『美味しい』が聴きたくて

プレオープンの熱狂から数ヶ月。横浜の海辺に佇む『Y & Y — The Bridge —』は、ある特別な夜を迎えていた。

厨房には、かつて絶望の淵にいたシュンが、今では立派な副料理長としてキビキビと動いている。幸雄の右手は、懸命なリハビリの甲斐あって、重い鍋を振ることはまだ叶わないものの、繊細な包丁捌きや火加減の指示を出せるまでには回復していた。

「……よし、シュン。今の煽りだ。豊のパスタのコシに負けない、力強い火を入れろ」
幸雄の鋭い声が飛ぶ。
「はい、シェフ!」

豊は、その様子を隣で微笑みながら見守り、ソースの味を調えていた。
今日は、二人が高校の屋上で「十年の約束」を交わしてから、ちょうど十一年目。あの日から数えて四千日以上の月日が流れた。

「……幸雄。今夜は、僕たちが『客』になる番だね」
豊がエプロンを脱ぎ、幸雄の肩を叩いた。
二人は厨房をシュンたちに託し、海が最もよく見える窓際のテーブルへと着いた。

運ばれてきたのは、自分たちが考案し、弟子たちが形にしたフルコース。
前菜からデザートまで、そこには二人が歩んできた旅の断片が散りばめられていた。

フィレンツェの石畳の冷たさ。
パリの三つ星の孤独。
香港の路地裏の熱気。
そして、横浜の灰の中から拾い上げた、あの鉄鍋の重み。

一口食べるごとに、二人の脳裏には、お弁当を交換し合ったあの春の日の光景が鮮明に蘇る。

「……美味いな、豊」
幸雄が、動くようになった右手でフォークを握り、ポツリと言った。
「俺たちの味だ。……いや、俺たちが作ろうとしてきた、その先の味だ」

「……うん。幸雄が火を教えてくれて、僕がそこに色をつけた。……二人でいなければ、この味には辿り着けなかったね」

豊は、テーブルの下で幸雄の手を握った。
火傷の跡が残り、少しだけ不自由になったその手は、豊にとって世界で一番尊い、料理人の勲章だった。

デザートが運ばれてきた時、シュンが少し照れくさそうに、一つの小さな箱を置いた。
それは、かつて二人が使っていた、あの「青い弁当箱」を模した特製のチョコレート細工だった。

中を開けると、そこには二人の名前が刻まれた、金色の蓮華が二つ並んでいる。

「……粋なことしやがるぜ、あいつ」
幸雄が目を細める。

「幸雄。十年前の僕は、ただ君に追いつきたくて必死だった。でも今は、君と一緒にどこまでも遠くへ行きたいと思っているよ」
豊の瞳に、月明かりが反射して揺れる。

「……ああ。俺もだ。右手がこれなら、左手で鍋を振る練習だってしてやる。お前が隣にいる限り、俺の火は一生消えねえよ」

二人は立ち上がり、テラスへと出た。
横浜の夜景が、宝石を散りばめたように輝いている。
海風が二人の頬を撫で、厨房からは、新しい世代が紡ぎ出す活気ある音が聞こえてくる。

「ねえ、幸雄。……次のメニュー、何にする?」
豊が、いたずらっぽく小首を傾げた。

「そうだな……お前がパリで食べた、あの最高に生意気なソースを、俺流の担々麺にぶち込んでみるか」

「ふふ、それはまた、とびきりの『越境』になりそうだね」

二人は笑い合い、再び重なり合うように歩き出した。
一つの約束は終わった。けれど、二人が作るフルコースに、終わりのページはない。

明日も、明後年も、その先も。
一対の火花は、美味しいという魔法をかけて、誰かの心に灯りを灯し続ける。
世界でたった一つの、愛と情熱が煮込まれた、その場所で。

(シーズン3・完)