房でひとり、冥焔は書簡を眺めている。だが追いかけているのは字面だけで、頭の中では先日の香炉事件、そして水鬼事件で頭がいっぱいになっていた。
あの女官の言う通り、池から小動物の死骸が大量に出てきたことには驚いた。
そして黎蘭妃の言葉。『風の声を聞け、』とは、『噂を傾聴せよ』という意味である。関係のありそうな噂話を半信半疑で集めてみたところ、もしやと思う出来事が浮かび上がってきたのだ。
曰く、あの方が死んだ獣を集めているとの噂があったのである。名目は弔いだ。『小さきものにも命あり、丁重に弔い土に返して差し上げましょう』ともっともらしい言葉を使い、死骸を集めているのだという話である。
香炉事件の調査で発覚した事実も、宦官の頭を悩ませている。この事実を皇帝に報告するか否かを迷っているうちに、水鬼事件が起こってしまった。
そしてこのふたつの事件に、あの方の名が上がっている実情。見過ごせるわけがない。
冥焔は立ち上がると、別の記録を取り出した。そこには、最近発生した怪異の数と内容が事細かに記録されている。
確証が欲しい。これらの事件の裏にあの方が関わっているのだという確証さえあれば、すぐにでも報告に上がれるのに。
冥焔はため息をつく。もう何度も同じ文字面を目で追っていることに気づき、これ以上は無駄だと判断した。
書簡を置くと、配下に始末を頼んでから房を出る。
外の空気を吸いに行こうと考え、宮をあとにした。
春だ。
つい先日までは梅花が咲いていたが、今はもう海棠の季節だ。そろそろ牡丹も咲くだろう。たまには目を休めるのも大切だ。冥焔は花園へ行こうと足をそちらに向けた。
歩くたびに聞こえる女性たちの嬌声は、冥焔にとっては不愉快な雑音である。耳元で金属を引っかかれるような音が不快で眉間にしわが寄っていく。歩けば前を遮られ、どうでもいい話を延々と繰り返される。無視して歩を進めようとしても、輪になった女たちの囲いを抜けるのは容易ではない。
皇帝の命を請け負っているならば、その権威をもってしてこの囲みを抜けることも可能である。だがしかし、今の冥焔は特になんの厳命も受けておらず、ただ空いた隙間で花でも愛でようとしていただけにすぎない。ゆえに、その手は使えない。
不愉快である。
なぜ自分の邪魔をするのか。女というものはどうにもわからない。それほどまでに自分を嫌っているのだと思うが、それならばなぜ放っておいてもらえないのかと鬱屈とした心持ちになる。以前にも増してこのような妨害に遭うことが多くなり、不機嫌が募る。
嫌悪を抱くなら、声などかけなければよい。『邪魔だ』と声を荒らげようとしたときであった。
「冥焔様」
ひときわ澄んだ声が聞こえ、冥焔は視線をずらす。そこにいたのは、あの女官である。
女官は周囲を取り囲んでいる女たちに向かい、なにやらささやいた。すると、冥焔を囲んでいた女たちはするするとほどけ、皆気まずい顔をして去っていく。あからさまに女官をにらみつけ舌打ちをする者もいたが、目の前の女官は気にする様子もない。
「いったいどんな仙術を使ったのだ」
「『冥焔様は主上のご命令でお出かけだそうです。邪魔をなさると罰せられますよ』とお声をかけさせていただきました」
「大嘘だな」
「冥焔様はもう少し、賢く生きられたほうが楽になります」
暗に不器用であると言われ、むっとするも、確かにそうだと思い直した。
女官はまっすぐな瞳で冥焔を見上げている。
「お出かけでいらっしゃいますか。どちらまで」
「花園だ。そろそろ海棠が見頃だからな」
「では、お供しても?」
驚いて思わず見返してしまったが、女官は慌てたように両手を振った。
