と、まあ、自身の前世はともかくとして。
「優しさはときに残酷です。自身の罪に対して、必要な罰を与えていただくのも恩赦のひとつだと私は思います。……生意気を言って、申し訳ございません」
揖礼を捧げると、瑛琳妃はほうっと感心の息をついた。
「……確かに、もっともだ。私は妃としての対応を間違えていたようだな」
そう言いながら、瑛琳妃は素直に麗麗に礼をする。
「お前がいてくれて助かった。恩にきる」
「光栄でございます」
この妃は、とても優しい。そして自身に仕える女官に対し誠実である。
だからこそ、香鈴もあれほど自身を責めているのだろう。
(理想的な主従関係だよなぁ)
香鈴と瑛琳妃だけではない。雪梅も花里も、皆が皆を思いやり、大切にしているのが伝わってくるのだ。
だからこそ、麗麗もなんとかしたいと願い、行動している。やはり、職場は人間関係が大切だ。
「それで、麗麗。なにか話があるのだろう。私にできることがあるなら力になるが」
さすがの頭の回転の速さである。麗麗は感謝を込めて再び揖礼を捧げた。
「折り入って、瑛琳様にご相談がございます」
回りくどい言い方はわからないし、なるべく早く答えを聞きたい。用件を端的に述べると、瑛琳妃は軽く目を見張った。
「よく知っているな。あれは遙か西で採れるものだぞ。私も久しぶりにその名を聞いたくらいだ」
「えっと、書物で読んだことがあるんです」
大嘘である。
瑛琳妃は顎に指を添え、「うーん」と考え込んでいる。これは期待が持てるかも、と身を乗り出したが、しかし、そうはうまくいかなかったようだ。
「確かに、実家では取り扱っていた。だが今から頼んで送ってもらったとしても、恐ろしく刻がかかるだろう」
(しまった!)
そうだった。つい前世と同じ感覚で話してしまっていたが、ここは後宮だ。今から書簡を出し受理されたとしても、基本的にこの国への輸送方法は徒歩か馬、または船。瑛琳妃の故郷から例の物を運ぶには途方もない時間がかかる。そうこうしているうちに香鈴が手遅れになっては元も子もない。
しかし瑛琳妃はなにかを思いついたようである。いたずらっぽい笑みを浮かべてみせた。
「麗麗。私は今から出かけることにする。支度をしたい。雪梅を呼んでくれないか」
かくして雪梅が呼ばれ、瑛琳妃は外出の支度を調えた。髪を結い直し、艶やかな青い深衣に白い披帛を身につけ、仕上げに金の歩揺を数本。
(せ、正装……)
瑛琳妃は略装も麗しいが、正装すると迫力が半端ない。威風堂々たる姿に圧倒されるようだ。
それにしても、正装までしていったいどこに出かけるというのか。
「瑛琳様。輿の準備ができております」
雪梅は心得ているようで、すでに宮の入り口に輿を用意させていた。
有能すぎる。雪梅の用意のよさ、察し能力の高さはまさにシゴデキ女官の代表といえよう。
宦官が運ぶ輿のあとを雪梅と共にえっちらおっちらついて歩き、向かった先は、今まで麗麗が来たことのない宮だった。
黒々と磨かれた門柱に、金色の装飾。門扉も暗褐色だが、暗い印象はない。華やかさというよりも荘厳に重きを置いた印象の宮である。
「ここは『黒紫宮』よ」
こそこそと雪梅がささやく。
「黒紫宮、というと」
「貴妃・黎蘭様の宮よ! ……いい加減覚えなさいよ、まったく……」
ぶつぶつと文句を言う雪梅の横で、記憶を反芻する。
貴妃・黎蘭とは確か……。
(思い出したっ……、金髪の派手美人!)
