。それはつまり、名前の通り〝暗殺〟に使われてもおかしくはないのです。確かにとても美しい茶器ではありますが、玲沙様のお立場では所持するだけでも危険なのではないでしょうか。万が一、主上の耳に入ったら、あらぬ疑いをかけられてしまうやもしれません。早急に手放すことをおすすめいたします」
(お、終わった……)
せっかく許してもらえそうな空気なのに、自らぶち壊してしまった。
だがこれが真実、本心でもあった。
一時の興奮が過ぎ去ったあとに心配したのは、玲沙妃の無邪気さである。もしこの茶器を皇帝の前で使ったらどうなるか、そして皇帝がその可能性に気づいたらどうなるか。想像するだに恐ろしい。
見て見ぬふりができたはずなのに、それをよしとはできなかった。くそ真面目な性格、ここに極まれりである。
しかし玲沙妃はなぜか明るく笑っている。
「素直なところも気に入りました。わたくしの心配までしてくれて、あなたはとても情の深い女官なのですね」
玲沙妃の言葉に、玉璇妃が眉を跳ね上げて抗議する。
「玲沙様。なにを甘いことをおっしゃっているのです? その女官が不敬な言葉を口にしたという事実を追及なさるべきです。あろうことか、今この女官は大家への暗殺疑惑をあなたにかけているのですよ!」
それは違う、と麗麗は咄嗟に顔を上げそうになり、ぐっとこらえた。自分の発言をそう取られてもおかしくはないと判断したためだ。
玉璇妃はなおも眉をひそめ、唇をゆがめて嘲笑した。
「たとえどんな状況下においても、僕が上位の者に不敬な言葉をかけるなど許されてはおりません。小主のしつけがなっていないと、わたくしなら判断いたします。許すだなんて、言語道断ですわ」
「あら。けれどその女官を無理やり引っ張り出したのはわたくしたちです」
玲沙妃の言葉に、周囲の女官たちの緊張が少しだけ解けた気配を感じる。風向きが変わってきたのを感じたのだろう、玉璇妃は忌々しそうに舌打ちをした。
玲沙妃はなおも言葉を重ねる。
「それに、女官の処罰はわたくしたちが決めることではございません。この女官が仕えているのは瑛琳様でございます。──瑛琳様、いかがなさいますか」
麗麗の心臓がどきりと鳴った。
自分の感情に戸惑い、麗麗は思わず瑛琳妃の瞳を袖の隙間から見返した。
瑛琳妃は無表情で麗麗を見つめている。その瞳が無性に恐ろしくなり、麗麗は目を伏せる。
今回の件、麗麗は間違ったことを言ってはいない。この茶器を所持しているという事実は、皇帝に近づく権利を持つ四夫人にとって致命的になりかねない。だから、その事実を指摘した点に関して後悔はしていない。そのはずなのに、麗麗を襲ったのは恐怖だった。
不思議なことに、罰せられるかもしれないという恐ろしさではない。麗麗が恐怖を覚えているのは、瑛琳妃の感情だ。誤解され、幻滅されるのが怖い。
前世では、このような執着を感じた覚えはなかった。誤解されてもかまわない、自分は正しいのだから、それがわからない者とは付き合うだけ無駄であると、いっそ傲慢とも思えるような思考でいたはずだ。
「そうですね」
瑛琳妃の低めの声が耳に届き、麗麗は体を硬くする。
「確かに麗麗の言葉は悪い。この場にふさわしいものではございません。その点については私も認めましょう」
「では、厳重な処罰を──!」
玉璇妃の嬉々とした口調に対して、瑛琳妃は首を横に振った。
「しかし、この娘は私の僕でありながら、もうひとつの側面を持つ女官です。大家の信も厚い冥焔が評価し、大家もその評価が妥当であるとお認めになり、この女官に号をお与えになりました。真実を見抜く目と信念を持つ娘〝ガリレオ〟という名を贈ったのは皆も知っていることでしょう」
瑛琳妃はことさらゆっくりと立ち上がり麗麗の前に立った。
「このような場で真実を述べるのは難しい。けれどこの娘は信念を取り、自らの立場をはっきりとさせました」
「え、瑛琳様……」
「今後も私たちにおもねることなく、自らの信念に忠実に従い、その目で大家の、ひいては国の助けになってほしい。大家もそれをお望みでしょう。いかがかな、冥焔」
話を振られた冥焔は揖礼を捧げ、重々しく口を開いた。
「誠に仰せの通りにございます。大家はこの女官に、〝真実を追究する者〟の名をお与えになりました。もしこの場において女官が権威におもねる振る舞いを見せたならば、それこそ反逆の意ありと責められるべき所業。ゆえに、わたくしも瑛琳様と同じく、この女官の言葉は評価に値すると判断いたします。大家におかれましても、同様にお考えでありましょう」
麗麗の胸にじわじわと喜びが広がっていく。
「あ……ありがとうございます」
それが精いっぱいの返事だった。うかつなことを言うと泣いてしまいそうだ。
玉璇妃はあからさまに嫌そうな顔をすると、「ふんっ」と鼻を鳴らして口元を覆う。黎蘭妃はなにを考えているのかわからないような表情のなさである。ただひと言だけ、「瑛琳様がそうおっしゃるのなら」と口にした。
玲沙妃はほっとしたようににこりと微笑み、両の手を胸の前で合わせた。
壁際へと戻るように瑛琳妃に促される。おとなしく従うと、雪梅たちが鼻の頭を真っ赤にしていた。心配をかけてしまったのだと思うと、なんだか。胸がいっぱいだ。
麗麗の目からこらえきれなかった涙がぽろりと落ちる。
雪梅は目尻に涙をためながら、そっと巾を麗麗に渡した。ありがたくそれを使い、水分をぬぐう。本当に心配をかけてしまった。あとで謝ろうと心に誓う。
さて、と瑛琳妃は席に戻ると、場を切り替えるように玲沙妃に話しかける。
