『美味しい』が聴きたくて

土曜日の午後、豊は少し緊張した面持ちで、街の活気に溢れた商店街を歩いていました。目的地は、幸雄の実家である中華料理店「幸龍」です。

「いらっしゃい! ……お、豊か。よく来たな!」

暖簾をくぐると、威勢のいい声と共に、白い湯気の向こうから幸雄が顔を出しました。いつも学校で見る制服姿ではなく、胸元に店名の刺繍が入った白いコックコートを纏っています。その姿は、同級生というよりも、一人の凛々しい料理人に見えました。

「お邪魔します。これ、昨日言っていたハーブの苗。お店の裏でも育つと思うから」

「サンキュ! 親父、こいつが学校で言ってた豊だ」

厨房の奥では、幸雄の父親らしき大柄な男性が、巨大な鉄鍋を振っています。轟々という火の音と、お玉が鍋に当たる金属音。それは豊が慣れ親しんだイタリアンの厨房の音とは違う、もっと荒々しく、生命力に満ちたリズムでした。

「幸雄、ちょっと手伝ってみるか?」

父親の言葉に、幸雄が頷きます。彼は豊にカウンターの端に座るよう促すと、迷いのない動きでコンロの前に立ちました。

注文が入ったのは、看板メニューの炒飯。幸雄が鍋を熱し、油を馴染ませる。卵を割り入れ、米を投入した瞬間、キッチンに爆発的な香ばしさが広がりました。幸雄の太い腕が、重い鉄鍋を軽々と操ります。米の一粒一粒が宙を舞い、黄金色の光を反射して輝いているようでした。

「お待たせ。賄いだけど、食べてみてくれ」

差し出されたのは、作りたての炒飯。豊が一口食べると、米のパラパラとした食感の後に、ラードの甘みとネギの香りが押し寄せます。

「……すごい。火の力が、そのまま味になってる」

豊の素直な感想に、幸雄は照れくさそうに鼻の頭を掻きました。

「イタリアンは、素材を重ねていく引き算と足し算の美学だろ? 中華はさ、火を通す一瞬に全部を懸けるんだ。俺、豊の作る繊細なソースを味わうたびに、自分の荒っぽさが恥ずかしくなることもあるけど……でも、これが俺の道なんだって、今日改めて思ったよ」

カウンター越し、幸雄の瞳には、料理への情熱と、それを一番理解してほしい相手への信頼が宿っていました。

豊は、自分の知らない幸雄の世界に触れ、胸が高鳴るのを抑えられませんでした。お弁当を交換するだけでは分からなかった、彼の背負っている伝統と努力。

「幸雄。次は、僕の家のキッチンにも来てよ。幸雄に教えたいパスタの茹で方があるんだ」

「ああ。約束だぞ」

店内に響く客の活気と、鉄鍋が奏でる力強い音。豊は、口の中に残る香ばしい余韻を楽しみながら、幸雄との距離が、料理を通じてまた一歩縮まったことを確信していました。