宦官により、すでに瑛琳妃の訪問を伝えてあったらしい。宮の入り口で止められることなく輿はするすると門をくぐった。
門の先は、広い院子である。そこで今度こそ麗麗は目をひんむいた。
「ハッ……」
(ハーブガーデンじゃん!)
細い小道沿いに咲いているのはどう見みても薫衣草だし、その下草に生えているのは百里香だ。殿舎に巻きついているのは、まだ蕾だがどう見ても薔薇である。よく観察すると、土の色が少し違う。わざわざ土を入れ替えているのだ。
池のほとりに建っているのは鳥かごのような亭子で、その中央にはおおよそこのあたりでは見かけないような……つまり、西洋風の椅子と机が設えてあった。
一瞬、ここが焱国である事実を忘れてしまいそうになる。
殿舎の入り口には、金髪の佳人が立っている。周囲に侍る女官も皆、色素が薄い。
輿が止まった。宦官の手を借りて瑛琳妃が輿から降りると、率先して佳人に礼を取った。
見ると、雪梅はすでに揖礼を捧げている。麗麗も慌ててならった。
「迷惑です」
黎蘭妃は礼を取る瑛琳妃ご一行を鋭く見ると、表情を一切変えずに言葉を落とした。
一気に空気が凍りつく。
「瑛琳妃だからこそ仕方なくお会いしました。けれど、本来このような突然の訪問を受ける義理はありません。本日はこのあと来客の予定もありますし、用が済んだら即刻お帰りください」
すぱーんとよく切れる菜刀のような物言いをする方である。
瑛琳妃は心得ているようで、さらに深く礼を取る。
「申し訳ありません、黎蘭妃」
「もうここに来てしまっているのですから、その謝罪は無意味でしょう」
(ひえええ)
あの派手好き妃──瑛琳妃を目の敵にしている玉璇妃と似た口調であるが、受ける印象が大違いである。
玉璇妃が嫌みの塊なら、こちらは本音の塊だ。切れ味の鋭いことこのうえない。遠回しな言い方をする後宮の風習とは、ある意味対極に位置する方である。
麗麗は袖の隙間から黎蘭妃をこっそりと観察した。
(彫刻みたいな人だな)
真一文字に引き結ばれた唇といい、まっすぐな視線といい、どこか造りものめいた美しさを持つ妃である。
「宦官から聞きました。ご要望のものですが、あれは春本番のもの。今はまだ刻が足りません。私は仙術を使えるわけではありませんので、ないものをお渡しすることは不可能です」
瑛琳妃の顔がやや曇る。
「そうですか。それは大変申し訳──」
「ですが」
黎蘭妃が瑛琳妃の言葉を遮った。
「乾燥させた物でよろしければ、保存用の物がございます」
黎蘭妃は傍らに立つ女官を一瞥する。小主と同じように無表情の女官はするするとこちらに近づくと、頭上に捧げるようにして布の包みを差し出した。
瑛琳妃がちらりと麗麗に目配せする。受け取れと言っているのだ。
(も、もしかして……!)
急いで女官から包みを預かると、中からかさりと乾いた音がする。
「中を検めてもよろしいか」
瑛琳妃の言葉に黎蘭妃は軽くうなずく。麗麗は祈るようにして中を確認した。
(ビンゴ!)
