『美味しい』が聴きたくて

文化祭の熱狂が嘘のように、学校は静かな冬の装いに包まれていました。教室の窓ガラスは白く曇り、休み時間になっても生徒たちは丸くなって暖を取っています。

豊の机の上には、一枚の紙が置かれていました。「進路希望調査票」。そこには、実家のレストランの名と、その先にあるイタリアでの修行という、幼い頃から決められていた道筋が書かれています。

「豊、それ、もう書いたのか?」

放課後の図書室。幸雄が隣の席にどさりと座りました。彼の前にも、同じ形式の紙が置かれています。

「……うん。一応はね。でも、幸雄のは?」

幸雄の紙は、白紙でした。いつも元気な彼には珍しく、どこか視線が定まりません。

「俺さ、親父に言われたんだ。『店を継ぐ前に、一度外の世界を見てこい。まずは専門学校か、それともどこか別の名店に弟子入りするか選べ』って。でも、どこへ行けばいいのか、全然わからなくてさ」

幸雄は大きな手を組み、じっと自分の指先を見つめました。

「俺、お前と出会うまでは、ただがむしゃらに鍋を振っていればいいと思ってた。でも、お前と料理を作って、別の世界があることを知った。……もっと広い世界を見たい。けど、お前と離れるのは、嫌なんだ」

幸雄のストレートな言葉に、豊の指先がかすかに震えました。自分も同じ想いを抱えていたからです。

「僕も……イタリアへ行くのが自分の運命だと思ってた。でも、最近は考えるんだ。幸雄のいない厨房で、僕は本当に心から笑って料理ができるのかなって」

二人の間に、冷たい冬の空気が流れ込みます。しかし、重なっている机の下で、足先がほんの少しだけ触れ合っていました。

「幸雄、僕たち、まだ子供だね。料理のことなら何でも分かる気がするのに、自分の将来のことになると、火加減すら分からない」

豊が自嘲気味に笑うと、幸雄がふっと表情を和らげました。

「火加減か……。強火すぎると焦げるし、弱すぎると火が通らない。今の俺たちは、じっくり予熱が必要な時期なのかもな」

幸雄は鞄から、小さな保温ポットを取り出しました。

「これ、新作のスープだ。飲んでみてくれ」

蓋を開けると、生姜の香りがふわりと広がりました。中華の鶏ガラスープをベースに、豊が以前教えたイタリアの冬の野菜、チポッロの甘みが溶け込んでいます。

一口飲むと、身体の芯からじわじわと温もりが広がっていきました。

「……美味しい。すごく温まるよ、幸雄」

「未来がどうなるか、まだ答えは出ないけど。とりあえず、この冬はもっと美味いもの作って、二人で食べてさ。ゆっくり考えようぜ。お前の隣にいると、不思議と良いアイデアが浮かぶんだ」

幸雄の力強い言葉に、豊は深く頷きました。
外では、今年初めての雪が静かに舞い始めていました。それぞれの道がどこへ続いていても、この温かいスープの味だけは、決して忘れない。

二人の冬は、まだ始まったばかりでした。