「こちらの茶器ですが、”暗殺者の茶器”とは穏やかではありませんね。なぜこのようなものをお持ちなのか、伺ってもよろしいか」
言葉はまるで玲沙妃を責めているようだが、表情は柔らかい。玲沙妃を攻撃するつもりはないと暗に示しているのだ。このあたり、瑛琳妃は大変お上手である。
玲沙妃はその瑛琳妃の意向をしっかりと汲み取って、同じく笑みで返した。
「わたくしの家では、父の意向でこういった物がよく使われるのでございます。自分の身は自分で守れと父はよく申しておりました。曰く、『こういった道具があるという事実を、知識として持っておくとよいのだ』と。『いざというときに身を助くことになるだろう』と」
「なるほど。確かにそれは有益ですね」
理には適ってるよなと鼻をすすりながら麗麗は考える。
罠に落ちないためには、罠を知り尽くす必要がある。事前に知識を持っておけば避けられる不幸はあるものだ。
玲沙妃は小首をかしげて話題を変える。
「そういえば、最近は後宮内でもおかしな事件が起こっていると聞きました。幽鬼が出るとか、呪いがはびこっているとか……」
玉璇妃がびくりと体を震わせた。
「そ、そんなもの! あるわけございません」
「玉璇様は信じておりませんのね。本物の幽鬼を見たことは?」
「あるわけないでしょう!」
おっと、ではやはりあの絞鬼事件の際に、『幽鬼が出た』というのは玉璇妃の嘘か。それとも単に怖くてそばに人を置きたかっただけなのか。きっと後者なのだろうなあと、麗麗は心の中で一人うなずく。
「黎蘭様はいかがです? 幽鬼の存在を信じますか」
玲沙妃は柔らかく微笑み、黎蘭妃に話を振った。黎蘭妃は冷たい瞳を玲沙妃へと向けると、淡々と言葉を落とす。
「信じる信じないではなく、彼らはおりますから。わたくしの故郷では、幽鬼はすぐ隣に潜むものでした。共に過ごすのが当たり前。いる、いないの議論が起こる土壌は存在しません」
この話にはその場にいる人すべてがぎょっと目をむいた。玲沙妃もその例に漏れず、驚いたように声をあげる。
「まあ、そうなんですか」
「ええ。例えば、そう……鬼火」
黎蘭妃はちらりと視線を上げた。
(んっ?)
目が合ったように思えたのは、気のせいだろうか。
「鬼火が現れるのは幽鬼がさまよっている証左です。幽鬼は鬼火や怪音と共に現れ、城の主を苦しめます。そうして弱らせ、やがて死へと導く。自らの意志とは関係なく主人を殺めるためだけに存在する……運命にあらがえない、哀れな殺人者なのです」
(おいおいおい)
これはまさか、冗談のつもりなのか。
(いや、違うなこれ)
黎蘭妃の表情はぴくりとも動いていない。本気で言っているのだ。
壁際の女官たちの顔が恐怖で引き攣っている。怖がりの玉璇妃は言わずもがなだ。瑛琳妃も心なしか眉を寄せ、心配そうな表情である。
しかし、玲沙妃は違った。目を輝かせ、身を乗り出して黎蘭妃の話に食いついた。
「まあ、恐ろしいですね。実を申しますと、わたくし、幽鬼の話を好んでおりますの。もちろん、害の少ないものに限りますけれど」
「害の少ない幽鬼とは、例えば?」
瑛琳妃の言葉に、玲沙妃はくすっと笑った。
「〝鬼作楽〟をご存じですか」
はて、と麗麗は内心首をかしげる。聞いたことがなかった。だが、他の人たちは皆知っているらしい。瑛琳妃がほんの少しだけわくわくとした顔で答えた。
「人を道に迷わせる幽鬼でしょう」
「はい。実はわたくし、この宮の院子に鬼作楽を住まわせているのです」
(んっ……?)
なにを言い出すのだろう。しかし玲沙妃は目を輝かせて話し続ける。
「わたくしの院子は少々おもしろい造りになっておりますの。昼間はなんともないのですが、夜になると道に迷う者が出るんですのよ。それで、『鬼作楽が棲んでいる』と女官たちの間で話題になっているのです」
ああなるほど、これは玲沙妃の軽口である。『たぬきか狐に化かされたね』という冗談の、焱国バージョンということだろう。
「けれど、実際に道に迷うのであれば害がないとは言えないのではないですか」
瑛琳妃の当然の疑問に、玲沙妃はくすくすと笑う。
「確かに、道に迷うという意味ではそうですわね。けれど、わたくしの院子には池も橋もございませんし、段差もないように造っております。女官たちも怪我をした者はおりませんし、身の危険を感じる者はほとんどいないはずですわ」
(ふうん……)
昼は迷わず、夜に道に迷うというと……と麗麗の頭の中にいろいろな可能性が浮かんでは消えていく。
「もしご興味がございましたら、そうですわね。もう少し季節が進んだ頃……夏にでも、ぜひ院子にいらしてくださいな」
「ぜひお邪魔させていただこう」
茶目っ気たっぷりに微笑む玲沙妃に、瑛琳妃も笑ってうなずいた。そのときである。
「それはぜひ、わたしも伺ってみたいな。いっそ皆を呼び宴にするのはどうだ。本当に道に迷うのか否かの検証をしてみたら、おもしろい夕涼みになりそうだ」
第三者の声に驚いて振り返ると、そこにいたのは……。
「大家!」
玲沙妃の声に、慌てて全員が揖礼を捧げた。妃たちも立ち上がり、それぞれ礼を取る。
(な、な、なんで主上がここに!?)
いや、おかしくはないか。なにせ四夫人の茶話会である。この場の様子を見に皇帝が来ることもあるだろう。だがしかし、あまりにも突然の出来事に驚きすぎて息が止まりそうになる。本当に、この皇帝は心臓に悪い。
入り口で揖礼を捧げていた冥焔が慇懃に言葉を落とす。
「大家、本日茶話会への出席は予定されておりません。いかなるご用向きにて、こちらへお越しでございましょうか」
「そりゃあ、皆の顔を見たいからだよ。別にかまわないだろう?」
(圧倒的自由!)
