後宮のガリレオ2

 翌日の昼。

 深藍宮の厨では、花里が例の花を使って試行錯誤している。その様子を横目に見ながら、麗麗は雪梅の話を聞いていた。

 「玲沙様、とんでもない方だったわ!」

 昨日の恨みを晴らさんとす。と雪梅が誓ったか否かは不明だが、たった一日で雪梅は玲沙妃の情報を集めてきたようだった。

 ちなみに、香鈴はこの場にいない。瑛琳妃のお使いで外出していると花里から聞いた。

 「もうすんごいわがまま妃よ。妖婦……いえ、毒婦よ! あんな方が主上の従妹だなんて、ほんっと許せないわ!」

 「あの、もう少し具体的に」

 麗麗の問いに、雪梅はぶち切れながらも教えてくれた。

 「入内してまだ数日なのに、主上と夜な夜な──」

 「あっ、わかりました」

 少なくとも昼にする話ではない。

 だがそれで止まる雪梅ではなく、立て板に水で話し始めた。

 「まだ茶話会もしてないってのに、しかも仮宮でよ!? 中級妃がわんさかいるところで、主上とっ、そのっ……をやるじゃない!? ぜーんぶ筒抜けよ。それでもう大変なの! あの方に取り入ろうとする勢力が、あっちからもこっちからもわんさかわんさか」

 「大量発生ですか」

 「夏の孑孑(ぼうふら)だってあんなに湧いてこないわよ」

 おっそろしい話である。

 「しかもね、お食事の好き嫌いもすごいんですって」

 「それはまあ、妃様ですから」

 「んなこたわかってんのよ。でも、その好き嫌いを主上にも押しつけるのは違うでしょうが」

 好き嫌いを押しつけているとは、どういう意味なのだ。

 麗麗の言下の問いは、すぐに解決した。

 「酸っぱいものがお嫌いなんだそうよ。だから『(なます)や酢のものを絶対に食べないで。わたくしがいないところでも食べたら怒りますからね』って主上にお願いしたそうよ」

 「うわあ」

 そんな、幼稚園児のわがままみたいなお願いをしてどうしろというのだ。好きピとなにもかも一緒がいい、みたいな性質(タイプ)なのだろうか。

 「もう本当に、頭が煮えるかと思ったわ……!」

 ぶち切れモードの雪梅を落ち着かせるように、鍋をかき混ぜていた花里が笑った。

 「いいじゃないの。娘娘の好敵手が増えるのは歓迎だわ」

 「なんでよ!」

 「ひとつの花を愛でるよりも、たくさんの花を愛でていただいたほうが張りが出るわよ。比べる対象があったほうが、花のよさも際立つでしょう?」

 (こっ……わ!)

 いつもは穏やかな花里のひやっとする口調に、思わず姿勢を改めた。ひやひやしている麗麗を尻目に、花里はうふふと笑っている。

 「玉璇様はああだし、黎蘭様は()(とぎ)すらされないでしょう? 張り合いのある相手ができたのは、よいことだと思うわ」

 (んっ?)

 花里の言葉に引っかかりを覚えて、麗麗は挙手をする。

 「あのう、今、夜伽をされないとおっしゃいました?」

 「あら、知らなかったの?」

 花里がぱちくりと目を瞬かせる横で、雪梅が言葉を補足した。

 「黎蘭様は閨事(ねやごと)を一切なさらないのよ。主上がお渡りになってもそっち方面をお断りしているんですって」

 「そ、そんなのありなんですか?」

 後宮とはつまるところ、お世継ぎを設ける場所なのではないかと当然の疑問が頭によぎる。雪梅はかなり憤慨しているようで、(せき)を切ったように愚痴が飛び出てくる。

 「もちろん、なしよ! 妃の一番の仕事よ? 断るなんてどうかしてるわよ」

 「じゃあなんで」

 「こっちが聞きたいわよ」

 雪梅は目を光らせ、言葉の熱量が上がっていく。

 「なんでも、黎蘭様のご実家から妃を迎えるときは、必ず四夫人にって決まりがあるらしいのよ。その律に胡坐(あぐら)かいて贅沢三昧(ぜいたくざんまい)。お役目を果たしてすらいないくせに、あの機嫌の悪そうなお顔に、失礼な物言い。あの方はいっつもそう。にこりともしないの。妃なら愛想笑いのひとつもしなさいよ。感じ悪いったらありゃしないわ!」