「違いますからね!」
「なにがだ」
「あわよくば冥焔様と逢瀬を、だなんてこれっぽっちも考えていませんからね」
そう言うと、女官は小首をかしげてみせる。
「私もちょうど花園に行くところでした。まさに、海棠を採ってこいと雪梅から頼まれて……って、これ、まさか密命じゃないですよね!? そういえば、花園も主上のものなんでしたっけ!? 枝、折ったら罰せられますか」
あまりの慌てっぷりに、苦笑しそうになるのをこらえる。
「安心しろ。花園は妃の命であれば、自由に枝を折ってよい」
「よかった~。焦っていろんな汁があちこちから出るところでした」
「なんてことを言うんだ、お前は」
話しながら花園へと向かった。途中話しかけてくる女官たちは皆、例の〝皇帝の命〟で退ける。なるほど、これは便利である。
花園はまさに見頃だった。むせかえるほどの花に囲まれ、しばし見惚れる。曲線状の枝から海棠の花がこぼれ落ちるほど咲いていた。
その花の麗しさに感動するでもなく、隣の女官はくわっとあくびをした。
「寝不足か」
「おかげさまで。どこかの誰かさんが毎日こき使ってくださるので」
女官がため息と共に言葉を吐き出す。嫌みだとわかり、冥焔も苦い思いで顔をしかめた。
あの水鬼の件以来、怪の訴えが増えている。ひとつひとつは小さな訴えではあるが、無視できない量になってきたのである。
そのたびにこの女官を連れ出してはいるが、解決した怪のほとんどは人為的ないたずらだとわかり、頭が痛くなる一方だ。物量が多いため、犯人の割り出しにも刻がかかる点も、冥焔の苦悩のうちのひとつである。
ふと隣を見ると、女官がなにやら必死に手を掲げていた。なにをしているのかと観察すると、どうやら枝を折ろうとしているらしい。
(そうか、背が届かないのか)
それでは、と冥焔はひと枝。特に花つきがいい物を手折った。無言で渡すと、女官はぎょっとしたように目を見開いた。
「あの?」
「いらないなら俺が持って帰るが」
「い、いりますけど……えっ」
そのまま二、三歩後ずさる女官は、目を見開いたまま冥焔の顔を凝視している。
「おなか痛いんですか」
「痛くない。お前はいつもそれだな」
「だって、冥焔様が異様に親切で。なんなんです? 明日雪でも降るんです?」
「失礼なやつだな」
枝を押しつけると、女官は一瞬ためらったのち、ほのかに──笑った。
「ありがとうございます。助かりました」
その瞬間、冥焔はちくりと胸の痛みを覚える。
以前にも感じたことがある。焦りとも取れるような妙な感覚が不快で、自然と眉間にしわが寄っていく。
女官は海棠の花を一瞥し、そして顔を上げ……なにかを見つけたように目を見張った。
「冥焔様、あれって……」
冥焔は振り返り、女官の視線の先を追う。
目に入ったのは禁色の黄。この国の統治者にして天の声を聞くという天子にしか許されない色を纏った、竜の化身──皇帝だ。そして隣で頬を染め、軽やかに笑っているのは──、柔らかな雰囲気を身に纏った妃である。その横顔を見て、冥焔は目を向いた。
(玲沙妃……!)
「冥焔様っ……なにしてるんですか! 隠れますよ!」
驚愕のあまり固まってしまった冥焔に代わり、麗麗が動いた。普段の彼女らしからぬすばやい動きで冥焔の袖を強く引き、すぐそばの木の後ろへと体を隠す。そのまましゃがみ込み、茂みへと隠れた。
身をひそめた茂みの前をふたつの影が通り過ぎる。春風のような軽やかな声と、皇帝の笑い声の二重奏が耳に届く。
隣で息をひそめている女官が唾を飲み込む音を聞くともなしに聞きながら、冥焔は茂みの隙間から目でその影を追った。
(なぜここに……?)
