『美味しい』が聴きたくて

それから、二十数年の月日が流れた。

横浜・元町の『Y & Y — The Bridge —』の厨房では、還暦を過ぎ、熟練の極致に達したシュンが、今日も変わらぬ鋭さで指揮を執っていた。その隣で、複雑なスパイスの香りを操り、完璧なタイミングで炎を操る一人の女性料理人がいる。大人になったリラだ。彼女はシュンの最高の相棒であり、この店の新しい風となっていた。

店の片隅、かつて豊と幸雄が座ったあの窓際のテーブルには、今も一組の「青と黒のお弁当箱」が飾られている。それは、四十年近く前、ある高校の屋上で二人の少年が交わした、あまりにも純粋で、あまりにも無謀な約束の証だった。

「……シュン、また届いたわよ。あの二人から」

リラが笑いながら、衛星回線経由で届いた一通の動画メールを開く。
画面に映し出されたのは、砂漠のオアシスに作られた、活気あふれる野外キッチンの風景だった。

そこに映る豊と幸雄は、共に60代半ばを迎えていた。
幸雄の髪には白いものが混じり、顔には深い刻み込まれた皺がある。だが、その瞳に宿る野性味あふれる光は、高校時代に屋上で豊の弁当を奪い食ったあの日の少年と、何ら変わりはなかった。

豊もまた、眼鏡の奥に優しさと鋭さを湛え、現地の若者たちに囲まれながら、現地の地粉で打ったパスタを軽やかに盛り付けている。

『……よう、シュン。リラ。元気にやってるか? こっちは今日、新しいスパイスの配合を見つけたぜ。豊の作るソースに合わせたら、腰が抜けるほど美味かった。……お前らにも、いつか食わせてやりたいよ』

幸雄が、不自由なはずの右手を豊の肩に回し、豪快に笑う。
豊がそれに呆れたように、けれど心底幸せそうに微笑み、カメラに向かって手を振った。

『……みんな、美味しいものを食べて、笑っていてね。僕たちのフルコースは、まだメインディッシュの途中なんだ。……じゃあ、また』

動画が切れる。
シュンとリラは、顔を見合わせて微笑んだ。
二人が横浜を去ってから二十年。彼らは一度も日本に帰ってきていない。けれど、この店の料理を口にするすべての人の中に、二人の「火」は生き続けている。

かつて、名声も安定も捨てて境界線を越えていった二人。
彼らが辿り着いたのは、「成功」というゴールではなく、「一生、誰かのために火を焚き続ける」という、料理人としての果てしない旅路そのものだった。

横浜の港を、夕陽が黄金色に染めていく。
あの日、高校の屋上で見上げた空と同じ色が、今も世界中のどこかで、二人の料理人を照らしている。

一対の蓮華、一対の火花。
二人が紡いだ物語は、これからも「美味しい」という名の魔法となって、国境を越え、時代を超え、人々の心を温め続けていく。

 == シリーズ全編・完 ==