 雪梅はひと息で話し終わると、一度息を吸った。そして、一転してひそやかに言葉を放つ。

 「玲沙様、昨日どこに向かったと思う? 黎蘭様のところだったのよ」

 「えっ、そうなんですか」

 確かに、黎蘭妃は『来客の予定もあります』と言っていたっけ。それが、玲沙妃のことだったのか。

 「あのふたり、しょっちゅう会ってるみたいなの。黎蘭様が呼び出しているみたい。入内したばかりのわがまま妃に黎蘭様がなんの御用なのかしらね」

 なにはともあれ、どろどろ展開なのは間違いない。思わずげんなりしてしまう。

 ここは後宮。女同士の〝誰が先に子を産むか〟競争が繰り広げられる戦場なのだ。

 (おっかないところだよ)

 それにしても、女同士がにらみ合っている中でせっせとおせっせに励める皇帝の精神(メンタル)、ある意味すごいなと変なところで感心してしまう麗麗である。

 さて、そんなこんなで花里がかき混ぜた鍋の中身もいい感じになってきたようだ。厨の中が柔らかく甘い匂いで満たされ、荒んだ空気もほんの少し和らいだ。

 「できたわ」

 満足のいく仕上がりになったようである。花里は満面の笑みで額の汗をぬぐっていた。

 「さ、頭を切り替えて。早速これを運びましょう。そろそろ香鈴も帰ってくる頃よ」

 三女官はできたものを持参し、厨を出た。

 向かったのは、いつも食事をしている房である。戸を開けると、すでに瑛琳妃が待機していた。そして……。

 (げっ)

 しかめっ面をしてもなお、顔だけは素晴らしく整った宦官が壁際に控えていた。

 (なぜいる)

 麗麗の視線に気づいたのだろう、瑛琳妃はくすくすと笑う。

 「ちょうど冥焔が尋ねてきたのだ。せっかくだから同席してもらおうと思ってな」

 「そうなんですか……」

 じろりと冥焔が麗麗をにらんだ。視線で『こちらへ来い』と促され、渋々と近寄った。すると、耳元ですばやくささやかれる。

 「お前に用があって来たのだ」

 「はあ」

 「そしたら、巻き込まれた」

 ははあ、それでしかめっ面か。自分に用があるというなら、おそらく怪異がらみだろう。

 「いいんですか、急がなくて」

 「いい。ただし、終わり次第すぐに出るぞ」

 否はない。

 最近冥焔は忙しいようで、先日の香炉事件以来、初のお目見えである。相変わらず麗しいご尊顔ではあるが、どうにも表情に影が落ちているようだ。

 先日の香炉事件で疲れがたまっているのだろうか。

 あの事件のすぐあとに尚寝局に監査が入ったらしい。劣悪な環境が露呈し、尚の責任者の首が文字通り飛んだのだという。本来女官に配給される服や食事のための資金を着服し、私腹を肥やしていたのだと噂で聞いた。

 冥焔がすぐに動いたのだ。おかげさまで、今は待遇改善されつつあるという話であるから、やはり有能な宦官なのだと感心したのだが……。

 その一方で、香炉の件は噂こそあれ、犯人が捕まったという話を聞かない。後宮の噂は千里を走るのだ。まだ耳に届いていないということは、犯人が不明である証左である。あるいは、噂にならないほどに危険な人物だったのか。

 麗麗の視線に気づいたのだろう、冥焔が何事かと同じく目線で返してくる。

 麗麗は首を振った。今ここで話す内容ではないと判断したためだ。

 厨から例の物を運んでいた花里と雪梅は、冥焔がいることに気づくとぱっと顔を赤らめた。そしてその横に立つ麗麗を見てなにやらにやにやと笑みを浮かべ、納得したようにこくりとうなずいてみせる。

