『美味しい』が聴きたくて

幸雄が「幸龍」で見せた熱風のような活気とは対照的に、豊の実家であるイタリアンレストラン「リストランテ・湊」は、午後の休憩時間を迎え、穏やかな静寂に包まれていました。

約束の日、幸雄は少し背筋を伸ばして裏口のドアを叩きました。現れた豊は、糊のきいた真っ白なエプロンを締め、いつもより少し大人びた表情で幸雄を迎え入れます。

「いらっしゃい、幸雄。……そんなに緊張しなくていいよ」

「いや、なんかさ。学校の時と雰囲気違うし、ここ、めちゃくちゃお洒落だな」

幸雄は高い天井と、磨き上げられたワイングラスが並ぶ棚を、感心したように見回しました。豊は彼を厨房へと誘います。そこは、中華の厨房のような激しい火の音はなく、代わりにオリーブオイルの華やかな香りと、小さな鍋から立ち上るハーブの香りが漂っていました。

「今日は、一番の基本を教えるね。シンプルなスパゲッティ・ポモドーロ。幸雄なら、きっとコツを掴むのが早いと思うから」

豊は大きな鍋にたっぷりの湯を沸かし、正確に塩を量り入れました。

「パスタの茹で汁は、海水の塩分濃度を目指すんだ。これがパスタ自体に味をつける、一番大切な工程だよ」

豊がパスタを手に取ると、その指先はまるで楽器を操るピアニストのようにしなやかでした。タイマーをセットする指、トマトソースの状態を確認するために木べらで鍋底をなぞる動き。幸雄は、その一挙手一投足を食い入るように見つめています。

「豊、お前……料理してる時、本当に綺麗だな」

不意に漏れた幸雄の言葉に、豊の手がわずかに止まりました。頬に赤みが差し、それを隠すようにトングで麺を茹で汁から引き上げます。

「……大げさだよ。僕はただ、父さんが守ってきたこの場所を、汚さないように必死なだけなんだ」

豊は、少しだけトーンを落として続けました。

「幸雄みたいに、あんなに自信を持って鍋を振れたらいいのにって、いつも思ってる。僕は、伝統を守るのが精一杯で、自分の色を出すのが怖いんだ」

盛り付けられた一皿は、鮮やかな赤のソースに、一枚のバジルの緑が鮮烈に映えていました。幸雄はフォークを使い、不慣れな手つきでパスタを巻いて口に運びます。

「……美味い。なんだこれ、麺の芯がかすかに残ってて、噛むほどに小麦の味がする。豊、お前は『守ってるだけ』って言うけどさ、この優しさは、お前にしか出せない味だぞ」

幸雄は空いた手で、豊の肩をポンと叩きました。その大きな手の温もりが、豊の強張っていた心を柔らかく解かしていきます。

「伝統とか家業とか、難しいことは分かんねえけど。俺は、お前が作ったこの料理が好きだ。それじゃダメなのか?」

真っ直ぐな幸雄の瞳。豊は視線を落とし、自分の胸元をぎゅっと掴みました。

「……ううん。それだけで、十分だよ」

二人は厨房の片隅で、一皿のパスタを分け合いました。窓から差し込む西日が、銀色のフォークに反射してキラキラと輝いています。