まさか冥焔も知らない予定だったとは。この皇帝、自由にもほどがある。皇帝は愉快そうに笑い声をあげると、礼を捧げる皆に朗らかに告げた。
「わたしもその”鬼作楽”とやらを見てみたい。宴を開催する。諸官に命じ、万事抜かりなく整えよ!」
「大家! そんな、子どものような思いつきをおっしゃられては、玲沙妃がお困りですよ」
麗しい宦官の諫める声を受けて、玲沙妃が進み出た。揖礼を捧げながら、かの妃は楽しそうに声をあげる。
「いえ、大家にお越しいただけるなんて、わたくし光栄に存じます。宴もまた、誠に興味深い趣向にございますし、わたくしも心より楽しみにしておりますわ」
「玲沙妃!」
冥焔が慌てた声をあげるが、玲沙妃は引き下がらない。当然だ。自分の宮の院子に皇帝を呼び、大々的に催しができるなど好機以外のなにものでもないだろう。しかも当の本人から言い出してくれているのだから、〝諾〟か〝イエス〟しか選択肢はないのである。
ここは後宮。皇帝の竜のひと声ですべてが決まる場所だ。
そういうわけで、あれよあれよと夏の宴が決まった。
場所は玲沙妃の院子で、開催は夜。上級妃は全員参加が義務づけられる大々的な宴である。
なんだか大変なことになったなあと、内心でこっそり天を仰いだ麗麗であった。
その分、とにかく院子が広く取られていた。建物の数倍はあるであろう広大な敷地には背の高い木がびっしりと植えられており、まるで森のようなありさまである。
この院子は白蓮妃の住まいにはなかったものだ。新しく造られた宮であるのは間違いないので、おそらくは計算されて植林されているのだろう。華やかな花木ではなく、自然な木々の様子を再現したような造りは、おおよそ中央では見ない形状の院子だ。この院子を好んでいるのであれば、玲沙妃はかなりの趣味人である。
(渋い趣味だよなあ。まだお若いんじゃなかったっけ。確か私と同じ、十五、六歳くらいって噂で聞いたけど)
例えるなら、『金閣寺』よりも『銀閣寺』。ハンバーグではなく肉じゃが、デコレーションケーキではなくお煎餅……。
考えていたらぐーっとおなかが鳴ってしまう。隣をしずしずと歩いていた雪梅がぎょっとした顔をして、肘でぐっと麗麗の腕を押した。
(不可抗力!)
腹だって減るさ、人間だもの。
朝からずっと準備準備で、なにもおなかに入れてないのだ。なぜ他の皆は平気なのかと疑問に思う麗麗である。
案内されたのは広い房だった。どうやらここがいわゆる貴賓室兼客間らしい。調度品は皆、慎ましやかながらも格調高く、まるで寺院を連想させる。そして珍しいことに香の香りがしない。以前も思ったが、この妃は自然のままがお好きな方なのだろう。
房の壁際には、女官が数名控えていた。白の衣装を着ていることから、玲沙妃の女官であるとわかる。そして……。
(げっ)
警護のためだろう、入り口近くに控えた数名の宦官の中に見知った顔を見つけて、麗麗は思わず顔をしかめた。仕方ない。もう反射でそうなってしまうのだ。
向こうもこちらに気づいたらしく、目がかち合い、ややあってふいっと逸らされる。
(そりゃまあ、いるか。四夫人そろい踏みの茶話会だもんね)
目を背けた宦官はもちろん冥焔である。相変わらず整った顔で口を真一文字に引き結ぶ姿たるや、なんとも厳めしい。甘いお茶菓子も苦くなりそうな渋い顔つきである。
玲沙妃もすでにその場に待機していた。
「淑妃・瑛琳様にご挨拶申し上げます。ようこそお越しくださいました」
「お招きいただきありがとうございます」
揖礼を捧げている袖の隙間から、麗麗は目の前の妃を観察する。
こちらが礼を捧げる前に膝を折り、優雅に礼を取る玲沙妃は、とても可憐な人だった。
胡人である黎蘭妃ほどではないが、玲沙妃もとても色素が薄い。玉のような白い肌に、茶味を帯びた髪の対比が美しい妃だ。目は丸みを帯びた形で、派手さはないが愛らしい印象を受ける。はにかんだ笑みにはほんの少しの緊張が浮かんでおり、まるで幼い少女のような印象を受けた。
(この方が、毒婦……?)