 なにやら盛大に誤解をしているようだが、聞かぬが花である。

 そのまま壁際に立ち、おとなしく待つ麗麗の耳に、戸を打ち鳴らす音が届いた。ややあって、入室を求める弱々しい声。

 香鈴だ。

 瑛琳妃が〝諾〟を告げると、おずおずと開いた扉から細く小さい体が姿を現す。

 「瑛琳様。頼まれていた物を選んでまいりました」

 今にも倒れそうな顔色で、しかし足取りだけは確かに香鈴は進み出て、頭上に捧げるように細長い包みを掲げた。

 麗麗の隣で冥焔が体を一瞬強ばらせた。香鈴の変わりように驚いているのだ。

 瑛琳妃は朗らかに笑い、視線で雪梅に指示を出す。雪梅も心得たように香鈴から包みを受け取った。

 「助かった、香鈴。雪梅、中を検めるのはあとだ。そのままお前に預ける」

 「承知いたしました」

 雪梅は自身の服の中に包みをしまい込んだ。それを確認してから、瑛琳妃はもう一度口を開いた。

 「では、香鈴。まずはその椅子に座ってもらおうか」

 「……えっ、椅子に、ですか」

 「ああ。皆もかけてくれ。次の茶会に持参する甘味を用意した。それぞれ、感想を聞かせてほしい」

 これはもちろん、嘘である。

 夜眠れず、食欲も湧かず、食べても戻してしまう香鈴に、積極的に食事を勧めるのは得策ではない。彼女は今、自己虐待(セルフネグレクト)をしているのだ。この食事を香鈴のためにと最初から出してしまうと、彼女の負担になってしまう。

 けれど、責任感が強い香鈴だ。仕事だとわかれば無理やりにでも胃に入れるだろうと踏んだのである。

 花里を除いた全員が席に着く。冥焔は立ったままである。しかし、瑛琳妃はその冥焔にも視線を向けた。

 「冥焔、お前もだ」

 「しかし、わたくしは……」

 「深藍宮では皆で食事をするのが規律だ。あきらめて従え」

 これには宦官も苦い顔である。

 (そりゃそうだ)

 中央の風習では、妃と女官、宦官が同じ卓子を囲むなどありえない。だがしかし、瑛琳妃の視線にあきらめがついたのだろう。「失礼します」と声をかけてから一番端の席へと腰を下ろした。

 花里が配膳車(ワゴン)から(わん)を取り出し、まずは瑛琳妃の前へ。そしてそれぞれの席の上に置く。そのまままた配膳車へと戻り、大きな蓋と足つきの椀を卓子の中央に据えた。

 花里が蓋を開けると花の香りがふわりと漂う。

 そうして中央の椀から匙でひとすくい、自分の椀に中身を移した。流れる動作で椀を持ち、ひと口、口に含んでみせる。

 全員に微笑みかけながら、瑛琳妃、冥焔、雪梅、そして麗麗と香鈴の椀にも中身が移された。

 椀の中にはとろりとした液体が入っている。細かく刻まれた花の、林檎のようなみずみずしい香りが鼻先に届いた。

 「少し熱いので、気をつけてお召し上がりください」

 花里はそう言い終わると、自分の席に腰を下ろした。花里の言葉にうなずいて、まずは瑛琳妃がひと口。

 「……! これはすごい」

 妃の顔がぱあっと輝く。

 「この香り、素晴らしいな。みずみずしい爽やかな香りに、蜜の甘さがちょうどいい。それに、このとろみ。喉になめらかに滑り落ちていくのがとてもよい」

 純粋に気に入ったらしい。もうひと口、と匙ですくって口に含むと、ますます目を輝かせる。

 雪梅も同じように口に含み、目を見開いて口を押さえた。頬が紅潮している。この場に瑛琳妃や冥焔がいなければ、『おいしーっ!』と叫んでいたことだろう。

 花里は嬉しそうに笑うと、麗麗に目を向けた。

 「実は、今回の調理法(レシピ)は麗麗に教えてもらったんです。麗麗、娘娘にご説明なさい」

 おっと、こちらにお鉢が回ってきた。

 麗麗はちらっと香鈴に視線を送る。彼女は目の前の椀を前に、食べあぐねているのだろう。匙を持ち、離し、また持ちを繰り返していた。

 なんとか、食べてもらいたい。その一心で麗麗は口を開く。

 「こちらの花は、春黄菊(カモミール)と言いまして、はるか西の国で採れる花でございます。今回、黎蘭妃のご厚意で乾燥させた物をお譲りいただきました。体を温め、精神を安定させる効果があると言われています。そして、同じく体を温めるために(しょう)()と蜜を加えました。このとろみは、(かっ)(こん)の粉を使用しております」