中に入っていたのは、小指の先ほどの花だ。乾燥させた花は、林檎にも似たかぐわしい香りを漂わせている。
麗麗の表情を見て中身が正しいと察したのであろう。瑛琳妃の表情がゆるんだ。
「かたじけない。この恩は必ずどこかで返します」
「不要」
それだけ言うと、黎蘭妃は踵を返した。女官たちもあとに続く。本来であれば瑛琳妃が去るまではその場で待つのが礼儀のはずだが、まったくの無頓着である。
「では、私たちも戻ろう」
再び輿に乗った瑛琳妃の指示に従って、麗麗たちは元来た道を戻り始めた。
なにはともあれ、目的のものが手に入ったのだ。めでたしめでたし──にはならないのが後宮だ。
もう少しで深藍宮というところで、反対側から輿が近づいてきたのである。
(あれ? あの輿……)
見覚えがある。どこまでも上品な輿は、徳妃・玲沙のものだ。
止まったほうがいいのかと思いきや、宦官や雪梅も止まる気配がない。視線で問うと、雪梅が厳しい顔つきで前を見据えている。
「いいのよ、このまま進んで」
「でも、ぶつかるのでは」
「それでもいいの。しっかり前を向いて歩きなさい」
いったいどういうことかと内心で首を傾げつつ、言われた通りに前を向いてしずしずと輿のあとをついていく。道を行き交う下級女官や宦官たちが、息を呑んで、かつ好奇心たっぷりの視線でこちらを見ているのがわかった。
(なぜ、そんなに注目を?)
玲沙妃の輿はしずしずと、一定の速度で向かってくる。
「ふうん、そう、そういう感じ。なら、売られた喧嘩は買ってやるわよっ……」
隣を歩く雪梅が眉を寄せ、すっと歩を速めた。そして
瑛琳妃の輿の前まで進み出ると、張りのある声をあげたのである。
「道を譲りなさい」
凛と響く声が木霊する。
「淑妃、瑛琳様がお通りです。御位をお考えいただきたく存じます。このような不敬、許されるとお思いですか!」
ああ、なるほど。ようやくわかった。これは、いわゆる合戦である。道を譲ったほうが負けなのだ。
四夫人は、同階級としてまとめられることが多いが、その実、細かな位の高さが明確に決められている。
上から順に、貴妃、淑妃、徳妃、賢妃。つまり、この場では淑妃の瑛琳妃が高位であり、徳妃の玲沙妃が下なのだ。だから道を譲れと雪梅は発言したのである。
輿を運んでいた宦官は一瞬ひるんだようだ。足を止め、玲沙妃側の判断を仰ぐように視線を輿へと向けた。先方の女官が一歩進み出て、雪梅に対峙する。
「恐れながら申し上げます。玲沙様は主上と親しい仲であらせられます。たとえ瑛琳様が淑妃であるとはいえ、ここは後宮。主上のお気持ちひとつで律などいくらでも変わりましょう。その律に従うのであれば、瑛琳様が道をお譲りになるのが筋ではございませんか」
(うっ……わあああ)
嘘だろまじか、と麗麗は心の中で悲鳴をあげた。
(主上と幼なじみなんだから、私のほうが上なのよ、ってことだよねえ!?)
ああ宦官。宦官よ。玲沙妃がいい人だなんて言って悪かった。
これはとんでもない妃が入ってきてしまったものだと麗麗が天を仰ぎそうになったときである。
「よい。こちらが譲りなさい」
「瑛琳様!」
輿の中から、瑛琳妃が声をあげたのである。雪梅が信じられないという顔で輿を仰ぎ見るが、一度決めたことは覆さないのが瑛琳妃だ。
宦官たちも迷ったようだが、おとなしく指示に従って輿を道の脇に寄せる。
その前を勝ち誇ったように、ことさらゆっくり通り過ぎる玲沙妃の輿を見ながら、さしもの麗麗もふつふつとした怒りを覚えた。雪梅は言わずもがなである。輿が完全に通り過ぎてから、憤懣やるかたないといった風情で声をあげた。
「瑛琳様、どうしてお譲りになったのですかっ」
対する妃の答えは簡潔だ。
「こんな些細なことで争っても意味がないだろう」
「でも……」
「ああいうのは流しておけばいいのだ」
からっと答える妃に、思わず呆気にとられた。さすがというかなんというか、器の大きさが桁違いだ。