花園で一度お見かけはしているが、あのときはじっくり観察する余裕がなかった。今こうして対峙すると、輿での発言や噂との印象がちぐはぐだ。
人は見かけによらないと言うが、いやいやしかし。あまりにも違いすぎるではないか。
貴妃・黎蘭、賢妃・玉璇もやってきて、いよいよ四夫人勢ぞろいである。
女官たちは壁際へ寄り、いつでも妃たちの手伝いができる位置へと移動した。
玲沙妃が挨拶を女官に述べさせ、茶をそれぞれの椀に入れる。毒味も終わり、いよいよ茶話会の始まりである。
頼むから何事も起こらず、和やかな雰囲気で終わってほしい。麗麗の願いを打ち砕いた方は、もちろんこの方だった。
「ところで玲沙様。借りぐらしはさぞつらかったでしょうね。聞けば中級妃の殿舎に房を与えられていたのですって? あのような場所に、四夫人の冠を与えられた妃が一時の間でも住まうだなんて、なんて不憫なと思っておりましたのよ」
舌鋒鋭く、あからさまな侮蔑の響きを言葉に乗せたのは後宮の虎……もとい、玉璇妃である。本日も絶好調に煌びやかな妃は、歩揺をじゃらじゃら言わせながら赤い唇に皮肉げな笑みを浮かべている。
玉璇妃の言葉に、玲沙妃は小首をかしげて口を開いた。
「ご心配いただきありがとうございます。不慣れな身ではございますが、妃様方皆様に大変親切にしていただきまして、おかげさまで楽しく過ごさせていただきました」
にこりと花が咲いたような笑顔である。
玉璇妃はぐっと言葉に詰まったようだが、さらに笑みを深くした。
「そういえば、もう大家とはお会いになられたのでしたっけ? 大家と旧知でいらしたとはいえ、昔と寸分違わぬ調子でお言葉を交わせるなど、並の方にはとても真似できません。どうすればそれほど気安くお振る舞いできるものなのかしらと、気になってしまいまして。ぜひ、ご教示いただきたいわ」
(こっわあ)
本当にこの『珊瑚宮』の小主は、人を怒らせるのが天才的にうまいのだ。いくら蹴落とし合いが常であるとはいえ、この妃の棘は全方向に向いている。美しい花に棘は付きものとよく言うが、薔薇ではなくて雲丹だなこれは、と余計なことを考えてしまう。
だがしかし、玲沙妃はどこ吹く風で受け流す。
「ご教示だなんて、とんでもないことでございます。わたくしはただ、昔からのご縁に甘えているだけで……。それを咎めずに受け止めてくださる大家と、こうして気にかけてくださる皆様に、感謝いたします。もし不調法がございましたらすぐに改めますので、こちらこそ、ご指導いただけますと嬉しいですわ」
(あっなるほど)
わかった。この妃、めちゃくちゃ頭がいいのだ。玉璇妃の言葉が嫌みだとわかったうえで、自分に刃を向けにくくなるよう真綿でくるんで返している。高度な話術である。
これには玉璇妃も毒気を抜かれてしまったらしい。どうしたらいいのかわからないといった風情で唇を震わせ、眉を無理やり上げて「そんな、ほほほ」と笑った。
その後、それぞれの妃たちが己が選ばせた贈り物を披露し合った。
それにしても、玲沙妃は大変褒め上手である。
「玉璇様、ありがとうございます。この披帛、貝片が縫いつけてあるのですね。素晴らしいですわ。動くたびに輝いて、夢のようです。これほどまでに煌びやかな披帛、わたくし手にしたことがございません」
と、玉璇妃が贈った披帛を手に取り頬を紅潮させ、黎蘭妃が直々に選んだという贈り物には手を打って喜んだ。
「まあ! これは鏡ですわね。それに見事な櫛……! このような細かな彫り、初めて見ますわ。さぞ名の通った匠人の手なのでしょうね! ありがとうございます!」
そして、瑛琳妃が簪を取り出すと、目を光り輝かせて満面の笑みになった。
「紅木の簪ですか? なんて美しいのでしょう……! 木目も艶もこれほどまでに鮮やかな簪、初めて見ました。瑛琳様の女官は素晴らしい目をお持ちでいらっしゃいますね。今この場で挿してみても?」
「もちろんですとも」
瑛琳妃がうなずくと、玲沙妃は頬を興奮で染めながら、女官に簪を挿してもらった。
雪梅の横で、香鈴が顔を赤くしながら小さく拳を握りしめたのが見えた。その場で贈り物を身につけるということは、最も気に入ったと暗に主張する行為である。
(よかったねえ……)
すっかり自信喪失したと思われる香鈴だったが、完全復活を遂げてなによりである。
それから茶話会は各妃方の内心はともかくとして穏やかに進んでいった。
玲沙妃はそれぞれ妃たちが持参した菓子をおいしそうに口にし、それぞれに感想を述べて妃たちを喜ばせた。もちろん、花里の作ったキャラメルもどきも大好評を博したものだ。また、玲沙妃は貴重な飲み物と称して氷入りの茶を振る舞った。実家が氷室を有しており、暑さをしのぐために運ばせているのだという。これには妃たちも驚いたようで、目を輝かせながら冷たさを楽しんでいる。
玲沙妃は希有な輝きを持つ妃だ。幼い少女のような風貌も相まって、敵愾心が湧きにくいのである。自分の強みを活かしていると言ってもいい。これを計算でやっているのだとしたら、恐ろしい妃だと思う。
茶話会も終盤といったところか。皆の緊張もほぐれてきたところで、玲沙妃が『そうだ』、といった風情で手を叩いた。
「わたくしから皆様に、おもしろいものをお見せしたいと思います」
ちらりと横に控えていた女官に目配せし、なにかを取ってこさせた。
その女官が手にしていたのは、麗しい茶器である。白の陶器でできており、見ただけで高価なものだとわかる。蓋には見事な瑞獣が彫り込まれていて、鑑賞品としても優れていた。
しかし、玉璇妃にとっては取るに足らないものらしい。ちらりと一瞥すると、鼻を鳴らして笑った。
「まあ。それが〝おもしろい〟ものですの? ずいぶんと素朴な茶器でいらっしゃいますわね。わたくしの宮では見たことがございませんので、大変興味深いですわ」
これはかなりわかりやすい。地味で平凡な茶器だと言っているのだ。
(ほんっとにこの人、嫌みばっかだな)
きらきら光っていれば高価であり、その他のものは皆取るに足らないとでも思っているのだろうか。まさか前世は烏なのではあるまいな、などと、麗麗が少々失礼なことを考えているうちに、玲沙妃は話を進める。
「実はこの茶器には仙術がかかっているのです」
玲沙妃の言葉に合わせて、女官たちが卓子の上に三つの椀を置いた。そして、その椀のひとつにお茶を注いでみせる。いたって普通の、ほこほこと湯気の立つ黒色をした茶だ。
「このお茶に仙術がかかっているのですか? それともこれから仙術を?」
(おっと、乗り気だ)
瑛琳妃が身を乗り出して口を開いた。この妃が実はこういったおもしろい出来事に目がないのは麗麗も最近知った意外な一面である。普段が大人っぽいだけに、瑛琳妃が目を輝かせると途端に年齢相応の可愛らしさが出る。
本当に仙術だと信じきっているわけではない。手妻であるとわかったうえで、仙術という口上を含め楽しんでいるのだ。瑛琳妃は本当に怪しいと思うものには近づかないし、反応もしない。それが明確にわかるからこそ麗麗は安心して見ていられる。
玲沙妃も瑛琳妃が合わせていることを承知したらしく、口元を隠しふふっと恥ずかしそうに笑みをこぼした。そうして、ことさらもったいぶってわざとらしく咳払いをし、視線で女官に指示を出した。女官も心得ているようで、先ほどと同じように茶を別の椀に注ぐ。すると。
「おおっ! 色が!」
さっきは黒の茶だったのが、乳白色の茶になっている。
「では、最後の茶を入れてみましょうか」
玲沙妃の声に合わせて、女官が三つ目の椀に茶を注いだ。茶の色は先ほどの濃い色でも、乳白色でもなく、その中間の色をしていた。
(へえ~!)