 「葛根? 生薬のか?」

 瑛琳妃の言葉に、麗麗はうなずいてみせた。

 「葛根を砕き、水でもみ、何度もさらして沈殿した物を乾燥させると、白い粉状のものが残ります。それをお湯にゆっくりと溶くと、このようなとろみのある液体に仕上がるのです。この飲み物を葛湯といいます」

 ちなみに葛湯に使う葛粉は、この国では超珍品だ。()(きん)が起きたとき用にと蔵に貯蔵されていたものを、瑛琳妃権限を存分に使って分けてもらったのである。

 「葛湯は体を温め、体の内部をすこやかに保ちます。食欲がないとき、疲れてしまったとき、眠れないときに非常に効果的です」

 香鈴の手がぴくりと動いた。おずおずと顔を上げ、不安そうにあたりを見回している。

 瑛琳妃は柔らかく微笑むと、そっと香鈴に言葉をかけた。

 「香鈴。食べてみてくれないか」

 「は、はいっ」

 慌てたように匙を手に取る。何度か椀の中に差し込み、ためらったあと、香鈴は目をぎゅっとつむり、口の中へと匙を入れた。

 「あっ……」

 香鈴の口から小さな感嘆の声が漏れた。同時に、栗鼠のようなつぶらな瞳から、ほろほろと涙がこぼれ出す。

 「……おい、ひいです」

 そして、もうひと匙。ゆっくりと椀に差し入れ、口に含む。

 「おいしい、それにとっても……優しい、味わいだと……っ。申し訳ありませっ……御前で、このような……っ」

 あとは言葉にならなかった。迫りくる感情と戦っているのだろう、匙を置き、目頭を押さえて涙をこらえようとする香鈴を一瞥し、瑛琳妃は雪梅に視線を移した。

 「雪梅。先ほど香鈴から預かった包みを」

 「はい、瑛琳様」

 雪梅が席を立ち、進み出て、先ほどの包みを瑛琳妃に捧げる。それを受け取って、瑛琳妃は中身をそっと取り出した。

 (わあっ……)

 紅木でできた(かんざし)である。浮き出た木目もつやつやと美しく、彫りも細かい。上品な佇まいの簪に、花里も雪梅もほうっと感嘆の息をついた。

 「素晴らしいですわね。木目も、つやも格調高くて品がいいですわ」

 「彫りもとても美しいですね。桃花ですか。華美すぎないところが逆に素敵です!」

 ふたりの女官は目を輝かせて簪を見つめていた。その視線に満足したように、瑛琳妃はうなずいてみせる。

 「玲沙妃に贈る簪を、香鈴に選んでもらったのだ。素晴らしい目だと思わないか、冥焔」

 話を振られた冥焔は、しっかりとうなずいてみせた。

 「桃は仙木、その花は邪を払い、主を守ると言われております。後宮での最初の贈り物としては適切にございましょう」

 香鈴の顔がぱっと赤くなる。冥焔は表情を変えずに言葉を重ねる。

 「玲沙妃は派手を好まず、品のよさを大切にする妃でございますゆえ、お喜びいただけるものであるとこの冥焔がはっきりと申し上げます。煌びやかな簪、歩揺は数多くあれど、その中からこの簪を選んだ女官の目は確かかと」

 ついに香鈴は両手で顔を覆ってしまった。抑えきれない()(えつ)が房に響く。

 「あっ……ありがとう……存じっ……」

 賢い香鈴は気づいただろう。葛湯も、瑛琳妃からの使いも、香鈴のためだったのだということに。

 瑛琳妃はゆっくりと立ち上がると、香鈴の横にしゃがみ込んだ。ぎょっとした香鈴が席から立とうとするのを押さえ、そのままその細い肩に手を置いた。

 「私はお前の目を評価している。今までも、これからもそれは変わらん」

 「瑛琳様……」

 「お前がいないと私は贈り物ひとつできないのだ。これからもお前には働いてもらわないと困るのだから、体を壊している暇などないぞ。今夜はよく寝て、また明日から私のために尽くしなさい。いいな、香鈴」

 「はいっ……はい、瑛琳様!」

 花里も、雪梅もそっと袖で目頭を押さえている。かくいう麗麗も胸に迫るものがあった。

 (瑛琳様……推せる……!)