しかし、と麗麗は雪梅と視線を合わせ、互いに言いたいことを察知する。
(これはちょっと……)
(我慢ならないわよねえっ)
見てろよ玲沙妃。ふたりの女官の意見が、図らずも一致した瞬間だった。
「優しさはときに残酷です。自身の罪に対して、必要な罰を与えていただくのも恩赦のひとつだと私は思います。……生意気を言って、申し訳ございません」
揖礼を捧げると、瑛琳妃はほうっと感心の息をついた。
「……確かに、もっともだ。私は妃としての対応を間違えていたようだな」
そう言いながら、瑛琳妃は素直に麗麗に礼をする。
「お前がいてくれて助かった。恩にきる」
「光栄でございます」
この妃は、とても優しい。そして自身に仕える女官に対し誠実である。
だからこそ、香鈴もあれほど自身を責めているのだろう。
(理想的な主従関係だよなぁ)
香鈴と瑛琳妃だけではない。雪梅も花里も、皆が皆を思いやり、大切にしているのが伝わってくるのだ。
だからこそ、麗麗もなんとかしたいと願い、行動している。やはり、職場は人間関係が大切だ。
「それで、麗麗。なにか話があるのだろう。私にできることがあるなら力になるが」
さすがの頭の回転の速さである。麗麗は感謝を込めて再び揖礼を捧げた。
「折り入って、瑛琳様にご相談がございます」
回りくどい言い方はわからないし、なるべく早く答えを聞きたい。用件を端的に述べると、瑛琳妃は軽く目を見張った。
「よく知っているな。あれは遙か西で採れるものだぞ。私も久しぶりにその名を聞いたくらいだ」
「えっと、書物で読んだことがあるんです」
大嘘である。
瑛琳妃は顎に指を添え、「うーん」と考え込んでいる。これは期待が持てるかも、と身を乗り出したが、しかし、そうはうまくいかなかったようだ。
「確かに、実家では取り扱っていた。だが今から頼んで送ってもらったとしても、恐ろしく刻がかかるだろう」
(しまった!)
そうだった。つい前世と同じ感覚で話してしまっていたが、ここは後宮だ。今から書簡を出し受理されたとしても、基本的にこの国への輸送方法は徒歩か馬、または船。瑛琳妃の故郷から例の物を運ぶには途方もない時間がかかる。そうこうしているうちに香鈴が手遅れになっては元も子もない。
しかし瑛琳妃はなにかを思いついたようである。いたずらっぽい笑みを浮かべてみせた。
「麗麗。私は今から出かけることにする。支度をしたい。雪梅を呼んでくれないか」
かくして雪梅が呼ばれ、瑛琳妃は外出の支度を調えた。髪を結い直し、艶やかな青い深衣に白い披帛を身につけ、仕上げに金の歩揺を数本。
(せ、正装……)
瑛琳妃は略装も麗しいが、正装すると迫力が半端ない。威風堂々たる姿に圧倒されるようだ。
それにしても、正装までしていったいどこに出かけるというのか。
「瑛琳様。輿の準備ができております」
雪梅は心得ているようで、すでに宮の入り口に輿を用意させていた。
有能すぎる。雪梅の用意のよさ、察し能力の高さはまさにシゴデキ女官の代表といえよう。
宦官が運ぶ輿のあとを雪梅と共にえっちらおっちらついて歩き、向かった先は、今まで麗麗が来たことのない宮だった。
黒々と磨かれた門柱に、金色の装飾。門扉も暗褐色だが、暗い印象はない。華やかさというよりも荘厳に重きを置いた印象の宮である。
「ここは『黒紫宮』よ」
こそこそと雪梅がささやく。
「黒紫宮、というと」
「貴妃・黎蘭様の宮よ! ……いい加減覚えなさいよ、まったく……」
ぶつぶつと文句を言う雪梅の横で、記憶を反芻する。
貴妃・黎蘭とは確か……。
(思い出したっ……、金髪の派手美人!)
宦官により、すでに瑛琳妃の訪問を伝えてあったらしい。宮の入り口で止められることなく輿はするすると門をくぐった。
門の先は、広い院子である。そこで今度こそ麗麗は目をひんむいた。
「ハッ……」
(ハーブガーデンじゃん!)