麗麗の喉がごくりと鳴る。おそらく、この仙術の種は茶器である。
(きっとあそこがああなって、それでこうなってるんだろうな~! 実際に使われてるのは初めて見たけど、うん、多分そう……!)
手元さえ見られればもっと詳細がわかるのに!と目を輝かせ、身を乗り出そうとした麗麗の袖を雪梅がぐっとつかんだ。
この女官、だいぶ麗麗の扱いに慣れてきたらしい。こういう場面で麗麗が突拍子もないことをしでかすのだと学んでいるようである。
実際、危ないところではあったので、素直に雪梅に従っておく。麗麗の首はこの世話焼き女官によって繋がっていると言っても過言ではないかもしれない。
一方で感嘆の声をあげたのは瑛琳妃だ。
「すごい! 同じ茶器なのに、なぜこんなふうになるのでしょう? これが仙術ですか」
瑛琳妃の目が最大級に輝いている。頬を軽く紅潮させ、まじまじと椀を見つめていた。反対に、玉璇妃は狐に化かされたような、驚愕ともおびえとも取れる表情である。
「こ、こんな怪しげなものを持ち込むなんて品位が感じられませんわね。わたくし、このようなものを楽しむなんてできません」
口では強がりを言っているが、目は泳いでいるし、顔はやや青ざめている。なるほど、さては玉璇妃、こういう摩訶不思議に見える出来事には弱いとみた。
(あっ、前回の絞鬼事件のやつ……)
玉璇妃が冥焔を呼びつけ、ふたりで話をしたいと言っていた件を思い出す。
(あれって、まじでおびえてたんじゃ)
だとしたら悪いことをした。おそらくこの妃、かなりの臆病者なのだろう。本当に幽鬼の噂に恐れおののいていた可能性があると思ったら、なんだかこのいけすかない妃もやたらと可愛らしく見える。
(今度なにか仕掛けてきたら、やり返しちゃおっかなぁ)
実行すれば下手したら処刑されるであろう案件だが、想像の翼は自由だ。頭の中でああでもないこうでもないと〝玉璇妃おどかし大作戦〟を考えていたら、雪梅からまた肘でつつかれた。顔に出ていたらしい。
両極端な妃の反応を前に、ひとり冷静なのは黎蘭妃だ。陶器の茶器をしげしげと眺め、そして──かすかに眉を寄せた。
(ん?)
少し気になる表情である。だがしかし、それとつかむ間に一瞬見せた感情は消え元の面に戻る。そしてとんでもないことを口にしたのである。
「瑛琳妃。あなたの女官は怪を解くと有名ですね。大家より号を賜ったと伺っておりますが」
(んんっ?)
どきりと胸が跳ねる。
「その女官がこの仙術をどう解くか、わたくしは気になります」
(おいっ……! なんつーことを言い出すのさっ!)
黎蘭妃の言葉に乗ってきたのはもちろん、玉璇妃だ。
「わたくしも女官の話は伺っておりますわ。なんでも下級女官からわざわざ召し上げたという話ではありませんか。瑛琳様の先見の明は素晴らしいと我が宮でも噂しておりますのよ」
(嘘つけーっ!)
邪魔者扱いしたうえに、『鼠』と言われたのを忘れてないぞ。
しかし困った。これはおそらく、麗麗……もとい瑛琳妃が試される場なのではなかろうか。
冥焔の表情がどんどん険しくなっていく。隣で雪梅の体が緊張で強ばり、その横に控えている香鈴、花里からも緊張感が伝わって、ますます間違いではないのだという思いが募る。
黎蘭妃の真意は不明だが、玉璇妃は明らかに戦闘態勢に入っているようで、唇に嫌な笑みを浮かべていた。本当に懲りない。好戦的な妃だなとある意味感心する。
玲沙妃はほんの少し慌てたように瑛琳妃に視線を送ると、可憐な声を震わせた。
「まあ、そうなのですか。あいにくまだ情報には疎く、存じ上げずに失礼しました。そのような力を持つ女官がいるのは頼もしいですわね。もしその女官がこの仙術を解けるというならば、わたくしも拝見してみとうございます。けれど……いかがでしょう?」
うかがうように瑛琳妃の顔を見る玲沙妃の表情には、大きく【心配】と書かれている。
おそらく、玲沙妃の『存じ上げず』は嘘だ。彼女の立場で現在の後宮の状況を耳に入れていないとは考えづらいし、麗麗と冥焔は彼女が入内してからも何度も怪を解いている。その都度、噂になっていたのは麗麗も把握しているので、入内したばかりで情報に飢えているであろう玲沙妃の耳に入らないはずがない。
だから、玲沙妃が気にしているのは瑛琳妃の面子が保てるか否かなのだろう。
瑛琳妃からちらりと視線をいただく。この話を受けていいのかと暗に尋ねているのだ。どうしようかと迷い冥焔に視線を送ると、当の宦官は素知らぬ顔である。
こんなふうに試されるのもこの宦官のせいだというのに、他人事とはなんたることか。今に見ておれと心中穏やかではない。
幸いなことに茶器の仙術には見当がついている。解くというほどのものではないのだが。
(まあ、それで瑛琳様の評価が上がるんならね)
麗麗の表情を見て、瑛琳妃はふっとまなじりをゆるめた。
「承知いたしました。では、麗麗」
「はい」
揖礼を捧げながら、麗麗は前に進み出た。
「玲沙妃。女官の発言を許してもよろしいか」
瑛琳妃の言葉に、玲沙妃は微笑みうなずいた。
「もちろんでございます」
それでは、と麗麗は顔を伏せたまま進み出ると、瑛琳妃の〝免礼〟の言葉を待ってから揖礼を解いた。
玲沙妃の女官たちが、新しい椀を三つ用意してくれた。これに新たに茶を入れてみせよということなのだろう。
「では、調べさせていただきます」
茶器を持ち上げた。中身はまだだいぶ残っているようで、ちゃぷちゃぷと音がする。
高価そうな茶器であると思ったが、やはりそうだ。間近で見る彫刻の細かさたるや他の追随を許さない。白い陶器は手に吸いつくようになめらかで、つやつやと光り輝いている。玉璇妃は地味だと言っていたがとんでもない代物である。さすがは四夫人の持ち物といったところか。
麗麗は深呼吸する。そして、もう一度しっかりと茶器を持ち直し、そっと上に掲げてのぞき込んだ。
(やっぱり!)