冥焔は皇帝の側近である。後宮の管理が主要である冥焔にとって、皇帝の日常生活ほとんどの予定を把握しているはずだった。しかし、彼の頭に、この花園での予定の記憶がない。であれば、此度の逢瀬は皇帝の独断であると判断せざるを得なかった。
ゆっくりと過ぎ去っていくふたつの影を見送ったあとも、ふたりはしばらくその場にいた。麗麗はやや青ざめた顔で、花園の入り口を見つめている。
「あのお方って、しゅ、主上ですよねっ……。やばい、どうしよう。私たち見つかってないですよね? デートの邪魔になってなかったですよね!?」
女官の焦った声は冥焔の耳には届かない。
(危険だ……)
冥焔の頭の中に、警告の色が灯る。
──玲沙妃に気をつけろ。
あの女官の言う通り、池から小動物の死骸が大量に出てきたことには驚いた。
そして黎蘭妃の言葉。『風の声を聞け、』とは、『噂を傾聴せよ』という意味である。関係のありそうな噂話を半信半疑で集めてみたところ、もしやと思う出来事が浮かび上がってきたのだ。
曰く、あの方が死んだ獣を集めているとの噂があったのである。名目は弔いだ。『小さきものにも命あり、丁重に弔い土に返して差し上げましょう』ともっともらしい言葉を使い、死骸を集めているのだという話である。
香炉事件の調査で発覚した事実も、宦官の頭を悩ませている。この事実を皇帝に報告するか否かを迷っているうちに、水鬼事件が起こってしまった。
そしてこのふたつの事件に、あの方の名が上がっている実情。見過ごせるわけがない。
冥焔は立ち上がると、別の記録を取り出した。そこには、最近発生した怪異の数と内容が事細かに記録されている。
確証が欲しい。これらの事件の裏にあの方が関わっているのだという確証さえあれば、すぐにでも報告に上がれるのに。
冥焔はため息をつく。もう何度も同じ文字面を目で追っていることに気づき、これ以上は無駄だと判断した。
書簡を置くと、配下に始末を頼んでから房を出る。
外の空気を吸いに行こうと考え、宮をあとにした。
春だ。
つい先日までは梅花が咲いていたが、今はもう海棠の季節だ。そろそろ牡丹も咲くだろう。たまには目を休めるのも大切だ。冥焔は花園へ行こうと足をそちらに向けた。
歩くたびに聞こえる女性たちの嬌声は、冥焔にとっては不愉快な雑音である。耳元で金属を引っかかれるような音が不快で眉間にしわが寄っていく。歩けば前を遮られ、どうでもいい話を延々と繰り返される。無視して歩を進めようとしても、輪になった女たちの囲いを抜けるのは容易ではない。
皇帝の命を請け負っているならば、その権威をもってしてこの囲みを抜けることも可能である。だがしかし、今の冥焔は特になんの厳命も受けておらず、ただ空いた隙間で花でも愛でようとしていただけにすぎない。ゆえに、その手は使えない。
不愉快である。
なぜ自分の邪魔をするのか。女というものはどうにもわからない。それほどまでに自分を嫌っているのだと思うが、それならばなぜ放っておいてもらえないのかと鬱屈とした心持ちになる。以前にも増してこのような妨害に遭うことが多くなり、不機嫌が募る。
嫌悪を抱くなら、声などかけなければよい。『邪魔だ』と声を荒らげようとしたときであった。
「冥焔様」
ひときわ澄んだ声が聞こえ、冥焔は視線をずらす。そこにいたのは、あの女官である。
女官は周囲を取り囲んでいる女たちに向かい、なにやらささやいた。すると、冥焔を囲んでいた女たちはするするとほどけ、皆気まずい顔をして去っていく。あからさまに女官をにらみつけ舌打ちをする者もいたが、目の前の女官は気にする様子もない。
「いったいどんな仙術を使ったのだ」
「『冥焔様は主上のご命令でお出かけだそうです。邪魔をなさると罰せられますよ』とお声をかけさせていただきました」
「大嘘だな」
「冥焔様はもう少し、賢く生きられたほうが楽になります」
暗に不器用であると言われ、むっとするも、確かにそうだと思い直した。
女官はまっすぐな瞳で冥焔を見上げている。
「お出かけでいらっしゃいますか。どちらまで」
「花園だ。そろそろ海棠が見頃だからな」
「では、お供しても?」
驚いて思わず見返してしまったが、女官は慌てたように両手を振った。
「違いますからね!」
「なにがだ」
