『美味しい』が聴きたくて

リラの涙が乾かぬうちに、豊と幸雄の決意は固まった。
「……店を、閉めるつもりか?」
翌朝、一番に厨房へ現れたシュンが、二人の荷造りを見て絶句した。

「閉めるんじゃない。お前に託すんだよ、シュン」
幸雄が、愛用の鉄鍋を丁寧に布で包みながら言った。その目は、昨日までの穏やかな「隠居」のそれではなく、獲物を狙う獲物のような鋭さを取り戻していた。

「無茶ですよ! 今、この店がどれだけ注目されているか知っているでしょう? 世界中の批評家が、あなたのパスタを、シェフの炎を待っているんです。それを捨てて、戦地へ行くなんて……」
シュンの声が、広すぎる厨房に虚しく響く。

豊は、棚に残った最後の小麦粉と、地元・神奈川の農家から届いたばかりの完熟トマトを調理台に並べた。
「シュン。僕たちはね、ここで『正解』を出し続けることに疲れてしまったんだ。……料理人が本当に戦うべき相手は、舌の肥えた批評家じゃない。今日を生きることに絶望している人々の、その冷え切った心なんだよ」

豊の指先が、魔法のように生地を練り上げていく。
幸雄は、シュンの肩を力強く叩いた。
「いいか。お前の料理はもう、俺たちのコピーじゃねえ。お前自身の『美味い』を作れ。それが、この店を守る唯一の方法だ」

その日の昼。
二人は『Y & Y』の公式SNSで、無期限の休業と、次世代への継承を発表した。
そして、夕暮れ時の山下公園。二人が用意したのは、予約困難なフルコースではなく、数百個の「お弁当」だった。

それは、かつて二人が高校の屋上で交換し合った、あの日の記憶を詰め込んだもの。
幸雄が強火で煽った、香ばしい「パラパラの炒飯」。
豊がじっくりと煮詰めた、濃厚な「トマトソースのペンネ」。
そこに、リラが持ってきた『命の砂』を一振りした、特製のミートボールを添えて。

「これ……タダでいいの?」
散歩中の老人や、学校帰りの学生たちが、不思議そうに受け取っていく。
一口食べた人々は、一様に足を止めた。
「……なんだこれ。熱い。胸の奥が、ジリジリする」
「懐かしい味だ。食べたことないはずなのに、お袋の味みたいだ」

公園のあちこちで、小さな「美味しい」の連鎖が起きた。
それを見守る豊と幸雄の隣には、大きなリュックを背負ったリラが立っていた。

「……豊。俺たちの『横浜』は、これで十分だな」
幸雄が、沈みゆく夕陽に目を細める。

「……うん。僕たちの料理が、この街にしっかりと根付いている。それを確認できただけで、もう未練はないよ」

夜。羽田空港の出発ロビー。
見送りに来たのは、シュンと、かつてのライバル・ジャン=ピエール、そしてアンナだった。

「ユタカ。……君は、本当に愚かな男だ。栄光の椅子を捨てて、地獄へ向かうなんて」
ジャンが皮肉を言うが、その手には、最新の医療用サポーターが握られていた。
「……幸雄。その右手をこれ以上壊すな。帰ってきたら、また僕が叩きのめしてやる」

「へっ。……首を洗って待ってろよ、外科医」
幸雄が、ジャンと拳を合わせた。

アンナは、豊に小さな衛星電話を手渡した。
「……向こうのボランティア団体に話は通してあるわ。物資が必要なら、いつでも言いなさい。……死なないでよ、ユタカ。あなたのパスタがない世界なんて、あまりに退屈すぎるから」

「……ありがとう、アンナ。……行ってくるよ」

三人は、境界線の向こう側へと続くゲートを潜った。
振り返ることはなかった。
手にあるのは、ボロボロのレシピノートと、煤けた鉄鍋。
そして、誰の心をも温めることができる、消えない「火」だけ。

飛行機が夜の空へと飛び立つ。
横浜の夜景が小さくなり、やがて漆黒の海へと消えていく。
二人の料理人としての、本当の「越境」が、ここから始まる。