麗麗の表情が興奮に輝いた。こんな珍しい代物、前の人生ならば国を飛び出して他国の博物館にでも行かなければ見られない。
(転生してよかったあ……!)
「女官。どうなのです。仙術は解けましたか」
そう言う黎蘭妃の冷たい表情など、おかまいなしだ。もう麗麗の頭の中はこの茶器でいっぱいになっている。わくわくしながら茶器を掲げ、卓子の前に立つ。そしてその興奮のまま口を開いて、元気いっぱいに答えを出した。
「これは、『暗殺者の茶器』です!」
「あんさつしゃ」
ぴしっと空気が凍った。
だがしかし、麗麗は気づかない。もう一度茶器に触れ、うっとりとした瞳でその取っ手を撫でている。
「この茶器、二重構造になっているんです。注ぎ分けができるような造りになっているんですよ。取っ手部分の上下に穴が開いていて、この片方を押さえて茶を注ぐと、なんと片方の注ぎ口からは茶が出ない仕組みなんです。本当に素晴らしい茶器……」
はっと麗麗は口を閉ざした。
玲沙妃の笑顔が固まっている。黎蘭妃の表情は氷点下まで下がり、瑛琳妃は軽く人差し指で自らのこめかみを押さえてため息をついている。玉璇妃はその赤く色づいた唇をあんぐりと開けて、麗麗の顔を凝視していた。
冥焔にいたっては片手で頭を抱え、まるで見てはいけないものを見てしまったかのような反応をする。
壁際に控えていた女官たちは一斉に青ざめていた。雪梅などはもう倒れそうなありさまだ。
さすがに気づいた。麗麗の背中から冷たい汗が吹き出し、喉があっという間に渇いていく。
(『暗殺者の茶器』って言っちゃった……!)
よりによって、四夫人の持ち物に。信じられない不敬である。考えうる中で最大の失態に、一気に顔から血の気が引いた。
麗麗はそっと茶器を卓子の上に戻した。そして、ぎくしゃくとしながら揖礼を捧げる。
「し、失礼いたしました! そのっ……この茶器が実際に暗殺に使われたというような意味ではなく、単にそう呼ばれるのだと、それだけでございまして! 決して、決して含むところはございません! 本当に、まったく! 他意はなくてですねっ!」
(下手かよ……っ!)
口を開けば開くほどよろしくない言葉がまろび出てしまう。絶望で胸がいっぱいだ。
もう本当にこの口が悪い。頭から口まで直通なのがいけない。なぜもっと慎重に言葉を発することができないのかと、自分で自分に腹が立つ。
「女官。名は確か、麗麗と言いましたね」
玲沙妃の言葉が麗麗に届く。
ああ、終わった。二回目も短い人生だったなあなどと、あきらめかけていたときである。
突然、がしっと手のひらをつかまれた。
「そう、まさしくそうなのです!」
「へっ……あ、あの!?」
なんと玲沙妃が麗麗の手をしっかりと握りしめている。
「さすが瑛琳様の女官。慧眼をお持ちなのですね」
「り、玲沙様?」
これには瑛琳妃も驚いたようで、めったに見ないような驚愕顔である。玲沙妃はおかまいなしに、握りしめていた麗麗の手のひらをそっと離し、励ますように肩に手を置いた。
「確かにこの茶器は『暗殺者の茶器』と呼ばれています。まさか知っていたとは思わなかったわ」
「あ、ありがとうございます。けれど、失礼ながらなぜ玲沙様ともあろうお方が、そのような代物を持っていらっしゃるのでしょう」
(待て待て! 止まれこの口っ……!)