 尊すぎて心がしんどい。この小主(あるじ)だからこそ、女官たちの忠誠があるのだと思うと、しみじみとこの宮の一員である嬉しさが込み上げてくるというものだ。

 それに比べてこっちの上司は、とちらりと冥焔を一瞥すると、なにやら難しい顔だ。鬼上司は今日も健在なようで、なによりである。

 泣き崩れてしまった香鈴は雪梅に付き添われて自分の房へと戻った。少しでも胃に物を入れられたことや、感情の爆発が幸いしたのだろう。どこか()きものが落ちたような顔つきだった。このまま明日の朝まで香鈴は休みとなる。瑛琳妃の気遣いだ。

 麗麗は花里に頼まれ、香鈴の房まで例の葛湯を運ぶ。すぐに食べられるようにと匙を添えて出向いたのだが、なんと香鈴は寝台の中ですやすやと寝息を立てていた。

 「ちょっと横になるって言って、すぐこれよ」

 雪梅が呆れたように笑みをこぼした。

 「よほど思い詰めていたのね。まったく、お馬鹿なんだから」

 そういう雪梅の表情は優しい。

 「麗麗、冥焔様に呼ばれているのよね。香鈴は私が気にかけておくわ。目が覚めたらこの葛湯も温め直して食べてもらうから、ここは任せて。行ってらっしゃい」

 「ありがとうございます」

 (なんだかんだで、雪梅ってめっちゃ優しいんだよね)

 にやにやしていると、「気持ち悪いわね」と怒られてしまった。

 本当によい職場である。

 麗麗は深藍宮の皆が好きだ。居心地がいいというだけではない。今の自分には、はっきりとこの人たちを失望させたくない、期待に応えたいという気持ちがある。それは決して不快な感情ではない。

 あまり物事に執着しない性格だと思って生きてきただけに、我ながらおもしろかった。環境は人を変えるのだなあとついしみじみしてしまう。

 なにはともあれ、怪異が起こっているらしい。麗麗は瑛琳妃に断り、宮の外へ出た。すかさず鬼上司、もとい冥焔から「遅い」のひと言。

 「なぜもっと早く出てこないのだ」

 「こっちにもいろいろ都合ってもんがあるんです」

 「行くぞ」

 冥焔は踵を返すと歩き始めた。かなりの早足である。

 「ちょっ……冥焔様。説明してくださいよ!」

 相変わらずなにが起きているのかを事前に教えてくれないあたり、気が利かない。

 冥焔は速度をゆるめない。小走りで追いついた麗麗に横目で視線を送ると、おもむろに口を開いた。

 「夜警の宦官や女官たちが立て続けに水に落ちる事件が起きた」

 「ずいぶんとそそっかしいんですね」

 「そそっかしいですむ話ならよかったんだがな」

 嫌な予感がびしびしとする。

 「(シュイ)(グィ)は知っているか」

 「いえ、存じません」

 冥焔は視線を前に戻すと、淡々とした口調で話し始める。

 「以前話したな。死者の国の民は人数が決まっている、生き返るためには誰か生きている者を殺める必要があると」

 「はい。確か、(グイ)(チュウ)(ダイ)……でしたっけ」

 (ジャオ)(グィ)事件のときを思い出しながら麗麗はうなずく。

 「そうだ。水鬼とは、その名の通り水の中に潜む幽鬼だ。事故や自殺など不遇の死を遂げた者がこの鬼となる。生に極端に執着し、生き返るために人を呼ぶ。つまり……水辺に誘い出し、引きずり込んで殺すのだ。うまく殺せれば、水鬼は死の呪縛から解き放たれ、またこの国に生まれ変わることができるという」

 「うへえ……」

 話を聞いているだけでげんなりしてしまう。

 何度聞いてもえげつない。この国の幽鬼は、なんというか、梅雨時期の曇り空よりも湿度が高いのではなかろうか。スポンジでも持ってくればあっという間に湿ってしまうんではないかというくらい、じめっとむしっとしているのだ。

 「それにしてもこの国の死者って執念深いですよね。そりゃ、誰だって死んだままが嫌なのはわかるんですが、誰かを殺したり、犠牲を払ったりしてまで生まれ変わりたいもんですかね」