「あわよくば冥焔様と逢瀬を、だなんてこれっぽっちも考えていませんからね」
そう言うと、女官は小首をかしげてみせる。
「私もちょうど花園に行くところでした。まさに、海棠を採ってこいと雪梅から頼まれて……って、これ、まさか密命じゃないですよね!? そういえば、花園も主上のものなんでしたっけ!? 枝、折ったら罰せられますか」
あまりの慌てっぷりに、苦笑しそうになるのをこらえる。
「安心しろ。花園は妃の命であれば、自由に枝を折ってよい」
「よかった~。焦っていろんな汁があちこちから出るところでした」
「なんてことを言うんだ、お前は」
話しながら花園へと向かった。途中話しかけてくる女官たちは皆、例の〝皇帝の命〟で退ける。なるほど、これは便利である。
花園はまさに見頃だった。むせかえるほどの花に囲まれ、しばし見惚れる。曲線状の枝から海棠の花がこぼれ落ちるほど咲いていた。
その花の麗しさに感動するでもなく、隣の女官はくわっとあくびをした。
「寝不足か」
「おかげさまで。どこかの誰かさんが毎日こき使ってくださるので」
女官がため息と共に言葉を吐き出す。嫌みだとわかり、冥焔も苦い思いで顔をしかめた。
あの水鬼の件以来、怪の訴えが増えている。ひとつひとつは小さな訴えではあるが、無視できない量になってきたのである。
そのたびにこの女官を連れ出してはいるが、解決した怪のほとんどは人為的ないたずらだとわかり、頭が痛くなる一方だ。物量が多いため、犯人の割り出しにも刻がかかる点も、冥焔の苦悩のうちのひとつである。
ふと隣を見ると、女官がなにやら必死に手を掲げていた。なにをしているのかと観察すると、どうやら枝を折ろうとしているらしい。
(そうか、背が届かないのか)
それでは、と冥焔はひと枝。特に花つきがいい物を手折った。無言で渡すと、女官はぎょっとしたように目を見開いた。
「あの?」
「いらないなら俺が持って帰るが」
「い、いりますけど……えっ」
そのまま二、三歩後ずさる女官は、目を見開いたまま冥焔の顔を凝視している。
「おなか痛いんですか」
「痛くない。お前はいつもそれだな」
「だって、冥焔様が異様に親切で。なんなんです? 明日雪でも降るんです?」
「失礼なやつだな」
枝を押しつけると、女官は一瞬ためらったのち、ほのかに──笑った。
「ありがとうございます。助かりました」
その瞬間、冥焔はちくりと胸の痛みを覚える。
以前にも感じたことがある。焦りとも取れるような妙な感覚が不快で、自然と眉間にしわが寄っていく。
女官は海棠の花を一瞥し、そして顔を上げ……なにかを見つけたように目を見張った。
「冥焔様、あれって……」
冥焔は振り返り、女官の視線の先を追う。
目に入ったのは禁色の黄。この国の統治者にして天の声を聞くという天子にしか許されない色を纏った、竜の化身──皇帝だ。そして隣で頬を染め、軽やかに笑っているのは──、柔らかな雰囲気を身に纏った妃である。その横顔を見て、冥焔は目を向いた。
(玲沙妃……!)
「冥焔様っ……なにしてるんですか! 隠れますよ!」
驚愕のあまり固まってしまった冥焔に代わり、麗麗が動いた。普段の彼女らしからぬすばやい動きで冥焔の袖を強く引き、すぐそばの木の後ろへと体を隠す。そのまましゃがみ込み、茂みへと隠れた。
身をひそめた茂みの前をふたつの影が通り過ぎる。春風のような軽やかな声と、皇帝の笑い声の二重奏が耳に届く。
隣で息をひそめている女官が唾を飲み込む音を聞くともなしに聞きながら、冥焔は茂みの隙間から目でその影を追った。
(なぜここに……?)
冥焔は皇帝の側近である。後宮の管理が主要である冥焔にとって、皇帝の日常生活ほとんどの予定を把握しているはずだった。しかし、彼の頭に、この花園での予定の記憶がない。であれば、此度の逢瀬は皇帝の独断であると判断せざるを得なかった。
ゆっくりと過ぎ去っていくふたつの影を見送ったあとも、ふたりはしばらくその場にいた。麗麗はやや青ざめた顔で、花園の入り口を見つめている。
「あのお方って、しゅ、主上ですよねっ……。やばい、どうしよう。私たち見つかってないですよね? デートの邪魔になってなかったですよね!?」
女官の焦った声は冥焔の耳には届かない。
(危険だ……)
冥焔の頭の中に、警告の色が灯る。
──玲沙妃に気をつけろ。