ほっとした拍子にまろび出る言葉を自分の意志では止められず、麗麗は言葉を次々と紡ぎ出す。
「その茶器はまったく別の種類の茶を注ぐことが可能です。それはつまり、名前の通り〝暗殺〟に使われてもおかしくはないのです。確かにとても美しい茶器ではありますが、玲沙様のお立場では所持するだけでも危険なのではないでしょうか。万が一、主上の耳に入ったら、あらぬ疑いをかけられてしまうやもしれません。早急に手放すことをおすすめいたします」
(お、終わった……)
せっかく許してもらえそうな空気なのに、自らぶち壊してしまった。
だがこれが真実、本心でもあった。
一時の興奮が過ぎ去ったあとに心配したのは、玲沙妃の無邪気さである。もしこの茶器を皇帝の前で使ったらどうなるか、そして皇帝がその可能性に気づいたらどうなるか。想像するだに恐ろしい。
見て見ぬふりができたはずなのに、それをよしとはできなかった。くそ真面目な性格、ここに極まれりである。
しかし玲沙妃はなぜか明るく笑っている。
「素直なところも気に入りました。わたくしの心配までしてくれて、あなたはとても情の深い女官なのですね」
玲沙妃の言葉に、玉璇妃が眉を跳ね上げて抗議する。
「玲沙様。なにを甘いことをおっしゃっているのです? その女官が不敬な言葉を口にしたという事実を追及なさるべきです。あろうことか、今この女官は大家への暗殺疑惑をあなたにかけているのですよ!」
それは違う、と麗麗は咄嗟に顔を上げそうになり、ぐっとこらえた。自分の発言をそう取られてもおかしくはないと判断したためだ。
玉璇妃はなおも眉をひそめ、唇をゆがめて嘲笑した。
「たとえどんな状況下においても、僕が上位の者に不敬な言葉をかけるなど許されてはおりません。小主のしつけがなっていないと、わたくしなら判断いたします。許すだなんて、言語道断ですわ」
「あら。けれどその女官を無理やり引っ張り出したのはわたくしたちです」
玲沙妃の言葉に、周囲の女官たちの緊張が少しだけ解けた気配を感じる。風向きが変わってきたのを感じたのだろう、玉璇妃は忌々しそうに舌打ちをした。
玲沙妃はなおも言葉を重ねる。
「それに、女官の処罰はわたくしたちが決めることではございません。この女官が仕えているのは瑛琳様でございます。──瑛琳様、いかがなさいますか」
麗麗の心臓がどきりと鳴った。
自分の感情に戸惑い、麗麗は思わず瑛琳妃の瞳を袖の隙間から見返した。
瑛琳妃は無表情で麗麗を見つめている。その瞳が無性に恐ろしくなり、麗麗は目を伏せる。
今回の件、麗麗は間違ったことを言ってはいない。この茶器を所持しているという事実は、皇帝に近づく権利を持つ四夫人にとって致命的になりかねない。だから、その事実を指摘した点に関して後悔はしていない。そのはずなのに、麗麗を襲ったのは恐怖だった。
不思議なことに、罰せられるかもしれないという恐ろしさではない。麗麗が恐怖を覚えているのは、瑛琳妃の感情だ。誤解され、幻滅されるのが怖い。
前世では、このような執着を感じた覚えはなかった。誤解されてもかまわない、自分は正しいのだから、それがわからない者とは付き合うだけ無駄であると、いっそ傲慢とも思えるような思考でいたはずだ。
「そうですね」
瑛琳妃の低めの声が耳に届き、麗麗は体を硬くする。
「確かに麗麗の言葉は悪い。この場にふさわしいものではございません。その点については私も認めましょう」
「では、厳重な処罰を──!」
玉璇妃の嬉々とした口調に対して、瑛琳妃は首を横に振った。
「しかし、この娘は私の僕でありながら、もうひとつの側面を持つ女官です。大家の信も厚い冥焔が評価し、大家もその評価が妥当であるとお認めになり、この女官に号をお与えになりました。真実を見抜く目と信念を持つ娘〝ガリレオ〟という名を贈ったのは皆も知っていることでしょう」
瑛琳妃はことさらゆっくりと立ち上がり麗麗の前に立った。
「このような場で真実を述べるのは難しい。けれどこの娘は信念を取り、自らの立場をはっきりとさせました」
「え、瑛琳様……」
「今後も私たちにおもねることなく、自らの信念に忠実に従い、その目で大家の、ひいては国の助けになってほしい。大家もそれをお望みでしょう。いかがかな、冥焔」
話を振られた冥焔は揖礼を捧げ、重々しく口を開いた。
「誠に仰せの通りにございます。大家はこの女官に、〝真実を追究する者〟の名をお与えになりました。もしこの場において女官が権威におもねる振る舞いを見せたならば、それこそ反逆の意ありと責められるべき所業。ゆえに、わたくしも瑛琳様と同じく、この女官の言葉は評価に値すると判断いたします。大家におかれましても、同様にお考えでありましょう」
麗麗の胸にじわじわと喜びが広がっていく。
「あ……ありがとうございます」
それが精いっぱいの返事だった。うかつなことを言うと泣いてしまいそうだ。
玉璇妃はあからさまに嫌そうな顔をすると、「ふんっ」と鼻を鳴らして口元を覆う。黎蘭妃はなにを考えているのかわからないような表情のなさである。ただひと言だけ、「瑛琳様がそうおっしゃるのなら」と口にした。
玲沙妃はほっとしたようににこりと微笑み、両の手を胸の前で合わせた。
壁際へと戻るように瑛琳妃に促される。おとなしく従うと、雪梅たちが鼻の頭を真っ赤にしていた。心配をかけてしまったのだと思うと、なんだか。胸がいっぱいだ。
麗麗の目からこらえきれなかった涙がぽろりと落ちる。
雪梅は目尻に涙をためながら、そっと巾を麗麗に渡した。ありがたくそれを使い、水分をぬぐう。本当に心配をかけてしまった。あとで謝ろうと心に誓う。
さて、と瑛琳妃は席に戻ると、場を切り替えるように玲沙妃に話しかける。
「こちらの茶器ですが、”暗殺者の茶器”とは穏やかではありませんね。なぜこのようなものをお持ちなのか、伺ってもよろしいか」
言葉はまるで玲沙妃を責めているようだが、表情は柔らかい。玲沙妃を攻撃するつもりはないと暗に示しているのだ。このあたり、瑛琳妃は大変お上手である。
玲沙妃はその瑛琳妃の意向をしっかりと汲み取って、同じく笑みで返した。
「わたくしの家では、父の意向でこういった物がよく使われるのでございます。自分の身は自分で守れと父はよく申しておりました。曰く、『こういった道具があるという事実を、知識として持っておくとよいのだ』と。『いざというときに身を助くことになるだろう』と」
「なるほど。確かにそれは有益ですね」
理には適ってるよなと鼻をすすりながら麗麗は考える。
罠に落ちないためには、罠を知り尽くす必要がある。事前に知識を持っておけば避けられる不幸はあるものだ。
玲沙妃は小首をかしげて話題を変える。
「そういえば、最近は後宮内でもおかしな事件が起こっていると聞きました。幽鬼が出るとか、呪いがはびこっているとか……」
玉璇妃がびくりと体を震わせた。
「そ、そんなもの! あるわけございません」
「玉璇様は信じておりませんのね。本物の幽鬼を見たことは?」
「あるわけないでしょう!」
おっと、ではやはりあの絞鬼事件の際に、『幽鬼が出た』というのは玉璇妃の嘘か。それとも単に怖くてそばに人を置きたかっただけなのか。きっと後者なのだろうなあと、麗麗は心の中で一人うなずく。
「黎蘭様はいかがです? 幽鬼の存在を信じますか」
玲沙妃は柔らかく微笑み、黎蘭妃に話を振った。黎蘭妃は冷たい瞳を玲沙妃へと向けると、淡々と言葉を落とす。
「信じる信じないではなく、彼らはおりますから。わたくしの故郷では、幽鬼はすぐ隣に潜むものでした。共に過ごすのが当たり前。いる、いないの議論が起こる土壌は存在しません」
この話にはその場にいる人すべてがぎょっと目をむいた。玲沙妃もその例に漏れず、驚いたように声をあげる。
「まあ、そうなんですか」
「ええ。例えば、そう……鬼火」
黎蘭妃はちらりと視線を上げた。
(んっ?)