 「そういうものだろう」

 おや、断言したぞ、と麗麗は驚いた。

 冥焔はまっすぐ前を向いて歩いている。いつもと変わらぬ口調、変わらぬ姿勢だが、妙に引っかかる言葉の響きだった。

 「死ぬ宿命ならばおとなしく死んでおけばいいものを。生をあきらめず、生きるためにどんな犠牲をも払う。その犠牲が自身の尊厳を奪うものだとしても生きたいと願い実行する。みじめで、醜く、浅ましく、そして愚かなのだ。死者というものは」

 「そこまで言います!?」

 まるで親でも殺されたかのような散々な言われようで、さすがに死者に対して同情したくなった麗麗である。

 (ってか、私も一度死んでんだよなあ)

 自分の転生はこの(ことわり)の中ではどういう扱いになるのだろうかと考え始めそうになって、麗麗はすんっと頭の中にシャッターを下ろした。

 哲学には明るくないし、生きるだの、死ぬだの、人類創世時代より続く普遍的な議題を自分がこの場で今すぐ解決できるわけがない。

 答えが出ない問いは、闇落ちへの入り口だ。考えすぎ、だめ絶対。

 さて、話がそれた。麗麗は咳払いすると、冥焔に再度問いかける。

 「それで、今回はその水鬼が出たって話なんです?」

 麗麗の質問には答応えずに、冥焔は別の言葉を紡ぐ。

 「お前、あの(びょう)を覚えているか。皇太后の」

 「ええ、もちろん」

 忘れるわけがないだろう。後宮の東側、祖先が(まつ)られている廟は、白蓮妃が事切れた場所だ。

 ちくりと胸が痛む。あの事件を、麗麗はまだ過去にはできない。

 苦い思い出に眉を寄せると、冥焔も同じ感情を抱いていたようである。同じようにしかめた眉には深い憂いが潜んでいる。

 「あの廟の近くには、池がある。その池に宦官や女官たちが落ちるのだ。その噂が広がって、宦官や女官たちが夜警に出たがらなくなってしまった。水鬼に誘われる、殺されてしまうと怖がって話にならん。しかも……」

 冥焔はそこで一度言葉を区切った。

 「場所が場所だ」

 ああ、なるほど、と麗麗は声を落とした。

 「……皇太后様の呪い、ですか」

 「その通りだ。皇太后の呪い、または白蓮妃が呼んでいるのだという者もいる」

 痛む心の中に、わずかに怒りが混じったのを感じた。

 (ほんと、この国の人たちってさあ!)

 皇太后はともかく(ともかくですましていい話ではないが)白蓮妃の件はつい数十日前の事件だ。ましてや、かの妃は人柄もよく、慕われており、心酔している女官や宦官も多かったと聞く。直接会話した者も多かろう。

 それなのに一転、手のひらくるっくるで怖がるとはなんたることか。

 確かに白蓮妃の一連の行為は非難されてしかるべきである。しかし、噂している輩の誰かひとりくらいは彼女の味方であれよ! 恩とか情とかあるでしょうに! と憤慨してしまうのだ。

 麗麗の怒りに気づいたのか否かはわからないが、冥焔はなおも言葉を重ねた。

 「その者たちの話は一貫している。『灯りが見えたのでそちらに向かって歩いていたら、池に落ちた』と訴えている。夜警は異常があるかないかを確かめるのが仕事だからな。不審な灯りが見えていたので近寄ったということらしい」

 「灯りが見えたんですか」

 「ああ。そう主張している。あのあたりは夜になると廟の灯りも落ち、周囲は暗い。おのおのが持っている手燭だけが唯一の灯りだ。それ以外の灯りがあるとなれば、夜警の職務上、確認しなければならないだろう」

 ふむ、と麗麗の頭の中に方程式が組み上がる。

 (多分なあ、灯りってきっと〝アレ〟だと思うんだけど。でも……)

 肌を撫でる空気を感じる。

 春だ。もうすぐ雨期が来る影響もあり、昼はだいぶ暖かい。だがしかし、夜はまだ冷え込む日が続いている。

 (こんな気温で、この湿度でアレが出るもんなのかね?)

 まあ行ってみればわかるだろう、と麗麗は冥焔のあとをちょこちょこついていく。