細い小道沿いに咲いているのはどう見みても薫衣草だし、その下草に生えているのは百里香だ。殿舎に巻きついているのは、まだ蕾だがどう見ても薔薇である。よく観察すると、土の色が少し違う。わざわざ土を入れ替えているのだ。
池のほとりに建っているのは鳥かごのような亭子で、その中央にはおおよそこのあたりでは見かけないような……つまり、西洋風の椅子と机が設えてあった。
一瞬、ここが焱国である事実を忘れてしまいそうになる。
殿舎の入り口には、金髪の佳人が立っている。周囲に侍る女官も皆、色素が薄い。
輿が止まった。宦官の手を借りて瑛琳妃が輿から降りると、率先して佳人に礼を取った。
見ると、雪梅はすでに揖礼を捧げている。麗麗も慌ててならった。
「迷惑です」
黎蘭妃は礼を取る瑛琳妃ご一行を鋭く見ると、表情を一切変えずに言葉を落とした。
一気に空気が凍りつく。
「瑛琳妃だからこそ仕方なくお会いしました。けれど、本来このような突然の訪問を受ける義理はありません。本日はこのあと来客の予定もありますし、用が済んだら即刻お帰りください」
すぱーんとよく切れる菜刀のような物言いをする方である。
瑛琳妃は心得ているようで、さらに深く礼を取る。
「申し訳ありません、黎蘭妃」
「もうここに来てしまっているのですから、その謝罪は無意味でしょう」
(ひえええ)
あの派手好き妃──瑛琳妃を目の敵にしている玉璇妃と似た口調であるが、受ける印象が大違いである。
玉璇妃が嫌みの塊なら、こちらは本音の塊だ。切れ味の鋭いことこのうえない。遠回しな言い方をする後宮の風習とは、ある意味対極に位置する方である。
麗麗は袖の隙間から黎蘭妃をこっそりと観察した。
(彫刻みたいな人だな)
真一文字に引き結ばれた唇といい、まっすぐな視線といい、どこか造りものめいた美しさを持つ妃である。
「宦官から聞きました。ご要望のものですが、あれは春本番のもの。今はまだ刻が足りません。私は仙術を使えるわけではありませんので、ないものをお渡しすることは不可能です」
瑛琳妃の顔がやや曇る。
「そうですか。それは大変申し訳──」
「ですが」
黎蘭妃が瑛琳妃の言葉を遮った。
「乾燥させた物でよろしければ、保存用の物がございます」
黎蘭妃は傍らに立つ女官を一瞥する。小主と同じように無表情の女官はするするとこちらに近づくと、頭上に捧げるようにして布の包みを差し出した。
瑛琳妃がちらりと麗麗に目配せする。受け取れと言っているのだ。
(も、もしかして……!)
急いで女官から包みを預かると、中からかさりと乾いた音がする。
「中を検めてもよろしいか」
瑛琳妃の言葉に黎蘭妃は軽くうなずく。麗麗は祈るようにして中を確認した。
(ビンゴ!)