目が合ったように思えたのは、気のせいだろうか。
「鬼火が現れるのは幽鬼がさまよっている証左です。幽鬼は鬼火や怪音と共に現れ、城の主を苦しめます。そうして弱らせ、やがて死へと導く。自らの意志とは関係なく主人を殺めるためだけに存在する……運命にあらがえない、哀れな殺人者なのです」
(おいおいおい)
これはまさか、冗談のつもりなのか。
(いや、違うなこれ)
黎蘭妃の表情はぴくりとも動いていない。本気で言っているのだ。
壁際の女官たちの顔が恐怖で引き攣っている。怖がりの玉璇妃は言わずもがなだ。瑛琳妃も心なしか眉を寄せ、心配そうな表情である。
しかし、玲沙妃は違った。目を輝かせ、身を乗り出して黎蘭妃の話に食いついた。
「まあ、恐ろしいですね。実を申しますと、わたくし、幽鬼の話を好んでおりますの。もちろん、害の少ないものに限りますけれど」
「害の少ない幽鬼とは、例えば?」
瑛琳妃の言葉に、玲沙妃はくすっと笑った。
「〝鬼作楽〟をご存じですか」
はて、と麗麗は内心首をかしげる。聞いたことがなかった。だが、他の人たちは皆知っているらしい。瑛琳妃がほんの少しだけわくわくとした顔で答えた。
「人を道に迷わせる幽鬼でしょう」
「はい。実はわたくし、この宮の院子に鬼作楽を住まわせているのです」
(んっ……?)
なにを言い出すのだろう。しかし玲沙妃は目を輝かせて話し続ける。
「わたくしの院子は少々おもしろい造りになっておりますの。昼間はなんともないのですが、夜になると道に迷う者が出るんですのよ。それで、『鬼作楽が棲んでいる』と女官たちの間で話題になっているのです」
ああなるほど、これは玲沙妃の軽口である。『たぬきか狐に化かされたね』という冗談の、焱国バージョンということだろう。
「けれど、実際に道に迷うのであれば害がないとは言えないのではないですか」
瑛琳妃の当然の疑問に、玲沙妃はくすくすと笑う。
「確かに、道に迷うという意味ではそうですわね。けれど、わたくしの院子には池も橋もございませんし、段差もないように造っております。女官たちも怪我をした者はおりませんし、身の危険を感じる者はほとんどいないはずですわ」
(ふうん……)
昼は迷わず、夜に道に迷うというと……と麗麗の頭の中にいろいろな可能性が浮かんでは消えていく。
「もしご興味がございましたら、そうですわね。もう少し季節が進んだ頃……夏にでも、ぜひ院子にいらしてくださいな」
「ぜひお邪魔させていただこう」
茶目っ気たっぷりに微笑む玲沙妃に、瑛琳妃も笑ってうなずいた。そのときである。
「それはぜひ、わたしも伺ってみたいな。いっそ皆を呼び宴にするのはどうだ。本当に道に迷うのか否かの検証をしてみたら、おもしろい夕涼みになりそうだ」
第三者の声に驚いて振り返ると、そこにいたのは……。
「大家!」
玲沙妃の声に、慌てて全員が揖礼を捧げた。妃たちも立ち上がり、それぞれ礼を取る。
(な、な、なんで主上がここに!?)
いや、おかしくはないか。なにせ四夫人の茶話会である。この場の様子を見に皇帝が来ることもあるだろう。だがしかし、あまりにも突然の出来事に驚きすぎて息が止まりそうになる。本当に、この皇帝は心臓に悪い。
入り口で揖礼を捧げていた冥焔が慇懃に言葉を落とす。
「大家、本日茶話会への出席は予定されておりません。いかなるご用向きにて、こちらへお越しでございましょうか」
「そりゃあ、皆の顔を見たいからだよ。別にかまわないだろう?」
(圧倒的自由!)
まさか冥焔も知らない予定だったとは。この皇帝、自由にもほどがある。皇帝は愉快そうに笑い声をあげると、礼を捧げる皆に朗らかに告げた。
「わたしもその”鬼作楽”とやらを見てみたい。宴を開催する。諸官に命じ、万事抜かりなく整えよ!」
「大家! そんな、子どものような思いつきをおっしゃられては、玲沙妃がお困りですよ」
麗しい宦官の諫める声を受けて、玲沙妃が進み出た。揖礼を捧げながら、かの妃は楽しそうに声をあげる。
「いえ、大家にお越しいただけるなんて、わたくし光栄に存じます。宴もまた、誠に興味深い趣向にございますし、わたくしも心より楽しみにしておりますわ」
「玲沙妃!」
冥焔が慌てた声をあげるが、玲沙妃は引き下がらない。当然だ。自分の宮の院子に皇帝を呼び、大々的に催しができるなど好機以外のなにものでもないだろう。しかも当の本人から言い出してくれているのだから、〝諾〟か〝イエス〟しか選択肢はないのである。
ここは後宮。皇帝の竜のひと声ですべてが決まる場所だ。
そういうわけで、あれよあれよと夏の宴が決まった。
場所は玲沙妃の院子で、開催は夜。上級妃は全員参加が義務づけられる大々的な宴である。
なんだか大変なことになったなあと、内心でこっそり天を仰いだ麗麗であった。