中に入っていたのは、小指の先ほどの花だ。乾燥させた花は、林檎にも似たかぐわしい香りを漂わせている。
麗麗の表情を見て中身が正しいと察したのであろう。瑛琳妃の表情がゆるんだ。
「かたじけない。この恩は必ずどこかで返します」
「不要」
それだけ言うと、黎蘭妃は踵を返した。女官たちもあとに続く。本来であれば瑛琳妃が去るまではその場で待つのが礼儀のはずだが、まったくの無頓着である。
「では、私たちも戻ろう」
再び輿に乗った瑛琳妃の指示に従って、麗麗たちは元来た道を戻り始めた。
なにはともあれ、目的のものが手に入ったのだ。めでたしめでたし──にはならないのが後宮だ。
もう少しで深藍宮というところで、反対側から輿が近づいてきたのである。
(あれ? あの輿……)
見覚えがある。どこまでも上品な輿は、徳妃・玲沙のものだ。
止まったほうがいいのかと思いきや、宦官や雪梅も止まる気配がない。視線で問うと、雪梅が厳しい顔つきで前を見据えている。
「いいのよ、このまま進んで」
「でも、ぶつかるのでは」
「それでもいいの。しっかり前を向いて歩きなさい」
いったいどういうことかと内心で首を傾げつつ、言われた通りに前を向いてしずしずと輿のあとをついていく。道を行き交う下級女官や宦官たちが、息を呑んで、かつ好奇心たっぷりの視線でこちらを見ているのがわかった。
(なぜ、そんなに注目を?)
玲沙妃の輿はしずしずと、一定の速度で向かってくる。
「ふうん、そう、そういう感じ。なら、売られた喧嘩は買ってやるわよっ……」
隣を歩く雪梅が眉を寄せ、すっと歩を速めた。そして
瑛琳妃の輿の前まで進み出ると、張りのある声をあげたのである。
「道を譲りなさい」
凛と響く声が木霊する。
「淑妃、瑛琳様がお通りです。御位をお考えいただきたく存じます。このような不敬、許されるとお思いですか!」
ああ、なるほど。ようやくわかった。これは、いわゆる合戦である。道を譲ったほうが負けなのだ。
四夫人は、同階級としてまとめられることが多いが、その実、細かな位の高さが明確に決められている。
上から順に、貴妃、淑妃、徳妃、賢妃。つまり、この場では淑妃の瑛琳妃が高位であり、徳妃の玲沙妃が下なのだ。だから道を譲れと雪梅は発言したのである。
輿を運んでいた宦官は一瞬ひるんだようだ。足を止め、玲沙妃側の判断を仰ぐように視線を輿へと向けた。先方の女官が一歩進み出て、雪梅に対峙する。
「恐れながら申し上げます。玲沙様は主上と親しい仲であらせられます。たとえ瑛琳様が淑妃であるとはいえ、ここは後宮。主上のお気持ちひとつで律などいくらでも変わりましょう。その律に従うのであれば、瑛琳様が道をお譲りになるのが筋ではございませんか」
(うっ……わあああ)
嘘だろまじか、と麗麗は心の中で悲鳴をあげた。
(主上と幼なじみなんだから、私のほうが上なのよ、ってことだよねえ!?)
ああ宦官。宦官よ。玲沙妃がいい人だなんて言って悪かった。
これはとんでもない妃が入ってきてしまったものだと麗麗が天を仰ぎそうになったときである。
「よい。こちらが譲りなさい」
「瑛琳様!」
輿の中から、瑛琳妃が声をあげたのである。雪梅が信じられないという顔で輿を仰ぎ見るが、一度決めたことは覆さないのが瑛琳妃だ。
宦官たちも迷ったようだが、おとなしく指示に従って輿を道の脇に寄せる。
その前を勝ち誇ったように、ことさらゆっくり通り過ぎる玲沙妃の輿を見ながら、さしもの麗麗もふつふつとした怒りを覚えた。雪梅は言わずもがなである。輿が完全に通り過ぎてから、憤懣やるかたないといった風情で声をあげた。
「瑛琳様、どうしてお譲りになったのですかっ」
対する妃の答えは簡潔だ。
「こんな些細なことで争っても意味がないだろう」
「でも……」
「ああいうのは流しておけばいいのだ」
からっと答える妃に、思わず呆気にとられた。さすがというかなんというか、器の大きさが桁違いだ。
しかし、と麗麗は雪梅と視線を合わせ、互いに言いたいことを察知する。
(これはちょっと……)
(我慢ならないわよねえっ)
見てろよ玲沙妃。ふたりの女官の意見が、図らずも一致した瞬間だった。



